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醍醐寺の桜
2009年04月07日(火)
豊臣秀吉が死の半年前に花見をしたという醍醐寺の桜を見てきました。「そうだ京都へ行こう」のポスターも今年の春は醍醐寺の桜が使われています。大阪からの距離感を知りたかったので、大阪を基点に醍醐寺に行ってみました。JR大阪駅ではちょうど、敦賀行きの特別快速がホームに入ってきたところに行き逢いました。で、その特別快速で山科まで、だいたい30分くらい。
山科から地下鉄東西線の醍醐駅まで、10分。醍醐駅にはお花見の人のための循環バスが出ていました。周辺は新しく開発された団地。醍醐駅も花見の季節以外は、たぶん平凡な郊外の駅なのでしょう。循環バスに乗ってみました。最初は歩くつもりだったのですが、案内表示にしたがって歩くとどうしても団地の中に入っていってしまうので、降参して循環バスに乗ることにしました。でも、この循環バスは醍醐寺の駐車場に近づくと、渋滞に巻き込まれて一寸も動かなくなってしまいます。
醍醐寺は京都の中心街から少し離れているので、ふだんは観光客も少ないようです。最近になって観光地を意識しだした様子がなんとなく境内の雰囲気から感じられました。三宝院のしだれ桜を見て、それから金堂へ。
醍醐寺は山すその下醍醐と山中の上醍醐に分かれるそうです。上醍醐の入り口には、鳥居がありました。仏教のお寺ですが、修験道の寺でもあるようです。それで、以前、京都じゅうの瀧に打たれているというタクシーの運転手さんがいたのを思い出しました。何かの取材の時に瀧に打たれる話を聞いたのです。京都の周辺にはけっこうたくさんの瀧があるとのことでした。
写真は上醍醐へ入る手前の講堂の桜。ちょうど満開でした。上醍醐はまたこの次の時にしようと、今回は下醍醐だけで引き返してきました。人の流れについて行くと地下鉄の駅に行く人々は団地の敷地の中に入って行きます。団地の真ん中に遊歩道風のゆるやかな下り坂があり、その坂はそのまま、駅ビルのショッピングセンターの二階へと続いていました。だから、案内表示に従って醍醐寺に行こうとすると、団地の中に入っていってしまうのでした。
地下鉄の醍醐駅から山科には戻らず、六地蔵に出ました。地下鉄の六地蔵から京阪宇治線の六地蔵までは、川を一本渡りました。川の土手にたくさんの菜の花が咲き、菜の花の群れのなかに「一級河川 山科川」の看板が立っていました。京阪宇治線は書中島で本線と合流。この書中島が昔の伏見の中心地だったようです。電車に乗ってみて「なるほどなあ」と納得。今の観光用ガイドブックでは、醍醐寺と伏見、大阪はまったく別世界のような扱いを受けていますが、電車の線路は、昔むかし、淀川を30石船が上り下りした時の同じ流れで動いているのが判りました。書中島で京阪の淀屋橋行きの電車をつかまえ、大阪に帰りついたのでした。
その京阪の駅に「造幣局の通りぬけは、今年は4月8日から15日まで」というポスターがありました。醍醐寺のしだれ桜が満開だったことを考えると少し遅いような気がしましたが、あとから知っている人に聞いてみると大阪造幣局の桜は、八重桜なのだそうです。しかもいろいろな種類の八重桜が植えられているそうです。八重桜ならば、少し遅れて咲くのも通りです。造幣局そのものは文字通りに通り抜けるだけですが、造幣局の外側の川岸には露天も出て賑やかなお花見ができる場所があるとのことでした。
住吉大社
2009年04月04日(土)
この太鼓橋を渡らないと住吉大社にお参りしたことになりませんという案内がありました。それで、赤ちゃんにのしめを着せてお宮参りをするおばあさんまで、おそるおそる太鼓橋を渡っていました。
実際に渡ってみると写真でみるよりもずっと急な感じがします。太鼓橋は源氏物語絵巻にも描かれています。太鼓橋と言えば鎌倉の八幡宮にも石の大きな太鼓橋があって、子どもの頃は、その太鼓橋を無理やりに渡ったものです。でもどうして、神社には太鼓橋があるのでしょうか? 空に上る虹と関係はあるのかしら? 今度、誰か知っていそうな人を見つけて聞いてみようと思います。
