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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

水餅を作ってみた。

2011年01月12日(水)

 考えてみると川越街道沿いに住んでもう30年になります。いちばん、長く住んでいるけれども、仕事は電車に乗って都心へ出てしまうし、親戚は金沢八景を中心にした横浜市内が多いし、高校までの学校友達は千葉の館山にいる人が多いといった具合で、自分が住んでいる場所とのつながりは30年も住んでいるという積み重ねはあまりないような、こころもとなさです。

 それでも、川越街道沿いのお店は、馴染みになった家具屋さん、花屋さん、お菓子屋さんといろいろあります。布団屋さんはいつの間にか店を閉めてしまいました。去年の夏ごろ、突然、休業して心配した花屋さんには、お正月の花が賑やかに並びました。今度は家具屋さんが「しばらくお休みします」の張り紙です。誰かご病人でも出たのでしょうか? 気にかかっています。

 水餅の作り方を、お供え餅を買ったお菓子屋さんで教えてもらいました。かびてしまったお供え餅でも、きれいなお水に漬けておくと良いと。7日から大阪へ出て、帰りはちょっと寄り道で、中央線を辿って東京に戻ってきたので、お供えを水餅にしたのは10日の夜。鏡開きの日ですから、ちょうど良いといえばちょうど良いのですけど。かなり黴ていて大丈夫かな?と水に沈んだお餅を眺めていました。今朝になると、黴は水に流れてきれいになっていました。お餅は、2センチ角くらいに割れていて、これを網であぶってみたら、おいしいこと。ちょっと香ばしくって、おせんべいほどには硬くなくって、なかなかでした。

 月に2回ほど大阪へ通いだして4月になるとまる3年になります。夜の東海道線を新幹線「のぞみ」でびゅっと飛んで行って、翌日、また「のぞみ」で大急ぎで戻ってくるっていう道中にもちょっと飽きが来てました。これまでも、「行き」はともかくも、「帰り」は時間があれば京阪で京都に出たりしていたのですが、もうちょっと遠走りがしてみたくなりました。中央本線を使うことを勧めてくださった方がいて「そりゃ、いいわい」とばかり寄り道道中で大阪から帰ってきました。

 「寄り道中央線」の話はツイッターのほうでどうぞ。

本屋さんに行く

2011年01月06日(木)

 しばらく行ってなかった近所の本屋さんに行きました。電車の時刻表が欲しかったのです。以前は毎月買っていた時期もあったのですが、目的地がはっきりしている場合は、ネットの検索で充分に間に合ってしまうので、いつか時刻表を買わなくなりました。

 今年は7日の週末から大阪です。その帰りに名古屋から木曽谷を辿って中央本線に乗ってみようという気になりました。電車に乗るだけなんてときには時刻表は1冊持っているとたいへん便利です。気紛れができるから。電子ブックのようなものとか、スマートフォン、あるいは携帯を使いこなせれば時刻表もいらないのかな。そうなのかもしれませんが、気紛れに電車に乗って行くのにそんなに便利じゃなくっても不自由はしません。

 本屋さんに行ったら、NHKの「無縁社会」の本が目につきました。ずいぶん前に、社会的地位は引退したら「ただの人に戻るのが理想」って話をしてくれた弁護士さんがいました。飲んでいる時の雑談ですから、ちょっとした理想論だったのですけど、その理想論で少し引っかかるところがあったのです。仕事は仕事、私的生活は私的生活って完全に割り切っちゃったいいのかなあ?っていう疑問です。たいていの人は、自分の仕事のために多くの時間をさいているのに、その仕事から退いたら何の人間関係の財産も築けていないとしたら、それはとっても「へんちくりんな」ことなんじゃないかと、その時に感じました。

