地震関連4 もろもろ
2011年03月14日(月)
娘から聞いた話ですが、船橋あたりでは陥没や液状化で、倉庫から品物を出庫できないところがあるそうです。それで物流の滞りがおきているようです。
伊藤比呂美さんは無事に熊本到着。電話でお話をしました。
フランスに住んでいる知人から電話をもらいました。フランスでも大きく報道されている様子です。
近所の米屋さんに買物に行きました。お米の配達などが中心のお店で、買物のお客さんは少ないお店ですが、今日はレジに行列ができていました。20年ほど前の年末の買出しの光景を見るかのようでした。
12日に知人からもらったメールでは。上智大学のイグナチオ教会の十字架が折れて落ちていたとのこと。法政大学の校舎にも被害が出ているようです。
地震の被害が大きかった茨城、千葉、それから東京、神奈川、埼玉などの情報がひどく不足しています。
地震関連3 法政の学生の皆さん、情報収集しています。
2011年03月14日(月)
法政大学の昼ゼミ、夜ゼミ、4年生、大学院生の皆さん。
御無事かどうか確認のメールを出しました。メールが開けない人のためにここに書き込みします。
「みなさん御無事でしょうか? 学校行事については法政大学のHPを注意してみてください。またどなたか学生の被害情報をお持ちでしたらお知らせ下さい。無事な人の私宛に御一報下さい」
今のところ、御返事を下さった皆さんは全員無事です。
地震関連2 そのほかもろもろ
2011年03月14日(月)
法政大学のキャンパスは3月19日まで入構禁止になりました。詳しいことは法政大学のHPでご覧下さい。それから地震に関係した学生、職員の情報を求めています。これについても法政大学のHPで確認して下さい。
米屋さんに灯油とお米とお水を注文した。灯油とお米については問題なし。お水はもう売り切れたとのことだったが、たまたま、午後の入荷があり、都合をつけてもらった。(午後3時40分)
伊藤比呂美さんは今朝無事に成田に到着されたようです。朝早い時間にメールをくれたのですが、あいにく私は寝入ってました。
伊藤さんによると飛行機の中で、被災地へ行くというNGOのお医者さんとご一緒だったとのこと。ただ、こうした人が日本のどの行政機関に連絡をして、どこへいったらよいのか皆目わからないとのことでした。厚生労働省へ連絡をしたら、外務省へと言われ、外務省は、らちがあかない対応だったとのこと。 伊藤さんには総務省へ連絡をしてみてはどうかというメールを出しておきましたが、今のところ、そのあとの連絡はありません。
おそらく、国内、国外のボランティアなどの受付窓口はまだ設置されていない状態なのではないかと思います。もし、もう設置されていることをご存知の方がいましたら、御教示下さい。よろしくお願いします。
茨城県もかなり大きな被害が出ています。ゼミの卒業生がmixiに書き込んでいる様子を見ていると、家はめちゃくちゃだとのことでした。水戸駅も相当な被害が出ているらしい様子。常磐線沿線の被害もかなりだとのことでした。東北の被害が大きいのですが、茨城県のダメージもそうとうなようです。 千葉県の館山では布良で1メートル60センチの津波を記録したけれども、被害はないと、これはツイートをしている私の同級生が教えてくれました。どうもありがとう。被害がなかったこと、ほんとうに安心しました。「でもうちのお墓は崩れてるかも」って娘が言ってました。お墓はそんなに急がなくっても文句は言わないでしょうから、近々に様子を見に行くことにします。 外房の旭町では津波で亡くなった人も10人ほどいる様子です。コスモ石油の火災と津波の被害が千葉で出ているくらいですから茨城の惨状が想像されます。茨城の皆さん、どうぞ、がんばってください。くれぐれもお疲れが積もらないように。まずは御自分のお身体大事でお過ごし下さい。
アマゾンでも被害が出たみたいで、荷物の配達が遅れるという表示がトップページに出ていました。地震で、すっかり自分の本の見本が出る日だということを忘れていましたが、ちょっと前に河出書房新社の小池さんから電話をいただいて、思い出しました。「書評 時評 本の話」は品薄だそうです。もっとも、これは地震とは関係なし。もともと部数が少ないのです。