四天王寺の桜
2009年04月03日(金)
以前、四天王寺に行った時はちょうど4時の閉門時間で、西門の鳥居だけを見て帰ってきました。四天王寺はお寺だけど、西門に鳥居があるのです。あたりは上町台地とか夕陽ヶ丘を呼ばれている高台で、西門の鳥居は極楽浄土に通じているということです。西門のそばに陀羅尼助をいう薬を売る店があって、ああ、ここは吉野にも通じているのだなと思いました。それで、今度はちゃんと境内に入れました。
中世まで遡ると、四天王寺のしたまで海が入り込んでいたみたいです。四天王寺から住吉大社の前をとおり、堺まで路面電車が走っていますが、その電車の線路がだいたい中世の海岸線のようです。埋め立てが進み、海は遠くなりましたが、実際にその場所に言ってみると、昔の地形が別の姿をして残っていることがよくあります。吉田兼好は徒然草に「辺土のもの」はすべてかたよっていてあまりよろしいものはないけれども四天王寺の舞楽だけはすばらしいと書いています。京の都からみれば天王子あたりはもう「辺土」だったのですね。田舎じゃなくて辺土。そう言う兼好法師はわざわざ関東まで下ってきているいますが、それこそ地の果てにくるような感じだったんでしょうかねえ? 兼好法師が褒めた舞楽は4月22日にあるそうです。石舞台があって、そのうえで舞楽が行われるとのことでした。見てみたいものです。
写真は方丈という建物から庭の桜を見たところ。この日は曇りで、私のほかに桜を見物する人は誰もいませんでした。桜もまだ2分咲き3分咲きといったところでした。
大阪城
2009年04月02日(木)
大阪城は一度行かなくちゃいけないなあと思いながら、行ったことのある人が「つまらない」というので、ずっと二の足を踏んでいました。「つまらない」理由は「ただ広いだけ」なのだそうです。確かに地図で見てもかなり広い。ホテルニューオータニの客室から眺めてもほんとうに広い。で、つまらないかどうかは別として広いなら、夏の暑い時、冬の寒い時はさけたほうがよさそうだなとかねがね、時期を考えていました。
淀屋橋のたもとから乗れる水上バス。こちらのほうは一度、乗ってみたいと思っていました。で、水上バス乗り場に行くと「臨時便 大阪城行き」の表示がありました。渡りに船とはこのことです! さっそく大阪城までの切符を買いました。大阪の川や堀など、つまり水路について感覚的に知りたかったので、城中まで船が行けるとしたら、これに越したことはありません。
今年の桜は、大阪でもお彼岸には咲き出したのに、そのあとは寒い日が続き、開花は遅々として進みませんでした。船の上から造幣局の通り抜けの桜、桜の宮の桜を眺め、さらに遠く大阪城の天守閣を見ました。あと中ノ島の先端がとんがっているのも見ることができました。昔は大阪から伏見まで船で行き来したそうです。で、南へ下れば天王寺、住吉大社、堺へと連なり、大阪湾から瀬戸内海、瀬戸内海を出ればそこは玄界灘で、行きたければマニラでもルソンでも行けるというわけ。淀川は世界に通じる通路です。って、そういうスケールにふさわしい大きさが大阪城にはありました。
確かに大阪城は広い。熊本城も広かったけれども、大阪の広さはなんと行ったらいいのか、広々と開けた広さです。この広さを楽しめたので大阪城はつまらないということはありませんでした。大きな梅林があり、冬に来てもよさそうでした。夏の暑いときだけは止めたほうがよさそうです。お城というのは外堀、内堀に囲まれたひとつの街だと考えたほうがよさそうです。西洋では街を城壁で囲ってましたが、どうしたわけか日本は堀で街を囲って「城」と称しています。河川や沼沢を利用して堀を作れば、物資の輸送にも便利だし、非常事態の時は防備の役割も果たすと、そういうふうに「堀」を利用することを考え出したのはいったい誰だったのでしょう?
