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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

八戸 蕪島のウミネコ

2011年06月02日(木)



 桜前線が過ぎたあと、東北は今が花盛りです。目立つのは白い水木。黄色いさまざまな野の花。藤にライラック、桐といった紫の花。それから新緑。青い空。八戸に新幹線「はやて」を使って行ってきました。

 仙台の水田は田植えが終わり、稲が伸び始めていました。駅周辺では屋根瓦が落ちたのか、青いビニールシートで屋根を覆う家もちらほら見えました。それから斜め45度に傾いたままの電柱も。まだまだ災害の片付けは途中の様子が列車の窓からも見受けられました。
 青森に入ると田植えをしている水田もありました。

 八戸。津波の被害を受けたあとは、ほとんど片付けられていましたが、あっちこっちにベニヤ板で窓や出入り口を覆った建物がありました。それでも瓦礫の撤去は早く済んだとのこと。ウミネコの繁殖地の蕪島へも、車で行けるようになっていました。



 蕪島はみどりの三角錐の山と黒い岩礁がくっついたひょうたん型の島です。昔は海の中に孤立していたそうですが、今は陸続きになっています。2、3月に飛来したウミネコが巣を作り、5月から6月にかけて雛が孵るのです。津波のときはまだ営巣が始っていなかったとのこと。津波で蕪島周辺のお土産屋さんは流され、防波堤も砕かれていましたが、ウミネコは無事に巣を作って雛が育っていました。三角錐の山の頂上の神社も無事。



 神社の境内、参道、駐車場などなどいたるところウミネコだらけ。雛にカメラを向けると親鳥は大きな声で鳴いて怒りますが、さりとて、攻撃的態度に出ることもなく写真を撮らせてくれました。親鳥が怒ると、雛鳥も一緒になって怒り出りだします。その顔がなんだか一人前なのが、おかしいやらかわいいやら。



 神社参道入り口には、ビニールの置き傘がありました。ウミネコの糞避けの傘です。なにしろ、あっちを見てもウミネコ、こっちを見てもウミネコ。ウミネコの巣はいたって簡単なもので、木の枝や草をちょこっと集めただけの巣でした。



もしかしたら、もしかしたら。

2011年05月23日(月)

 「もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら」はピンクレディーの「UFO」のサビの部分ですが、3月の末頃から気になっていることがひとつあります。

 正確には記憶していないのですが、3月の20日過ぎに顎のところに妙な傷ができました。顎に違和感があったので、最初はにきびのような吹き出物だろうと思って、指先で弄っていました。ところが鏡に映してみると、細い切り傷のような傷なのです。長さは1センチよりやや短いくらい。紙ですっと指先を切った時のような傷。改めて調べてみると、手の甲や足のふくらはぎにも似たような傷が複数ありました。

 顎の傷は、弄繰り回したせいか、それからだんだんと痒みがましてゆき、傷の周辺がただれました。治るまでにしばらくかかりましたし、まだ、よく見ると爛れた跡が残っています。最初に「もしかしたら もしかしたら」と書いたのは、顎と、それから手の甲や足のふくらはぎに現れた細い切り傷のような傷は、軽い放射線被曝があったために出たものなのかもしれないと、考えているからです。そう考えるようになった理由はインターネットで偶然見た放射線被曝の傷の写真でした。
「あ、似ている」
 そう思ったのです。人にそれを言うとたぶん医者に行けと進められるでしょう。それで医者に行くと今度は「春先ですからアレルギーか何かでしょう」と診断されるか、もしくは「よくわかりませんが、たいしたことはありません」と言われそうです。だってそうそう放射線被曝からくる傷を見たことがある医者なんているとは思えませんから。

 自然に治ってしまったので、もうそれでいいのです。ただ、東京周辺でも下水処理所の汚泥や茶葉から放射性物質が見つかっているということは、それだけの放射性物質が降り注いだということですし、最近、次々に明らかになってくる資料では3月12日から15日にかけてはかなり高い濃度の放射性物質が降り注いでいたことがわかってきました。だから私の「もしかしたら、もしかしたら」もちょっと御報告しようという気になりました。ただのアレルギーとかそういうものなのかもしれません。よくわかりませんが、気にはなっています。

