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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

伊藤さん、東京は大雪。

2011年02月15日(火)

 伊藤さんが飛行機で青森へ飛び去って、東京は大雪。降り出してから5時間で、救急車で運ばれた人は10人以上。きっとコンビニでは、ホカロンが飛ぶように売れているでしょう。雪用の靴も必要。だって滑るんだもの。ここ、見てる? そんなこんなで、きっと明日の朝の東京は大混乱です。間違いなし。

毒を仰ぐ

2011年02月09日(水)

 もろい夢でした。夢と現の間の敷居が低い夢でした。だから、目が覚めてしまうと、夢の感触を充分に再現することができません。おおまかな筋が残っているだけ。

 どんな筋かと言えば、錠剤の毒を飲む夢です。毎日飲んでいるふつうの薬のように、錠剤の毒を飲んで横たわっているのです。こう書くとなんだか神秘的な雰囲気も出てしまいますが、胃薬でも飲むように毒を飲んで横たわっていました。が、効き目がなかなか現れてきません。仕方がないので、効き目が出るまで、ボタン付けをすることにしました。針に糸を通して、糸の端に玉を作る。大きな玉が出来てしまい目立つほどですが、死んでしまえば、コートを使うこともないから、まあ、これでいいかと一人納得していました。
 死ぬ間際までボタン付けをしていたのを、後で誰かが見つけたら、さぞかし驚くだろうとか、そんなことを考えながらボタン付けをしていました。

 そのうちちょっと用事を思い出したのです。夢の中ですからどんな用意だったのかまでは覚えていません。あ、しまった。毒を飲むタイミングを間違っちゃった、どうしようかな? と迷っているうちに「これは夢ではないか」と疑りだしました。「どうも夢のようだ」と疑りが確信に変わる頃、ふっと「この夢は前にも1回見た」と気付いたのです。「これで2回目だ」と。ここもまだ夢の中。しきりに感心しながら夢から覚めました。

 同じ夢を繰り返し見る癖がこのごろはなくなったなあと思っていたところでした。どうも夢の素は、一昨年の心筋梗塞で病院へ運びこまれたときの体験のようです。すーっと意識がなくなって行くときの感触を再現していました。この夢はバリエーションを変えてまた見るような予感がします。

砂漠の駱駝とニクソン大統領

2011年02月07日(月)

 母がぽつっと「あれがなければ、あんたたちを私立大学へ入れるくらいの蓄えはあったのにね」と言ったことがあります。あれがなければと言うのは、オイルショック後の狂乱物価。インフレでした。そんなことを母が言ったのはいったい何時ごろだったか? 結局私は明治大学の2部へ滑り込みましたし、弟はもともと国立にしかない学部を志望していたから、そんな実害があったという話ではなかったのですが、親としては落胆の表明をしたかったみたいです。

私も弟ももう大学へ入っていたかもしれません。母の胸の中にそんな落胆の固まりがあったのかと、意外な気がして忘れられません。小学校(国民学校ですが)の苦く甘い思い出は学童疎開。苦いほうが先で、苦さをかみ締めていると甘くなるという様子。昭和10年(1935年)生まれの母でした。

 オイルショックは何度かありますが、最初の1973年の第4次中東戦争のほうのオイルショックです。ドル・ショックのあとを追いかけるように勃発した原油の値上がりで、なぜかトイレットペーパーや洗剤の買占め騒ぎが起きました。トイレットペーパーを自転車に積んでいたおじさんが、強盗に襲われるなんて、笑いたくなるような事件まであった騒ぎでした。第二次世界大戦が終わって28年。戦争が終わっても物資の乏しい時代が数年は続きましたから、まだ、品物がなくなる恐怖を生々しく持っている人が大勢いたのだなと、振り返って、改めて想像することがあります。母は37、8歳だったわけで、「喉元過ぎれば熱さを忘れるは恥だ」が口癖がでした。
 1979年のイラン革命の時のオイルショックの時にはもう大学へ入っていました。

 カイロで始まったムバラク退陣運動のデモ隊の中で暴れる駱駝の映像を見ていて、冒頭の母の嘆息を思い出したのです。どこかアメリカのニクソン大統領が大統領支持派にベトナム戦争反戦運動のデモ隊を衝突させた時の様子に似ていました。

