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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

チャンチャカチャンチャカ

2011年07月25日(月)

 ちょっと時計を見て、ああ、大阪ではそろそろ天神祭りのクライマックス、陸渡御、船渡御、それから花火が終わるころだなあと、見られなかったその華やかだという水陸の行列を想像してみました。25日つまり今日がその日です。天神祭の陸渡御、船渡御は太閤秀吉の頃の大阪を想像できるのではないかと思い、なんとしても見てみたいのですが、これは来年のお楽しみにして、天神祭の宵宮を見物してきました。

 伊藤さんから「案内してくれるって人がいるよ」とメールを頂いたのは先週の木曜日夜。あいにく私は朝帰り(つまり金曜日)でした。朝帰りと言うか、飯田橋で法政大学の1限の講義に出るという学生とすれ違うという話で、頭は朦朧。夕方、再び飯田橋へ這い出して法政で授業に出て、最終の新幹線で大阪に滑り込むという例によって例による日程でした。うまく案内してくれる人と連絡がとれるかな? とちょっと不安。なにしろ前の週は群集を怖れて、京都の祇園祭りのクライマックスをすごく遠くから眺めるという残念な結果だったのですから。コンコンチキ、コンチキチンからチャンチャカチャン、チャンチャカチャンヘ、2週続けてのお祭り見物でした。そして、今度はうまく大阪の稲垣さんと落ち合うことができました。待ち合わせは、いろいろな出し物で賑わう天満の商店街近くのスーパーマーケットでした。



 お祭りは地元の人に案内してもらうのが一番。大阪天満宮を見て、それから裏手の公園へ。さらに八軒屋浜へと歩きました。川を上り下りする船を見るのは、諦めていたのですが、どんどこ船を見ることができました。これは本祭りの先触れなのだそうです。これだけでもなかなか見事。大川の縁にはかがり火も焚かれていました。



 どんどこ船のほかに、なにやら世話しなく動き回っているモーターボートがあり、烏帽子や袴をつけたお祭りの関係者とおぼしき人が乗っていました。ちょっと笑ったのは、忙しく動き回るモーターボートから、何か四角い箱のような物が、川に落ちたときでした。「あ、何か落ちた」と稲垣さん。川面には、船から落ちた荷物がぷかりぷかり。「どうするのだろう」と私。すると川面を突っ走っていたモーターボートが、つつっと止まり、くるりと方向転換して、荷物のところまで戻ってきました。で、船上の袴を着けた男性は、タモ網を繰り出して浮いている荷物を拾い集めていました。ああ、こんなこともあるんだと妙に感心してしまいました。



 こちらに秀吉の頃の合戦へ出発する船団の様子を想像してみたいという下心があるせいか、どんどこ船から聞こえるチャンチャカチャンのお囃子の音が、なぜか鬨の声に聞こえます。京都の祇園祭りではあまり合戦を想像しなかったのですが、大阪の天神祭は「これは昔の軍事演習じゃないかしら」と思いたくなるくらい合戦を想像したくなります。



 天満橋から、京阪天満駅の駅ビル屋上へ。ちょうど大川の向こうに陽が沈んでゆく時刻でした。陽が沈むと、入れ替わりに、大川端で焚かれていたかがり火の色が冴えてきました。

コンコンチキ コンチキチン

2011年07月21日(木)

 「楽隊のうさぎ」で小倉の祇園祭りを取材した時、京都の祇園会の系統のお祭りですから、お囃子はみやびですよと教えてもらいました。小倉のお祭りといえば「無法松の一生」。歌謡曲で歌われた太鼓の乱れ打ちというのは作家の岩下俊作の創作なのだそうです。でも、そのイメージが定着しているので、お祭りのお囃子とは別に今は和太鼓のコンクールが開かれています。