11日の地震直後に神田から成増の自宅に向けて歩き出し7時間かけて家に帰り着いた娘は、土日をテレビの前でぐったりした顔で過ごしていました。もう大の大人なのですけど、ぐったりしていると、赤ちゃんの頃の幸福が戻ってきているみたいな気になって、二人でおにぎりをつくったり、お茶を入れたりして、のんびり過ごしました。もっともその間も、けっこう余震でがたがた揺れていたのですが、なんだかミスマッチな気分の、長閑な休日でした。今朝は、お弁当を水を持って出勤しました。息子は時々、様子を知るために電話をしてきてくれます。
mixiやHPでお役にたつことがあればお引き受けします。お問い合わせフォームからメールを下さい。
地震関連のお知らせ
2011年03月13日(日)
しばらくここを地震関連のお知らせに使おうと思います。なにか連絡の仲介を求める方はメールを下さい。とくに法政大学の学生諸君、何か御用があれば、お知らせ下さい。
まず、法政大学市ヶ谷キャンパスでも校舎に一部、地震の被害が出ている模様です。詳しいことは、明日(3月14日)に学校から連絡があるとのことでした。様子がわかりましたら、またお知らせします。
仙台のいらっしゃった尾谷先生はご家族ともに御無事だとのことでした。電気は使えるようになったそうですが、水道、ガスなどはまた使えないと昨日お知らせをいただきました。
うれしいお知らせをひとつ。昼ゼミ根本君が東京藝術大学に合格されたとのことです。おめでとう!
卒業文集作成はいささかの遅れが出ていますが、進んでいます。進行については御世話をしてくださっている路川さん、原田さんからのメーリングリストの連絡に注意して下さい。
そのほか、私でお役にたつことがあれば、お役にたちたいと思っています。お問い合わせフォームから御連絡を下さい。
ツイッターを使うことはしばらく控えますので、定期的にmixiの日記、および「豆の葉」を覗いていただければ幸いです。法政大学の学生以外の方でも、お役に立てることがあれば、おちからになりたいと思いますので御連絡をどうぞ。
そういうわけで、伊藤さん、無事に成田御到着をお祈りしています。関東地方はM7くらいの余震が予想されていますのでくれぐれもお気をつけて。
管理人の豆蔵君、そういうわけです。もろもろよろしくお願いします。
北アフリカと中東が気になる
2011年03月05日(土)
今はもう大昔。大学の教室に座っていた頃、東西冷戦をどう解消して行くのかという講義を受けました。そのなかで、ソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、アメリカの価値感を学ぶだけでなく、幅広く身につけてもらうという政策がありました。1970年代後半のこと。ああ、なんて自信に満ち溢れた政策をとるのだろうと、講義を聴いていました。ベルリンの壁が崩壊するよりも10年も前の話です。ソビエトの崩壊なんてまだ誰も考えていませんでした。明治大学を囲む塀には左翼セクトのたて看板がびっしり並んでいましたし、同級生がセクトの領袖を間違えられて学内でぼこぼこに殴られ、血だらけになるなんていう事件もありました。終戦後の日本の学生もアメリカは留学生として受け入れました。私の身近にもフルブライト留学生だったという人がいました。
江藤淳が本多秋五と「無条件降伏論争」を群像の誌上で始めたのは1978年の5月号もしくは6月号だったと思います。これは群像のバック・ナンバーを調べれば解るのですが、それより、私が新人賞と取ったときの群像なので、そういう記憶をしているのです。「なんだろう、これは?」と首を傾げながらも真剣に読んだものでした。論争は大学の一年生が理解するには複雑過ぎるものでした。