 弁護士とか政治家とか大学教授とか、そういう職業の場合は、仕事と私的生活を分割しちゃっても、あとになんらかの職業上の人のつながりという財産が残るでしょう。そういう職業の人が考える「理想」と、そうではない人々が考える「幸福」って違うんじゃないでしょうか?あえて「理想」と「幸福」っていうふうに単語を置き換えてみたんですが。どんなものなのでしょうね?お正月に息子や娘たちと話す機会があったのですけれども、人間関係の作り方に工夫がいる時代になったなあと、それぞれに感じているようでした。
 「人間は生まれるときも一人だし、死ぬときもひとりだ」ってよくそう言う言葉を耳にしたこともあります。男の人はこの文句が好きなようですが、逆に言えば一人で人の手を煩わせることなく生まれることができる人はいませんし、死ぬときは一人でも、あとの始末は誰かにしてもらわなければならないってこともあります。
 生死(いきしに)の「世話をする」とか「面倒を見る」というのは職業的な仕事として割り切れないところがいっぱいあるように思えるのですが、どんなものでしょうか?このごろ、自分の感じていることをうまく言葉にできなくって少し困っています。

 古典を読んでいると社会保障なんてない時代ですから、登場人物はみんな個人的な人間関係を築くのにそれはそれは奮闘努力しています。テレビが出来ても映画が滅びなかったように、電子末端が発達してもたぶん本はなくならないって話と、古典の登場人物が人間関係を築くのに、それはそれは奮闘努力しているのはちょっと似ているかもしれません。充分に整備された社会保障が出来たとしても、古典の登場人物のような人間関係の財産を気付く奮闘努力がいらなくなってしまうっていうわけではないのでしょう。

ありゃ。ごまめ。

2011年01月05日(水)

 鯛の塩焼きを買いたいなと、探してはみたものの、いつもの年ならぞろぞろ売っている鯛の塩焼きがありませんでした。あれは、まずいものの代表みたいに言われることもありますが、硬い身を突っついて食べるのが好きです。それから3日の夜に大根、人参、小松菜(つまりお雑煮の具ですね)で鯛の鍋をやるのも好き。鯛の骨から良い出汁がでます。

 鯛を買い損ねたから、なんとなく、お正月の買い物に気合が入らず、ちょろぎも買い忘れました。鯛と同じでちょろぎもあっちこっちで売っていれば買い忘れることもなかったんだろうって気がします。ちょろぎは娘の大好物。ってなんかヘンだけど。好きなんです。うちの娘はちょろぎが。いつも「ああ、高い」と驚く野菜類は、春の寒さ、夏の暑さ、どちらも異常なほどだったので、それほど高価とは感じませんでした。相対的なものですけど。どれより野菜が豊富に出回っていることに安堵感がありました。もっとも、小松菜などは、いつもの年よりもにょきにょきと伸びた物ばかりでした。土の温度が高くなっているので、冬の野菜や花が必要以上に丈を伸ばしてしまうとのことでした。八百屋さんや花屋さんで「植物は正直なのねえ」とため息。

 さて、さて、そんなお正月も終わりですが、戸棚に見つけました。「ごまめ」。あのごまめの歯軋りのごまめです。お正月の買物は乾物→塩干類→練り物→野菜→生もの、お花という順番でして行くのですけど、「ごまめ」は黒豆と一緒に買っておいて、すっかり忘れてました。そのまま、戸棚の中に。

 しょうがない。まだ七草のおかゆもあるし、10日は小豆粥の日だから、ごまめを作っておこうっと。

 元日に遊びに来た甥っ子が「養命酒飲みたい」って、それはお屠蘇のことでした。同じようなものですけど、おばさんちで飲んだお屠蘇を覚えてくれていたので、ちょっとうれしくなりました。

莫言さんの字

2011年01月03日(月)

 揮毫。えっと、どうしよう。というのが正直なところで、墨だの筆だのが出てくるたびに「ややや。また、出た」と困惑するのは、私だけではなく、日本の作家や詩人はかなりの人が内心困ったなあという気分を味わっているようです。絵がちゃっちゃと描ける人はうらやましい。字も駄目だけど、絵も駄目。そのうえ気の利いた文句はとっさには出てこない。と、かなりの「困ったものだ」ものであります。

 そこへ行くと中国の作家はそろいもそろって見事な字を書きます。莫言(ばくげん 中国風の読みではもーやん)さんにいたっては、右手でも左手でも、字を書くことができるのです。急ぐときは両方同時! 2008年のソウルのときにも、それを見て「どうして、そんなことができるの」と感嘆したものでした。今回も。何度見ても「はあ」と感心するばかり。