 九州の小倉から潮待ちの赤間ヶ関と通って瀬戸内海へ、瀬戸内海を東に進んで、淀川を遡り、伏見へという海から川へのルートがあったことをお祭りのお囃子は伝えているようです。祇園祭りの鉾に、異国的な図柄が見られるのも、そうした海上と河川のルートがあったことと無関係ではないでしょう。川端康成の「古都」の冒頭にはキリシタン燈籠が出てきます。それから西洋的な図柄を帯の図にしようとするちょっと変わった問屋の主人。祇園祭りの宵宮で、離ればなれに育った双子の姉妹が出会うこの小説では、当初、古い都と西洋の出会いがモチーフになる予定があったのかもしれないと思わせる幾つかのデティールがあります。笛と鉦と太鼓で奏でられるお囃子にも、どこか、遠い昔に忍び込んだ西洋音楽の面影があるのかもしれません。



 淀屋橋から京阪電車で三条まで。三条大橋を渡り河原町通りにでると、ちょうど山鉾が御池通りを目指しているところでした。並んで進む山鉾を追いかけはしましたが、なにしろ人ごみが苦手。あとで聞いたら、河原町通りと御池通りの交差点でいしいしんじさんも山鉾の巡航を見物していたそうですから、人ごみを億劫がらずにいたら、出会えたかもしれず、ちょっと惜しいことをしました。なにしろ暑い日だったので、人ごみに突入する気力がありませんでした。



 それから八坂神社へ。四条大橋を渡っているときに見知らぬ御婦人から、小さいな保冷剤のパックを「うちから持ってきたものですから使ってください」と手渡されました。あとで、鏡をみたら鬼のような真っ赤な顔をしていました。熱中症寸前だったかもしれません。




 浅黄色の裃姿の人を八坂神社で見ました。きれいな色です。裃って、スーツに似ている感じがしますが、丸の内あたりで見かけるスーツよりもずっときれいな色をしています。お神輿は八坂神社を出発する寸前で、準備が始っていました。でも、いよいよ怪しくなっていたのです。気温と人手で、なんだか頭がくらくら、これはたまらんと、まずペットボトルのお茶を買い、それから「清浄歓喜団」を売っている亀屋清永に逃げ込ませてもらいました。このお菓子は古いお菓子で、お寺のお供物になるのだそうです。ごま油で揚げた硬い皮の中に、香料の入った餡子が詰まってます。



 それでも火照りは引かず、四条大橋のたもとから鴨川の岸におりてしばらく休みました。橋の向こうから、お神輿を担ぐ用意をした人がぽつぽつ集まってくる時刻でした。いやはや、人ごみは苦手です。

鴨川の流れ

2011年07月19日(火)



 淀屋橋のベローチェで土佐堀川の水の満ち干きを少し眺めて京阪電車の特急で、京都の三条まで出ました。40分くらい。電車が地下から地上へ出るのは、京橋のあたり。何度か大阪と京都の間を往復して、電車の窓の外の川の流れを、家々が建てこんだ景色の中から「あのあたりだろう」と追うことができるようになりました。

 淀とか伏見とか、たぶんそのあたりまでは、船で荷物が運ばれたのでしょう。で、伏見を過ぎると京阪電車は再び地下へ。今度は、祇園祭りの山鉾巡航を見物しようと思っていたので三条でおりました。




 三条大橋を渡って河原町通りの方向へ。鴨川にはびっくりするほどきれいな水が流れていました。こんなに水が澄んでいる日があるんだと、ちょっと見とれてしまいました。



 家と家が軒を接していて、その間に細い路地があり、路地の奥にもまた別の家があるという京都の町で、鴨川にかかる橋の上にでると、視界が遠く北山のほうまで開けてほっとします。京都の橋を渡るときは独特の開放感があります。水の流れと空と山と。河原が憩いの場所として生きているのが解ります。



 八坂神社に行った帰りにあんまり暑いので、四条大橋のたもとから、河原に降りてみました。すると、橋の下で若いお嬢さんたちがおしゃべりをしています。向こう岸では川の流れに足をつけて涼む人も、石を投げて水切りをする人も。こんなに大勢の人が河原で涼んでいるのに。白鷺がなんでもない様子でひらりと舞い降りてきました。

