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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

一ヶ月検診

2009年02月10日(火)

 病院に行ってきました。1ヶ月検診です。まだ少し早いのですけど、来週の火曜日は予定が入っているので、一週間早めに検診を受けてきました。

 外来は大混雑。94歳のお爺さんに87歳のお婆さんがつきそっているなんていう人もいました。94歳のお爺さんは心筋梗塞も脳梗塞もやったことがあると言っていました。、外来から入るのは初めてだったので、少々、うろうろ、血液検査のための採血をして、それから心電図を安静の時と運動後の時をはかり、あと尿検査もありました。で、それから待つこと3時間。診察室では午後の診療が始まっていたので、もしかすると忘れられたのかなと、やや不安。でもちゃんと見てもらいました。

 外来の先生は開口一番「やあ、たいへんな目にあいましたねえ」でした。一個だと思っていたステントが二個入っていることを教えてもらいました。で問題は高脂血と糖尿病。その二つだけというのもへんですが、それ以外にはこれと行って悪い数字は見当たらないということでした。二つでも充分ですが。

 御茶ノ水をふらふら歩いて、ランチョンでハヤシライスの昼食。

 退院した日も同じ道を子どもたちとぶらぶら歩いて、ランチョンでごはんを食べました。

 手術で使ったお薬のおかげかもしれませんが。集中治療室で脳内御茶ノ水散歩を試みていたのです。明大の前の坂を下って駿河台下の「ささま」で最中を買おうかとか、すずらん通りに入って「スヰートポーツ」で餃子を食べるのもいいな、それとも「揚子江飯店」のチャーハンかな、あ、そうだ「さぼうる」でコーヒーを飲まなくっちゃとか。あとロシア料理の「バラライカ」もあるし、ロシア料理といえば白系ロシア人のお婆さんと日本人のお婿さんが年中けんかをしているロシア料理の店の名前はなんだっけ?とか。そうそう「茶論」という喫茶店もあって映画研究会の溜まり場になっていました。駿河台ホテルの「ふらんす」は学部のクラスの溜まり場でしたけど、駿河台ホテルごとなくなってしまいました。今は明治大学の新しい校舎が建っています。

 ランチョンのメンチカツの端っこを食べたいなあと思ったのもそのときでした。そうだ、今年の冬は生牡蠣をまだ食べてないぞとも思いました。ランチョンのわきの道に入っておそばの「満留賀」それから焼き鳥の「ホワイトハウス」もあったし、あと山の上ホテルを忘れちゃいけない。山の上ホテルが出てくるなら「いもや」の天丼もありました。とこんなあんばいで、御茶ノ水と神保町を散歩していました。だってもう30年もこのあたりをうろうろしているのですから。

 子どもたちは病院の車寄せからタクシーを拾って私を家に連れ帰ろうと考えていたのですが「お天気が良かったら御茶ノ水を散歩してランチョンで生牡蠣を食べたい」と言って、そういうふうにしました。

 で、今日、ランチョンにお昼を食べるために入ったらメニューの生牡蠣に「今年は終わりました。秋までお待ち下さい」の文字が書かれていました。

心臓リハビリ

2009年02月09日(月)

 水曜日になると退院の話題がぼつぼつ出てきました。「一週間で退院ですね」という看護師さんいれば、「もう一週間で退院ですね」という看護師さんがいます。「1週間で退院」と「もう一週間で退院」ではえらい違いです。
 そういえば、カテーテルを抜いてくれたお髭の先生が「これなら一週間で退院できるけれども、内分泌科がなんと言うかしら」と言っていました。ここにきて、心臓よりも糖尿病のほうが重大になってきたのです。こんな患者さんを野放しにするわけにはいかないと、そんなふうに思われたのかもしれません。

 血栓予防の靴下というものを集中治療室で履かせてもらいました。足の甲とふくらはぎを締め付けるハイソックスみたいなもので、つま先はゆるゆるで、踵はありません。この風変わりな靴下は、足の血管に血栓ができるのを防ぐ効果があるのだそうです。で、火曜日にこれが窮屈になって脱いでいたら「ちゃんと履いていてください」と叱られてしまいました。

 その靴下を脱いでもいいというお許しが出たのは水曜日の午後でした。それからあのトランジスター型の発信機もとってもらいました。シャワーを使ってもいいと言われました。またマカロン先生は「少しそのへんを歩き回って下さい」とも。
 その辺とはどの辺か? と思いつつ、たぶん病棟の同じフロアの中だろうと見当はついたのですが、内緒でそっと外来の受付がある階までエレベーターで降りてみました。もう外来の時間は終わっていて、静かなロビーにはお雛様が飾ってありました。ガラスの扉の向こうには、上り下り2本のエレベーターがあり、その向こうは御茶ノ水へ続く通りでした。「やあ、ちょっと下界を降りてきたぞ」という気分。同時に「ほんとに順天堂に入院していたんだ」と実感。叱られないうちに病棟に戻りました。

 家からは簡単な室内履きが届けられて、人が靴で歩くところをうろうろするには心もとないところがありました。これは娘が、靴などを届けると病院を抜け出したりしかねないと思ったみたい。お財布も5,000円だけ入れた娘のお財布が届いていました。その娘はいつも会社の帰りに病院へ寄ってくれていました。