あかしあほろほろ

2011年05月20日(金)

 薔薇の花の季節です。家のベランダの薔薇もたくさん咲きました。近代文学館の理事会があって、駒場を稲葉真弓さんと歩いたのですが、あのあたりのお屋敷町の薔薇も見事に咲いていました。気になるのは、表札が取り外された空き家を1件見つけたことです。どちらかへお引越しかしら。

 卯の花というのは今時分に咲くしろい花の総称だそうです。まずミズキが傘を広げたような花を咲かせ、それからウツギの花が開きます。もちろんウツギは卯の花。エゴの木も卯の花。そのほかにも野いちごなども白い花を咲かせます。野面を白い卯の花が飾る頃になると関東は初夏。江戸時代には所沢の三富(上富、中富、下富)あたりが卯の花見物の名所だったそうです。家から見える斜面には、エゴの木がたくさんあります。斜面の上にマンションが建ったとき、だいぶ斜面の雑木を切ってしまったので、もうエゴの木の花も見られないかと諦めていたところ、今年はほんとうに見事に咲きました。昨年の春の天候不順がうそのような今年の初夏です。



 あかしあは外来植物ですから、卯の花には数えないでしょうけれども、これも豆科の白い花をたくさんつけます。藤の花に似ています。もう盛りは過ぎて、高い木のうえには実がなっています。数日前、散歩のとき、良い匂いがしたので、見上げるとあかしあの花が風にほろほろ散っていました。あかしあの蜂蜜の匂いです。

復興書店のこと

2011年05月10日(火)

 「豆の葉」を書こうとおもったら、豆蔵君、作業中でした。トップページに大きく復興書店とあったのでびっくりしました。

 伊藤比呂美さんも私も復興書店に参加しています。御知らせが遅くなってすみませんでした。

 復興書店は島田雅彦さんがツイッターで呟いたのがきっかけで被災地支援のために作られたネット書店です。(これでいいのかなあ?島田店長)あっと言うまにできてしまいました。それに驚いたのが私。あれよ、あれよという間に出来たのはいいのですが、島田雅彦店長からメールで指示がくるのに、頭の螺旋が緩んでいる私はついていけませんでした。そうそう、復興書店と同時にいしいしんじさん編集によるウェッブマガジン「W&B」もできました。で、そちらにも早速に賛成の手を挙げたのですけど。これもなかなか原稿が書けず。

 ようやく、復興書店に本を送ることができたのは連休前でした。送ったのは「書評 時評 本の話」(河出書房新社)「楽隊のうさぎ」(新潮社 文庫ではなく絶版になっている単行本です)「うさぎとトランペット」(新潮社 こちらの文庫ではなく絶版の単行本です)「豊海と育海の物語」(集英社文庫)「うさぎとトランペット」(新潮文庫)などです。いずれも書名と落款を入れました。お値段は定価の一割増しにさせていただいきました。本を売ったり送ったりするための経費がかかりますから、そのぶんを一割増で賄わせていただくためです。ご理解下さい。まだ復興書店の店頭には出ていません。もうすぐ出ると思います。

 伊藤比呂美さんの本はすでに復興書店の店頭に並んでいます。

 それからいしいしんじさん編集の「W&B」の原稿もようやく入稿できました。エッセイを書きました。

 おかげさまで復興書店は売り切れ続出。常時品薄状態が続いています。皆様、どうぞ復興書店で本を買ってください。

うちの晩御飯

2011年05月09日(月)

 今年度2度目の大阪に行ってきました。帰りに近鉄デパートの地下食品売り場を駆け抜けてきました。家のお土産に食べ物を買うのは、子どもが小さかった時の習慣。お土産兼食料調達。おなかがすいたよぉって言われたらすぐに「はい、ごはん」となるようにやっていたことです。今じゃ、ちょっと贅沢のためのお買物になっていますが。





 で、今回は鰆の西京漬け。西京漬けは関西がおいしいです。白味噌が良いから。それから、くぎ煮。昨年は不漁だったいかなごですが、今年は豊漁だとのことです。はしりの水茄子。まだ小さい水茄子ですが、皮が薄いから旨いとお店では言ってました。大阪で乗ったタクシーの運転手さんが、水茄子の油炒めは旨いよと教えてくれましたけど、高価なので、油炒めなんて……であります。水茄子の漬物は手で裂くとおいしい。で、手裂きにしてあります。



