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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

ベルイマンの魔笛と犬

2014年03月21日(金)

きょうはカノコにすすめられたイングマル・ベルイマンの「魔笛」のパパゲーノを見た。感じよかったし、他のよりバカっぽくもしつこくもなかったし、ぱぱぱのところで最初パパゲーナの姿が見えないとこ、冬服を少しずつはぎとっていくとこ、キスしそうになってしないとこが早春の鳥っぽくてよかったが、如何せん70年代で、パパゲーノの髪型がダサすぎた……。
荒れ地の上の公園の庭木、つまりここのローカル植物じゃないと思うが、この時期に芳香のある花の咲く灌木群がある。生け垣みたいに作られている。たぶんクサトベラ科じゃないかと思うが調べてない。それが今、キンキンするくらい匂っている。それを嗅ぎにいくのが楽しみなのだ。きょうは草地に犬がいたから、ぐるっと遠回りして上の方からクサトベラ(仮)の繁みの脇を通って草地に下る一本道に出たところで、草地から上ってきたその犬とばったり会ってしまった。向こうはオフリーシだったが穏やかな犬のようだったし、こっちは二匹ともリーシつきだったので事なきをえた(ニコがいつだって喧嘩ごしなのである)。下の草地に降りて行ったら、ニコが後ろを振り向いて「てめーこのやろー」と言い出したので見ると、さっきの犬が遊びたそうにそこに独りで立ってこっちを見ている。ダディはどうしたと話しかけてるうちに、飼い主(男)があわてて降りてきた。どうも遊びたくてついてきたようだ。黒くて、ボーダーコリーとレトリバーの間みたいな感じの犬だった。あたしたちが車に乗り込んだあと(草地の先に車をとめてあった)黒い犬はまた飼い主にフリスビーで遊んでもらっていた。ニコは「てめーこのやろー」といいまくるが、リーシを離してやるとおもしろそうに近寄って遊ぼうとするので、「てめーこのやろー」の動機がよくわからない。ルイは昔は無関心だったが、この頃おっさんっぽい声で「てめーおれだってー」といちおう威嚇するようになった。でもまだつきあい方の基本ルールを知らないようなので、あぶないからリーシを離してやれない。

「のだめ」からパパゲーノにはまる

2014年03月20日(木)

すごく落ち込むことがあって(別に理由はないのだ。食あたりかも)ちょうど見ていたYouTubeの魔笛のROH版の最後のほうのSimon Keenlysideのパパゲーノの絶望シーンにもらい泣きして、それから1〜2分で「ぱ、ぱ、ぱ、ぱ」の歌がはじまって、大笑いして、ほんの5分くらいのうちに泣き笑いしたら、気持ちがすっかり浮上して、それからそればっかり見ている。お勝手してても、ベッドの中でも、仕事中も見ている。なぜそんなものをちょうど見ていたかというと「のだめ」の24巻と25巻が魔笛やってるのである。どんなんだっけーと思って見てるうちにひきこまれたというわけだ。ありがたいことだ、こうして漫画に救われる毎日だ。しかしいろんなとこのパパゲーノを見てみたが、ROHのSimonにかぎる。よそのは、バカっぽかったり、クドかったり、シツコかったりするが、Simonはただのやさぐれた鳥刺しだ。笛ふいて「いち」(ドイツ語)また笛吹いて、「に」という。そのときのうつろな目。そしてそのあと笛はやめて、ゆっくり口笛吹いて、「さん」とつぶやいたときの目が、絶望を見据えていて、たまらないのである。何回見てももらい泣きする。そしてあとで出てくるパパゲーナが、よそのどこのパパゲーナより豊満で、山折先生が言っていた「マリリンモンロー」とか「ルノワール症候群」なのだ(『先生!どうやって死んだらいいですか?』山折哲雄・伊藤比呂美 文藝春秋を参照のこと)。この女とこの男なら何十人も子ども作れるだろうと確信して、自分が作ったような気になってものすごく幸せになる。

うえのさん

2014年03月18日(火)

うえのさんの講演会、また開催にきまったようだけど、山梨市長のいいぐさが(朝日新聞で読んだ)すごくムカツク。かえってムカツク。なんにも解決してないような気がする。
夫婦だけじゃなく、人というのは、人によっては、なんだろうが、いったん意見が対立すると、いや、意見が対立しても、か、けっして自説をまげない。討論とか議論とか言い合いとか話し合いとかは、相手にどれだけ、自説を披露するか、というだけのものだ。小学校の頃清水先生が教えてくれた「話し合い」というものは、そんなものじゃなかった。片方が片方に、ないしは双方が双方に納得して、歩み寄りがありえた。このごろ人と口論していて、そういうのがないなあとしみじみ感じるのだよ、かなしいことに。で、あたしはもともと口論や議論がだいっきらいなので、そこから先に行くのは、めんどくさくなってしまうのだ。人によっては、と思いたいが、そういうことばかり経験する。だったら距離とって人とつきあえばいいのに、そうもいかない。
人っていうのは変わらない、と万事OKの日々でほんとに身にしみておる。