 というわけで水曜日には手術のあとで身につけたものがすっかりとれたのでした。で、木曜日の朝、ごはんと一緒に来たメモには「心臓リハビリ」の文字。リハビリというと麻痺のある部位の機能回復のイメージがあったので、はて? 何をするのだろうと首をかしげました。時間になると看護師さんが車椅子で迎えに来てくれました。で行った先はスポーツジム。ふつうのスポーツジムとの違いは、ウォーキングマシーンをパジャマで使っている人がいるくらいです。

 でまずビデオに身ながらストレッチ。それか自転車を10分ほど漕ぎました。で、終わったら病棟からまた看護師さんに車椅子で迎えに来てもらったのです。あとマカロン先生に「車椅子でスポーツジムに行くのはなんだか妙な気分です」とお話したら「介護度の程度を下げましょう」とのお返事でした。それで金曜日には自分で歩いてジムに行きました。歩き回ってよい範囲が「そのへん」から「病院内」になったのはマカロン先生とお話してからでした。

 大阪芸大に行っていた長谷川さんが東京に戻って病院へ来てくれたのも木曜日のことでした。「もしもの時には長谷川さん考えてね」とお願いすると「ロマンチックになるな」の返事。どうもこの会話はかみ合っていないなあと、やや困惑。「もしもの時」を「支離滅裂な原稿ができたとき」ではなく「死んじゃったとき」と受け取ったようだと気づいて訂正しようとしたとき、このHPの管理人の豆蔵君と、このHPを作ったオントフの金承福さんがやって来ました。

 で「もしもの時」ってのは「死んじゃった時」ではありませんという訂正がだせないままになってしまいました。前日にノートブックパソコンごと原稿を持っていってくれた朴さんからは何もサデッションがありませんでしたから、たぶん支離滅裂原稿は免れたのだなと、あえて「死んじゃったとき」の訂正はしませんでした。まだ内緒なんだけど、この「豆畑の友」は近々リニューアルします。豆蔵君と金承福さんはその準備を進めてくれていたのです。で、頓挫しているリニューアルのことを話しました。

 金曜日は自分で歩いて心臓リハビリに。ストレッチをして自転車を20分漕ぎました。退院後の検診の時に心臓がどの程度の運動に耐えられるか調べてくれるとのことでした。

 気になったのは自転車の前においてあった体脂肪の模型。1キロのやつと3キロのやつ。日向で溶けかけたバターみたいな模型が気になって仕方がありません。触ったらぶよぶよしているのかべたべたしているのか、いったいどんなさわり心地なのでしょう?そこで「あとであの模型を触ってもいいですか」とリハビリ担当の先生に聞いてみると「触ってみますか」とすぐに1キロのほうを持たせてくれました。ずっしりぶよぶよでした。「こんな塊がお腹に入っているわけじゃなくて、腸の周りなんかについているんですよ」と言いながら3キロのほうも持たせてくれました。スーパーで鳥のレバーを買ってくると、時々、そういう脂肪がついているのがあります。あれにそっくりな色をしていました。

前兆現象

2009年02月08日(日)

 伊藤さん、どうもありがとう! おもしろいと言っていただいたので、つい調子に乗っちゃいました。おかげさまで採点も卒業面接も入試もなんとかこなしました。

 それでみんなに前兆はなかったのかと聞かれるたのですが、これがあったのです。自分でこのコラムにも書いていました。歯槽膿漏の痛みです。

「心臓疾患は胸痛に現われるだけでなく、下顎や肩の痛みとして現われることがあります」とちゃんと家庭の医学に書いてあるのは前から知っていたのです。きっと同じ本に「鍋蓋を押し付けられたような痛み」という表現もあったにちがいないのです。心臓神経症をやった頃に、何度も心臓疾患の項目を読みました。でも、そんなへんな比喩を覚えていたのは意外でした。しかも咄嗟の時に口から飛び出してくるとは。

 で、歯槽膿漏ですが、もともと右下の歯茎には、治療しにくい病巣がひとつあります。歯槽膿漏の痛みが出たときに歯医者さんでその部位のレントゲンをとってもらいました。でも、そこはなんでもなかったのです。歯医者さんは、丁寧に上の歯と下の歯のかみ合わせを直してくれました。ずっと前からお世話になったいる歯医者さんで、今回は息子さんのほう(若い先生)に初めて見てもらいました。その丁寧な治療と痛みの間に何か乖離があるというか、溝のようなものがありました。
 それが「心臓疾患は下顎や肩に痛みが現われる」ということだったのです。

 歯槽膿漏の痛みが考えられたものが、ひと段落して、それから年末に熱をだしたのも、ここに書いたとおりです。新聞連載が終わると、たいてい熱を出したりインフルエンザにかかったりしますが、今回は終わらないうちに歯槽膿漏や発熱が出て、これじゃあ、済まないだとうあという予感はありました。
 左目が曇ってきたこともあって、連載が終わったら眼科と脳外科に行こうと思っていました。我が家は代々、脳血栓をやっているので、心臓よりも脳血栓のほうを疑っていました。医者嫌いですが、それでも医者に行こうと思っていたのは、たぶん最大の予兆です。

ふつうなら忘れてしまうようなことも、あとから遡って文脈に結びつけられて物語になるということがあります。ふだんはあまり見ないようなテレビの医学番組をぼんやり見ていたのも、そのひとつ。これは前兆ではありませんが「虫の知らせ」かもしれません。もしその番組を見ていなければ、医師の手術の説明をスムーズに理解できたかどうかわかりません。それから、1月の初めに乗ったタクシーの運転手さんが、糖尿病で「糖尿病は専門医に見てもらったほうがいいです。このごろはすごく研究が進みだしている分野ですから」と話していたのもなんだか「虫の知らせ」みたいな気がしてきました。タクシーはよく利用しますが、運転手さんが糖尿病だなんて言い出したのは初めてです。

