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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

「シュラクサイの誘惑」と「ガープの世界」

2005年12月12日(月)

 ここ数日、小説を読むようなおもしろさでマーク・リラの「シュラクサイの誘惑」(日本経済評論社刊)を読んでいました。「ハイデガー、アーレント、ベンヤミン、フーコー、デリダら現代思想のスターたちの失敗から解き明かすユニークな政治哲学入門」と本の帯にはあります。哲学だけを論述の対象にするのではなく、それらの哲学者の実際の政治的行動もあわせて論じているので小説を読むようなおもしろさがあって、二十世紀後半の思想の流れを現実の歴史の流れに沿って読み直すことができます。

 で、話は変わって、ジョン・アーヴィングのこと。若い友人とアーヴィングを読み直したらおもしろいだろうねという話をました。日本の文芸評論家がフーコーだとかデリダだとか、いわいゆるポスト・モダンの哲学に夢中になっている間に、日本の小説家に影響は与えたのはジョン・アーヴィングでした。若い友人によるとちょっと考えただけでも、保坂和志の小説にもアーヴィングの名前を発見することができますし、小川洋子や角田光代の小説もアーヴィングからインスピレーションを得たのではないかというディテールを見出すことができるということでした。その考えに私も賛成。

 確かにアーヴィングは30年前に日本で紹介され始めた時に魅力的な作家でした。そして、フーコーやデリダをいじっていた文芸評論家からはこれまた見事にまったく無視されました。にもかかわらず、アーヴィングが提出するイメージというのは、ポスト・モダンの哲学の痛烈な批評になっています。通常の批評は「物語」を「批評」するのですが、ポスト・モダンの哲学のそばにアーヴィングを置いてみると「物語」が「批評」を批評しているという転倒が起こります。これはおもしろい転倒です。批評は直感的なリアリティを要求されませんが、物語(小説と言ってもいいのですが)はリアリティを要求されるためにこうした転倒は起きるのでしょう。

 10月に大阪で小川洋子さんと一緒のシンポジウムに出席した時、小川さんが「偉大な日常の発見」と発言していたのが印象に残っていますが、こうした表現は非現実的な批評家の言辞に悩まされた来た作家には直感的に理解できてしまうものであって、同時に「物語」が「批評」を批評するという転倒の中から生まれてきたものなんだなと感じました。おもしろい発見をしました。

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