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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

草津温泉

2011年09月16日(金)

 草津温泉の入り口に、路面に特殊な舗装を施して車で40キロ走行すると「草津良いとこ、一度はお出で」のメロディーが聞こえるという道路があります。この舗装は群馬県内の温泉入り口などには、それぞれの土地にちなんだ曲の舗装がされているそうです。



 草津に行った日は、南の海上を台風12号がのろのろと進んでいました。紀伊半島に甚大な被害をもたらしたあの台風です。関東でも群馬県の山沿いは大雨。おかげで関越は本庄児玉から渋川伊香保までが通行止め。旧中山道の国道17号は大渋滞。で、草津まで車で8時間もかかってしまいました。ようやく草津に入ったと、くたくたの耳の響いてきたのが、道路の舗装の奏でる「草津良いとこ〜、一度はおいで〜」の響き。まるで地の底から響く悪霊の声のように聞こえました。いまいましいこと限りなし。



 台風はのろのろで、翌日も四国を自転車なみ、どうかすると歩く速度で進みました。良かったことと言えば、ふだんは観光客で大混雑する草津の湯畑をゆっくり見物できたことでした。おおきな源泉がぽっかりと口をあけているという眺めはやはり壮観でした。



 硫黄を採取する木の樋。黄色い粉の硫黄を買って帰ったこともありました。草津のお湯は、強いお湯で、金属の装身具がたちまち黒くなってしまうこともあります。



 お湯が落ちるところに石が緑色になっているのも印象的な眺めでした。伊香保あたりまでは山の湯という感じがしますが、標高1600メートルの草津は山さえ突き抜けた感じです。

伊勢うどん

2011年09月12日(月)



 おうどんのしたに、甘辛いたれが入っている伊勢うどんを久しぶりに食べました。鳥羽、伊勢、名古屋、草津、伊香保と回った合宿旅行。隠れたテーマは「うどん」だったかもしれません。

 伊勢神宮のおはらい通りで、伊勢うどん。鳥羽でも伊勢うどん。名古屋へ出てきしめん。きしめんは関東風に言えばひもかわうどんです。草津で鍋焼きうどん。伊香保では水沢うどん。こんなにうどんばかり食べるのも珍しい。どちらかと言えば蕎麦喰いで、お昼はお蕎麦と言うこともよくあります。東京では滅多にうどんを食べません。時折、鍋焼きうどんを食べるくらい。これが大阪になると逆になって駅そばのきざみうどんを食べるのが楽しみ。なんと言っても大阪のうどんはお汁がおいしいのです。

 でも伊勢うどんにお汁はありません。あるのはたれ。たれを白いうどんにまぶすようにして食べます。感触としては、甘辛団子のおうどんバージョン。最初はちょっとびっくりしました。おうどんと言えば、お汁を楽しむものとばかり思っていましたので、あれ?あれ?あれ?でした。今度は2回目。これは、これはちょっといいかなあと、伊勢うどんを食べました。

 名古屋のきしめん。お正月に味噌煮込みを食べてたいへんに美味しかった。私の育った家はお祖父さんが名古屋から出てきた人だったので、きしめんの乾麺を、親戚からお土産にもらいました。ひもかわという言い方ときしめんという言い方の両方を使っていました。今度は冷やしきしめんを食べました。でもせっかく名古屋にいたのだからやっぱり味噌煮込みを食べればよかったかなあと少々後悔。ひどく暑い日でなければ、迷わず味噌煮込みを選んでいたと思います。

 草津の鍋焼きうどん。台風12号がのろのろと四国に近づいていたのです。標高1600メートルの草津の町は雨。寒いくらいでした。こんな時はやっぱり暖ったかな鍋焼きうどん。草津だったらお蕎麦を食べようという気になってもよさそうなものなのに。なぜか鍋焼きうどんが食べたくなりました。

 伊香保で水沢うどん。うどん、蕎麦、ラーメンなどがあるお店に入ったのですが、突然、大勢さんのお客さんに入ってこられたお店のほうが猛烈に水沢うどんをプッシュ。ご主人一人でてんでん勝手に注文されたら、対応不可能というわけです。で、水沢うどん。これがすこぶるおいしいうどんでした。腰の強いうどん。それから摺り降ろしたゴマの入ったお汁。汁をつけて食べる冷やしうどん。ゴマの入った付け汁がさっぱりとしておいしいうどんでした。店主が「うどんになさいよ」と猛烈プッシュするだけのことはありました。