 私が入院した順天堂大学医院(お薬袋を見たら、病院ではなくて医院の表示がありました)の隣りは東京医科鹿大学病院ですが、この医科歯科大学病院のある場所に獅子文六が住んでいたことがあるようです。あるようですというのは、獅子文六が70歳過ぎに読売新聞に連載した「但馬太郎治伝」にこの場所のことが出てきくるからです。「但馬太郎治伝」は小説ですから、この場所に獅子文六が住み、その前のは但馬太郎治のモデルになったバロン薩摩が住んでいたというのはフィクションかもしれません。ですから「あるようです」なのです。それにしても70歳を超えての新聞連載は命がけだったろうなあと思いました。

教授回診

2009年02月07日(土)

 日曜日にいささか正気付いたときから、慎重に運んできた新聞連載原稿をいざ書き出したのは、水曜日の朝ごはんが終わってからでした。

 最初はおそるおそるパソコンのキーを叩いていましたが、だんだん調子が出来て、これはいけるなあと確信した時でした。マカロン先生が部屋に入ってきて「はっ」とした顔で
「キョウジュカイシンデス」
と言ったのでした。ちょうど、調子が出てきたときだったのでこれが息子だったら
「バカヤロー、キョウジュガコワクテゲンコウガカケルカ」
と怒鳴っていたに違いありません。が、そこはマカロン先生が担当医だとは認識できているので、しばし、きょとんとしていました。原稿に集中していると何か言われても反応できないのは珍しいことではありません。
 するとマカロン先生は羽ばたく鳥のように両腕を上下させて
「キョウジュカイシンデス」
とまたおっしゃいました。

 私の頭に浮かんだのはいささか旧式ですが、図書館のインデックスカード。書名の表示は「文学部唯野教授」で、このカードがぱらぱらとめくれて「白い虚塔」の表示。とたんに耳の穴の中に散らばっていた「キョウジュカイシン」の文字が「教授回診」に凝固。そうか、教授回診なのかとばかり、大急ぎでパソコンのデータをセーブしてタオルケットを被りました。
 白衣を着た先生が病室に現われる寸前でした。やれやれ、これで原稿を取りあげられたら泣くに泣けないところだったなあと、胸をなぜ下ろしました。

 マカロン先生が病状を説明。白衣の先生は
「ちょっと足首を見せて下さい」
と言います。足首を探って
「やはり、少し沈着があるみたいでんね」
 と言うそばで、マカロン先生はすかさず足首のレントゲン写真を封筒の中から出して見せました。万事てきぱきとしています。
「ああ。そうね」
 と先生。これで教授回診は終わりでした。付き従っている先生たちも含めてちょっと張り詰めた空気でした。

 さて、教授回診もやりすごして、原稿。原稿。と朴さんが来てくれるまでにどうやら原稿を書き上げることができました。で、今度はその原稿をうまくUSBに落とすことができないのです。研究室でネットにつながずに使ったていたノートブックだったので、ソフトのバージョンアップをしていなかったのです。
 朴さんと協議の結果、ノートブックパソコンごと持ち帰ってもらって画面を見ながら、別のパソコンでデータを改めて打ってもらうことにしました。
 それで、以後、そんなメンドクサイことをするくらいなら最初から手書きの原稿のほうが、コピーもできるしファックスもできるということで手書きにすることにしました。息子にモンブランのインクを丸善まで買いに入ってもらいました。

 夕方。日本文学科主任の黒田先生が来てくれました。
「先生、教授って偉いんですねえ」
と言ったら
「まあ、何をおしゃるの?」
 と呆れていました。中国文学がご専門の女の先生です。で、黒田先生と卒業面接や後期授業の採点とか入試のこととか、どうしたものだろうと協議。

 金曜日には内分泌科の先生の教授回診がありました。
内分泌科の先生はなんとなくのんびりした雰囲気。担当医の先生とのやり取りも、ちょっとピンボケなところもありました。先生のお人柄とか診療科目でずいぶん雰囲気が違うものです。あの病棟実習生君も先生のそばでお話を聞いていました。

大学病院

2009年02月06日(金)

 高血圧、高脂血症それに糖尿病。とカテーテルを使った手術の時に、慢性病をたくさん発見してもらいました。で、一般病棟に移ると、それまでの循環器科の先生のほかに内分泌科の先生が病室にかわるがわる現われるようになりました。正直言って、一般病棟に移った翌日の火曜日あたりまで、あまりにたくさんのお医者さんが現われるので、誰が誰だか、よく解ってなかったのです。

 手術の時、息子に電話をして説明をしてくれたのは、ちょっとエネルギッシュな感じがする男性のお医者さんでした。「痛いですか?」「痛いような気がします」とカテーテルを抜くときの問答をしたのは、きれいに切りそろえられた顎鬚のある先生でした。
 手術の時にサインした同意書に「この手術にかかわる医師」と言う欄があったのを思い出して、そこにサインしている先生の数を数えてみました。7人の先生がサインしていました。

 循環器科の担当医の先生の聴診器には、マカロンやチョコレート、ケーキなどの色がきれいなお菓子のストラップがついていました。
「ははん、この先生は糖尿を治療する内分泌科の先生ではないんだな」
 と、気づいたときに遡って、手術中にいた先生で、手術後の説明をしてくれたものこの先生だったと、ようやくお顔をお名前が一致しました。仮にマカロン先生と呼んでおくことにします。
 