30年後の智恵で江藤淳の主張を簡略に要約するとアメリカが占領政策として持ち込んだ価値感に、縛られすぎていないかというのが主張の骨子になっていたと私は思います。このことについて秋山駿さんとお話したときに「江藤さんはああ言うけれども、アメリカに無理矢理にというより、自分たちでそれがいいと思ったとこもあるんだよ」と言ってました。秋山さんの言うのも事実。江藤さんの指摘と発見も事実だと、私は考えています。折衷的な考えというよりも最初にソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、価値感を体験体得してもらうというような政策をとるのですから、誘導と自主的な価値の獲とくの両面が現れるのは当然のことでしょう。江藤淳が「無条件降伏論争」に発展する指摘を始めた背景には、第二次世界大戦の経験をどう文学作品化するかというテーマがあったはずですが、これについてはもう少しよく研究してみたいと考えています。そして、「戦争は犯罪か?」という主題の提示があったことはよく記憶しています。
「勝てば官軍」「負ければ賊」と、戦争は勝敗によって優劣が決まり、優劣が決まることによって、正当性は勝ったほうに付与されるというのは、これまでの歴史の中で繰り返されたことです。が、勝ったほうが道徳的に善であり、負けたほうが道徳的な悪であるというようなことはないはずだという主張はなるほどなあと耳を傾けたくなりました。アメリカは戦争に道徳を持ち込んだのだと、これも江藤淳の主張にあったことでした。江藤淳は昭和53年の「無条件降伏論争」以降、アメリカの占領政策の実証的な研究を始めます。江藤淳「閉ざされた言語空間」には占領軍としてのアメリカが日本人の私信を検閲していたことなども資料をもとに描かれてました。考えてみるとアメリカも外国(日本ですが)を占領するのは初めてだったわけで、ずいぶんと慎重な政策をとった様子が「閉ざされた言語空間」から読み取ることができます。おそらくこの占領政策はアメリカが外国へかかわる時のひとつの原型的な経験になっているのでしょう。
北アフリカのチュニジアで起きた民主化運動と政権転覆は、ソーシャルネットワークによる市民革命と当初は報じられてました。当初の報道に接して私が感じたのは「ああ、30年前の江藤淳の指摘」と同じことが北アフリカで進行しているのではないかという疑念でした。単純に「革命は善」「民主化は善」という報道に対する反発も感じました。エジプトに飛び火すると、背景にあるアメリカのネット関連会社の姿がちらりと見えました。このあたりの感じ方は「ツイッター200日」に書いたとおりです。それからリビアの騒乱へ。
リビアは内戦状態へ向かいつつある様子が報道されています。カダフィ大佐は国際刑事裁判所が捜査を始めています。「武器を持たない市民対圧制者と」という構図なら圧制者が「犯罪者」として指弾されることに違和感を感じませんが、リビアの場合はほんとうのところ何が起きているのか、報道だけでは解りません。それから江藤淳の問題提起である「戦争は犯罪なのか」ということにも、それほど明確な答えや、衆知を集めた議論の成熟があるとは思えません。武器を持たない市民を大量に虐殺するのは、犯罪だといわれれば、頷けるところもあるのですが、では原爆を日本へ投下したアメリカはそれを犯罪だと考えているのでしょうか? 東京、名古屋、大阪など主要都市の非戦闘員を空襲で焼死させたのは「犯罪」に問われることはないのでしょうか?朝鮮半島で行われた戦闘については? インドシナ半島に散布された枯葉剤については? 湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾は?と連ねて行けばきりがないのです。国際刑事裁判所規定起草に、アメリカは深くかかわりましたが、後に批准を回避しました。政治的に利用されるという理由です。 アメリカが悪いといいたいわけではありません。「戦争に犯罪という構図を持ち込んでよいのか」と疑念があると思っているだけなのです。日本の右翼が主張するような「日本は悪くなかった」と自国の正当化のためにそれを主張するのではなく、価値感の異なった国家が衝突した場合に「負けた国」の弁護ができるような、そういう歴史的経験の感覚を開いて欲しいなあと、そんなことを夢想しています。