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一般病棟へ
2009年02月04日(水)
救急搬送された土曜日。娘は会社に出勤していました。で、息子つまり兄ちゃんから電話が入ったのは午前11時頃のことだったそうです。 「医師は緊急手術をすると言っているけれども、本人はいつものように吼えている」 という電話だったと言っていました。娘としては「???」という感じだったみたいです。で、その兄ちゃんと言えば、病院へ行こうとして靴下を履くのですが、その靴下がどうしても裏返しになってしまうという怪奇現象? に見舞われていたそうです。あせっていたわけで、しばらくは靴下と格闘していたみたい。
兄妹で病院にやって来ると「あと15分ほどで手術が終わります」と告げられてから、待たされること1時間。予定よりも時間がかかったとのことでした。手術が終わってから私のベッドを挟んで担当医から説明を受けたのでした。この時、子どもたちの印象に残っているのは、私がした質問が「お腹がすいたのですが、ご飯をいつ食べられますか」というものだったことです。前の晩の晩ごはんとその日の朝ごはんを食べていなかったので、そういう質問になりました。食べた物と言えば手術前に血管を広げる薬というものを「噛み砕いてから飲み込んで下さい」と言われて、がりがり噛み砕いたすっぱい薬ぐらいでした。 ところが、ご飯を食べるという行為はすごく心臓の負担になるのだそうです。で、担当医の先生は話では「今日と明日はご飯は食べられません」でした。私自身はこの質問をしたことは覚えていないのですけど、担当医の先生の返事だけは覚えています。よほどがっかりしたのでしょう。
子どもたちは、看護師さんから入院に必要な品物の説明を受けたり、幾つもの書類にサインをしたりしたあとで病院を出ました。それからセンター入試でホテルに二泊することになっていたので、私が宿泊しているホテルへ行ってチェックアウトし、家に帰ってからも保険証を探し出したりとなかなか忙しかったみたいです。
翌日の面会が遅くなったのはそれなりの理由があったのでした。が、病人(私)は激怒したうえに「メモをとれ」と命じて、どこに連絡をいれるべきか、翌日の面会までに必要な品物は何かと矢継ぎ早に告げたのでした。新聞連載続行は「決断」というよりも「ものの弾み」みたいな感じで動き出してしまいました。
話を私のほうへ戻すと、手術をした翌日つまり日曜日の昼に、足の付け根から動脈と静脈にいれていたカテーテルを抜いてもらいました。抜くときに「痛かったら言って下さい」とお医者さんが言うので「痛い、痛い」と言ったら、とうのお医者さんは不思議そうな顔で「痛いのですか?」と聞くので「痛いような気がします」と答えました。するとお医者さんは看護師さんに「抜いたカテーテルを見せてあげて」と言い、看護師さんが金属の皿にのった管を見せてくれました。それはけっこう太い管で、白い色をしているところに血がついていました。「痛い」と言った時には動脈の管も静脈の管ももう抜けていたのでした。
管を抜いたあとで、テーピングをして8時間は足を曲げないで下さいと言われたのは、昨日書いたとおりです。面会に来てくれた弟を話していた時も、子ども相手に激昂していたときも右足はぴんと伸ばしたままでした。夕方にはこのテーピングをとってもらいました。
採尿管をとってもらったのは、月曜日の朝でした。昼少し前に一般病棟に移りますと言われました。で、この時、身体についていたいろいろな計測器をはずしてもらいました。でも点滴はまだ残っていました。点滴をぶるさげたスタンドと一緒に車椅子に座って一般病棟に運んでもらいました。
勝手なもので、集中治療室の様子はほとんど目に入りませんでした。見ていたのは扉だけ。一般病棟に出るまでに2枚の扉がありました。最初の扉はどんな色をしていたのか思い出せません。2枚目の扉はきれいな緑色でした。大きな自動の扉の向こうが一般病棟でした。 子どもたちの話では、集中治療室には小さな赤ちゃんや開胸手術をした人もいたということですが、私はそうした患者さんの姿をまったく見ていませんでした。 一般病棟の病室はテレビと電話のある個室で窓の外を見ると、ビルがぎっしり並んでいました。御茶ノ水なら見覚えのあるビルがひとつくらい見つけられそうだと探しましたが、どのビルも同じように見えます。そこで看護師さんに東西南北の方角を尋ねました。が、「ちょっと解りません」という返事でした。質問を変えて「御茶ノ水の駅はどちらですか」と聞くと窓のほうが御茶ノ水の駅だと教えてもらいました。とすると扉のほうは水道橋ということになります。
午後になると息子が昨日、頼んだものを持ってきてくれました。新聞連載のアシスタントをしてくれる朴さんも来てくれました。息子は重さ800グラムのノートブックパソコンを持ってきてくれました。何かの時のために軽量なノートブックを用意してあったのです。ただ、このノートブックはまだ使い込んでいないので、うまく操作できません。そこでパソコンは大学の研究室で使っている古いノートブックを使うことにして、助手の深野さんに研究室から持って来てもらうように頼むことにしました。データをUSBに入れて朴さんにとりにきてもらうか息子に家に持ち帰ってもらって、関係各所に送ってもらえばいいということに話をまとめました。
息子にも朴さんにも言いませんでしたが、ひとつだけ不安があったのです。連載を続けるとして、書いた原稿が支離滅裂だったらどうしようかとい不安でした。これは本人には判断がつかないことで、誰かに考えてもらわなくちゃなりません。そこで、今度の連載の資料集めなどでお世話になっている長谷川郁夫事務所の長谷川さんに連絡を頼んでおいたのです。これは日曜日の「メモをとれ」の騒ぎの時に子どもにいいつけておきました。長谷川さんに連絡しておけば、挿絵の宮本さんにも静岡新聞の文化部の志賀さんにも連絡をしてもらえるでしょう。支離滅裂原稿が出ちゃった時の判断もしてもらえるだろうと考えたのでした。
一般病棟に移ってから再び「ご飯はいつ出ますか?」と質問しました。「夕方から出しましょう」とのお返事で晩ごはんが出ました。息子はそのご飯の少なさに驚いたようです。ふつうのご飯の量の半分の量だったから。
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