 3枚目の写真は四条大橋の下から三条大橋の方向を眺めたところです。歴史の本を読んでいると三条河原に首をさらしたとか。三条河原に引き出して処刑したとか、血なまぐさい記述が出てきます。河原というので、なんとなく町外れのような気がしてましたが、四条大橋の下からその方向を望むと、京のお公家さんや町衆でいちばん賑わう場所を選んでいたのかと、嘆息しました。

淀川の眺め

2011年07月18日(月)



 日曜日、淀屋橋から京阪電車で京都の三条まで出て祇園祭りを覗いてきました。来週は大阪の天神祭りを眺めてこようと思っています。

 写真は京阪電車が出る淀屋橋のベローチェ2階から日本銀行大阪支店方面の眺め。下を土佐堀川が流れています。淀川の流れもここまで海に近づくと、潮の満ち干きがあります。古くは堺、新しくは神戸という外国の玄関口としての港があるので、大阪はあまり港町という感じがしません。横浜港がある東京と同じです。が、潮の満ち干きを見るとここも港であったことを思い出します。

 来週の天神祭りは船渡御が見ものを聞いていますが、残念ながら25日は東京で用事があるので、24日の宵宮を見物しようと考えています。

 17日(日曜日)は京都の祇園祭りの山鉾巡航。土佐堀川の流れをしばし眺めてから、京阪電車で京都の三条まで行きました。ちょっと特急がきていたので、京都三条まではあっというまでした。

城戸朱里さんのハワイ土産

2011年07月18日(月)

 城戸朱里さんからもらったハワイ土産のことを書こうと思いながら、とうとう7月も半ばを過ぎてしまいました。今年は時間の流れが速いのだか、遅いのだか、感覚で上手くつかめません。



 で、城戸朱里さんからいただいたハワイ土産です。LILIKOI BUTTERとピンク色のお塩。リリコイバターはパッションフルーツのジャムに蜂蜜とバターを加えたものだそうです。甘くって酸っぱくって、そして濃厚な舌触りと香りを持っています。これをパンにつけて一切れか二切れ食べればもう、おなかがよくなります。そのくらい濃厚な味と香りなのに、なぜか、暑いときにも食べたくなる味。さすがハワイのお土産だけのことはあります。城戸さんはハワイの朝市で素人の人が作った手作りのジャムだと言っていました。



 それからピンク色のお塩。こっちはちょっともったいない感じがしてまだ食べていません。ゆで卵にちょこっとかけるとか、そんな感じで食べようと思っているだけ。袋ごと眺めて楽しんでいます。

 震災後、お塩が値上がりを始めているそうです。「この世でいちばんおいしい物はお塩だ」と家康の愛妾だったお梶の方が言ったという逸話を聞いたことがありますけれども、味噌でも醤油でも、調味料にはお塩が必ず入っていますから。お塩の値上がりはなんだかただならぬ気がします。

建築現場に夏が来る

2011年06月13日(月)

 今のマンションを買うときに不動産屋さんに「マンションってどのくらいの耐用年数なのですか?」と尋ねました。「査定では50年となっていますけど……」とのお答え。その頃、今のマンションは築8年というところでした。それからもう24年。我が家も築30年を超えました。
 
 ところで日本のコンクリート建造物はだいたい築30年くらいで立て直されているそうです。それはどこで聞いた話なのか、それとも新聞で読んだ話だったのか?よく記憶していないのですが、そう言えば、戦後すぐに建てられた建物が姿を消して新しくなったのは、私が大学へ通っていた頃でした。それから子どもの時に昭和30年代40年代の建物が順次に姿を消して行きました。



 飯田橋の警察病院や郵便局があった一画の再開発が始るという掲示を発見したのは、昨年(2010年)秋でした。警察病院はもう閉鎖されていました。3月11日の地震のときにはまだ、建物の取り壊しは始っていませんでしたが、工事のための囲いは出来ていました。通りがかりの女の人が「え、郵便局も地震で崩れちゃったの!」と驚いていたのは4月のはじめだったか。思わず「いいえ、再開発です」と声をかけそうになりました。