リビアのような内乱、内戦状態の場合は一方的にどちらかを悪と決めるけることが内政干渉にならないのか? という疑問も持っています。ちょっと短絡的な言い方をすれば、北アフリカから中東で起きていることは、戦後日本で起きたことの、より複雑に発展させながら反復しているように見えているのです。ソーシャルネットワークが出来て、例えば占領軍が私信の検閲を目立たないようにやったという世論操作は、さらにやりやすくなっているのではないでしょうか。しかも、それをやるのが政府というような公的な組織ではなく、クラウド・コンピュターを持っている私企業でも可能だというところが、新しい要素です。企業は国家と違ってインターナショナルな組織、つまりグローバルな組織も作ることができますし、国家のように議会に縛られることもありません。リビアの内戦状態で、カダフィタ大佐が政治的信頼を失ったために「刑事」責任を問われることはあっても、シリコン・バレーの誰かが騒乱を引き起こした責任を問われることは、おそらくありません。江藤淳の「わすれたこと わすれさせられたこと」を読み返してみたくなりましたが、アマゾンの中古では文春文庫で3,500円もの値がついていました。
安宇植さんを偲ぶ会
2011年03月04日(金)
先週の土曜日に安宇植さんを偲ぶ会がありました。スピーチをしろとのことでしたので、ちょっとお話をしました。で、「安宇植さん」と言うべきところをついうっかり「安宇植先生」と呼んでしまう場面が何度かありました。いつか、伊藤さんとのそのことを話し合ったことがあるのですが「文学者は先生という呼称をつかうべきではない」って教育されたのです。私や伊藤さんは。
なぜ「先生」を使うべきではないのかは諸説あります。おもしろい説もあるのですが、それはまたなにか機会があった時に。今回は話を早くするために、いちばんの公式見解を御紹介しておきます。 それは文学ではみんなが対等な立場に立つ必要があるからってことと、文学は人から教えてもらうものではなくって、自分から生み出すものだからだっていう理由だそうです。話が横へ飛びますが鎌倉文学館でやっていた「川端康成と三島由紀夫」展を見に行ったら、「川端は三島に川端さんと呼ぶことを許した〜うんぬん」というような説明があって、思わず「なに言っているんだ!」と怒りすら感じてしまいました。うっかり「先生」なんて呼んだら、どのくらい怒られるか解ったものじゃないってのが、文学者の世界だったのです。三島が川端に出合ったのは昭和20年頃ですが、その頃はもうそういう雰囲気はあったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか?
尾崎紅葉の硯友社のような師匠のところに弟子入りするという徒弟の時代は、先輩作家を「先生」と呼ぶのが当たり前で、それが同人誌の時代になると、「先生」と呼ばなくなるという歴史がありそうです。ことに「白樺派」の流れと志賀直哉の流れを汲む人は、絶対に「先生」と呼ばせないという傾向がありました。誰か物好きな人がいたら歴史を調べてもらいたいものです。まあ、そんななので三島が川端に出合った頃には、「先生と呼ぶな」という習慣はもう出来上がっていたのではないかと考えたわけです。
吉行淳之介に初めてあったときも、私の本が出たお祝いに銀座のレンガ屋によんでくれたのですが編集者から「ぜったいに吉行先生と呼んではダメだよ。吉行さんと言いなさい」と耳打ちされて、それでも「吉行さん」とは発音できないので、いかに主語を抜いてしゃべるかで、えらい苦労をしました。きっと伊藤さんも、それに近い経験を持っているので、高校生が私や伊藤さんを「先生」と呼ぶことを止めようかどうか迷ったのだと思います。それから幾星霜。私はこのごろは「先生」とわりに楽に使うようになっています。学校では「先生」でいいやって思っています。文学者が「先生」を使わなくなったのは、徒弟から同人への変化などの歴史がありそうなのですが、それをまったく無視して、偉そうに「先生と呼ぶな」と怒ったエライ・センセを何人も見てきたからというのがひとつの理由です。あと、学校では顔を名前が一致しない「先生」がたくさんいて、この時は「先生」は便利な呼び方です。謙虚な、あるいは、真摯な理由から始った習慣も、その精神が失われて形骸化すると形無しになってしまいます。