御塩殿神社

2011年09月10日(土)



 夫婦岩がある二見ヶ浦には何度も行っています。伊勢神宮に参拝する人が旅装をといて禊をするのが二見ヶ浦だったそうです。ということは、今度の旅行でゼミ生の皆さんに説明するために知りました。子どもの頃はあのカエルがいっぱいいるところは「なんなのだろう?」と不思議に思っていました。子どもの頃に住んでいた家の池のそばに二見ヶ浦のお土産のカエルが座っていましたから。で、みつけましたHP管理人豆蔵君そっくりのかえる。二見ヶ浦興玉神社の入り口にいたカエル君。しかし、どっかにでかけるとなんとなく豆蔵君そっくりのなにかがいるってのは、もしかして豆蔵君はなにかの神様のお使いなのかな。ちなみにカエルは猿田彦命のおつかいなのだそうです。



 伊勢神宮の御塩殿神社が近いことも、今度初めてしりました。地元の人は、たんに「御塩殿」と呼んでいるそうです。御塩殿神社は伊勢神宮のお塩を作っている塩田があります。お天気も良かったので、御塩殿神社に回ってみることにしました。野や山、それに浜には、なぜかとっても清浄感にあふれる場所があります。陽の光のさしかた、風の通りかた、植物の育ち方などが、とても心地よい場所です。子どもの頃は野山や浜で遊んでいて、そういう場所を見つけては、そこを「秘密の場所」にしていましたが、神社もそういう「秘密の場所」っぽいとことにあることが多いです。御塩殿神社もやはり、自然の清浄感のある場所にありました。

 清浄と清潔ってちょっと違う感じがします。清潔ってのは、がんがん消毒しても得られるけど、清浄ってのはそもそも消毒薬さえ拒否しちゃうようなところがある。そんなふうに思うことがあります。



 お社の入り口で椿の木がたくさん丸い実をつけていました。茂った樹木のつくる陰が心地よい参道を通って簡素なお社の前へでました。製塩のための小屋はこのお社を海岸のほうへ回りこんだ松林の中にひっそりと立っていました。どこか、この近くに塩田もあるはずですが、見つけることはできませんでした。塩田で、濃度を濃くした塩水を、釜で煮詰めて塩を作るのです。伊勢神宮の製塩は年に2度行われると私が読んだ本には書かれていました。そもそも伊勢神宮がこの地に鎮座するようになったのは、海の幸、山の幸に恵まれた土地だったからだそうです。

 御塩殿神社を見て、それから海岸を二見興玉神社まで歩きました。入り口で向かえてくれたのが、例の豆蔵君似のカエルですが、陶器のカエル、あの懐かしい我が家の池のふちにいたカエルがいなくなっていました。以前はおびただしいほどあちらこちらに置かれていたのですけど。なにかカエルを片付ける季節とか行事があるのでしょうか?それともこのごろはカエルの置物を奉納するという習慣がなくなってしまったのでしょうか? 目立ったのは写真のコンクリートのカエルだけでした。
 
 近鉄鳥羽駅で岩やの塩羊羹というお土産を見つけました。塩羊羹は江ノ島のお土産にもあるのですが、岩やの塩羊羹のすきっりとした塩味がすっかり気に言ってしまいました。もちろん羊羹ですから、甘いのですが、塩味がその甘さと良い塩梅に調和していて、ああ、また食べたいという気になっています。御塩殿神社に行ったせいかもしれません。

鳥羽伊勢名古屋・草津・伊香保

2011年09月09日(金)

 鳥羽、伊勢、名古屋それから草津、伊香保と旅行が続きました。



 鳥羽に出かけたのは5歳のときでしたから、実に45年ぶりでした。水中翼船に乗ったのをぼんやりと覚えている程度。タクシーの運転手さんに聞くと「昭和40年代が観光の黄金期だったねえ」というお話でした。千葉で暮らしているという運転手さんの娘さんも、震災後しばらくはお孫さんと一緒に鳥羽へ避難してきていたとのこと。今年は震災後、観光客もめっきり少なくなったようです。宿泊したのは鳥羽の駅から山を越えた相差という町。山超えの道に白い百合がたくさん咲いてました。