東京だって、飯田橋の外堀のふちから皇居の真ん中まで歩けと言われたら、ちょっとねえと考えてしまします。大阪城の船着きから天守閣まで行くのは、感覚的にはちょっとそんな感じでした。船着きに近い青屋門から地形の高低差や石垣の組み方を見ながら歩いていたら、これがたまらなく楽しく桜門まで行き着きました。天守閣を見物する前に豊国神社でおみくじを引いてみました。「医者はむやみにかえるな」とあって、太閤さんにそう言われたような気がしました。あと、中国、韓国からの観光客がたくさんいました。朝鮮半島も大陸もみんな、みんな、春休みというところでしょう。
韓国の小説家の姜英淑さんと熊本城にいったとき、時代衣装を着たお城の番兵を見て、姜英淑さんは「こわいですね」と言っていました。日本の番兵の姿は秀吉の朝鮮出兵の時にことを思い出させる怖い姿ということでした。で、大阪城を見物した韓国人は何を思うのでしょうか? なにしろ、秀吉は朝鮮の国土を大混乱に陥れた大悪人ですから。ちょっと聞いてみたいような気もしました。きっと熊本城を作った加藤清正は、大阪城に憧れていたのでしょう。話を聞けるものなら、加藤清正にも話を聞いてみたいような気がしました。
天守閣の最上階まで上がってみると、東西南北、大阪がすみずみまで見渡せて、これも広い、広い。そういう大阪城でした。帰りはくたびれて、城内を走っていた汽車形をしたバスに乗りました。桜門から森の宮の駐車場まで。となりはかわいい坊やとお母さんが乗っていました。
嘘ではありません。
2009年04月01日(水)
豆蔵さん、なんで4月1日にお知らせを出すのでしょうか?明日になったらもとのHPに戻っていたりして(笑)
いやいや、嘘ではありません。リニューアルしました。これから新しいコンテンツもふやします。皆様「豆畑の友」をどうぞよろしく!
写真は大阪城の桜門から天守閣を見たところ。堺から大阪を歩き回ってきました。堺、住吉大社、それに水上バスに乗って大阪城に行ってきました。水上バスから大阪造幣局や桜宮それに大阪城あたりの桜を見ることが出来ました。と言っても桜はまだ満開までに少し間がありました。もっとも満開になっていたらものすごい人出で、ゆっくり景色を楽しむ閑もなかったかもしれませんから、ちょうど良いときでした。
卒業おめでとうございます。
2009年03月26日(木)
みなさん、卒業おめでとうございます。
3月31日お花見をしましょう。OBのみなさんもお気がむいたらどうぞ起こし下さい。
OBの方、来られるようでしらた御一報下さい。でも私は30日まで大阪出張ですから、ご返事は30日の夜になります。
伊藤さんへ
2009年03月24日(火)
ええとあれはテイカカズラではないとのこと。そんなんですか。あんまり無花果の実によく似ていたから、びっくりしたんですけどね。
そういえばヘクソカズラって気の毒な名前の植物もありました。
カポーティの「冷血」を読んでいます。一家4人が惨殺されるやつ。で、その晩はたまたま娘が外出していて一人でした。なんだか怖くなり、家の鍵がかかっているかどうかを確かめに行きました。
布団に入って寝ると、死んだはずのおかあちゃんが「ただいま」と帰ってきました。私が寝ていたのは、子供の時に住んでいた家の子供部屋。で、なぜかおかあちゃんを抱っこして、お布団に寝かせました。ちゃんとお布団をかけて寝ないと風邪を引くよと言って自分の部屋に入り、これで安心だとすやすや眠る夢を見ました。夢の中で寝ているの。でも寝ている場所は、子供の時に住んでいた家の子供部屋で、風が窓ガラスにぶつかる音がしていました。
途中で「あ、これは夢の中で寝ているんだ」と気づいたのです。時々、寝ている夢をみます。どうもややこしんだけど。で、これは寝ている夢を見ているんだと気づいたときに、なぜか、これまた、死んだはずのおとうちゃんがにやりと笑う顔が見えました。