この習慣はわりあいに広がっていて、私が勤務する法政大学文学部日文科でも、教員と学生は相互に「さん」と呼び合うという伝統があります。小田切秀雄教室ではそれが徹底されていた様子を聞いています。まあ、でもそういう伝統も意義が見失われると、気安く「さん」付けになる場合もあれば、「ちゃん」になることもあり、形骸化というのは、どこにでも起きる現象のようです。そうは感じていても今でも私は学生に「先生」と呼ばれると小説家として軽んじられているという不快感をちらっと感じたりします。学生にあんまり気難しいことを言ってエライ・エンセになるよりも、自分の不快感を胃薬みたいに飲み込んでしまうほうを選びますが。
安宇植さんは実に闊達な精神の持ち主で、先生と呼ばれることはお嫌いでした。東京の両国の生まれ。お祖父さんの代から両国にお住まいで「江戸っ子の朝鮮人」を自ら任じていました。そういう安宇植さんをうっかり「先生」なんて呼んだら、たいへんご機嫌を損じてしまうのではないかと想像されるのですが、でも口から「安宇植先生」という言葉が飛び出してしまいました。と言うのも、90年代の初め頃から、韓国に政治的イシューに縛られない叙情性を持った作家が次々と現れていることを教えてくださったのは安宇植さんだったからです。知識や情報として教えてくださったという側面もあるのですが、それ以上に、日頃の態度というか、言葉にしては言い難いところで教えていただいたという想いがあります。青森で廃止された連絡船の発着埠頭を黙って歩いたときのことは「偲ぶ会」でもちらりとお話しました。海も青く、空も青く、どちらにも溶け込めずにとぼとぼと歩きました。安宇植さんは海の向こう、空の向こうを眺めながら歩いていたのでした。韓国の女性作家呉貞姫さんと、和やかにお話していた姿も忘れられません。何と言うことのないよもやま話です。沈黙と雑談。そこから教えてもらったことは限りがありません。だから、自然に「先生」と呼びたくなるのです。
ほんとうは故人の御冥福をお祈りしなければならないのが生きる者の役割ですが、私も一度は救急車で運ばれていますから、幽明の境界はもう淡くなったものとして、時々、安宇植先生のまたお散歩のお供をしたいものです。もうきっと「先生」とお呼びしても「うん、先に生きてたからね」と笑ってくださるような気がしてます。「先生」と言う呼び方に、こんなこだわりを持つのも、伊藤さんや私が最後のほうなのかもしれません。そう思いませんか?安先生。
ツイッター200日
2011年03月01日(火)
ツイッターを始めて200日。いや、正確には201日目になった。なかなかおもしろい遊び道具であることは間違いない。個人で持てる小さなラジオ局みたいな感じだし、出入り自由なコミニケーション・サークルを作るのにも向いている。
で、この200日にあったことで、思い出すことを並べてみる。 最初は海上保安庁の尖閣諸島映像流出事件。ツイッターで動画が流されていることを知った。で、たぶんそのあとだと思うけど、ツイッターが不調になって、総務省までが出張ってきたということがあった。ツイッターのようなシステムは一見自由に見えるけれども、情報操作がしやすいことは、ツイッターが登場するずっと以前に話題になっていた。で、システムに異常が出たのはそのためじゃないのかと聞くと、たいていの人は「ツイッターは動作が不安定だから」という答え。確かにふだんでも、キャパシティ・オーバーの「鯨」がよく表示されるので、そうした日常的な不調なのかもしれない。
お次はなんだっけ? あ〜これは何だろう? と思うことが何度かあったが、印象だけ残っていて、事柄は記憶していない。北朝鮮が韓国の島を砲撃した時もちょうどツイッターをいじっていた。その時もなにか「あれ?」と思うような動作があったような、なかったような。