 百合といえば初夏と思っていたので、不思議に感じて調べてみたら外来種のタカサゴユリと日本のテッポウユリの交雑種のシンテッポウユリらしいとわかりました。鳥羽に2泊して二見ヶ浦、伊勢神宮と回り、帰りは名古屋によりました。二見ヶ浦では、伊勢神宮のお塩を作っている御塩殿神社にも行ってきました。地元では「御塩殿」と呼んでいるとのこと。御塩殿神社から二見ヶ浦の夫婦岩まで、海岸を歩きました。すばらしいお天気。が、この時はもう、紀伊半島に大打撃を与える台風12号が南の海の上に発生していました。




 草津は台風12号が四国に上陸するかしないかという日に出かけて行きました。群馬県の山沿いでは記録的な豪雨が降っていて、関越自動車道は本庄児玉から渋川伊香保までが通行止め。国道17号は大渋滞。さらに山越えをして長野原に出て、草津にたどり着くまでに8時間もかかりました。四国に上陸するはずの台風は、時速10キロののろのろ状態。上陸してからも速度は上がらなかったのは皆さんご承知のとおりです。草津の宿に到着した晩は、落雷もあり、一時、非常用の電気を使いました。翌日も時折叩きつけるような雨でしたが、湯畑だけはゆっくり見物してきました。



 草津から伊香保へ。台風が通り過ぎて、山はすっかり秋の気配でした。日陰も涼しく、夕方になれば肌寒いくらい。ホテルの前へ朝取りの野菜を売りにきていた農家のおばさんに聞くと、台風の風で、収穫直前の林檎が枝にこすれて傷だらけになってしまったそうです。

 伊香保の石段街は、再整備の途中らしく、自動車用の道路に面して広場が出来ていました。石段もすっかり新しくした様子。共同浴場の石段の湯は、以前よりも少し自動車道に近い場所に新築されていました。

ニクソンショックから40年

2011年08月18日(木)

 今年の8月15日はニクソン・ショックから40年だそうです。ニクソン・ショックは1971年。連合赤軍による浅間山荘事件は1972年冬のことですから、ニクソン・ショックの頃の日本では、全共闘の学生運動が下火になり、極端に突出した運動家が、多くの人を驚かすような事件を起こすようになっていました。淀号のハイジャック事件は1970年の春ですから、ニクソン・ショックはちょうどその二つの事件の間で起きています。

 さて、ニクソン・ショックですが、アメリカのドルと金の交換停止をニクソン大統領が突然に発表したものです。そこからドルの興亡が始るのでした。長い目で見ればドルの凋落かもしれませんが、ただ落ちる一方ではなかったようです。今から振り返るとドルは、金という縛りから自由になって行った40年だったわけです。正式に変動相場制に移行したのは1976年。昭和で言うと51年で、私は高校生になっていました。1985年にはプラザ合意で、金融自由化が始ります。日本でバブル景気が本格化するのは、これ以降だったと思います。1985年の3月に、私はロンドンに3日間ほどいて、金融街のシティを歩いています。日曜日だったので、ひっそりとした金融街でした。たった3日間しかいないロンドンで金融街のシティに行ってみようと思ったのは、飛行機の中のガイド・ブックでちょっと興味を持ったからに過ぎません。でも、興味を持つからには、何か理由があったはずなのですが、その理由が今はもう思い出せなくなっています。

 ウィンブルドン効果という単語は1985年3月の段階ではまた知らなかった、というより、単語がそもそもなかったかもしれません。ロンドンのシティに世界中からの金融取引を集めて、イギリスを繁栄させる政策をそう呼ぶのだと聞いたのはだいぶ後からです。テニスのウィンブルドンのように、金融取引の勝者はどこの国の人でも良い、しかしその取引の場所がロンドンのシティであれば良いという理屈でした。NYはこれをより大規模に展開していたようです。これでドルはその基軸通貨としての地位を守ります。日本では株式市場の値上がりはもちろん、土地の値段がべらぼうに上がりました。私が今、住んでいるマンションを購入したのは、この値上がりの最中でした。だから高い買物をしたのかもしれませんが、その頃は銀行も気前が良くって、お金を借りてくれと頼むようなことさえありました。