 莫言さんは中国の参加者から「モウモウ」と呼ばれてました。親しみをこめた呼び方のようです。親しみがありしかも尊敬されていることが、そばで姿を見ていてもわかりました。

謹賀新年

2011年01月02日(日)

あけましておめでとうございます。

 ウン・ヒギョンさんのしましま靴下の話を書こうと思っているうちに、年が明けてしまいました。山陰では大雪で、雪の中に車が閉じ込められたり、孤立した村があったりで、たいへんな様子です。

 北九州市での東アジア文学フォーラムの関連行事として、ウン・ヒギョンさんとは、市内の中学校へ、キム・インスクさんとは下関市の高校へお話をしに出かけました。どちらもおもしろい経験でした。

 ウン・ヒギョンさんとは2000年に青森で開かれた日韓文学者会議でご一緒したのが最初の出会いでした。それまでの韓国の女性作家とは違った雰囲気を最初に感じたのは、エレベーターの中で出会った時、お互いにカタコトの英語で「ベリー タイアッド」と、ほぼ同時に言って大笑いした時でした。で、お会いする度にだんだんスカートが短くなるウン・ヒギョンさんです。若返るっていう言葉がぴったり。でも息子さんとはだいの仲良し。腕を組んでいる後姿の写真を見せてもらいましたが、なんだか恋人どうしみたい。さて、今度はどんなファッションで現れるのだろう? と思っていたら、レセプションでは赤いストッキング、翌日はしましま靴下でした。「なるほど、そう来たか」でした。
 だってスカートはこれ以上短くはできないというところまで行っていたのですから。

 会議や宴席では、あまり個人の来歴を聞くことがないので、中学校でウン・ヒギョンさんにお話をしていただいて「30歳過ぎるまではごく平凡に生きてきて、子どもが出来てから小説を書き始めた」ということを知りました。そうか、ファッションが若返るのは、韓国社会の変化とウン・ヒギョンさんの変化が一致していたからなのかと納得。
 さすがに北九州市は韓国の釜山へのフェリーも発着している町だけあって、中学生の韓国や韓国語への関心は東京よりも高いくらいのものを感じました。「一目ぼれです」と言う文例を韓国語を覚えてきた男子生徒もいてウン・ヒギョンさんも大笑い。
 スカートの話をしたら「次にお目にかかるときにはビキニにしますね」というお返事。こういうウィットに富んだウン・ヒギョンさんだから息子さんとも仲良くやっていけるのでしょう。
最後に中学生の代表の生徒がお礼の言葉を述べてくれました。事前に用意した原稿を読むのではなく、私とウン・ヒギョンさんの話の内容を要約し、それに感想を加えてくれました。この挨拶にウン・ヒギョンさんはたいへん感心していました。

 同じ日の午後。関門海峡を渡って下関へ。関門海峡は狭いところで5キロくらいとのことで、橋を渡るときにちらりと瀬戸内海の眺めを見ることができました。高校へご一緒したのはキム・インスクさん。
 大学1年生の時から小説を書いているキム・インスクさんです。
「傲慢と言われるかもしれませんが、私は小説家になろうと思ったことはないのです。ジャーナリストになりたいと思っていました。大学の学部もそのつもりで選択しました」
 そういうキム・ヨンスクさんに私がびっくり。韓国の作家の率直さに驚かされるのは、これが初めてではありませんが、感じていることがまったく同じという人に出会ったのは初めてだったので、度肝を抜かれました。私も小説家になろうと思ったことはないのです。高校を卒業した時に自分の本を1冊作れればいいなと願望していただけです。何時だったか?たぶんまだ大学生の頃ですが、それを率直に話したら、こっぴどく叱られて、それ以来、そう言う気持ちは人前で話したことがありませんでした。思わず、率直で勇気のあるキム・ヨンスクさんの手を握り締めたくなるくらいでした。
 この学校では質問に立った生徒が美しい韓国語を喋ったので、拍手をすると
「留学生なんです」
とのお答え。韓国が近いので、高校から日本へ留学する人もいるとのことでした。やっぱり北九州それから下関は朝鮮半島を含むユーラシア大陸に近いのです。