 マカロン先生がちゃんと認識できるようになると、内分泌科の先生は3人の先生が、代わる代わる現われることも解ってきました。お一人はにこにこした男の先生。法政の地理学科の吉田先生にどこか感じが似ていたので、ヨシダセンセということにしておきました。お名前を覚えなくてごめんなさい。それから色が白くばら色の頬に茶色の目をした女の先生。「人魚姫」の絵本で出てきた女の子に似ていたので、北欧風の名前にしてインゲ先生ということにしました。もう一人は、中学校か高校の生徒だったら保健委員として絶大な信頼を集めそうな感じの女性の先生で、保健委員先生。こんなふうに特徴で見分けがつくようになしました。

 保健委員先生が眉のきりっとした青年を連れてきました。
「学部の4年生ですが、病棟実習中です。お加減の悪いときやご都合の悪いときは、お断りいただいてかまわないのですが、お話の相手をして下さい」
 と紹介されて大学病院なのだなと思いました。
 
 朝ごはんの時にその日にする検査や治療を記したメモがきます。火曜日は「心電図、レントゲン、眼科」という具合です。眼科は左目が曇っているので診療してもらうことにしました。眼鏡をかけたまま、おうどんを食べたような感じに曇っているのです。眼科で見てもらったら白内障にかかっているとのことでした。糖尿病の影響が出ているかどうかは、解らないということです。
 
 こういう治療や検査に出るときは、車椅子に乗せてもらって病院内を移動していました。で、午前中は車椅子で点滴のスタンドを持って移動。車椅子を押してくれる看護師さんとうまく息を合わせると、かなりの速度で移動することができました。レントゲンはてっきり胸を撮影するのだと思っていたら「足を出してください」といわれて、はて、なんで足なんだろうと不思議に思いながら撮影。午後になってマカロン先生が来たときに理由を聞いてみると、足のアキレス腱にコロステロールが沈着することが多いのだそうです。

 点滴を止めてもらってのは火曜日の午後でした。あと残っているのは胸につけた小型の発信機だけ。心臓の状態をモニターしている機械で、大きさは昔のトランジスターラジオくらいです。

 午後の面会時間には、編集者の福江さん、新聞連載の挿絵を描いてくださっている宮本恭彦さんとお兄さんの宮本健美さんご夫妻が来て下さいました。助手の深野さんは大学に回ってノートブックパソコンを持ってきてくれました。それから、弟のお嫁さんの裕子さんも来てくれたので、火曜日の午後はけっこう忙しく過ぎてゆきました。それから息子がやって来ました。

 息子と何気ない雑談をしていて、手術の時に不安を取り除く薬を投薬されていることを知ったのです。「なに、なに、なに」と驚きました。どうりで、いやに考えが前向きだったわけが解った気がしました。きっと食べ物はあれこれ制限されるから、これからは出汁の研究をして、乾物とお野菜の料理を覚えようとか、体重を減らせと言われるに違いないから、気に入った服を買ってそれを着られるようにしとうとか、さしあたり、黄色いシャツが着たいなあとか、そんなことを考えていたのです。それから、毎日体重が1キロづつ減っていたので、これがうれしくって仕方がない。もうはけないと思っていたジーンズがはけるぞ!と喜んだり。どうもお薬が作用していたみたいです。

 精神に作用する薬を飲んで原稿を書くのは前にも書いたとおり、うまく自分の感覚を捕まえきれないということが起こります。さらに、その薬の効き目が切れかけているかもしれないというのも、問題のひとつです。土曜日の投薬が、火曜日まで続いているのか、いないのか。疑問でした。が、考えてもしょうがない。まずはやってみようと、火曜日の夕食後にテーブルにパソコンや資料をそろえました。それで、すぐに原稿にとりかかったわけではありません。

 あまりばたばたと原稿にとりかかると失敗するだけなく、書き直す体力さえなくなってしまうなんてことになりかねないので、その晩はすぐに寝ました。うつらうつらしながら、ああでもない、こうでもないと、どういう原稿を書くかを考えていました。そうするうちに「これでいける」という手ごたえがあって、ちょっと興奮しました。すると病室の外に看護師さんの足音がして、扉が開きました。ポータブルの発信機の末端が胸にちゃんと取り付けられているのか見せて下さいと言われました。ナースステーションでデータがおかしな具合を示したみたいでした。すみません。人騒がせでした。

教えてもらいました。

2009年02月05日(木)

 私が救急車の中で聞いた「STが下がっています」の「ST」について、伊藤比呂美さんが熊本文学隊のメンバーのお医者さんからのメールを回送して下さいました。「ST」は心拍数のことではないそうです。正しくは以下のとおりとのこと。いただいたメールを貼り付けます。伊藤さん、それから「ST」について教えてくださったお医者さん、御教示どうもありがとうございます。

〜〜〜〜以下 いただいたメール〜〜〜


> STというのは、心電図のST部位という場所のことで、ST
> が低下
> しているというのは、心臓の血管が閉塞しかかっている疑いが
> ある。ことを間接的に示すサインです。
> 胸の痛みがあって、救急車の簡易的モニター心電図でSTが低下
> しているということは、急性心筋梗塞などの心臓の救急疾患が
> 強く疑われるということで、大急ぎで循環器内科がある病院に
> 運ばれることになります。
>
> ちなみに、心拍数はHR(HeartRate)になります。