 金融自由化による好景気は額面上の財産を増やすことで、経済を活性化して行くという方法です。額面上の財産を増やすというのは、投資家の投資を誘うのですが、投資したからには利益が出なければなりません。簡単に言えば未来にお金を投じるわけですから、そのお金が何か利益を生む必要があるのです。で、ここで1970年頃から日本で原発が盛んに作られるようになってことを重ねてみたくなります。何をするにも先立つものはお金と、よく言われますが、お金と同じくらい「電気」がなければ、何もできません。

 内需拡大はプラザ合意後の日本でよく聞いた言葉ですが、内需拡大も先立つものは電気であったと今更ながらに呆れます。小学生だったうちの子どもたちと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を繰り返し見て楽しんだのは1990年前後。PART2では悪ガキのビフが未来のスポーツ年鑑を手に入れ、スポーツ賭博で大金持ちになって、街が電飾ギンギンのラスベガスのようになっているという場面がありました。PART2の公開は1989年。NYの株式市場が大暴落したブラック・マンデーは1987年10月でした。が、日本では株式市場は値上がりを続け1989年12月に史上最高値の38915円89銭をつけました。ブラック・マンデーを経験したアメリカは、グリーンスパン氏がFRB議長に就任したばかり。その後、グリーンスパンマジックという手法を展開してゆくようになります。
 映画の「バッグ・トゥ・ザ・フィーチャー」PART3の結末と違って、アメリカは世界を巻き込みながら、大量に電気を喰うギンギンのラスベガス街道を驀進して行くというわけです。実態なき経済成長と言ってもいいかもしれません。

 しかし、ほんとに実態がなかったわけではなく、実態を後からくっつけたわけで、やはり電気が必要だったのです。戦後の高度成長期の経済成長と、後からむりやりにくっつけた経済成長では、感触が違うのはむりからぬことだと思います。だって額面上の会計の帳尻合わせのために、むりやりに遊んだり、食べたり、飲んだり、着慣れないものを着たり。そういうむりやりな生き方をする親の苦悶の表情を見ていた子どもたち、つまり今の青年たちが草食動物と揶揄されるような存在になったのも理由があることでしょう。彼らは時代が成熟を促した思慮深いヨーダみたいな存在かもしれません。「スター・ウォーズ」のヨーダです。

 ニクソン・ショックからの40年を振り返ってみると、そこに日本の原発開発が重なります。1944年のブレトンウッズ会議からニクソン・ショックまでが25年。ニクソン・ショックから24年後の1995年の日本では、阪神大震災とオウム事件。2011年から先の10年。つまりニクソン・ショックから50年になるときには、電気をやたらに喰う金融資本主義はどのように変化しているのでしょうか。「スター・ウォーズ」ではヨーダも最後には剣を取って闘うのでしたっけ。

飯田橋 深夜の投げ銭男

2011年08月15日(月)

 思い返せば5ヶ月前。震災直後の2週間ばかりは家からほとんど外へ出ませんでした。買物も近所で済ませていました。初めて池袋まで出た日は、運悪く、東京が大停電になるかもしれないという発表があり、帰りの電車は大混雑。知り合いといやにひっそりした街を歩いたのはいつのことだったか? もう4月になってました。外濠の土手に桜がいっぱい咲いていました。

 4月半ばに大阪へ行った時は、大阪の空気がゆるいので、ほっとしたものでした。飲み屋で人の悪い冗談を大きな声で言っているおじさんがいるというだけでも、街の空気の違いを感じることができました。神保町でシャツを1枚買ったのは5月の初め。「震災直後よりもだんだん人が戻っていますねえ」とシャツ屋さん。震災から1ヶ月ほどは、神保町の人通りもまばらだったとのことでした。

 そういう直後の緊張がほどけないまま夏に。なんだか夏になった気がしない東京です。浮かれて歩く人を見かけません。人の身なりもどこか遠慮ぎみ。リゾートじゃないぞ! というようなカッコウの人をほとんど見かけません。緊張気味だった人の顔は、だんだんちょっと険悪だなあと感じるような極端な人も見かけるようになりました。

 さてとタイトルにした飯田橋の投げ銭男。見かけたのは7月末頃。その日は大学院の前期の講義が終わったので、飯田橋の東口のイタリア風居酒屋のテラスで院生諸君とワインを飲んでいました。電車の時間があるので、一人抜け、二人抜け。それでも話し込んでいて、残ったメンバーでカラオケにでも行こうかということになりました。だから12時半は回っていたでしょう。