 それにしても、以前の、つまり私が高校生や中学生だった頃には考えられないくらい、今の中学生や高校生は「話を聞いて、自分の意見を述べる」ということがうまくなりました。驚いてしまいます。感心してしまいます。

井上ひさしさんと安宇植さん

2010年12月28日(火)

 井上ひさしさんが亡くなられたのは今年4月でした。私は「ひょうたん島」を夢中になって見ていた世代です。井上さんが読売新聞に連載されていたモッキンポット師の話を読んだのは小学校だったか中学校だったか? 新聞連載というものを読み始めた最初の頃のことでした。そもその、その新聞連載を読み始めたのは、私の母が声を出して笑いながら井上さんの文章を読んでいたことに興味を持ったからでした。「ドン松五郎の生活」を連載される前のことでした。
 井上ひさしさんの芝居によく誘ってくださったのは、明治大学のときにゼミを担当していただいた生方卓先生。生方先生は井上ひさしさんの大ファンと言っていいでしょう。新作のお芝居がかかると、よく誘っていただきました。
 東アジア文学フォーラムでは、顧問をお引き受けいただき、08年にソウルへ御一緒させていただきました。

 昨日、韓国文学の翻訳家であった安宇植さんの訃報をネットで発見しました。10月にウン・ヒギョンさんの作品の翻訳のことで、教えていただきたいことがあって御連絡を差し上げたのですが、入院中とのことで、てっきりもう御元気になられているかと思い込んでいました。東アジア文学フォーラムは、1991年からの日韓文学者会議の経験があって、そのうえで運営されているフォーラムです。安宇植さんは日韓文学者会議にはたいへん力を貸して下さいました。それから韓国の優れた作家を日本へ紹介してくださったのも安宇植さんです。
 安宇植さんと、青森で、青函連絡船の埠頭を歩いたのはたぶん1999年の秋のことだったのではないかと、頭の中で指折り数えてみました。翌年の2000年に青森で、日韓文学者会議を開催するために、青森に打ち合わせに行ったときのことです。晩秋の良く晴れた午後でした。海が群青色、空は瑠璃色。いずれも北国特有の冴え冴えとした色をしていました。

 井上ひさしさんと安宇植さんのご冥福をお祈りいたします。

門司港ホテル

2010年12月17日(金)

 北九州では雪が降ったそうです。東アジア文学フォーラムの会期中のぽかぽか陽気がうそみたいな寒さになりました。

 フォーラム参加者は門司港にある門司港ホテルに宿泊しました。設計者はアルド・ロッシです。リンク先に門司港ホテルの設計についての記事と夜景の写真があります。


 写真は駅に向いている正面玄関です。港のほうは、鮫をイメージした設計だとのことです。私はこのホテルの窓の作りが気に入っています。やや大きめの四角い窓が左右に開きます。窓枠は水色に塗られていて、その窓に緑色のカウンターテーブルが作りつけになっています。窓から一日中でも港や海を見ていることができるような作りです。そして、そのちょっと大きめの窓は海を見るための額縁の役割を果たしているのでした。水色と緑の組み合わせは、日々刻々と変化する海の色を、どんな時刻のどんな色合いにも美しく見せる効果を持っています。

 私は9階に宿泊していましたが、9階エレベーターホールの窓の向こうに群青色に澄んだ朝の海を見たときははっと胸を突かれたものでした。

 豆蔵君、すみません。またリンクをお願いします。

中国と韓国の現代文学撰集

2010年12月01日(水)

 トップページで紹介した『中国現代文学撰集 イリーナの帽子』と『韓国現代文学撰集 いまは静かな時』の新刊案内が版元のトランスビューのHPに出ました。


【新刊のご案内1】12月1日発送開始『イリーナの帽子 中国現代文学選集』東アジア文学フォーラム日本委員会・編 本体2000円 5つの短編、1つのエッセイ、1つの詩篇を、作家別6分冊に収め、解説冊子を付す。