年が明けてから、チュニジアが不安定になっているというニュースがタイムラインに出てきて「あれっ」と思っているうちに、あれよあれよでジャスミン革命だってと、正直な感想としては「これはなんか胡散臭いなあ」というものだった。あまりにもスムーズに行過ぎている。ソーシャルネットワークによる市民革命というのが、なんだか簡単すぎる感じがした。ちょうど映画「フェイスブック」が話題になっていたし。 私の頭に浮かんでいたのは、ちょうど2年前のグーグルによる大学図書館の書籍のテキスト化計画と、それにともなう著作権者の権利問題、それから1年前の電子籍騒動というか、電子末端デバイスの売り出しの騒ぎなどと「流れ」が似ている気がした。最初は「理想とビジネスが肩を組んで」現れる。それから、実際の現場が戸惑いの声をあげたり、ことが理想的には進まないことがわかって、右往左往と言う流れ。あ〜、似ているなあと思っていたら、エジプトでムバラク政権が倒れると、これは素直には行かなくって、すったもんだ。グーグル社が電話回線でネットを利用できるように計らったり、ハッカーグループが登場したりと、なんだか舞台裏がちらりと見えるような、感触もあり。
この件に私が興味を持つのは、私がデビューした年1978年の群像6月号で、江藤淳と本多秋五による「無条件降伏論争」があったからだ。すご〜く大雑把に言えば、占領軍であるアメリカによる言論統制と世論誘導がどのくらい無意識に日本人の言語活動の中に入り込んでいるかを問いかける論争だったわけで。幾つもの文学論争と同じように、この論争も決着はついていないのだが、江藤淳が指摘した側面は、ネットの登場で、さらに進化し、巧妙になり、強行になっているのではないかと考えられるから、どうしても興味を持ってしまう。
反政府運動はエジプトから北アフリカ、中東全域に広がりを見せている。緊張する状態の中で、情報がどう伝わるのかは、ツイッターは、新聞、テレビ、ラジオにはない速度で、その事態を刻々と伝えてくるので、釘付けになってしまう。それにしても、誰が何をたくらんで仕掛けたのかは知らないけれども、北アフリカと中東を巻き込む騒乱状態を「指先の運動」で作り出してしまうなんて、こんな「けしからんことはない」という腹立ちがあった。そうこうするうちにリビアが内戦状態に入る。アラビア半島でも騒乱の気配はくすぶっている。
なぜか、北アフリカと中東について揶揄したツイートが消えた。で、「消えた」とツイートすると元のツイートも戻って表示された。北朝鮮で住民蜂起があったというニュースをツイートしようとすると、これができない。「これができない」とツイートしてみるとフォロワーの人から「雲のみえざる手」という御返事が。なるほどねえと頷くことしきり。記憶している限り、政治的なコメント以外は、あまり理解できないへんな動作はなかったように思える。
これが私のツイッター200日。
やわらかい言葉がほしいなぁ。
2011年02月16日(水)
ゲマインシャフトとゲゼルシャフトというドイツ語を30年前の大学の教室で教わりました。大学の1年生でした。へえ、そんな単語があるんだ、そんな単語で世の中の移り変わりを説明するんだと感心。ゲマインシャフトは日本語に訳せば共同体で、血縁、地縁、それから友情などで繋がっている集団。ゲゼルシャフトは利害関係、協同関係などで繋がっている集団。日本語の訳としては共同体もしくは協同体を使うこともあるのですが、社会という訳を当てる場合もあるらしいです。
英語だとゲマインシャフトの共同体はコミュニティ。ゲゼルシャフトの社会はソサエティということになるらしい。共同体は家族、村落、親睦団体、などがそれに当たり、社会のほうは学校、会社、目的を持った組織などの集団をさすと、たぶん、30年前に教えてもらったことを思い出しながら、説明するとそんなことになります。今の日本語では社会という言葉は、ゲゼルシャフトよりずっと意味を広げて使っているので、少しヘンな気のする人もいるかなと言う気がしますが、共同体との区別のために意味を狭めて使っているのだと思ってください。
