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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く

2006年08月21日(月)

 1978年という年に大学に入りました。同じ年に群像新人賞を受賞しました。この年から文芸雑誌を原稿料を受け取る側から眺めるようになったのですが、江藤淳の無条件降伏及び戦後文学の関係する発言に本多秋吾、大江健三郎などの反論があり、論争になった年でした。
 同じ年にA級戦犯が靖国神社に合祀されていたことが翌年わかりました。東京裁判のドキュメンタリー映画を試写で見たのは1983年だったと思います。娘が生まれたばかりで、試写を見るのは身体的にかなりしんどい作業でした。具体的に言うと、乳飲み子がいたので乳房が張ってしまっうという状態でした。

 バルブ経済と後に呼ぶような好景気が兆しを見せ始めたのは1985年のプラザ合意あたりからです。1988年には昭和天皇の病状が悪化し、翌年に崩御します。バブル経済真っ只中で、天皇崩御に伴う臨時の休日にスキー場を超満員になったニュースの映像を覚えています。同じ年、韓国でオリンピックが開かれ、韓国が経済的なテイク・オフを果たしたことが、国際的に認められます。中国で六四天安門事件がおきたのは89年のことでした。同じ年の秋、ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊しました。

 こうして現在から振り返ってみると、日本国内ではさながら「羹に懲りて膾を吹く」という状態が出来上がっていたのです。極端な左翼の暴力的な運動はひとまず落着いていましたが、言論の世界は完全に左寄りになり、なんといったらいいのか?まあ、面倒なことは全部ばかにするか嘲笑するという雰囲気がありました。国外を見れば、中国は文化大革命から開放経済への道を進み始めて、大衆がそれまでと違った形の政治発言をするようになってきました。韓国でも80年に起きた光州事件の参加者の名誉回復が85年頃からなされるなどで、言論の自由化が進んできます。今の靖国神社の首相参拝を巡る問題はほとんどこのあたりで提起されているのです。

 文学は読者の心情に訴えるという性格を持った表現芸術ですから「羹に懲りて膾を吹く」状態の方向に追従して行きます。私個人としては80年もしくは85年くらいに戦後という時代はほんとうに終わったのだと思っています。私の手元にある講談社の「戦後日本文学史・年表」では昭和53年(1978年)が最後の年になっています。最後の年には私の名前も入っているので、なんとなく複雑な気持ちでこれを眺めています。

 「羹に懲りて膾を吹く」時代が終わって、冷静な議論ができればいいのですが、どうもそうではないらしいような雰囲気もあります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というような時代が、1990年8月に起きたイラクによるクェート侵略から始まる湾岸戦争あたりから始まります。ちょっと前に「豆の葉」に書いた「空漠」という言葉が発明されたのも、湾岸戦争の時でした。「空襲」という当たり前の言葉が、同時通訳の頭には浮かばないほどの状況があったのでした。

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