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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

形而上学の不在

2010年09月19日(日)

 フォーラム神保町の中島岳志氏による「秋葉原無差別殺人事件」のリポートについて、ゆっくり考えています。後から反芻するように考えるのが癖なのですけれども。事件のディテールには考えさせられることが幾つもあるのですけれども、なによりも気になっているのは「形而上学の不在」という現象です。

 形而上学と言ってもそう難しいことではなくって、例えば加藤被告が強く持っていた存在承認の欲求ですが、なぜそれが「存在とは何か?」という疑問の方向へ発展しなかったかというような事柄をさしています。一般の報道では、派遣の仕事を断られたために凶行へ及んだということになっていますが、実際はもう職場を辞めたくなっていたようです。一般に言われているような派遣切りが理由ではなく、むしろ職場を解雇されるのが、短期的に延期になったことが彼を苛立たせた様子も見てとれます。存在承認の欲求が大きい人は往々にして風来坊になるということを中島さんのリポートの帰りに聴講者の人とお話しましたが、そこで思い出すのは「フーテンの寅さん」でした。また加藤被告が掲示板を荒らされたことが一番の原因だと裁判に話していることを聞いて私は「寄席芸人の心理」という言葉を使って会場で感想を述べました。観客とともにセンス(趣味)と感覚を共有する空間を作り出すことを喜びとする演者によって、それは存在を否定されたにも等しいことになるのでしょう。言葉を変えれば「殺された」と感じうる現象です。

 自分で気になっていたのは、この事件のレポートを聞いた感想に「フーテンの寅さん」や「寄席芸人」と言った喜劇の属する言葉が出てくることでした。事件の重大性に比べてあまりにもアンバランスな例えです。その理由が解らなかったのですが、「形而上学の不在」ということを考えてみると、なんとなく、自分の感じていたことが解りかけてきました。

 掲示板上の「ネタ」がしだいに「ベタ」になって行くというのは中島さんのリポートにあった内容です。ところで「ネタ」はなぜ「ベタ」になって行くのでしょうか?「ネタ」は虚構、「ベタ」は実際と一般的な言葉に置き換えて考えてみると、「ネタ」が「ベタ」になる過程の手前に「ネタ」とは何か、つまり虚構とは何かという問いかけが現れても不思議ではないのです。実際的な行動の手前で現れることが予想される形而上学への入口が閉ざされていた、あるいは扉は開いていたのだが、形而上学が不在だったというイメージが湧いてきました。

 喜劇は、形而上学への回路を一時的に塞いで、生真面目で硬い気分から人を救い出すという機能を持っているのですが、秋葉原事件でなぜか喜劇の比喩が頭に浮かぶのは「形而上学の不在」が逆説的な形で事件全体に介在しているからではないでしょうか? 事件全体というのは、加藤被告一人が、そうしたものを抱え込んでいたのではなく、あまり社会という言葉を使いたくないのですけれども、社会が広範に「形而上学の不在」という現象を抱え込んでいたことが凶行へ向かう遠因になっているという印象を持っています。

 形而上学の入り口は「問い」でしょう。その「問い」に答える何かがなかったのです。「問い」に答えるのは「答え」ではなく「問いを承認すること」だとすると「問い」というのは、我々が日常の言葉では「生きる意欲」と呼んでいるものにたいへん近いのではないでしょうか?

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