たぶんカポーティの「冷血」なんかを読んで寝たからだとその夢の話を人にしたら 「お彼岸だからだよ。おはぎでも食べたらいい」 と言われました。ああ、おはぎを食べるまえに注射をぶしゅっと打たなくっちゃ。インスリンの注射。お腹に打つんです。伊藤さん、とらやで羊羹を買ってきました。今度、羊羹を持って遊びに行きますね。このごろ、時間にしばられるのや、義務にしばられるのがすっかり嫌になっちゃって、浮かれて遊んで歩きたいの。
夜の海
2009年03月22日(日)
3月の初めには熊本近代文学館の庭のこぶしが真っ白に咲いていました。楠に巻きつくテイカカズラには実がなっていました。テイカカズラに無花果のような実がつくのを伊藤比呂美さんに教えてもらいました。東京でもこぶしは白い花をたくさんつけるようになりました。桜も咲き出しました。今日は春の嵐。空には黒くもが、風がびゅんびゅん吹いています。でもすごく暖かです。
瀬戸内海を行くフェリーの話の続き。乗っていたのはトラックやトレイラーの運転手さん。それから、対外試合に行く様子の運動部の生徒たち。船内には大浴場があって、夕食後で混雑していました。それに、ビュッフェ式の食堂。こちらもけっこう人が入っていました。食堂は夜は21時まで、朝は5時から営業していました。
瀬戸内海は波のない静かな海ですから、船が進んでもほとんど揺れることはありませんでした。この晩の海は一面の霧。霧の中にぼんやりと陸地の灯が見えました。私は個室をとってあったので、試合に行く高校生たちとはちょっと離れた船室でゆらりゆらりと揺られて白河夜船。以前、五島列島に行った時も、博多から夜の船に揺られて行ったことを思い出しました。瀬戸内海から九州沿岸は今でも、船便がけっこう活躍している様子です。
船室の壁にサイドブレーキの引き忘れによる重大事故が多発しているという掲示がありました。国土交通省が出したもので、死亡事故の実例が書いてありました。慣れた作業でも、注意を怠らずにという通達でした。
静かに航海を続けて朝焼けの大阪に。昨年から大阪芸術大学へ通っているので、大阪港が見えてくると半分、帰ってきたような気がしました。街の向こうに山並みが見ていました。大阪港からは地下鉄で(今度はほんとに地下鉄です(笑))新大阪へ。
私が乗った船は博多から大阪までノンストップの船でしたが、沿岸の港に寄港する船は夕刻でも早い時刻に出船するようでした。夏の日の長い時にそちらに乗船すれば、瀬戸内海の夕景色を楽しむこともできるようです。
波の枕霧の毛布
2009年03月12日(木)
写真は朝日を浴びる大阪港です。
豊肥線というとなぜか笑う伊藤比呂美さんです。たぶん頭の中に別の字が浮かんでいるのでしょう。熊本からの帰りは別府から船に乗って大阪に出るというと「ホウヒ線で行くの?」と聞かれたのですけど、そのときはとくに自分の考えに疑問もなく「福岡に出てから別府に行くの」と答えました。
まさかね。福岡にも「別府」があるとは思わなかったのです。「別府(福岡)」と書いてあっても、まったく無視していました。今日、改めて調べてみたら兵庫にも「別府」がありました。福岡は「べふ」ですが、兵庫のほうはなんと読むのか解りません。
いろんな人に聞いてみると、瀬戸内海を行く船便は今もで便利に利用されているそうです。フェリーで車も積めるので、修学旅行とか長距離トラックの運転手さんが利用するそうです。経済対策で休日の高速道路が一律に1000円乗り放題になると、こういうフェリーが打撃を受けるのではないかという新聞記事を見つけました。
熊本駅は市街地より少しはずれたところにあって、灰色の四角い駅舎。なかなかいい感じでした。乗ったのはリレー特急「つばめ」。これが、濃いチャコールグレーの車体なのです。昔の機関車をイメージしたのかもしれませんが、私の目には「なんだかダースベーダーみたいな電車だなあ」と見えました。