 オイルショックの時のアメリカ大統領はニクソンでした。ニクソン大統領はアメリカ軍をベトナムから撤退させた大統領です。当時、ベトナム反戦運動が盛んで、これがベトナムからの撤退交渉の障害となると判断したニクソン大統領はテレビ演説で、反戦運動に加わっていない無言の支持者たちに支持を呼びかけます。大統領の呼びかけに応えた、ブルーカラーの人々が反戦運動の学生に襲い掛かるシーンの映像を、私が見たのはずいぶんあとになってからです。ヘルメットを被ったブルーカラーの人々の動きの素早いこと。実にシャープな動き方をして脆弱な学生をぼこぼこにしてしまいます。

 エジプトのムバラク支持派とムバラク即時退陣派と衝突の映像で、駱駝を見たとき、このニクソン支持派のすばらしくシャープな動きを連想したのでした。砂漠の駱駝使いはアメリカの労働者よりも、なんだか笑いたくなるような感じもしました。

 テレビを使って自身への支持を呼びかけたニクソン大統領は、結局、ウォーターゲート事件で退陣を余儀なくされてホワイト・ハウスを去ります。エジプトから流れてくる情報を断片的に受け取っていると、なぜか20世紀後半のさまざまな出来事が個人的な記憶と一緒によみがえってきます。ウォーター・ゲート事件のあと日本ではロッキード事件が起きます。ロッキード事件のあとはリクルート事件。報道は、しだいにパターン化しました。

 中国とアメリカの国交を開いたのもニクソン大統領でした。日本と中国の国交を快復させたのはロッキード事件の田中角栄首相でした。

雀の写真撮れてました。

2011年02月06日(日)

 飯田橋の外濠土手の雀の写真。撮れてるかな?って思っていたんですが、ちゃんと撮影できてました。このごろのカメラってすごい!

 インフルエンザが治った豆蔵君が掲載してくれるはずです。

外濠土手の雀

2011年01月26日(水)

 雀もこのごろは核家族化現象なのだそうです。かつては1シーズンに5、6羽の雛を育てていた雀がこのごろは1羽だけ育てるというもの珍しくないとどこかで読みました。なぜ、雛が1羽になってしまったのかは、覚えてないのですけど。へえって思って。

 外濠の土手を歩いていたらどこかで雀の声。おやと探してみると、金木犀の木にいっぱい雀がいました。どうやら、最近の核家族育ちの雀たちのようです。地面に降りて餌をついばむのに余念がないといったおおらかな行動には出ないのでしょうか?金木犀の枝から枝を雀が飛び回っていました。自分が生きている間に、雀が核家族になったり、4月の入学式に咲いていた桜が3月の卒業式に咲くようになったり、そんなことが起きるなんて夢にも思いませんでした。

 金木犀の枝から枝に飛び回る雀の写真を撮りました。でも、あろうことか、管理人の豆蔵君が新型インフルエンザでダウン。タミフルを飲んで寝込んでいるそうです。残念。去年だったら大ニュースになったのに。ってまあ、こんなことでニュースになんかなりたくないだろうと、思うのですけど。豆蔵君、どうぞお大事に!

「魚の目」不定期連載「象の鼻毛」

2011年01月25日(火)

 魚住昭さんのウェッブマガジン「魚の目」で不定期の連載始めました。タイトルは「象の鼻毛」です。象って鼻毛あるのか?って。たぶんあります。なかったらたいへん。でも、ふだんはあんまり意識しないし、あってもなくってもいいような感じがするのが象の鼻毛なかというわけで、あってもなくってもいいような気がするけど、なかったらたいへんな感じのあれこれを書いて行くつもりです。不定期だから、次が何時になるのやら。

 なにしろ魚住さんにお会いしてじゃあやりましょうってお話をしたのは2010年4月だから、もう忘れちゃってかもしれないって、少々不安になってくらいです。なまじフォルムのしっかりしたエッセイを書いてみたいなんて言ちゃったものだから、なかなか、かけなかったのです。

 「象の鼻毛」は「〜です、〜ます」という敬体じゃなくって「〜だ、〜だった」という常体を使うつもりです。ネットは紙の媒体よりも読者に近い感じがして、言うなれば映画じゃなくってテレビみたいな軽さがあるのはおもしろいところですが、常体を使わないと言えないことがあるのではないでしょうか。逆に言えば常体で、日常的に話す人はそんなにいないでしょう。よほどのいばりん坊以外は。だから話す姿勢が、常体は書き言葉の姿勢なのではないでしょうか。で「象の鼻毛」は常体を使うことにしました。

ダメダメな一日。

2011年01月18日(火)