 それから見る見るうちに取り壊しが始りました。今ではもう、すっかり地上の部分は取り壊され、地下の構造物の撤去まで進んでいます。写真は外濠側から解体の様子を写したものですが、富士見側からみると、外濠土手がくっきりと姿を現して、幕末の写真で見るような景色を見ることができます。

 工事現場にカメラを向けていたら、年配の男性、たぶん70代半ばくらいでしょうか? そのくらいのお年の方から声をかけられました。
「ああ、なんて乱暴な工事でしょう。埃がもうもうとたっている。音もひどい。もっと、きれいに取り壊せるのにねえ」
 と憤慨していました。確かに住宅密集地での工事に比べる大胆で乱暴な工事の進め方です。そういうお仕事をしていた人なのでしょうか。少し御返事に困りました。

 取り壊した跡地には、40階建ての建物が2棟できるそうです。まさかそんな巨大な建物も50年余りで取り壊すなんてことになるのかしら。そんなことはないだろうと、自問自答。どうなるものやら、わかりませんが、そろそろ30年サイクルで景色が変わるということも終わりだろうなという気だけはします。

 そうすると幕末の写真にみるような外濠土手の眺めを楽しめるのは、これからほんの数週間ということになりそうです。富士見側からの写真を撮りたいと思いつつ、なかなかそれが出来ずにいます。写真を撮るならお天気の良い日の、光がちょうど上手い具合に差し込む時間がいいなあと、へたくそなくせに高望みをしてしまうからますます写真を撮るタイミングを逸しています。

さくらの実の熟するころ。

2011年06月11日(土)



 外濠の土手の桜。毎年、小さな実をつけます。今年は例年にもましてたくさんの実がなっているような。そんな気がするのは、いつもの年よりも注意深く、外濠のさくらの変化を、こちらが見ているせいかもしれません。

 桜の実は小指の頭よりも小さい。黄色い実が赤くなり、それから赤黒くなるとヒヨドリがやって来て実をついばみます。だから外濠の石畳はヒヨドリの黒い糞でまだら模様になっています。うまくしたもので、雨がふればヒヨドリの黒い糞はみな洗い流され、あとには桜の種が無数に残っています。目の良いヒヨドリは、桜の実が食べごろになるのをほんとによく見つけるものです。



 ヒヨドリの大宴会が終わる頃には、泰山木の花がぽっかりと開きます。いつもの年は泰山木の花が突然開いて驚くのですが、今年は細い花芽がついたときから、目がいっているということは、やっぱり注意を特別に払っているということでしょう。人間の世界はなかなかうまくいかない事も多いのですが、自然の世界はちゃんと地球は公転して、冬が過ぎれば春が来て、行く春を惜しんでいる間にも夏の支度は整うようになっているようです。

鎌倉 鶴岡八幡宮の大銀杏ひこばえ

2011年06月10日(金)



 鎌倉の鶴岡八幡宮は懐かしいお社です。子どもの時のなじみのお社は金沢八景の瀬戸神社。館山へ移ってからは船形の崖観音と那古観音。鎌倉の鶴岡八幡宮は、子ども時代に境内で遊んだお社とはちょっと違って、なんだか晴れがましくなつかしいところがあります。

 小学校の修学旅行は金谷から東京湾フェリーに乗って鎌倉、小田原というものでした。鎌倉の八幡様の石段で撮影した集合写真を持っています。でも私はそのなかに写っていません。風邪を引いて熱を出したものだから修学旅行に行けなかったのです。で、翌年のお正月、母と叔母に鎌倉へ連れて行ってもらいました。鶴岡八幡宮へ行ったのはその時が初めてでした。金沢八景育ちの母や叔母はもちろんもう何度も出かけているお社です。鎌倉に行くなら駅前の豊島屋の喫茶室に寄ろうと、母と叔母が相談していたのを覚えています。このお社が、なんだか晴れがましく懐かしいのは、そんなことも関係しているのかもしれません。それから、30代の頃は、鎌倉在住の富岡幸一郎さんたちに誘われて、夏に鎌倉の飲み会をやってました。そいうことも懐かしさにきらびやかさを加えている理由になっているのでしょう。