福岡へ向かう途中で田原坂公園というところがあって、桜の名所だそうです。そう、あの越すに越されぬ田原坂で有名な西南戦争の激戦地です。なせか、田原坂の桜を見てみないなあと思いました。話があとさきになりますが、大阪についてから今度は津山城の桜のポスターを見て、これも行ってみたいなあと思っていました。津山は、あの惨殺事件があった場所です。「血と桜」ってどうも、自分でもなんだか解らないのですけど、妙に気になる。どうしたわけでしょう。雨模様の中を福岡まで、ところどころに黄色い菜の花の群れが花をつけていました。
福岡の200円では別府(大分)まで行けないと気づいたのは前述のとおり。大急ぎでJRの駅に駆け戻って飛び乗ったのはソニック特急。車両の色やデザインをまったく覚えていないのはあせっていたからです。でも座席はなんとなく革かなと思えるふかふかのシートでした。ここのところ、飛行機と新幹線で駆けづりまわっていたので、特急の車両がこんなに贅沢になっているとは知りませんでした。
小倉で車両は向きを変えて走るので、みんなで、座席の位置を直しました。それからうとうとして、目が覚めると
「Next station is USA」
の文字が表示板に流れて行くではありませんか。なになに、USA(アメリカ合衆国)だって!夢の中でカリフォルニアと熊本の往復している伊藤さんのことを考えていたので、一瞬「ややや!」でした。もちろん太平洋を渡ったのではなくて「USA(うさ)」でした。で、ソニック特急が別府に到着して、大阪行きのフェリーが出るまでには20分しか時間がありません。別府到着直前には「もし船に間に合わなかったら、今晩は別府温泉に泊まっちゃおうかな」と下心も。 が、ちゃんとタクシーの運転手さんが港まで急行してくれました。
心筋梗塞後遺症
2009年03月11日(水)
熊本の皆さん、どうもありがとうございました。飛行機に乗るとき、気圧の変化に耐えられるかなと少し不安でしたが、おかげさまで特段のこともなく熊本に到着できました。7日8日と大勢の皆さんに起こしいただきましたことを御礼申しあげます。
熊本文学隊の皆さんから「大丈夫ですか?」と尋ねられたのですが、心臓のほうはとくに後遺症も残していないので、元気です。後遺症といえば「死んじゃったら、あれもしなくてもいいし、これもしなくてもいいのに」とフイに思うというのが、後遺症でしょうか。どうも義務ってやつが少々メンドクサクなっていまして、いけません。それで生きているうちにやりたいことってのもあまりないものですから、このまま、この後遺症にどっぷり浸かっているとものすごい怠け者になりそうです。いや。もともとなまけものですが。
それから熊本近代文学館の鶴本さん、お騒がせしました。帰りは別府から船便で大阪に出ることになっていたのですが、福岡に「別府(べふ)」という地下鉄の駅があって、私がその「べふ」と大分の「別府」を混同していたので、大騒ぎをさせてしまいました。ほんとうにそそっかしくてすみません。
間違っているのに気づいたのは博多で地下鉄の切符を買ったときでした。博多から「べふ」まで200円。幾らなんでも200円じゃあ別府にはい行けないだろうと、JRの駅に駆け戻って16時20分発の大分行き特急に飛び乗りました。別府に到着したのは18時27分。タクシーで関西汽船のフェリー乗り場に急行して、なんとか18時50分の大阪行きのフェリーに乗りました。その間、皆さんが私の勘違いに気づいてご心配いただいているとは、つゆ思わず、携帯の留守番電話と着信に気づいたのは、船がゆらりゆらりと瀬戸内海の波に揺られている19時50分になってからでした。
大阪到着は翌朝の6時30分頃。それから地下鉄で新大阪に出て新幹線で東京到着は11時50分。熊本駅まで送っていただいたのは前日の13時45分でしたから、だいたいまる一日かけて東京に戻ってきました。それでも「三四郎」に比べたらもうすごい超特急です。 九州の特急と船の旅の話はまた明日にでもします。
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