 飯田橋西口の五差路の交差点を新宿方向へ入ったところ、向こうから中年のカップルがやってきました。なにやら言い争っている様子。すたこらと歩く中肉中背の男。小走りに追いつきながら、首を傾げつつなにか言い募る女性は。かりっと痩せた身体で、女の人としては長身の部類。ほっそりとした首が印象的な女の人でした。ああ、けんかしているなあとぼんやり眺めていたところ、ポケットに手を突っ込んでいた男の人が、やにわにばらばらとお金を路上に撒きました。

 一緒にいた院生が「あ、お金が落ちましたよ」と言いながら拾い集めようとするのを、ちょっと手で制してしまいました。落としたのではなく、あきらかにお金を撒いたのでしたから。10円玉、100円玉、それから500円玉。コインとはいえ拾い集めれば、けっこうな額になりそうです。案の定、男の人は「金拾って来いよ」と女の人に命令口調。言われた女の人は、やや躊躇。だって、お金を拾っている間に逃げられそうなのは見物していた私にも解るのですから。築地の市場に仕入れに行く料理屋さんが持っているような四角い籠を下げていた女の人は、躊躇はしたものの、路上にばら撒かれたお金が惜しくって、大急ぎで拾い集めだしました。

 なんたる卑怯者なのだ。と、憤慨。でも、まあ、人様の喧嘩に首を突っ込むのも、いかがなものかで、通り過ぎるそぶりで見ていると、すたこらさっさと逃げ出すかと思った男の人は、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていきます。で。道の角を曲がろうとしたところで、女の人が全速力で追いつきました。きっと道を曲がったところで走り出すつもりだったのでしょう。女の人のほうもそんなことお見通し。東洋人のカップルであることは間違いないのですが、どちらも日本人だったようなそうでないような、夜目には判断がつきかねる二人でした。

 カラオケで遊んで明るくなってから同じ道に出てみると10円玉がひとつ落ちてました。あの男の人がポケットから撒いた10円玉だったかどうかはわかりません。なんだか言い争いの原因はお金のことだったような気がします。それにしても玉銭ばかりよくあんなにポケットに溜め込んでいたものです。

米国債 格下げ

2011年08月09日(火)

 米国債がS&Pによって格下げされました。米国債が格下げされたことが、世界の経済へ、日本の経済へ、どのように影響するのかという一般的な関心とは別の関心を私は持っています。その関心を一言で言えば、米国経済の衰退は世界の文化と芸術をどう変化させるのかという関心です。

 デジタル技術とネット文化の発展は時代の趨勢だと多くの人が感じているはずです。確かにそれはそうなのですが、気になっているのは、デジタル技術とネット文化は、コンテンツ(音楽、美術、文学、漫画、アニメーション、写真それから報道などなど)の価値を安く見積もる傾向があります。時には安くではなく無料の場合もあります。コンテンツが無料というのは、すでにテレビ、ラジオで経験済みのやり方で、テレビ、ラジオはコマーシャルの利益によって運営されてきました。ネット配信はそれをより強力に推し進めたもののように見えます。でも、このコンテンツを楽しむ人と、コンテンツの制作費用を負担する人の間に、おおきなズレがあることが問題でした。コンテンツは無料で楽しめるものという意識が生まれてしまうところにも問題がありました。

 今日、CDショップのWAVEの破産というニュースを見つけました。ネット配信が進んで、CDの売り上げが落ちたからというのが破産の原因だと思います。アメリカではアーティストが楽曲の配信では利益が上げられないので、グッズ販売に力を入れているとも聞いています。ネット配信の利点は、データなので倉庫代や運送費、それから店舗にかかる諸費用がいらないので「安く」なるというものでした。しかし、それはほんとうなのでしょうか? 私は首をかしげています。

 私はおもに電子ブック関連で、上記のようなネット配信の利点の説明を聞いてきました。そのさいに感じたことを率直に書くと、そういう説明をする人は、本というものの紙代や輸送費は問題にしても、かんじんの本の中身の価値がどのように捻出されているのかは、ほとんど無知である場合が多かったのです。つまりコンテンツの価値を「本」という物品の値段にどう含ませているのかについて知っている人はいませんでした。これは、音楽や映画などでも同じことが言えると考えています。ネット配信の説明では、コンテンツの価値は著しく無視されていることが多いのです。