 城戸朱里さんに芸術選奨新人賞を受賞されたお祝いを差し上げたいと言ったら「鎌倉の宴会!」という御返事が来て、それが震災やら原発事故でのびのびになっていました。で、約束を果たしに鎌倉へ。藤沢周さん、八木寧子さんも加わってささやかな祝宴を楽しんできました。



 八幡様の大銀杏が強風のために倒れたのは、1昨年の秋のことでした。一度、様子を見に行きたかったので、城戸朱里さんとは大銀杏の前で待ち合わせました。紗の覆いで保護された大銀杏の株からひこばえが出ているというニュースは聞いてました。



 紗の覆いをどれどれと覗き込んでみると、おおきな株の中からにょきにょき。出ているではありませんか、幾つものひこばえが。いや、もうひこばえと言うにはやや大きくなりすぎていて、若木と呼べそうな大きさに育っていました。一本の大木が倒れて、そのあとに、若い木の林が生まれつつあるのを見てきました。



 地上の幹は折れて倒れても根はまだ生きているのです。生きている根は、もう一仕事もふた仕事もしてから、だんだんとこの世を去ってゆく様子です。根を張るというのはそういうことなのでしょう。大木が倒れたあとに若木の林が出来て、若木の林の中から強い木が、ほかの木々を圧倒してまた大木になる。その間に100年ぐらいが過ぎて行く。紗の覆いの中を覗きながら、そんなことを考えました。もっとも、紗の覆いに注連縄が張られた大切な木ですから、ひこばえの根本には栄養剤が注入されていて、たくましさよりはやや過保護? な様子も見て取れました。

復興書店に本がならびました。

2011年06月05日(日)

 たいへん遅くなりましたが、復興書店に本が並びました。絶版になっている新潮社「楽隊のうさぎ」単行本。新潮社「うさぎとトランペット」単行本。それから新刊の「書評 時評 本の話」集英社文庫「豊海と育海の物語」新潮文庫「うさぎとトランペット」などを提供しました。いずれもサインと入れました。

 昨晩アップされたのですが講談社文芸文庫「女ともだち」は早くもSold Outの表示になっていました。お買い上げく下さった皆様、どうもありがとうございます。また、ほかの本もお早めにお買い上げいただければ、うれしいです。どうぞよろしくお願いします。

青い森鉄道からJR八戸線

2011年06月03日(金)

 台風と梅雨前線の隙間に広がった青空の一日。青い森鉄道とJR八戸線に乗ってきました。新幹線の新青森延伸で、今年の新緑の季節は観光客がたくさん来るはずだたのにと、新幹線が来ても、震災のために観光客が減ってしまった青森です。

 青い森鉄道は旧東北本線。東北本線だった頃に何度か野辺地や八戸まで特急に乗ったことがあります.青森の駅には、青い森鉄道の案内所が出来ていました。案内所前に立っていた女性と、八戸からのJR八戸線の連絡について尋ねるとついでに地震の話をしました。青森もゆら〜りゆら〜りと、大きくゆっくりとした揺れがしばらく続いたそうです。

 青森駅ホームに入ってきた青い森鉄道は2両編成のロングシートの列車。ボックスシートの特急とは様子が違って、なんとなくのんびりムード。ただし、青森市内を出たあたりから。飛ばすこと飛ばすこと。こんなにすっ飛んでいいたのしらと、驚くほどの速さで、浅虫温泉あたりの海岸へ出て、青い海を左手に、輝く緑の山を右手に進んでいきました。黒い帽子、黒いコートに青いスカーフそれに黒いスラックスのお婆さんが、シートにゆったり腰をかけて列車の窓の外を眺めていました。太平洋側は寒いのです。「やませ」と呼ばれる寒冷な気候で、まだストーブを使っているお家もだいぶあります。だからお婆さんは冷えないように完全防備。