料理力と海力、集中力とズンバ力

2014年03月15日(土)

Sが食べにきた筑前煮のあと、日に日に料理力が落ちていくのを感じていたのである。昨日はついにインスタントラーメンだった。北海道のNさんが北海道でしか売ってないからといって持ってきてくれたのである。インスタントラーメンおそるべしというおいしさだったし、野菜や海老もいっぱい載せたし。その上つれあいにとってはラーメンも日本食で、天ぷらそばやうなぎご飯みたいなものらしいし。でも、ラーメンでいい? とつれあいに聞いた時点で、あたしは後ろ向きであった。
だから今日は外に食べにいった。もっと近くて気楽で安いとこでと思ってたのに、牡蠣たべたいとかつれあいが言い出して、のっちゃって牡蠣食べにいったらうまかったのだ。熊本オイスターは小さいがぎゅっと味がつまっていた。ついてきたトマト味のソースもレモンもいらなかった。ホースラディッシュの千切りは好きなのでちょっと載っけた。何年も前に天草の冬の海で牡蠣うちの人たちに食べさせてもらった採りたての小さい小さい牡蠣を思い出した。NちゃんやBさんやKさんと食べたやつだ。口に入れたとたんに海が襲いかかってきて溺れそうになった。牡蠣を食べるたびにあの海の味が身体にみなぎる。
ここのところ身体力もなんだか落ちていて、今週まだ6回しかズンバやってない。あした2回いくから8回だ。まあいいか。8回やれば。きょうは『木霊草霊』の再校ゲラが来た。手にとったのが11時で、5時まで6時間、わき目もふらずにやって終わらせた。集中力おちてきた、甲状腺のせいじゃないかとか言ってたが、やる気がなかっただけだったのである。

家族

2014年03月10日(月)

SとDがごはんに来たので、筑前煮とか餃子とか、ていねいに作ったのであった。やっぱ、つれあいとだけの殺伐とした夜よりずっと活き活きとして笑い声も起きるし、食べる物もおいしく感じる。こうして活き活きとして何もかもおいしいと、いつもの夜が、どれだけ殺伐としているかということ、何の話題もないのをむりやり絞り出して意見が合わなくてむかつきあってるかということを、思い出させられてしまうのである。きょう時間が変わったので1時間損した感じ。

橋本さん

2014年03月09日(日)

旧友に伊藤製作所楽しみにしてるんだけどと言われて、うれしくなって再開したのはいいが、生来のぐうたらでつい忘れていた。きのう医者にいって説明されたのだが、どうも甲状腺がどうたららしい。ハシモートと医者がしきりに言ってるので、それは日本人の名前みたいだというと、日本人だそうだ。それがうたがわれる病名(いや、病気というほどではない、ただの傾向)だそうだ。で、家に帰ってしらべてみたら、いろんな諸症状のなかに、太る、集中力がなくなる、というのがあり、どんぴしゃりという感じだった。あたしがなんでこんなにズンバやって1日に1000カロリーくらいも消費してるというのに(1回だいたい500カロリーだそうだ)しかもそんなに爆食してないのに、いっこうにやせないのか、なんでこんなに仕事に時間がかかるのか、なんでこんなにしめきりがせっぱつまっているのにネットばっかりやってるのか、つまり集中力がないのか、なんだかみんなその橋本さんのせいにしてしまいたくなってきた。というかぜったいそうだ。おとなのADHDという記事を読んで、ぜったいコレだと、何回目かの確信を得たばかりである。しかしADHDじゃズンバやってるのにやせないという点を解決できない。橋本さんならできるのである。でも死んだ母の行動や体格を思い出してみたら、少ししか食べないのに太っていた、うつっぽかった、むくんでいた、など思い起こすと、母も橋本さんだったような気がする。実はうちのつれあいも橋本さんに違いないと思い始めた。そんなに食べないのに太っている、うつっぽい、むくんでいる、集中力がなくなってきた、等々。男は女よりはるかに少ないそうだが、いないわけではないらしいし。それをつれあいにいったら、すごくいやな顔をされた。

鈴カステラ

2014年03月07日(金)

今年のユッカの花は小粒で、色も形もまるで鈴カステラを袋からこぼしたみたいである。そもそも雨がふらないからいつもの100分の1くらいしか花が咲いてない。セージもすっかり枯れている。枯れて繁みがなぎ倒されている。でも先週の3日つづいた雨嵐で、今は少しだけ咲いている。鈴カステラもその一つだ。しかし鈴カステラといえども、この広い荒れ地で、ユッカがたった2本しか咲いてないのはいかにも危機的だ。トヨンの白い花も少ない。赤い実は去年からのひきつづきだからいっぱいついている。でもライヴオークが木全体に花をつけていた。黄色い垂れ下がった花で、遠目では小汚いボロがぶらさがってるように見える。例年は咲き乱れる木立ポピーがたったの3株咲いている。
Floraは瀕死だがfaunaは元気。このごろルイがあたしのことを注視してにこにこしながら走ってくる。前みたいに自分の世界しか見てないで好き勝手に匂いを嗅ぎまわって、あたしを見失うとてきとうに好きな方向へ歩いて行って迷子になる、なっても平然としている、ということはなくなった。きょうはリードがひっかかって身動きがとれなくなった一瞬があった(いつもリードをつけたまま歩きまわっている)。ニコとまったく同じように、あたしを探し、眼力であたしを呼び、助けてくれと無言でいいながら、ちょこんとすわって待っているのであった。