 さて、一方で、ネット配信はそんなに安いものなのでしょうか? 配信を受けるための情報機器の値段はピンからキリまでありますが、その機器を数年おきに買い換えることを考えると、トータルでそれほど安くなったと私には思えないのです。情報機器だけでなく、情報を再現するためのソフトの必要もあわせるとよし割高に感じられます。私は30万円あったら、死ぬまでに読みきれないほどの本を買い込むことができますし、お天気がよければ電気代もかけずに繰り返しその本を読めますし、なんなら、繰り返し読んだ本から、新しい物語を自分で作ることもできます。いや、これは脱線。

 ここからが偏見。現在のネットはもともとアメリカが軍用で持っていたネットワークを民間用に開放したことから始まっています。なぜ民間用に開放したかと言えば、新しい産業を興して、アメリカ経済を活性化するためでした。考えてみれば、第二次世界大戦に勝利して以来、アメリカはすっきりと勝利した戦争はありません。朝鮮戦争、ベトナム戦争。いずれも「勝てなかった」戦争です。第一次世界大戦、第二次世界大戦で国力を伸ばしたアメリカの力はベトナム戦争が終結する頃に、すでに成長の源泉を失っていたという見方もできなくはないのです。ニクソン・ショックはそれを物語っていました。しかし、アメリカは世界の覇者であることにまちがいはありませんでした。今、グローバル化と呼ばれている諸々の現象は、アメリカのやり方である場合が多いと聞いています。それが広まって行くのが1980年代以降です。で、ソビエトが崩壊。90年代に入ってすぐに、イラク戦争。インターネットが登場したのはこの頃です。

 インターネットは最初から「革命」だとか「第3」あるいは「第4」の産業革命だと宣伝されました。裏を返せば最初から、かなり観念的に「産業革命」のイメージを喧伝されていたのです。そのことによって、株式市場でネット関連の企業の株価があがったり、ネット関連会社の間の買収活動が盛んになったりました。これが私には成長力の源泉を失ったアメリカの、むりやりな成長政策、観念先行の経済振興策に思えるのです。ここが私の偏見。

 もともと雑誌(マガジン)新聞(ニュースペーパー)映画、ラジオ、テレビと言った大衆文化を中心に発展してきたアメリカ文化は、コンテンツに対する評価は「数」の評価を重要視するところがあります。薄利多売を美徳とするところも多いにあります。そうしたアメリカ文化の性質がネット配信の世界で生かされています。が、根がややムリな経済振興策、成長政策の理論から出発していると思っているので、私はそれを自然な時代に変化と感じることができないのです。ネット関連企業とデジタル技術関連企業の帳簿上の利益(株価の値上がりなどを含む)を上げるために、アーティスト(歌手や作家)、小売業者(CDショップや本屋さん)劇場、それからそれに関連したさまざまな業種(紙屋さんとか、歌手のマネージャーとか)などの得ていた利益を、吸い上げてしまっているのではないでしょうか? 結果として小さなビジネスの利益を、大きなビジネスの利益へと搾取するような現象がおきているとは言えないでしょうか? それはアメリカ文化の華であった映画やポピュラー音楽、ミュージカルそれからジャーナリズムさえも衰退させてしまうような現象だと言えます。蛸が蛸の足を食べているような、そんな現象なのではないでしょうか。

 話は米国債の格下げに戻ります。ここまで来たら、ニクソン・ショックから続く大きな歴史の物語もいよいよ大詰めの段を迎えつつあると考えてもいいでしょう。そしてその大詰めは、いったいいかなる結末を迎えるのかは、まだ誰にもわかりませんが、アメリカがむりやりに推し進めてきた「ネット革命」なるものが、大きく変化する可能性はあります。私はそれが「幻」あるいは「神話」や「伝説」として崩れて行くのではないかと、そちらの方向に、期待を持ってしまうのです。いや、ますます強力に「ネット革命」を推し進めて行くことも、想像できないわけではありません。いったい、どちらに世界は進んで行くのでしょうか。

梅鉢の衣装

2011年08月01日(月)

 天神祭りの衣装はとにかく梅鉢、梅鉢、梅鉢でした。梅鉢を細かく散らしたもの、格子の中に配置したもの、大きな梅鉢が裾から肩へ飛んでいるもの。おそろいの浴衣に、いろいろな梅鉢の意匠がありました。そのほかにも目を引く意匠がたくさん。