 あ〜。ダメだ。お金を振り込まなくっちゃいけなかったんだけど、銀行の前を通っていたのに、忘れた。あ〜ダメだ。出席予定の会合を明日だと1日勘違いしていた。というわけで欠席。ひょえぇ。ダメダメな一日だった。

 でもそのわりに幸せ。と言うか幸せだったから、用事は全部忘れたって感じ。

 ええと、朝起きたときに手を見たら、お婆さんの手になっていた。掌のほうじゃなくって、手の甲のほうが。空気が乾燥しているから、どうしても細かい皺が寄っちゃった、ああああああ〜お婆さんの手になってら〜って感じで寝床の中で眺めとりました。あんまり悪い気はしない。中学生の時は大人の女の人のほっそりした手と指に憧れたんだけど、なんかそういう感じが楽しく思い出せるお婆さんの手になったぞしめしめって感じかな。そうだ、幼稚園のときには狼がばけた赤頭巾ちゃんのお婆さんになりたかったのだと、ついでに思い出す。

 で、すっかり幸せになって、用事は忘れたり勘違いしたりでダメダメな一日。夜は、まっしろな蕪を昆布でことこと煮て食べた。ほっこりしたおいしかった。それからテレビで昨晩のサッカーの試合のダイジェスト見て、やっぱり岡崎は好きだな〜って、なんかゴン中山を優しくした雰囲気。でも、いなきゃいけないところにチャンといる目の良さ。すごいじゃん!あ〜ダメダメな一日だ。この手を見よ、お婆さんの手だぞとか言ってみようかな〜。

寄り道中央線 おまけ3

2011年01月17日(月)

 大阪から近鉄大阪線で名古屋。名古屋から中央本線で木曽福島。木曽福島で1泊。大学生の頃はこんなほっつき歩き方をすると、泊まる旅館で困ったものです。女性ひとりって旅館のほうがちょっと困惑します。それから、まだ団体旅行の名残が残っていて、あまり一人客用のお部屋とかがありませんでした。あと、お風呂。だいたい男性の団体用ということが多くって、女性用はつけたしみたいな貧素なお風呂っていう宿もありました。とことこ出かけて、気持ちの良い旅館に泊まれるのは、たいへんな変化です。

 朝はマイナス17度と聞いた宿で「露天風呂があります」って言われても「大丈夫かな」とやや心配。が心配御無用でした。ぬるいお風呂にゆっくり浸かって、外に出ると、まるで夏のデパートに入ったような心地よさ。それからお風呂に再び浸かると、今度は炬燵にもぐりこんだような幸せ。で、露天風呂にゆっくり入っている女性のお客さんがいました。家族連れが多かったのですが、この人はひとりで泊まっている様子です。この頃はどこに行っても、こういう一人でゆっくりお風呂に入っている女の人に出会います。家族連れが多いのは、きっと年末年始が忙しいご商売のお家なのでしょう。

 木曽福島から新宿へ。列車は「塩尻」で乗り換えます。特急「しなの」から特急「あずさ」への乗り換えです。JRもJR東海からJR東日本へ。西国と東国の境界というのは、こんなところに残っているのです。木曽福島から塩尻までは特急の停車駅だとひと駅。
 今度はだんだん下って行く線路です。右、左に迫っていた山の斜面が左右ともに遠ざかって行きます。山はうっすら雪をかぶっていました。常緑の赤松が目立つ山で、松の緑と白い雪のコントラストが軽やかな色彩を放っていました。空は晴れて、これまた青。列車が雪を舞い上がらせ、舞い上がった雪は金と銀とに輝きます。平地にならぶ冬枯れの葡萄畑が見えてきたら、もう塩尻。

 塩尻の駅で乗り換え。若い旅行者の姿が目立ちました。旅行者というより、東京に戻って試験を受ける大学生とか、入試のために東京にでる高校生とか、そんな感じの乗客がホームにずいぶんいました。塩尻の駅では、ホームにトイレがあったことと、そのトイレが暖房されていたばかりか、便座が暖かだったのにちょっと感激。
「あずさ」がホームに入っていると、なんだかもう新宿にいるような気がしました。窓の外に富士山が見えたのは、どのあたりだったか。写真に撮れるかなとカメラを向けてみましたけれど、走っている列車の中からはどうもうまく撮影できそうにありません。そのうち車内は大混雑し始めて、寝てしまいました。



 今日の写真は、あてずっぽうにシャッターをおしたら撮影できていた富士山の写真です。これは家に帰ってから「おや、富士山ちゃんと写っているじゃないの」と気伝いものです。あと、法政のボアソナードタワーで撮影した日暮れ。陽が沈むところを撮ろうとしたので、富士山の姿は画面に入っていませんが、茜色の西の空には富士山の姿がありました。