それで30年前の大学の階段教室で教えてもらったことと言えば、世の中は共同体から社会へと変化して行くということでした。さて、ここからは私の考えたこと。共同体は感情の繋がりで出来ているからうっとうしい。社会は目的を持った繋がりで出来ているからすっきりしていて、素敵だ! 家族から離れて東京で一人暮らしを始めたばかりでしたから、なおさら、そう思いました。人目がうるさい田舎より(ゲマインシャフト)東京(ゲゼルシャフト)のほうがずっと生きやすいやって。
教室に座ってそんなことを考えていたのと同じ頃、30年後にミイラになって発見されて大騒ぎになるお爺さんが息を引き取っていたなんて、想像もしませんでした。事件はゆっくり進行していたのです。隣近所という共同体の力が弱くなっていなければ、起こり得ない事件です。それから、同じ30年前に、新興宗教の団体が、若い女性を集めて共同生活をして、親が娘を取り戻そうとするという事件? が幾つかありました。オウム真理教事件など起こるずっと前です。伝統的な血縁や地縁ではなく、意思を持って集団に入った人で構成されるコミュニティと、そこでの暮らしは、なかなか小説に書きにくいという話を担当編集者と交わしたのも、よく覚えています。「書いている人はいるんですけど、これが作品としてうまく行ってなくって」と担当編集者が教えてくれました。これはあとになると、現実の体験に取材した小説ではなくって、観念的に虚構を組み立てた小説となって描かれるようになります。現実の体験のほうは、ノンフィクションが、その表現を引き受けてゆくことになります。
目的がはっきりした団体ではなく、人間存在をまるごと受け入れてくれる団体。つまりコミュニティを欲するっていう意欲や望みは、「東京っていいなぁ」と大学の教室にぼんやり座っていた頃にすでに、ある種の事件として現れていました。また、自然食運動などの市民運動的な要素のあるものとしても現れていました。どういうわけか、ソサエティは社会という訳語が定着し、しかもその訳語はかなり広範な意味に使われていますけれども、コミュニティは現在もなおカタカナ語のままで、共同体という訳語は意識的に使うことがあってもなんだかむずがゆい感じがします。なぜなのだろう?
こんなことを思い出し思い出し、考えているのは無縁社会という言葉が出てきたためです。親族の遺体をともにひっそりと暮らしている人、30代の働き盛りなのに自宅で餓死した男性。人の生き死ににかかわる事件が社会的関心を集めているなかで、それは人事じゃないなあという体験を積み上げてきたからです。孤独死ということも、身近な出来事として起きています。脳梗塞の発作を起こして携帯電話を握り締めたまま息絶えていた高校の同級生もいたそうです。それを話してくれたのは、同じ脳梗塞の発作を起こして、ちゃんと携帯で119番できた同級生でした。
さてと、大昔の教室の記憶から、この話を掘り起こしたのは「人間はひとりで生まれてひとりで死ぬのだから無縁を恐れることはない」とか「無縁で死ぬ覚悟をすればいい」という意見を聞いて考えたことを書きたかったからです。たぶん、そういう発言はゲゼルシャフトな共同体で形成された場所で生きるための、最低限必要な心構えについて話しているのだと、そう思ったのです。ただ、言葉が硬くって惨い。惨いだけではなく、そこからなにかが失われて行くのです。直感的な喩えで言えば、「無縁でけっこう」と言ったとたんに、小さな穴があいて魂がぽたぽたっとゆるくもれて行くような感じです。
無縁社会という社会問題は、感情の問題と社会システムの問題というふうに一度は分けて考える必要があります。で、社会システムの問題は社会科学の言葉で考えてゆくことができるでしょう。しかし、感情の問題は、感情の言葉で、ゆっくり考えていかないと、何か間違うというか、必要のない悲惨さに墜ち込みそうな不安があります。やわらかい言葉がほしいなあ。歌になったり詩になったりするような、やわらかくって柔軟で、説明がいらないけれども、あんまり俗っぽくない言葉がほしいなあと考えています。壺井栄は「母のない子と子のない母」とをどんな言葉で書いていたのかしら? 今、手元に本がないので、読み返すことはできないのですが、あの小説は戦争の悲惨とその慰めを書いたものという思い込みで読んでしまいましたが(しかも中学生の時に)今のような、人の繋がりが薄くならざる終えないような時代の物語として読んだらどんなふうに読めるのでしょうか?読み返してみたいものです。