〜〜〜〜〜〜以上 いただいたメール終わり〜〜〜

 靴下と格闘した息子にもちゃんと教えておくようにします。それにしても救急車というのは良く出来ているものです。感心してしまします。

それで救急車の中のことをもうひとつ思い出したのです。搬送先の病院が決まるまで、少し手間取ったのですが、そのとき、救急隊の人が「何にこだわっているんだろう?」と首をひねってから「逓信病院に横付けしちゃおうか」と言ってました。法政大学の隣りは逓信病院で、病院に救急車を横付けしておけば、もしもの場合には医療行為ができるお医者さんがいるわけです。これは実行されませんでしたが、いろいろと考えてくださるのだなあと、救急隊の皆さんに感謝しています。

一般病棟へ

2009年02月04日(水)

 救急搬送された土曜日。娘は会社に出勤していました。で、息子つまり兄ちゃんから電話が入ったのは午前11時頃のことだったそうです。
「医師は緊急手術をすると言っているけれども、本人はいつものように吼えている」
 という電話だったと言っていました。娘としては「???」という感じだったみたいです。で、その兄ちゃんと言えば、病院へ行こうとして靴下を履くのですが、その靴下がどうしても裏返しになってしまうという怪奇現象? に見舞われていたそうです。あせっていたわけで、しばらくは靴下と格闘していたみたい。

 兄妹で病院にやって来ると「あと15分ほどで手術が終わります」と告げられてから、待たされること1時間。予定よりも時間がかかったとのことでした。手術が終わってから私のベッドを挟んで担当医から説明を受けたのでした。この時、子どもたちの印象に残っているのは、私がした質問が「お腹がすいたのですが、ご飯をいつ食べられますか」というものだったことです。前の晩の晩ごはんとその日の朝ごはんを食べていなかったので、そういう質問になりました。食べた物と言えば手術前に血管を広げる薬というものを「噛み砕いてから飲み込んで下さい」と言われて、がりがり噛み砕いたすっぱい薬ぐらいでした。
 ところが、ご飯を食べるという行為はすごく心臓の負担になるのだそうです。で、担当医の先生は話では「今日と明日はご飯は食べられません」でした。私自身はこの質問をしたことは覚えていないのですけど、担当医の先生の返事だけは覚えています。よほどがっかりしたのでしょう。

 子どもたちは、看護師さんから入院に必要な品物の説明を受けたり、幾つもの書類にサインをしたりしたあとで病院を出ました。それからセンター入試でホテルに二泊することになっていたので、私が宿泊しているホテルへ行ってチェックアウトし、家に帰ってからも保険証を探し出したりとなかなか忙しかったみたいです。

 翌日の面会が遅くなったのはそれなりの理由があったのでした。が、病人(私)は激怒したうえに「メモをとれ」と命じて、どこに連絡をいれるべきか、翌日の面会までに必要な品物は何かと矢継ぎ早に告げたのでした。新聞連載続行は「決断」というよりも「ものの弾み」みたいな感じで動き出してしまいました。

 話を私のほうへ戻すと、手術をした翌日つまり日曜日の昼に、足の付け根から動脈と静脈にいれていたカテーテルを抜いてもらいました。抜くときに「痛かったら言って下さい」とお医者さんが言うので「痛い、痛い」と言ったら、とうのお医者さんは不思議そうな顔で「痛いのですか?」と聞くので「痛いような気がします」と答えました。するとお医者さんは看護師さんに「抜いたカテーテルを見せてあげて」と言い、看護師さんが金属の皿にのった管を見せてくれました。それはけっこう太い管で、白い色をしているところに血がついていました。「痛い」と言った時には動脈の管も静脈の管ももう抜けていたのでした。

 管を抜いたあとで、テーピングをして8時間は足を曲げないで下さいと言われたのは、昨日書いたとおりです。面会に来てくれた弟を話していた時も、子ども相手に激昂していたときも右足はぴんと伸ばしたままでした。夕方にはこのテーピングをとってもらいました。

 採尿管をとってもらったのは、月曜日の朝でした。昼少し前に一般病棟に移りますと言われました。で、この時、身体についていたいろいろな計測器をはずしてもらいました。でも点滴はまだ残っていました。点滴をぶるさげたスタンドと一緒に車椅子に座って一般病棟に運んでもらいました。

 勝手なもので、集中治療室の様子はほとんど目に入りませんでした。見ていたのは扉だけ。一般病棟に出るまでに2枚の扉がありました。最初の扉はどんな色をしていたのか思い出せません。2枚目の扉はきれいな緑色でした。大きな自動の扉の向こうが一般病棟でした。
 子どもたちの話では、集中治療室には小さな赤ちゃんや開胸手術をした人もいたということですが、私はそうした患者さんの姿をまったく見ていませんでした。
 一般病棟の病室はテレビと電話のある個室で窓の外を見ると、ビルがぎっしり並んでいました。御茶ノ水なら見覚えのあるビルがひとつくらい見つけられそうだと探しましたが、どのビルも同じように見えます。そこで看護師さんに東西南北の方角を尋ねました。が、「ちょっと解りません」という返事でした。質問を変えて「御茶ノ水の駅はどちらですか」と聞くと窓のほうが御茶ノ水の駅だと教えてもらいました。とすると扉のほうは水道橋ということになります。