寄り道中央線 おまけ2

2011年01月16日(日)

 大阪から近鉄大阪線で名古屋に出て、中央本線の特急「しなの」で木曽福島まで行った話はツイッターのほうに書いてしまったので、こちらが「おまけ」になります。ツイッターだと簡単に写真が載せられるのですけど、こちらは管理人の豆蔵君の手を煩わせなくちゃならないので。



 名古屋から特急「しなの」で、木曽へ入って行くわけですが、中津川の手前あたりから、トンネルへ入ると耳が詰まるような感じがしてきました。ゆっくりと山を登るのです。もうこのあたりは中山道と平行して線路が走っています。家の感じが近鉄の沿線と少し変わりました。どっしりした瓦屋根が減って、軽い感じの屋根の家が目だってきます。それから、玄関が家の正面ではなく、右の端にある家が目立ちます。玄関わきに長い縁側があるのです。東海道だと、大井川を渡った頃に、家の感じが変わったなあと思うのですが、山を登っているせいか、大井川よりも手前で、家の造作が変わったなと列車の窓のそとを見ていました。

 本州中央部の山々を日本の屋根と表現することがありますが、中山道というのはまさにその屋根の上を伝って行くような道です。ただ、大きな川の河口付近を渡らなければいけない東海道よりも、中山道のほうが川止めなどが少なく、旅程が読める道だったそうです。京都から江戸へおこし入れした和宮様も、この中山道を通ったそうですし、朝廷から日光の東照宮へのお使いもこの中山道を通ったと聞いていましたが、想像していたよりも、険しい谷あいの道でした。

 中津川の次の特急停車駅は「木曽福島」ですが、中津川を出てしばらくすると、川と道路と線路は併走するようになりました。列車の窓の外を眺めながら、なぜか不快な人物や不快な出来事をぼんやりと思い出したのはこのあたりでした。すごく不快というのではなくって、漢文調で「余を不快にせし人物の顔浮かび来る」みたいな思い出し方。身体が感じた気圧の変化が、そんな心持になって現れたのかもしれません。トンネルをくぐるたびに霧が深くなりました。つい、うとうととして、目が覚めたら、窓の外はうっすらと白い雪が積もっていました。寒そうな山の景色です。

 木曽発電所を過ぎると、車内放送が入りました。谷底の川の中央に見える「目覚めの床」の説明の放送でした。川の中央に青みがかった白い長方形の石が何本も立ち上がり、石の上には松の木に囲まれたお堂が見えました。そこで竜宮城から帰ってきた浦島太郎が暮らしていたというのが、車内放送の説明でした。丹後とか丹波に浦島伝説があると聞いた記憶はばんやりとあるのですが、どうしてその浦島太郎は木曽の山の中までやってきたのでしょうか? 竜宮城から帰った浦島太郎の道中はいったいどんなものだったのでしょう? そっちのほうが気にかかりました。前方に真っ白に雪を被った高い山が見えました。どうやらそれが木曽の御嶽山のようでした。そういうわけで、日が暮れないうちに木曽福島到着。私の座席のうしろで、ふくよかなお母さんが、お腹の上に、赤いほっぺの赤ちゃんをだっこして幸せそうにすやすやと寝ていました。



 東海道で、関東への入り口は箱根の関所ですが、木曽福島の関所は中山道のちょうど中間なのだそうです、もちろん、関所はいまはもうありません。木曽の御嶽山参りをする人は、木曽福島を足場にしているようでした。V字谷の左右の斜面に代官屋敷と旧関所跡があるというのが木曽福島です。宿へついて女中さんと少し話をしてみると、伊勢神宮の建て替えのときには、木材の切り出しのために大勢の人が集まってたいそう賑やかだったということでした。昔は川へ筏を流して材木は運んだと、それが木曽のなかのりさんと、小学生の頃、覚えた歌の意味をようやく「そうか」と悟ったしだい。秀吉が一夜城を作ったというのも、川上から用意した材木を流して、川下で受け取ったのだと言うのですが、どうも秀吉の独創的な考えだというよりも、日常的な材木の輸送に一工夫加えたものだったみたいだなと、そんなことを考えました。秀吉は川上で、材木をすぐに砦が出来るように加工して川に流したのだと言います。「今朝はマイナス17度でした」と女中さんに教えてもらいました。翌日の朝は少し暖かくって、それでもマイナス10度。10時を過ぎる頃でも、日陰の雪はじゃりじゃりと凍っていました。

