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英雄の作り方1
2010年09月21日(火)
9月16日のフォーラム神保町のことで気になっていることをもうひとつ。
会場でコメントするときに資料の中にあったアエラの「加藤よ裏切ったな」という記事を少し悪く言いすぎたとあとから、やや思い直しました。この記事はネットにもあったもので、検索すればたぶん今でも読むことができます。秋葉原無差別殺傷事件の公判を傍聴した人が被告に裏切られたと感じていることを報道しているものです。記事そのものは、この事件を見詰める人の視点を切り取ったもので、良い記事だと思います。ただタイトルのつけ方が曖昧なので、私の印象がぶれてしまいました。
これまでの事件報道ですと、メディアが安易な解釈に走り、そのイメージが広がってしまうというパターンが多く、時にはメディアの安易な解釈が、読者や視聴者のメディアに対する軽蔑を招くことも多々ありました。10年くらい前に護国寺で起きた「お受験殺人事件」と呼ばれた事件も第一報から「あ、固定観念で報道している」と感じられた事件でした。メディアはお受験加熱のために、よその子を殺すという行動に出た母親の事件として報道しましたが、実際はお受験をする小学校は抽選で入学者を選んでいるのですから、そういうストーリーは成り立たないのです。この場合は情報の享受者のほうが事情をよく知っていて、報道に対して冷ややかな反応をしていました。
「秋葉原無差別殺傷事件」の場合は当初、メディアは派遣切りにあった青年の凶行という報道をしました。これは第一報の段階ではそう間違いではないと思います。しだいに詳細がわかってくると、当初にイメージされた事件とは異なるものがあることもわかってきます。 が、この事件ではメディアの情報の享受者の中に、最初のメディアが建てたイメージに添って犯人に英雄的な存在になって欲しいと願う人がいることです。アエラの記事はそうした現実を報道している記事としては良い記事だったと思います。私は、タイトルの中にこの記事は 「犯人」を問題としている記事ではなく「犯人に英雄を見ようとしている人」を取り上げているのだということを印象付ける何か一言が欲しいなあと、そう思いました。そうじゃないと、私は事件報道というと、すぐに犯人について書かれたものという思い込みで読んでしまいますから。(この項目 続く)
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