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ひともじのぐるぐるを
2006年12月15日(金)
前回、近代文学館のシンポジウムのために熊本に行った時、ひともじのぐるぐるを喜んでいたのを馬場さんが覚えていてくれました。で、ひともじ(細い葱)をぐるぐるまいたものです。だからひともじのぐるぐる。でも今回はひともじのぐるぐるにめぐり合えなかったのです。残念。残念。でもこれから春までに何度か熊本に行くことになります。
宇土は静かな町で、町の至るところに桃色の石で作った井戸がありました。轟水源から引いた水を共同で使用していたそうです。江戸時代に作られた水道を今でも利用している家もあり、水道組合で管理しているとのことでした。肥後の石工は江戸城の石垣を組んだことでも知られています。江戸城の石垣を組むとき、先頭に立ったのは加藤清正です。秀吉の晩年、つまり朝鮮の役の頃、肥後の国は北の熊本周辺を加藤清正が、南の宇土を小西行長が領地にしていました。が、今の熊本では加藤清正は偉大な英雄で、小西行長は「大悪人」なのは、加藤清正との確執が原因の一端にあるようです。男の嫉妬って400年たっても消えないのねえという話かもしれません。ああ、恐い、恐い。もっとも加藤清正公に聞いたら嫉妬なんかじゃなくて「義憤」とか「公憤」と言うかもしれませんが。
ひともじのぐるぐるを探しに、「つるや」デパートの地下に入ったのですが、ひともじのぐるぐるはありませんでした。おみやげに熊本城の絵の入った包み紙の「朝鮮飴」を買いました。朝鮮の役の時の保存食だそうですが、これが鹿児島の兵六飴とかぼんたん飴に似た感じの柔らかな食感です。おもいっきり片栗粉がかかっているところがなんだか豪快でした。なんで朝鮮の役の時に加藤清正が虎退治をしたのか? その謎が少しだけわかったような気がしました。どうやら朝鮮の役は、加藤清正のお膝元では「勝った」ことになっていたみたいです。
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