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グリーンカード
2005年03月20日(日)
グリーンカードって言ってもアメリカの居住権のことではありません。日本で1980年代前半に非課税預貯金の限度管理のために導入しようとした制度です。その頃はマル優って言ってました。政府は貯蓄奨励だったので、一人300万円を限度として、預金金利が非課税になっていました。その限度額を管理しようとしてグリーン・カードの導入が検討されました。結局、この制度は個人情報を国が過度に管理することになると言うこと理由の反対が強くて、導入されませんでした。
なぜマル優があったかと言えば、貯蓄を奨励して、資金を集め、道路、港、鉄道、ダム、空港などの公共施設を建設して行くためでした。マル優を利用していた頃の私たちはそんなことは、少しも考えずに質素倹約こそ美徳だと、貯蓄は道徳的に正しいことを教えられ、信じてました。
今になって、ああ、なるほど、マル優の限度管理が考えられた頃から、国全体の資金の動きを公共投資中心から民間投資中心へと変換させたかったのだなあと気付くくらいです。お金があればたいていのことができるのですが、その次に重要になってくるのはそのお金を誰が持っているかということです。
道路や港などの公共財は国がお金を持っていればできますが、アニメーションやゲームソフト、音楽、絵画などは、国がお金を持っていても作れないものです。おもしろいものを作って、大勢の人に楽しんでもらって、利益も上げようという性格のもの、あるいは服飾やおいしい料理など、それぞれの人によって好みが分かれるもの、などなど、国がお金を持っていたって、ぜんぜん無意味です。民間に資金が回るようにしなければなりません。民間に資金を回すための公平校正な方法を作らなければいけないのです。
政府がグリーン・カードの導入に失敗したあと、消費税が出てきました。これは税金の取り方の構造を変える税制でした。それからリクルート事件がおきます。政治家と政治資金の問題としてさかんに報道されましたが、今から考えると株式市場を公正公平にするための第一歩の事件だったように見えます。その頃はまだメディアという言葉はなくて、マスコミと言っていましたが、マスコミの思い込み報道がひどかった時期でもあります。
今回のライブドアとフジテレビの株争奪戦もここまで来るとフジテレビ側に初期の段階で敵対的買収という思い込みが強すぎたのではないかと疑問を感じるようになってきました。なんのための買収かをよく確認しないうちに敵対的買収に対する防護作を打って、フジテレビはかえって立場を悪くしているのではないでしょうか?どうもそんな気がしてなりません。
よく日本人が幼くなった、幼稚になったという話を耳にしますし、実感もあります。文学が衰退した原因もそのあたりにあるのですが、いや、文化そのものが衰退しているもとは、人の気持ちにあると言ってもいいのですが、そういう現象が起きたのは豊かな社会のためという説明に私は首をひねってきました。なぜなら豊かな社会は、必ず文化的豊饒を生み出してきたからです。
日本人が幼稚になったとか、幼くなったという現象がおきたほんとうに理由は「資本」への無関心だったのではないでしょうか。「会社は社員のもの」という言葉の中で「社員」を「動労者」に入れかければ、社会主義あるいは、共産主義の考え方に限りなく近づきますが、「労働者」という単語を使えば、対抗概念としての「資本家」が登場します。しかし「社員」だと対抗概念が消えてしまうのです。「資本」に無関心というのは、例えて言えば、子どもが親の収入に無関心なのと同じような心理を生み出したのでしょう。まして、日本は会社や企業を家族に見立てる風土ですから、なおさらなのではないでしょう。
グリーン・カード導入は強い反対にあって失敗しましたが、90年代に入ってからの構造改革の中でマル優そのものが縮小廃止されました。また、政府系の金融機関の代表である郵便貯金、簡易保険を含む郵政が民営化されようとしています。
グリーンカード導入の頃から国全体の資金の動きを構造的に変えようとしてきたことを思うと、子どもっぽい投資家が出てきて、許認可事業である放送局を買収しようとするのはなかなかアイロニーに満ちた現象です。デキンズやバルザックが生きていたらきっとおもしろい小説を書いたでしょう。
ここのところ、同じ話題に終始しているようで恐縮ですが、ライブドアとフジテレビの株争奪戦を見物していると、自分が生きてきた時代の「形」(フォルム)の生成過程が見えるようで、どうしても興味が尽きないところがあります。
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