 万願寺唐辛子だと勘違いして買ったのは大甘長唐辛子(宮崎産)でした。安かったの。で、袋をあけるとちょっとピーマンに似た香りがしたので、間違いに気付きました。ピーマンほど強いにおいはしません。だからほそく切って牛肉を巻き、肉巻きにしてみました。それからたけのこと長いもを炙ったものに、わかめとたけのこの穂先のすまし汁。これが我が家の晩ご飯です。山椒の葉でもあれば、もうちょっと見栄えがよくなるのですが、ま、いいことにしました。

中沢ゼミ同窓会

2011年05月05日(木)



 中沢ゼミ同窓会を開いてもらいました。今年は地震で日本武道館の卒業式が中止になったので、OBOGによる卒業を祝う会と兼ねました。数えてみると、もう6回の卒業生が出ています。

 飯田橋アグネスホテルのバー。「服装はどうしますか」とお世話役をやってくれたジャックさんが聞いてきたので、平服でもいいし、お洒落をしたい人はお洒落をしてきてもいいということにしましょうと答えておきました。そういうわけで、私もず〜っと前に作った琉球絣の着物を着ることにしました。

 考えてみると07年8月に「おたあジュリア異聞」の連載を静岡新聞、熊本日日新聞に始めて、08年はかなりしんどいなあとすぎ(この年はいろいろ細かいことがありました)終わったら、一息つくぞと終了目前の09年1月に心筋梗塞で入院しました。退院してすぐに卒論面接。学校のほうはそれでもなんとかしましたが、驚いたのは、住居の改修。老朽化した配管の交換工事をすると管理組合から聞かされて慌てました。本音を言うと、病み上がりには、家の改修はしんどかったのです。配管の工事で壁をぶち抜いたので、ついでに家のリフォームで09年は終わってしまいました。で、リフォームの片付けができないまま10年夏にこれまたマンション外壁の大規模改修。とてもじゃないけど、箪笥から着物を取り出すなんて気にはなれませんでした。

 09年の心筋梗塞で退院してから、すぐに卒論の面接も入試の採点もしていたので、けろっとしているとか元気だとか言われましたが、それは誰か他の人と居るときだけで、一人になるとぐったりしていました。何よりも物を片付けたり、捨てたりができなくなっていました。ふわふわと遊びに行きたがる魂のあとを追いかけているような状態でした。家を片付ける。研究室を片付ける。それが一番できないのです。人の都合に合わせるのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。ほかの人といると元気なのに、片付けだけはマイペースじゃなけりゃできないと。そんなアンバランスな状態でした。で、極め付きは地震。あ〜、どうしたらいいんだ! で、ようやくなんとか家の片付けをする目処がたってきました。ついでに研究室も。なにしろ地震でいろいろ崩れちゃったものだから。着物を着る気になったのはそんなタイミングでした。おかげで少し片付けの目処が立ちました。

 卒業以来始めて会う人もいた同窓会でした。いつものとおり、なんとなくみんな集まって、なんとなく気の会う人どうしがお話をするという、それだけの同窓会。「うちのゼミの同窓会にしちゃあ、珍しく定刻でみんな集まったなあ」とこれは、某氏の感想。「だって先生が定刻でいたんだぞ」とこれは初代夜ゼミのゼミ長の感想。いつもどうもすみません。あらゆることをマイペースでやりたい私です。

 職場の人とのお喋りとは一味違うお話ができるのが同窓会の良いところだと思います。またやりましょう。タイガーさんから「今度は名札をつけましょう」という提案をいただきました。そうしましょう。同窓会をする時には「豆畑の友」のトップページに告知を出すようにします。卒業以来連絡がとれない卒業生の皆さん、それからゼミ関係のみなさん(必ずしも卒業生でなくってもいいです。)今回は都合がつかなかった皆さん、告知を見たらお出かけ下さい。