【新刊のご案内2】12月1日発送開始『いまは静かな時 韓国現代文学選集』東アジア文学フォーラム日本委員会・編 本体2800円  韓国の代表的現代作家の自選作品集。10の短篇と1つの詩篇を、作家別10分冊に収め、解説冊子を付す

 中国は6分冊、韓国は10分冊がひとつの箱に収まるという装丁です。1作家1作品。それぞれ小冊子になっていますから、持ち歩くいて読むのにも便利です。また分冊単位の販売もトランスビューに直接申し込めば可能だとのことです。ただし、解説冊子は分売不可。中国は島田雅彦さんが、韓国は私が解説を書いています。

 新しいスタイルの本のデザイナーは須山悠里さん。
 こちらに須山さんのHPがあります。

 須山さんには中国と韓国の現代文学撰集のデザインだけではなく東アジア文学フォーラム in 北九州のチラシ、ポスター、プログラム、資料集、朗読会テキストなど全てを関連性と統一性のあるデザインにしてもらいました。ちょっとたいへんだったみたいです。須山さんの日記を読むとそれが解って恐縮。

 ポスターから始まり撰集までデザインの統一性を持たせるという態度も、撰集を小冊子の分冊にするというアイディアももとは詩人の平出隆さんが提案したものです。全体がそれぞれの個性を主張しながら、バランスの良いハーモニーになっているというデザインになっています。

 あとで豆蔵君に写真を入れてもらうつもりです。豆蔵君、師走に入って忙しいでしょうけれども、どうぞよろしく。あと、アドレスにリンクを貼ってもらえるとうれしいんだけどなあ。

 へぇーい。(豆)

このごろ食べた物。

2010年11月30日(火)

 大阪で伊藤比呂美さんと話していて「生ワインを飲んだ」と言ったら「それなんで書かないの」と言われてしまいました。

 食べる物の話を書くとき、いつも、頭をよぎることがひとつあります。それは、有名な輸入食品を扱うお店のPR誌に原稿を書いたときのことです。まだ原稿は原稿用紙に手書きの時代で、出来上がった原稿を家まで取りに来てもらっていたころです。PR誌の原稿をとりきてくれたのは年配の女性の編集者でした。あれこれと話込むうちに
「私、ほんとうは食べ物の話が嫌いなんです」
と打ち明けられました。オリジナルな缶詰や瓶詰め、それからジャムなどで有名なお店ですから、これにはちょっとびっくり。でも、食べる物の話はやたらにするものではないという戒め、今の言葉で言えば教育があったのを、その人とお話しているうちに思い出しました。
食べ物の話は下品だという教育がある時代までは、それほど古い昔ではなく、存在していました。今でも、そういうお家はあるようです。
 
 「食べ物の話は一番安全な話題なんだよ」と、これはもう、まったく逆の話になりますが、こういう知恵を授けてくれたのは吉行淳之介さんでした。私の家もどちらかといえば食べ物に「あれこれ言ってはいけない」「好き嫌いと言ってはいけない」「あれが食べたいこれが食べたいなどと言ってはいけない」という家でしたから、吉行さんの話を「へえ、そういうものか」と聞いたのでした。吉行さんの言う安全な話題というのは「政治」や「経済」や「宗教」などの意見が対立しやすい話題にくらべれば「食物」の話題は安全で、その場にいる人がみんな楽しめると、そういうことだったのでしょう。
 吉行さんの授けてくれた知恵は、いろいろな立場の人と社交的におつきあいしなければいけない男の人の感覚。それにたいして「食物のことをあれこれ言うな」はお台所を預かる女の人の感覚。そんな感じなのでしょうか。

 で、生ワイン。葡萄の実が入ったままのワインをその場で絞ってもらって飲みます。最初は白濁しているけれども、みるみるうちに透明になって行きます。母とドイツを旅行した時、ロマンチック街道にあったワイン・カーブで飲んでいらいの生ワインでした。最初は葡萄ジュースのようなさわやかな味。それからだんだんお酒らしさが舌の上を転がりだすのです。