 お祭りは願人(がんじ)が太鼓を叩く願人太鼓から始まるのだそうですが、その願人と同じ赤い垂れの長い烏帽子(投げ帽子というのだそうです)を被った男の子が太鼓を叩いて天満の商店街を練り歩いていました。



 天満宮繁盛亭の前では、美しい髪飾りの女性たちとすれ違いました。赤い半襟も梅鉢です。



 笠踊りで商店街を練り歩くお嬢さんたち。だんだら模様の袴? がすてき。で、メイクはばっちり現代風。



 同じ横じまの袴でも紺色と白のものもありました。こちらは、天満宮裏手の公園に引き上げてきたところ。男の子も女の子も、小さい子もかなり年配の人も皆々、同じ衣装をつけていました。なかには、この衣装のまま地下鉄に乗っている人もいました。

 そういうわけで、今日もまた写真のアップ豆蔵君お願いします。

お迎え人形

2011年07月29日(金)



 天満宮のお社の一画にお迎え人形を並べてあるところがありました。やじろべえの豆蔵がいたのは、そのお迎え人形の末席? いや、末席かどうかは別にして、豆蔵はお迎え人形の中ではちょっと変わった存在でした。お迎え人形はかなりな大きさで、見た感じでは、大人一人と同じくらいか、それより大きな感じです。顔はまちがいなく、生身の人の顔よりも大きい。全部で16体あるのだそうですが、毎年、交代で展示されるそうです。やじろべえの豆蔵は、一番最後に大阪府民俗文化財に指定されたとのこと。英雄豪傑、芝居の登場人物とはちょっと違った雰囲気の豆蔵ですが、どうももともとは天満宮で子どものお土産として売られていたやじろべえを、お迎え人形のひとつに加えたということのようです。



 今年出ていたのは、まず八幡太郎義家。山形の酒田では、この八幡太郎義家のお人形が、蔵から出たがって、持ち主の家の人の夢に出たという話を聞いたことがありますが、お迎え人形の義家さんもなかなか意志の強そうなお顔をしていました。



 迫力満点なのは「胡蝶の舞」眺めているだけでぐぐっと迫ってきそうなお人形でした。



 かわいい顔というか、どこか、とぼけているのか大らかなのかわからないのがスサオノノミコト(ほんとは漢字なのですけど省略)英雄豪傑というよりも、ねえちゃんのアマテラスオオミカミを困らせた末っ子の感じが出ていました。



 で、お迎え人形が展示してあるところの頭上には、蜆貝で作った藤棚が。確かに藤に見えます。貝の内側がほんのりと紫色ですから。藤には見えるけれども、じっと見ていると、なんだか皆でひしひしと蜆のお汁で、ご飯を食べている光景が浮かんできます。「二日酔いにはやっぱり蜆汁だよ」なんて呟きながらご飯を食べていた人もいるかもしれないなんて、余計な想像までしてしまいました。

 と言うわけで、この項は、また例によって「豆畑の友」の管理人の豆蔵君が写真をアップしてくれる手筈になっています。豆蔵君、どうぞ、よろしく。

 それぞれの人形と本文があっているかドキドキです(豆)

天神祭で見つけたもの。

2011年07月28日(木)



 梅雨明けの頃から、夏を挟んで、秋まで、いったい日本中でどのくらいのお祭りがあるのでしょうか? ちょっと有名なものを思い浮かべただけでも、次から次へときりがなく浮かんできます。「内需拡大」なんて経済学の言葉を知らない昔の人は、神様と遊んで愉快に過ごして、友人知人が遠方から訪ねてきたり、贈り物をしたりして、いつのまにか暑い盛りが過ぎて行くと、そういうふうになっていたようです。

「こんな暑い時に」
 稲垣さんとの待ち合わせより少し早い時間に天満に出て、いつも覗く天満3丁目の古本屋さんの矢野書房に顔を出しました。すると「暑い時に」というご挨拶。ほんとに暑かったのですが、これは天神祭りの頃の決まり文句の挨拶でもあるようです。店主一人の古本屋さんですから、お祭りのときは役員に出てお店を閉めているかもしれないと思いつつも、覗いてみたのでした。