 さすがに青森には、大阪や名古屋で見かけるようなロリータファッションのお嬢さんはいないなあと思ったやさきに、黒っぽいリボンに白いレース黒い編み上げのコルセットに白いレースのストッキングというスタイルのお嬢さんが列車に乗ってきました。やっぱりロリータというのか、バロックと言うのかデコラティブなファッションは日本全国で流行中の様子。野辺地でした。

 このデコラティブお嬢さんと一緒に観光客らしい女性も数人乗ってきました。50代60代くらい。お洒落してます。2、3人と連れ立っていました。それから一人旅の人も。座席に座ってキャリーケースの上に足を乗せていた女性は、年はたぶん60代前半。旅なれた様子から見ると、きっと若い頃から一人旅になれているのでしょう。というわけで八戸に到着。



 JR八戸線は八戸から岩手県の久慈まで、風光明媚な海岸線を走る列車です。しかし、現在は青森県と岩手県の境の階上(はしかみ)駅までしか列車は走っていません。階上から久慈までの線路や鉄橋が津波で流されてしまったのだそうです。現在は列車の代わりにバスが運転されています。





 ボックスシートの車両で2両編成。八戸駅から鮫(さめ)駅までは市街地を走ります。八戸セメントの大きな工場が見えました。鮫駅で列車に乗り込んできたお婆さんが、乗客の中に知り合いの顔をみつけてうれしそうに声をかけ、二人で手を取り合って喜んでいました。
 市街地を出るとすぐに、ウミネコが巣を作っている蕪島が見えます。列車は少し高いところを走っているのですが、太平洋の荒い波が打ち寄せる海岸線は津波の被害を受けています。



 蕪島でも、大きなコンクリートの防波堤の一部が津波に打ち砕かれていました。島のかげになっている駐車場の東屋は無事。しかし、並んでいたお土産屋さんは跡形もないということでした。蕪島から種差海岸のあたりの松林の中には、切りそろえられた松の材が積み重なっていましたが、これもどうやら、津波で倒された松を片付けたものの様子。すっかり片付いてはいますが、ところどころにコンクリートの土台だけになった建物もありました。



 気がつくと列車の中はお婆さんたちの話し声でいっぱい。なんだかウミネコが鳴き交わしていた蕪島を思い出させます。お婆さんたちは穏やかな声でなにやら楽しそうにお喋りをしていました。お爺さんよりお婆さんが目立ったのは昼過ぎという列車の時刻のためでしょう。鮫駅までは何本も列車が出ていますが階上まで行く列車は朝、昼、夕方の3本です。

 階上のひとつ手前に大蛇(おおじゃ)駅から山のほうへ登ったところに大きなトチノキとウツギがあるのは知っていたのですが、その木を見に行くと、八戸の戻れるのは夜になってしまい東京行きの新幹線には間に合わなくなるので、今度はよしました。ウツギは白い花を咲かせている季節なので、ちょっと惜しかったのですけど。階上駅で列車の車掌さんに聞くと、乗ってきた列車がまた八戸に引き返すとのこと。
 駅前のお店でパンを買って停車中の列車の中で食べることにしました。

 パンを買った駅前のお店のおばさんは「ほら、あれだから。あれで八戸はずいぶんひどかったみたい」でと話してくれました。地震とか津波という言葉を口に出したくないみたいです。だから「あれで」「あれだから」と。忌み言葉という習慣がありますが、恐ろしかったのでしょう。しぜんと「あれ」を指す言葉が忌み言葉になっていました。階上のパン屋さんだけでなく、ちょっと「津波」や「地震」という言葉を避ける感覚は、八戸の八食センターの八百屋さんや、青森の新鮮市場の魚屋さんにもありました。

 停車中の列車に戻ってパンを食べていると、若い車掌さんが暖房を入れてくれました。空は青く、光は初夏の光ですが、空気はひどく冷たいのです。寒いというよりも冷たい空気があたり一面を包んでいました。

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