 卒業文集が地震で出てきました。それぞれの年代全てありました。欲しい方はお問い合わせフォームからメールを下さい。

菜種ができました。紅葉もそろそろみどり色になります。

2011年05月02日(月)



 外濠の土手に咲いていた菜の花に菜種ができ始めました。菜種油の菜種です。油がとれるくらいなので、たいへんに土地の養分を使うそうで、畑では2年と続けて同じ畑を使うことができないと聞いています。畑を休ませなくっちゃいけないと。

 そのせいか、放射能で汚染された土地を除染するために菜種やひまわりを植えるという方法が試みられているということです。なんだか長く手間のかかる大仕事です。外濠土手の菜種は自然に生えてきたもので、やがて種が飛び散って、来年は別の場所で花が咲くことでしょう。

 連休。ようやく何かをする気になって、桐箪笥の整理をしました。母の着物。私や弟が赤ちゃんのときに着た熨斗目。弟の七五三の羽織袴に、私の振袖。そういうものを箪笥から出して衣装箱に詰めました。母の着物よりも少し古いものもあります。こういうものはゆくゆくはどうなるのだろう? と思わないでもないのですが、ごみには、どうしてもする気になれません。もうちょっと年をとったら裁縫でもやってみるかな? と殊勝に思うのはきっと衣装箱を開けるときだけで、すぐに忘れてしまうでしょう。

 なんだかうまく時間の流れについて行けてないので、あっちこっちご挨拶が遅れるやら、お届け物が届いてないやら、お詫びしなくちゃならないところがあるようですが、お許しを。そうそう、伊藤比呂美さんが伊藤製作所豆畑支所に戻ってきてくださいました。伊藤さんこんにちは。



 秋に赤く色付く紅葉は、芽が吹いたときにも、赤々としています。この紅葉もそろそろみどり色に変わる時がきました。昨日今日の東京は暑いくらいです。

鶴岡梅澤菓子舗のお菓子

2011年04月30日(土)

 あ〜。もう4月も終わりです。いったい何をしていたんだろう?ず〜っと地震だ、地震だと、そのたびにテレビをつけて、震源地と震度を見ていたような気がします。なんだか予定とかスケジュールというものに、興味を持てなくなっています。あとは、あ、映画を久しぶりでみました。有楽町のイトシアで。再開発する前にも映画館があったのですが(名前が思い出せないけど、有名)そのあと、新しいビルが建ちそこにも映画館が入っているとは知れませんでした。

 「イブ・サンローラン」を見ました。劇映画じゃなくって、芸術的にドキュメンタリー。映像の組み合わせがきれいでリズミカルで見ていた楽しかった。映画館の向かいにはテラス付きのイタリア料理屋が。雨が降っていなければテラスから有楽町駅を見下ろすのも良さそうです。



 螺旋が抜けちゃっているのを察知して、山形の佐藤先生が梅澤菓子舗のお菓子をたくさん送ってくださいました。見事なお雛菓子を作るお菓子屋さんです。3月は地震で過ぎてしまったので、と送ってくださったお菓子の数々。そのなかでも、うさぎの麦焦がしは絶品。ほろほろと口の中で崩れると香ばしい香りがします。同じ麦焦がしの狐面も美味しかったのですが、うさぎはかわいい。



 のらくろも、なかなかです。パンなのかな。甘さ控えめ。でも、これを見てのらくろって解るのは、私や佐藤先生くらいまでじゃあないかしら?



 塩釜はお決まりのタイ。ひらめ。海老も、蛸もありました。おすもうさんと兵隊さんがなんだかかわいくってピンクと白とクリーム色とみどり色でそろっています。ピンクと白の2種類があるキューピーさんも。見た目の美しい3色の飴も。ついつい並べてしまいました。

 でもまだ佐藤先生に御礼を書いていないのです。今夜、書きます。絶対書きます。御礼遅くなってごめんなさい。許してください。

災い転じて………

2011年04月26日(火)