私個人は20代の半ばに母親の介護をしていた時に、口に出してはいいませんでしたが「無縁で死ぬのだな」と内心納得していました。で、「無縁で死ぬ」と納得したら「人の面倒は見られる限りみておかなくちゃいけないなあ」と嘆息しました。だって死んじゃったら、手も足もでなくって「自分のことは自分でする」なんてのも無理だし「人に迷惑をかけない」ってのも無理だからです。なんだか黙っていたことを、言葉にする時期が来ているような気がしないでもないです。
「日本画の前衛」を竹橋近代美術館で見る。
2011年02月15日(火)
竹橋の近代美術館で「日本画の前衛」展を見てきました。若い頃から、西洋文化と東洋文化が交じり合う過程に興味がありました。興味があったというより、50歳になっても20代初めの興味が持続しているってことです。なんといっても移り気で、気が多すぎるって年中叱られえていましたから、自分の興味を自分で信用できなかったのですが、30年たっても、それがまだ持続しているところを見ると、たぶん本物。それから、もうひとつは、私と同じような興味を持って、それを地道に研究に結び付けてきた人たちがいるのだなということを感じます。おかげで、ずいぶん「なるほど」とか「謎がとけた」とか、そういうふうにうなづける成果に出会うことができます。
「日本画の前衛」展は戦前の「歴程美術会」の出品作品を中心にした展示でした。ところで、この美術界の「暦程」は草野心平、高橋新吉、中原中也など8人の同人で発行された詩の雑誌の名前として、私の頭に入っています。また、暦程の会は戦後も持続して現在も歴程賞や歴程新鋭賞を出しています。この「歴程」と「歴程美術会」はどういう関係のあるのだろう? と不思議に思いながら、図録解説を読んでいますが、まだ、はっきりしたことはわかりません。暦程賞の授賞式には何度か出かけたことがありますし、晩年の草野心平さんをお見かけしたこともあります。
さて、展覧会ですが、第一次世界大戦が生み出したと言われるシュールリアリズムが、日本では伝統的美術観への反逆という側面が、強く意識されていたことが印象に残りました。さらに、戦争中に画家の視界がよりダイナミックに開かれることに圧倒されました。シュールリアリズムは第2次世界大戦で終焉したという説と、第二次世界大戦後にも引き継がれたという説があるそうですが、日本の場合は大雑把に言って、第二次世界大戦前はシュールリアリズムの光の部分をたくさんに浴び、戦争中にはその光を自ら発する寸前まで進み、敗戦後に欧州が戦場になることで生まれたシュールリアリズムの陰の部分を自らの命と魂と身体で理解したのではないかと言う仮説めいた流れを感じました。詩と絵画の関係も気になるところです。
船田玉樹の「花の夕」丸木位里の「馬」「駱駝」「鷺」「牛」などの絵は見ていて心楽しくなりました。もう一歩進むと装飾的、様式的になりそうな手前で、絵が躍動していて、見る側の想像力が自由に翼を広げることができる絵でした。この展覧会は、竹橋の近代美術館のあと、広島県立美術館に巡回するそうです。船田玉樹も丸木位里も広島出身だということを初めて知りました。もちろん丸木位里は原爆図で世界的な名声があることは以前から承知していましたが、私はその原爆図を見たことがなかったし、あまり見たいとも思っていませんでした。しかし、まだ原爆の惨禍を知らない丸木位里の動物の息使い、気配、存在の迫力をマチエールの中に閉じ込めている絵を見てから、無償に原爆図を見たくなりました。政治的な意味ではない美的な感覚がそこにありそうな気がしてきました。
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