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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

神田山に日比谷入江

2006年08月26日(土)

 先日、山の上ホテルで待ち合わせをしまいた。夏休みらしく、ふだんは見かけない雰囲気の宿泊客の人がロビーにいました。60代の女性のグループ。地方から東京見物でしょうか?で、その中に一人の携帯電話が鳴りました。どうも、グループの誰かが迷っているらしいのです。
「え、坂を上って突き当たりのところだよ」
 そう答えていますが、山の上ホテルは坂を登る道ばかりではありませんから、この説明ではちょっと無理な気がしました。
「山の上なんかじゃないよ。山なんかないから」
 この場合、山の定義にもよるのですが、山の上ホテルは地形的には文字どおり山の上です。ただ、周囲のビルが高いので山に見せませんが。
「階段を登るのか?降りるのか?って、階段なんかないって」
 ははん、どうも電話のお相手は女坂か男坂のあたりにいるらしいのです。しかし、階段と聞いて、電話の女性は何か建物を連想してしまったみたいでした。で、同じグループの人がみかねて迎えに行きました。

 私は昔からこの山の上ホテルのある地形が不思議だったのです。なぜ、御茶ノ水の駅から見える神田川の流れだけが渓谷の表情をしているのでしょうか?崖の上になぜ御茶の水を汲み出す井戸があるのか?江戸の初期の地形を調べてようやく納得が行きました。

 あのあたりいったいは神田山だったのです。ですから神田明神も神田山の中腹の神社ということになります。神田川は神田山の中を切り裂くように流れていたというわけで、今のJR御茶ノ水駅のホームからの眺めが渓谷風なのでした。で、神田山を切り崩して埋め立てたのが、日比谷入り江。日比谷は遠浅の入り江だったのです。

 神田山の下はもう海辺で、井戸を掘っても水は塩辛いものだったそうです。塩辛い水はお茶には使えませんから神田山の井戸でお茶に使う水を汲んでいたというわけです。御茶ノ水の駅の前の交番のわきにお茶の水の跡が今でもあります。

 切り崩した神田山の名残が駿河台で、これが山の上ホテルの建っている場所です。駿河台の名称は駿河から来た徳側家康の家来が屋敷を構えたのでそういう名称がついたそうです。

 この工事をやったのが家康、秀忠、家光の徳川三代の時代。それからもう400年もたつのですが、あのあたりの奇妙な地形には、神田山や日比谷入江があった頃の名残がまだちゃんと残っているのですね。豊臣秀吉に元からの領地を取り上げられて、関東に入るように言われた家康は、いったいどんな気持ちで神田山や日比谷入江を眺めていたのでしょうか?お城を中心に「の」の字に江戸の町を作って行くことを考えたのは家康だそうです。「の」の字の渦巻きですから、無限に大きくなる可能性があるわけです。秀吉が朝鮮を攻めて、さらに中国までもという無限の夢を見ていたい頃に家康は「の」の字に発展する町を夢想していたわけです。
 
 来年、静岡新聞で文禄慶長の役から家康がなくなる頃までの描く時代小説を連載します。その下準備なのですが、調べてみると目の前にいろんなものが開けてきておもしろいです。神田山や日比谷入江がある眺めというのは横浜の金沢八景の眺めからおおよそ推察することができます。幼稚園まで金沢八景で暮らしていましたが、大々的な埋め立て工事などが始まる前の景色をよく記憶してます。なるほど、東京湾沿岸というのは、おおよそ似たような眺めを持っていたわけだなあと思いました。
日比谷のひびは海苔の養殖するための網の「ひび」を意味しているそうです。金沢八景の平潟湾でも海苔を養殖していましたから、「ひび」を張った粗朶が海に並ぶのは懐かしい光景です。

 私の母方の実家には慶長年間から始まるバインダー式の位牌があります。金沢八景に一族が住みついたのは、慶長の頃のようです。父方は祖父の時、三河から東京の出てきたのですが、家の紋に「本田立葵」を使っていますから、何か徳川さんと縁があったのかもしれません。
あるいは徳川家康が関東に入った頃に、三河と三浦に離れ離れになったものが、300年たって知らずに隣同士に並んだなんてことがあるのかもしれません。母の実家と父の実家は隣どうしなのです。

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