 外濠の桜がすっかり花を散らせて若葉になりました。靖国通りを歩いていたら、福島、三春の滝桜の子孫だという枝垂桜を見つけました。この桜ももう葉桜になっていました。

 「災い転じて」のあとは「福となる」と続くのですが、福島の原発事故は一向に収束の気配はなく、少し様子が変わったなと思うのは、幾らか事故処理の見通しがついてきたくらいのところでしょうか。目に見えない事故の広がりをどう感じたら良いのかわからないという話をよくします。推移を見守るしかなく、まだまだ「災い転じて」のあとを、常識的に「福となす」とは繋げ難いものを感じます。

 だから、この先のことを言うのはまだ早いかもしれません。しかし、日本のエネルギー政策は人類のために原発異存から新エネルギーへと転換して欲しいなあと願います。日本のためではなく、世界のために。日本人のためではなく人類のために、いや、人類のためにではなく地球上のありとあらゆる生物、生きとし生きるもののために脱原発のエネルギー政策をとって欲しいものです。そのために、日本へ「人、物、金」を集めてもらいたい。「人、物、金」という三つは経済政策の話によく出てくる表現です。
 「人」はこの場合、脱原発のエネルギー研究や放射線医学、省エネ型の技術などなど、さまざまな分野の英知を日本に集めればいいのです。理系だけではなく、心理学や社会学などの分野の人も必要です。メディア研究、映画製作、ジャーナリズムの分野でも、いろいろと知恵を出してもらう必要があるでしょう。研究者、留学生、商社マン、ジャーナリスト、そのほかにも日本に来たい人にはどんどん来てもらう。
 「物」は脱原発エネルギーを研究開発するための施設、放射性廃棄物の処理技術開発のための施設、放射線障害の予防と治療のための施設などを作ることですが、零から始めるというわけではありません。日本にはもうそうした「物」はすでにあるはずですから、それをさらに充実させることは可能なのではないでしょうか。
 最後に「金」。お金が足りなければ集めればいいのです。どこの家でもお金が足りないときには、出費を抑えるか、もしくはよりたくさん稼ぐかの二つのやり方で対応します。が、もうひとつの道は「借りる」があります。さらに未来のために「集める」という方法もあります。「出費を抑える」「稼ぎをふやす」「借りる」「集める」のうち、脱原発社会を作るのに良い方法は「集める」でしょう。近代社会はこのお金を「集める」という方法を発達させてきました。世の中を変えて行くための、未来のためのお金を「集める」のです。人類のため、地球のための研究開発にお金を出す人はもう現れています。お金を「集める」ための仕組みを整えるのは政治の力です。

 人を集め、物を充実させ、お金を集めれれば、きっと「災い転じて……」のあとに「オンリー・ワンの日本」を作ることができるのではないでしょうか。世界のために役立つことができるオンリー・ワンなら大歓迎です。そういうビジョンを持った若い政治家に登場してもらいたいなあという夢想でした。人は自分が生きてゆく時代のためにしか働けないのです。未来は未来を生きる人が作り出すべきです。この夢想は、夢物語ではなく、今ここの現実に対応するための理想です。日本にしかできないことがあるはずです。



 八重桜が若葉の中に埋もれるように咲いていました。写真を撮りながらも、時間の流れをうまく感じ取れていない自分がそこにいることを意識しました。3月から4月というのは、なんでもないときでも、時間の流れに乗り損ねてしまうことが多い季節ですが、今年はいつもにもまして、それを感じています。地震と津波だけなら「ああ、春になった」と季候が良くなったことをうれしく感じられるのでしょうけれども、原発事故の推移を見ながら息を詰めているのは私だけではないでしょう。何も言わないけれどもひっそりと、原発事故の成り行きを見ている人が大勢いることでしょう。

詩歌と園芸と庭仕事

2011年04月23日(土)

 宗教とか信仰という話になると、仏教やキリスト教あるいは神道という宗教か、もしくは、民俗学的な民間信仰のことがテーマになっています。で、そういう宗教のイメージを持っている人に日本人の宗教心、信仰心は俳句や短歌、それに現代詩も含めて詩歌と、庭いじりや鉢植えを作る園芸の中に隠れているのだと言うときっとへんな顔をされるか、もしくは、激しい罵倒をされるか、そんなことがおきそうです。なにかを論議しようとした時、相手を激しく罵倒して声の大きさで勝つという習慣は、どうも昭和20年代の荒んだ世相の中から生まれてきたらしいということをなんとなく掴でいますが、それはまた何か機会があったら書くことにします。