 天1、天2、天3と続く天満の商店街は、聞くところによると日本一長い商店街だそうです。ずっとアーケードが繋がっています。アーケードの中にはシャッターを閉じたままのお店もちらほら。なんだか賑わいからは遠い感じがする天満の商店街です。個人経営のお店はどこも苦しいようです。お祭りで大勢の人が出て、子ども神輿や笠踊りなどが繰り出していますが、やっぱり、日頃の寂しさは残っていました。シャッターを下ろしたお店の前に「亀すくい」の露天がありました。金魚すくいはいたるところで見かけましたが、「亀すくい」はここだけ。男の子が器用に緑色の小さな亀を掬っていました。



 矢野書房さんは「今年はお祭りの役員は勘弁してもらって店を開きました」とのこと。そんな四方山話をしているうちの、表では賑やかにお神輿を担ぐ声や、お囃子の音が聞こえてました。古本屋さん、喫茶店、レストランや食堂、それから八百屋さんに魚屋さんなど、個人経営のお店は、よそから来る人間には、その土地に知っている人を作るためのよいきっかけになってくれます。それでいろいろなことを教えてもらったりもします。しかし、コンビニやスーパーそれかチェーン店のコーヒーショップなどは、そういう気の合う知り合いができるということはあまりありません。どこに行っても同じサービスを受けられるけれども、いつまでたっても「どこかに知らない人」でしかないということが多いです。

「あのお神輿が走るから、危なくって」
「え、お神輿が走るのですか」
 なんて言っているうちに、わぁと声が上がってお神輿がお店の前を走り抜けました。
「ほんと。走っている」
 唖然とする私に
「だから、役員で出ているときは子どもに怪我をさせないように、気が気じゃありません」
 アーケードの中を走るお神輿のあとを、小さな子どもがこれまた全速力で走って追いかけていました。

 矢野書房で東京へ送ってもらう本を幾つか選んで、それからしばらく天満の商店街を歩きました。で、天満宮へ。天満宮の大門にはびっくりするほどの大きな茅(ちがや)の輪がありました。この大門はお神輿が出入りするために、一般の出入りは止められていたので、わきから天満宮へ入りました。お社の前には立派な鳳神輿と玉神輿、それに地車があり、それぞれの「講」の人たちが集まっていました。「講」というのは、それぞれの役割を負った氏子の集まりみたいだなあと、眺めていて、気付いたことがあります。それぞれの「講」でいろいろな品物を売っているのです。扇子とかストラップとか、グッズを売って、そのお金がお祭りの資金になると、そういう仕組みらしいのに気付きました。なんか大阪らしい方法だなあと、ミュージシャンのライブなどでは珍しくない方法ですが、お祭りだとひどく珍しい感じがしました。



 幾つもある「講」の中に生きた牛を連れてきている「講」があります。天神様のお祭りだから牛が出てくるのは納得ですが、この牛がおとなしいこと。鼻面を人が撫ぜても、大きな目を見開いてじっとしています。「3歳の女の子の牛だからおとなしいよ」とおじさんが見物の人に話していました。
 やじろべいの「豆蔵」を見つけました。「お迎え人形」という特大の人形が並んでいる中に、なぜか遠くを見ている「豆蔵」が。これは、さっそくここのHPの管理人の豆蔵君に見せなくっちゃと、お写真をぱちり。



 八軒屋浜へ出てみると、お化け屋敷が。靖国神社のみたま祭りに出ていたお化け屋敷を外から眺めましたが、同じお化け屋敷か、違うお化け屋敷かどうかはわかりませんでした。でも呼び込みは、靖国神社とはまったく違ってました。
「はい。おもしろいよ。笑えますよ。お話の種に見て行ってちょうだい。絶対に笑えます。笑えること保障します」
 大阪では「笑い」はとても価値があるのだと、大阪女性文学会の尾川さんから聞いたがありましたが、お化け屋敷まで「笑い」が売り物とは。お化けも大阪ではコメディアンのようです。そう言えば天満宮のそばに評判の寄席の「繁盛亭」がありましたっけ。
 飴細工屋さんが露天の店を出しているのは初めてみました。次から次へと注文だ殺到して、手を休める閑もない飴細工屋さんでした。



 氏子の集まりの「講」は町内会と同じと、関東者の私などはそう思い込んでいるのですが、どうも天満宮の「講」は町内の集まりのほかに、料理人の集まりとか、市場で作っている「講」とか落語家の「講」など職業的な集団の「講」もあることに、あっちこっち見て歩いているうちに気がつきました。隣近所のお付き合いのほかに同業者の結びつきも強い商人の町の大阪の面目がそれぞれの「講」にあるようでした。

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