 午後になると息子が昨日、頼んだものを持ってきてくれました。新聞連載のアシスタントをしてくれる朴さんも来てくれました。息子は重さ800グラムのノートブックパソコンを持ってきてくれました。何かの時のために軽量なノートブックを用意してあったのです。ただ、このノートブックはまだ使い込んでいないので、うまく操作できません。そこでパソコンは大学の研究室で使っている古いノートブックを使うことにして、助手の深野さんに研究室から持って来てもらうように頼むことにしました。データをUSBに入れて朴さんにとりにきてもらうか息子に家に持ち帰ってもらって、関係各所に送ってもらえばいいということに話をまとめました。

 息子にも朴さんにも言いませんでしたが、ひとつだけ不安があったのです。連載を続けるとして、書いた原稿が支離滅裂だったらどうしようかとい不安でした。これは本人には判断がつかないことで、誰かに考えてもらわなくちゃなりません。そこで、今度の連載の資料集めなどでお世話になっている長谷川郁夫事務所の長谷川さんに連絡を頼んでおいたのです。これは日曜日の「メモをとれ」の騒ぎの時に子どもにいいつけておきました。長谷川さんに連絡しておけば、挿絵の宮本さんにも静岡新聞の文化部の志賀さんにも連絡をしてもらえるでしょう。支離滅裂原稿が出ちゃった時の判断もしてもらえるだろうと考えたのでした。

一般病棟に移ってから再び「ご飯はいつ出ますか?」と質問しました。「夕方から出しましょう」とのお返事で晩ごはんが出ました。息子はそのご飯の少なさに驚いたようです。ふつうのご飯の量の半分の量だったから。

集中治療室

2009年02月03日(火)

 息子と入院したときのことを少し話しました。で、思い出したのが救急車の中で聞いた救急隊の人の言葉「STが下がってます」です。息子に「STって何?」と尋ねたら「心拍数のことだよ」と言われました。どうやら心臓は止まりかけていたみたいです。

 手術室から集中治療室に移って。その晩は寒かったので毛布を一枚、看護師さんに持ってきてもらいました。毛布をかけてもらうとあとはすやすや。翌日の昼過ぎには幾分、意識もはっきりしてきました。で、もっとも気になったのは静岡新聞と熊本日日新聞の連載のことでした。あとのものは、いけなければ、ほかの人に代わってもらうことも可能なのですが、新聞連載だけは、続行するか中断するかを決断しなければいけないので「さて、どうしたものか」と考えていました。この時点では絶対安静で、身体は動かなかったのですが、入院は7日から10日くらいだと手術前に言われていて、もし7日間の入院で済めばなんとかなるかなあという希望的観測もありました。

 で、昼過ぎに子どもたちが面会に来るのを待ってました。子どもたちが面会に来たらゆっくり話ながら、連絡を入れる先について指示を出そうと思っていたのです。ゆっくりと思い出さないと、とてもではないけれども込み入ったスケジュールを整理できそうにないなあと、やや不安に思っていました。ところが、なかなか子どもたちが面会に来ません。

 で、まず面会に来たのは弟でした。弟と少し話をしました。それから、また子どもが来るのを待っていました。メールで入る連絡、郵便で来る連絡、電話で来る区連絡それからが大学のメールボックスを経由して入ってくる連絡など、毎日、応対している仕事関係の連絡は幾つものルートがあって、子供たちにこれらの処理をどのように頼むかというのも思案していました。スケジュールを完全に把握しているマネージャーがいないのですから、これはかなり面倒で煩雑な仕事です。

 息子と娘がやってきたのは面会時間終了の直前でした。で、そのあまりの遅さにまたもや激怒。この時、身体には心電図やら脳はやら脈拍数やら、そういったいろいろなデータを取るための装置が付いていたのはなんとなく知ってはいたのですが、それらのデータが自分の寝ているベッドの頭の上に表示されているのは知りませんでした。で、激怒すると血圧は乱高下するやら、脈拍は乱れるやら、ディスプレーの表示がめちゃくちゃになったので、二人は怒られたことよりもそっちのほうにびっくりしたみたいでした。そのうえ重篤な患者さんがほかにたくさんいますから、そうした患者さんへの遠慮も重なっておろおろしたようです。

 でも、この時点で、新聞連載を続行しようと決断していたのは、やはりへんなことでした。ひとつには土曜日に手術をして月曜日には一般病棟に移れると言われていたのが、決断の根拠になっていたのです。が、後から考えるとそればかりではなかったような気がします。
 月曜日に一般病棟に移ってから、新聞連載のアシスタントをしてもらっている朴さんにも来てもらい、入稿の計画を立てました。
 その後に、手術の時に不安を抑える薬や気持ちを安定させる薬を投与されていたことを知ったのです。それを聞いたときにはさすがにひやりとしました。あとでこの件について伊藤比呂美さんとメールのやりとりをして、伊藤さんがうまい比喩を用いてました。感情や精神に作用する薬を用いながら原稿を書くのは「大リーグ養成ギプスと孫悟空の金弧冠をつけているみたい」と言ってましたが、確かにそのとおりなのです。私の場合は気分を安定させ効用させる薬を用いていたので、たとえて言えば翼の生えた靴を履かせてもらっていたみたいなものです。いざ、原稿を書き出したら、翼の生えた靴がすっぽ抜けるなんてことがおきやしないかと、ひやりとしたのは火曜日になって投薬の事実を知ったときでした。