ズンバのMと

2014年03月07日(金)

虚脱状態なんてふっとんでしまうようなことがおこったのであった。Mとランチにいったのである。Mはズンバの先生で、Mがいたから、あたしはズンバにはまった。Mには、驚くべきカリスマ性と存在感がある。Mのズンバは、他のズンバより、歌に依存する度合いが強く(Mが歌いながら踊るからだが)、振り付けにストーリーがある。Mの動きはなめらかで、筋肉と体幹の鍛錬に中心をおき、リズミカルで力強い。あたしもあんなふうに筋肉もりもりになって、あんなふうに腰をふりまわしながら動きたいが、なかなかそうは動けない。Mのズンバにはまるあまりに、あたしはYジムとTジムをかけもちしてしまったのだ。きょうはTジムで、クラスのあと、他の何人かとMとで、近くのタイ料理店にいった。いやーーー、なんだかあこがれの相手とはじめて食事にいく少女の気持ちだった(…あの男やこの男との最初の食事をくっきり思い出した)。
いつどこで練習するのかときいたら、うちで、コンピュータの前でする、とMはいった。なかには3回くらいやっただけで、もう覚えてしまう曲があるそうだ。なかなか覚えないのもあるといった。Mは踊りながら、ずっと歌っている。スペイン語はできるのかときいたら、意味を調べるのもあるがたいていはわからないで歌っていると言っていた。ズンバのほかには、歌をやって、子どもたちのミュージカルの監督をして、数学おしえて食っているそうだ。有意義な日であった。

なんにもできてないという愚痴

2014年03月07日(金)

なんかこのごろぷちスランプっつーか、虚脱状態で、次のことが始められない。ま、あたしも人間だっつーことだな。漫画よんで音楽きいてばっかりいる。これまで死というものとがっぷりよつに組んで、仕事してきて、まるでマウスが輪っかをまわしてるように走りつづけてきたのだが、父が死んじゃって、タケも死んじゃって、死がちょっと遠ざかり、輪っかを動かそうという根性がなくなったような気がする。生と死シリーズの最後の一冊「木霊草霊」がゲラのまま停滞してるのも一つの理由…ったって停滞してるわけじゃなく、次のゲラが出るのを待ってるというだけなんだが、あたし的には、なんにもやることがなくて、停滞してるように感じているのである。楽しかったズンバでの人づきあいも、このごろかったるく、クラスが始まる頃に入っていって、終わったらさっと出ている。つきあいが悪くなったと人には思われているだろう。ズンバそのものに対する熱意は失ってない。おとといは3回いった。きのうは1回できょうは2回だ。はじめなきゃいけない、進んでなきゃいけない仕事がいくつもあるけど、進めてない。で、漫画読んで、音楽きいてるのだ。「のだめ」を丹念に読んでいる。出てくる音をいちいちYouTubeでききながら読んでいる。ANAの機内でやってたKleiber祭りもあたしのなかでつづいていて、ろくにききもしないようなものをいっぱい買い込んだ。こないだ日本で買いあさってきたいろんな本はぜんぜん読めてない。あまつさえ血液検査でなんとかとなんとかの値がよくなくてこんど専門医にいけと主治医にいわれた。寄る年波にも勝ててない。でもその専門医がなかよしのBの夫で、ちょっと楽しみ、受付にいるはずのBにあってしゃべるのは、まだ好きなままだ。

昔の写真

2014年03月06日(木)

旧友が、むかーーーしの写真が出てきたといって、何十枚も送ってくれた。「らんだむ」という同人誌をやっていたときの旧友である。で、その写真群は、昔も昔、大むかし、70年代に「草木の空」という第一詩集を出したときの出版記念会の写真だ。で、あたしは22くらいで、若くて、やせてて、ノーブラである。そして周りにいる人たちが若いの若くないの、その旧友や当時の仲間たちに混じって、阿部岩男さんや鈴木志郎康さんや清水哲男さんや辻征夫さんや長谷川龍生さんや、みんな生若い男なのには驚いた。そしてこんな小娘の第一詩集の出版記念会にわざわざきてくれていたのだという事実に感動した。ものすごく感動した。いったいあたしはかれらにちゃんと感謝の意を伝えたのか、この恩を返したか、もう伝えられない人たちだっているのだ、恩を返すといっても、かれらに直接ではなくてもいい、若い詩人たちに同じように接すればいいわけだ。と考えるが、なんにも返せてない。なんだかいつも自分本位で生きてきちゃった。ごめんなさい、そして、ありがとうございました、先輩の詩人のみなさん。

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