 それで、詩歌と園芸と庭仕事の中に日本人の信仰心や宗教心が隠れているという話ですが、宗教史などにつなげようとすれば、繋がらないこともありません。日本に大きな影響を与えた儒教は、祖先信仰を大事にしていますが、祖先の魂を慰めるものは歌です。死者の魂を慰めるものもまた歌です。また、中国で発達した仏教、禅宗では歌(この場合は漢詩ですが)を大事にします。禅寺では膨大な漢詩が書かれています。禅に興味を持っていた夏目漱石も漢詩を書き、俳句を詠んでいます。それから枯山水などの庭は禅寺によく見られることは衆知されています。枯山水の庭から盆景、盆栽までの変化はそう遠くないものです。盆栽から鉢植えの園芸趣味も、ごく近いところにあるでしょう。江戸時代に入ると園芸趣味は、庶民にまで広がり、変わった花を咲かせる朝顔などに夢中になったそうです。

 今の中村勘三郎、つまり以前の勘九朗さんですが、その中村勘三郎の本を読んでいたら、舞台の上でお父さんから「その朝顔の鉢植えはどこで買ったきた」とざんざん聞かれて困ったという話が出てきました。芝居の筋とは関係がないアドリブの質問だそうです。で、適当に答えるとお父さんは怒り出す。芝居の進行はストップしてしまう。これが毎日続いたという、ちょっと想像してみるとおもしろいお話ですが、芝居の中には出てこないけれども、背景になっている江戸の町の習俗をちゃんと知っていれば答えられる質問だというようなお話だったと記憶しています。結局、勘九朗さんは誰かベテランの俳優さんのところへ行って答えを教えてもらったということでした。江戸の町では、朝顔ならこれこれの場所の市というふうに商う場所が決まっていたようです。

 そんなあれやこれやを調べて論文など書こうとしたら、どえらいことになるので、それは止めて、日本人の信仰心は詩歌と園芸と庭仕事の中に隠れているという話に戻します。汎神的な信仰心と言うのが、詩歌の中に隠れていると感じたのも、園芸と庭仕事の中に溶け込んでいると感じたのも、考えてみると、すごく子どもの頃だったのではないかと思います。感じているけれども、言えない、感じているけれども認識できないという感じ方です。寺社のお縁日の眺めとか、お正月やお盆の支度のときなどに、子ども心に感じたかそけきもの。大学生くらいになると、それを意識はできるようになりましたが、文化史などをやった偉い先生に、馬鹿にされたら最後、もう見えなくなってしまう程度のか細い意識の仕方でした。誰がどんなふうに怒鳴りだしても馬鹿にしても、あまり揺らがないなあという意識をしたのは、四季を歌う月並みな俳句や、四季の章立てに分かれている古今集をよくよく読んだ20代の後半でした。

 自然の変化を歌に詠むことによって、歪みがちな時間意識を整えているのではないかと、まず最初にそう感じました。そういう感じ方や考え方も深めたり磨いたりすることができればよかったのですけど、よほど注意深く話さないと、通俗的な楽天主義と勘違いされしまいますから、残念ですけど、人に自分の考えを話して感じ方や考え方を深めたり磨いたりはできませんでした。

 詩歌と園芸と庭仕事の中に日本人の信仰心は、薄く広く、しかし、時には強い直感をもたらす形で隠れていると、このごろはやや確信めいた考えを持ち始めています。学問の言葉で語ってしまったとたんに死んでしまうような、生きている信仰心。西洋哲学の翻訳語で語ると色あせてつまらないもののように見えてしまうけれども、詩歌の中に溶け込ませたとたんに、息を吹き返す信仰心、そのように見ています。古事記の冒頭に、大八島はくらげのように漂っていたという意味の記述があります。それを、70年代に中等教育を受けた私は、神話が非科学的であることの証拠だと教えられました。でも、あれは地球のプレートの動きの歌だったのではないか?と毎日、地震に揺さぶられているうちに、そう思えてきました。まだ、まとまりのない考えですが、子ども心に感じてきたことが、だんだん、シオコウロコウロとまとまりに生り始めているようです。

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