 集中治療室では絶対安静でまだ身体が動かせません。足の付け根から入れたカテーテルを抜いてもらったのはたぶん日曜日の昼過ぎだったと思います。傷口の近くをきつくテーピングして。8時間は足を曲げないで下さいと言われました。ご飯を食べるのも心臓の負担になるので駄目でした。集中治療室2泊3日は、子どもたちを相手に激怒したほかはただひたすら眠っていました。足の付け根のテーピングは日曜日の夕方にはずしてもらいました。これで少し楽になりました。それにしても、集中治療室では出てくる看護師さんが、男性も女性も美男美女なのに感心していました。で、これは心臓が止まりかけていたのでそう見えるのかと思っていたら、息子の話では、彼の目で見ても集中治療室に勤務していた看護師さんたちはみんなきれいな人ばかりだったと言っていました。

 どんどん快復したので、あまり重病の自覚はないのですけど、今日、息子と話をしたら、やはり心臓と血管にはダメージが残っているとのことでした。「ちょうど風船を膨らませたり縮めたりすると、風船そのものが弱ってしまうようなもの」と担当医の先生が説明してくれたとのことでした。はあ、そんなものかと改めて自覚。

緊急手術

2009年02月01日(日)

 救急車が走り出してから病院に到着して、医師の先生に呼びかけられるまではほとんど記憶がありません。あるいはその間に、なんらかの救命措置をしてもらったのかもしれません。で、医師から呼びかけられて、これまた深い井戸の底からぬっと顔を出して事情説明。

 お名前はと聞かれて、ここでペンネームを名乗ったところ、ベッドの周辺で名前を復唱しながら、人がぱたぱたと走り出しました。で、そのぱたぱたとあわただしく走る人の足音を聞きながら「今、名乗った名前はまずかったんじゃないかな?」と疑問が湧き、「今のはペンネームです。本名は違います。保険証の名前は違います」と名乗りなおすと、今度は「お〜い名前違っているぞ」とまたいっそう、ぱたぱたと人があわただしく動きだす気配がしました。ええと、名前入りのリストバンドをして、患者の取り違えを防いでいるので、名前が違っているのは大事件みたいでした。

 で、次の質問は「ご家族はいますか? 連絡先は?」でした。「息子と娘がいます。連絡先は携帯電話のナンバーが私の携帯に入っています」と答えました。
 早速、息子に医師の先生が携帯で電話。その電話を「じゃあ、ご本人に代わります」と渡されると、まだなにがなんだか解っていない息子が「お母さん、大丈夫?」と意外なほど緊張感のない声で言うので、思わず「馬鹿。大丈夫じゃないから救急車で運ばれたのだろう」と一喝。誰かが、たぶん医師の先生でしょうけれども枕元で笑っていました。

 救急手術をするには本人と家族の承諾がいるのだそうです。足の付け根の血管からカテーテルを入れて患部を治療する手術で、安全ではあるけれども、まれに血管を傷つけるようなアクシデントがあるという説明でした。どういうわけか、数種間前に、テレビでカテーテルとバルーンを使った手術方法の番組を見ていた「ははん、あれをやるんだなあ」と医師の説明をおおよそ理解。ではこの書類にサインして下さいと言われて、手術の承諾書にサイン。それから学術研究のための協力の承諾もしてもらえますかと、尋ねられ、この承諾書にもサイン。
 家族の承諾は電話で仮承諾がとれていますという会話がちらりと聞こえてきました。
「もう病院へ到着していますから、ご安心下さい」
 と何度か言われるたびに「そんか、安心じゃなかったんだなあ」と思いながらも、またまた深い井戸の底へ。

 手術は部分麻酔で、麻酔をかける時には歯医者さんと同じで「ちょっとちくんとしますよ」と声をかけられました。ちくんとするのねと、また井戸の底から顔を出して納得。で、目をあけてみると、そこはお部屋全体が医療器具というような感じでした。黒いモニターのようなものが身体に近づいたり遠ざかったり。どうも、それが撮影機材のようです。複数のモニターがあり、それを大勢の医師たちが見ている様子がなんとなくわかりました。で、私が横たわっている位置から見えるモニターには、ミミズのようなものが映っています。あれが血管なのねと思い、それからもうひとつのモニターを見ると、こちらはどうも血管の中が映し出されているようでした。血管の中には血液の逆流を防ぐための弁がありますという理科の教科書で見たような、そういう映像でした。いったい何人の先生が、この手術のかかわっているのか、かわるがわる、いろんなお医者さんが顔を出します。

「ああ、これは根気良くバキュームをかけるしかないなあ」とか「おおい、これをちょっと見てごらん」とか、話し声も聞こえています。で、血管の中を細い線がチョコチョコと動いている映像を見ていると、なんだかじれったくなるので、そういうのは見ないことにしました。大勢いる医師の先生の中におでこの広い目のくりっとした女の先生がひとりいました。で、あとからこの先生が担当医だとわかりました。途中でまた、深い井戸の底に降りていって眠り込んでしまいました。

 次に気づいたときは、ベッドの右手に息子と娘がいて、左手にはあのおでこのひろい目のくりっとした担当医の先生がいました。で、担当医の先生が病状を説明しているのですが、また、すっと眠ってしまって、目が覚めたときには日付が変わっていました。