 伊藤さんたちとてっちりと串カツ。これは伊藤さんのコラムにあるとおり。フグはやっぱり大阪がおいしい。ワニの串揚げもちょっぴり食べさせてもらいました。弾力のある豚肉のような感じ。このごろ食べた物です。

このごろ、会った人、このごろした雑談

2010年11月29日(月)

 11月21日にフォーラム神保町の世話人会で、元外交官の佐藤優さんと雑談しました。ロシア大統領の北方領土訪問を巡って、外務官僚の対応がたかを括ったものであったことなど、聞いているとなんとなく清朝末期の宦官みたいな感じだなあと私の感想。それから、「龍馬伝」と「坂の上の雲」が人気なのはその間の日清戦争の頃と状況がよく似ていることなどが話題に出ました。佐藤さんは日露戦争と言っていましたが、幕末と日露戦争の間なら日清戦争かなと、勝手に解釈。もっとも「坂の上の雲」は日清戦争も描いていますから、正確に言えば幕末と日清戦争の間に状況が似ているということになります。
 とは言え、清朝末期の宦官のような役人がいるのが日本で、国を挙げて「坂の上の雲」を仰いでいるのが、中国では、100年前と攻守が逆転しています。この雑談、ちょっと気になっていました。それで、あとから思い出したのですが、今年の2月頃、ちょっと怪しい人物に会った時、この人はなにかのブローカーのような仕事をしているらしい日本人なのですが、しきりに「大清帝国の再来」ということを言っていたのです。自分の考えたというよりも、誰かの受け売りをしているようで、いったい何を言っているんだろうと、受け流してしまいましたが、佐藤さんと雑談しているうちに、誰かが「大清帝国の再来」なんていうことをイメージしていること自体が、何事かであるという気がしてきました。

 最初にフォーラム神保町の世話人会の日付を入れたのは、11月23日に韓国の延坪島が北朝鮮から砲撃される以前の雑談だったことを示しておきたかったからです。私の身の回りでは、この件に関してはたいていの人の口は重くなっています。雑談の種にするには、深刻過ぎる事態が進行していますから。ソウルの姜英淑さんからは「ぜんぜん問題ない。。。話したい。。。よくわからない」というツイッターでのお返事を11月25日にもらいました。ソウルはいつもどおりに、日々の仕事に忙しく過ごしているのでしょう。私も姜英淑さんとはぜひお会いして、お話がしたいと思っています。こんな「わからない」要素がある時は、会って話すのが一番良いのですから。現在、行われている米韓の海上演習が終わる12月1日になれば、もう少し何か感触が判ってくるかもしれないと、考えています。でも、私の耳には首を傾げて「わからない」と小さく呟く姜英淑さんの声が聞こえています。

 11月27日。大阪の新世界で久しぶりに大阪女性文学者協会の尾川さん、それから伊藤比呂美さん、それに伊藤さんのお友達と「てっちり」を楽しみました。伊藤さんはなぜか「新世界」を「新天地」と間違えるのです。まあ、アメリカに行ったり来たりしている伊藤さんにすれば「新世界」はすなわち「新天地」でしょうから。山形で食べた洋ナシのラ・フランスを「おふらんす」と間違って伊藤さんが覚えたときも、確かになんとなく「おふらんす」って感じがするなあと思ったものですが。伊藤さんから「豆の葉」をぜんぜん書かないじゃんって叱られました。確かに律儀に書いているのは伊藤さんばかり。それから私がツイッターのハッシュ・タグの「#kobuta3」を「#kobura3」とやっちゃった時、「コ、コ、コブラになっています」と至急報で教えてくれたGo-toさんは伊藤さんのお友達で、今度、新世界で初めてお会いしました。初対面でしたが、「コブラのGo-toです」って、すぐに解りました。(笑)みんなで屈託なく雑談したり、笑い話したりできる世の中ってしあわせです。

 私(中沢)、平田俊子、伊藤比呂美の3人のリスト「三匹の子豚」は「豆の葉」の左のリンクから見ることができます。また「三匹の子豚」のハッシュ・タグは
   #kobuta3
 です。今朝ほど豆蔵君にハッシュ・タグの登録をしてもらいました。もっとも伊藤さんはまだハッシュ・タグの演習中であります。

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