 木曽福島の町があるV字の谷は朝日が当たる斜面は午前中からけっこう暖かなのですが、日の当たらない斜面もおっそろしい寒さでした。同じ町でこうも違うかとびっくりするくらいの違いでした。

 では豆蔵君ご苦労様ですが、写真よろしくお願いします。

寄り道中央線・おまけ1

2011年01月14日(金)

 中央線と言えば、東京に住んでいる私は、新宿から吉祥寺、三鷹へと延びるまっすぐな線路のイメージがまっさきに浮かびます。立川、八王子あたりまで中央線かな。そこから先は何? と言われても、とくにこれと言ったイメージはありません。

 何というイメージはありませんが狩人の歌った「あずさ2号」があるので、信州へ行く電車というイメージも持っています。それが中仙道と結びつかないのは、新宿から甲府を抜ける甲州街道と重なるルートを通っているからでした。一方、中仙道と言えば、板橋宿。私が住んでいる場所からすぐ近くです。板橋宿から高崎、軽井沢を抜けて信州へ出る道であると、知ってはいましたが、東海道のように素直にそのまま京都へと続く電車があるというふうには考えていませんでした。

 東海道線には乗り飽きたから、ちょっと寄り道で中央線を通ってみようと考えたのは、もちろん、それを勧めてくださった方がいたからですが「名古屋から中央本線」と聞いたとたんに、木曽を抜けて信州へ出る中山道のイメージが浮かんだからです。これが新宿から信州経由で名古屋へ出るという「くだり」コースだったら「寄り道にしては遠すぎるなあ」と尻込みしたかもしれません。それが名古屋から木曽川のふちを上がって行くというコースだと、がぜん、それ行ってみたいという気持ちになりました。一日で新宿まで到達はちょっときつそうだったので、どこに泊まろうかと探してみると、中仙道の関所、木曽福島がちょうど良い場所にあったというのも魅力のひとつでした。

 大阪で「東海道線には飽きたから名古屋から中央線で帰る」と言ったら「新幹線に飽きたなら近鉄に乗ればいいじゃなかい」とこれまた知合いから言われ「それもそうね」と即座に納得。近鉄に乗るために、天王寺から環状線で鶴橋に出ました。駅のホームで名古屋までの特急券を購入。ホームに滑り込んできた特急は、ひたすら生駒山を目指して走り始めました。列車が高架から地上へおりたのは「近鉄八尾」駅を通り過ぎたあたり。生駒山の裾を信貴山の裾のほうへ回り込みでしばらくすると「耳成」という駅を通過したので、ああ、奈良を走っているんだと実感。驚いたのは、そのあとで、巨大な金色の仏像の手前にまっしろなギリシャ彫刻が二対(これもかなり巨大)が並ぶという景色が見えたのです。ぎょっとしました。3体のオブジェはどれも建物の屋根よりも高いのです。家に帰ってから、ツイッターで、これはお寺と美術館のモニュメントであると教えてもらいました。近くには榊原温泉もあるそうです。だとすると、あのモニュメントを目にした時は、もう名張を過ぎて、津をめざしていた頃です。



 長いトンネルから広野原へ。だんだら模様に塗られた高い煙突が目立つ四日市をすぎると、広野原を流れるおおきな川を幾つも渡って名古屋に到着。これだけでもけっこな寄り道でした。
 近鉄の名古屋駅を出て、さてこれから目的の中央本線で特急「しなの」に乗ろうという時、見つけたのです。おやつカンパニーの「いろいろベビーラーメン」。韓国のり味とか、黒胡椒味とか、復刻ベビーラーメンとかいろいろ入った大袋で500円。安い! 買おうかな? でも大きすぎる。と迷ったあげくに買っちゃいました。というのも、おやつカンパニーは三重県の津にある会社だと知っていたからです。だから近鉄の改札を出たらもう「ベビーラーメンいろいろ」は売ってないかもしれないと考えて買っちゃいました。そして巨大ベビーラーメンをむりやりキャリーバッグに詰め込んだのでした。
 写真は巨大ベビーラーメン詰め合わせのおまけに入っていたトランプ。けっこう気に入ってます(笑)それからもうJRのホームに入っていた特急「しなの」。昼を過ぎた頃だったので、お客さんが列車に乗り込んでお弁当を食べていました。



 豆蔵君、写真、お願いします。
 あがりましたー(豆)

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