 以前、作家の三木卓さんが渋谷で心筋梗塞の発作に襲われたときの話を聞かせてもらったことがあります。三木さんは、胸の痛みを感じたとき、これは心筋梗塞だと御自分で解ったそうです。渋谷駅だったので救急車を呼ぶよりもタクシーを拾ったほうが早いという判断をしてタクシー乗り場に行くと、そこには人の行列。とても行列に並ぶ余裕はないので、先頭にいた青年に「僕は心筋梗塞の発作を起こしているので、順番を替わって欲しい」」と交渉して、広尾の日赤病院までたどりついたとのことでした。そんなことができるのか、と驚いて三木さんのお話を聞きましたが、心臓は危機的状態でも、頭はなんだか奇妙なくらいにクリーンなところがありました。

救急搬送

2009年01月31日(土)

 1月17日はセンター入試で、受験生の案内をすることになっていました。それで、前日16日は法政大学の近くのホテルに泊まりました。泊まると言っても、ずいぶん遅い時刻にチェックインして、それから知り合いと電話でお喋りをして、という具合でした。で、寝付けなくて、ちょっと寝不足気味で、学校に大慌てで出かけました。
 遅刻! 遅刻! と校内を走っているときに、学部長の後藤先生とばったり出会い「ああ、遅刻が見つかっちゃった」と、どきりとしました。この時の「どきり」は通常の「どきり」でした。

 で、受験生の案内のための配置についた時、今度は心臓がなんとなく痛くなりました。私は30代の頃、心臓神経症に悩まされたことがありました。ここ10年は心臓神経症の発作もなかったのに、それによく似た痛みでした。

 心臓神経症では胸のあたりが痛み出して、どうかするとしばらく気が遠くなります。たびたび発作が出た頃に、自分でストップウォッチを握って、どのくらいの気が遠くなっているのかを計ってみました。短い時で15秒、長いときでも25秒程度で、30秒と続くことはありません。で、気が遠くなったあとは爽快感を覚えるほどすっきりとするのが神経症のパターンでした。しばらくその神経症の発作が出なかったのですが、また来たのかなと最初は思いました。

 しばらくすると胸の痛みが静まって、すっきりしました。ここで受験生が「ひざ掛けを使う許可をもらいたいのですが」と言ってきたので、「もうすぐ試験場の監督がきますから、試験監督から許可をもらうようにして下さい」とお返事をしました。で、試験場の扉が閉まる少し前にまた胸の痛みがきました。今度は最初の痛みよりも深刻でした。横になって水を飲みたくなりました。

 こんな状態ではとても受験生の案内などできそうにないので、同じフロアにいた別の先生にあとをお願いして教授控え室に戻りました。給湯器から水を飲み、テーブルにうつぶせにしていると、そこへ通りかかったのが後藤先生。もしこの時、後藤先生が異変に気づいて下さらなかったらたいへんなことになっていたかもしれません。

 「医務室へ行きましょう」と言ってくださったので、歩き出したのですが、歩けないのです。仕方なく医務室のほうから医師に来てもらうことにしました。

 その後、起きたことは不思議です。口の中に生唾がたまってきました。吐き気のあるときのような感じです。それから、便意もありました。どちらかと言うと吐き気よりも便意のほうが強くって、トイレへ駆け込みました。で、ウンチが出ました。
「ああ、これは」と思い出したことがあります。

 10代の頃に、御遺体のお世話を手伝ったことがあります。もう40年も前の田舎の話です。亡くなった人が失禁をしていたり脱糞をしていることがありました。年寄りたちは、それがありがちなことのような話をしているのをそばで聞いていました。そういうことがあるものなのかもしれないと、トイレの中で考えていたら、心配した後藤先生が声をかけて下さいました。
 それから教授控え室に戻ると医務室から医師の先生が来ました。

 症状を話すときに「胸を鍋蓋で圧迫されているような痛み」と自分で説明しながら、この比喩表現は私が考えたものじゃなくないなあと思い、どこかに出典があるはずだぞ調べなくちゃと、まあ、そんなことまで考えていました。それから心臓神経症のこともお話しました。

「症状は心筋梗塞ですけど、そうですね、この場合は悪いほうで考えておいたほうがいいでしょう」

 医務室から来た医師の先生はそういってペンライトを出して、瞳孔をチェックし、救急車を呼ぶことになりました。この辺から、記憶がところどころ、深い井戸に落ち込むように途切れます。誰かから呼びかけられるとそれに答えることはできるのです。救急車に収容されてから搬送先の病院を探してもらっていることとか、医務室から来た先生が「カテーテルを使える病院がいい」と言っていたことなどを覚えています。しばらく救急車と消防本部のやりとりがあって「順天堂病院へ行きます」の声。それで救急車が走り出しました。

 あとで様子を見ていた人から聞いた話では、顔は土気色になり、脂汗が浮いていたということでした。また順天堂大学病院の先生の話では、心臓への血液の流れが一度は完全に止まってしまったものが、もう一度、ちょろちょろと細く流れ出した状態で運び込まれてきたとのことでした。本人はそこまで悪いという自覚はありませんでした。で、救急隊の人に「先生」と呼ばれると返事をしそうになって、それは付き添ってくださった後藤先生のことであったり、医務室から来た医師の先生のことだと気づいて「ああ、間違えちゃったよ」とあせったりしていました。「先生」と呼ばれると深い井戸の底からぬっと顔を出して、自分のおkとじゃないと気づき、間違えちゃったとあせりながら、また深い井戸の底に沈んでしまうという感じでした。

 そんな具合で病院に運ばれたのでした。まだ「鍋蓋を押し付けられたような痛み」という比喩表現の出典は調べていません。

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