年があらたまりました。
2012年01月01日(日)
年が明けました。なにはともあれ、年があらたまったということで、気分も一新と行きたいところですが、元旦から地震。震度4との発表です。揺れとしては物が落ちなかったので、4ぐらいでしょうけれども、小さな揺れから大きな揺れへと変わってゆく地震でした。揺れの時間もながく、新年早々、とんだお年始でした。
暮れの27日に神田須田町の「藪そば」であられそばを食べているとき、歯痛発生。そのまま、歯痛に悩まされている新年でもあります。
なにはともあれ、年は改まりました。今年は良いことが少しずつ重なりますように。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。
神田神保町
2011年12月31日(土)
ようやく大晦日にたどりついたという気もするし、もう大晦日かという気もする今年の大晦日です。2011年は3月11日より前がなくなっちゃったという感じ。それから3月11日から2、3ヶ月はしょっちゅう地震で揺れていましたから、なんだか、思い返すといろんなことがぼんやりしてます。
仙台へ行った時に佐伯一麦さんと「人の顔がけわしいねえ」という話をしました。東にいるときはあまり感じないのですが、大阪など西へ行くと、ああ、東の人の顔はけわしいなあと感じます。ただ、不満げな顔をした人はあまり見なくなりました。不満げだったり、かったるそうだったり、そういう顔の人をあまり見かけなくなったかわりに、えらくすっきりとしたお洒落をしている若い男の人が目を引くようになりました。「渇」が入ったっていうところでしょうか。
地震の日以来、東京を歩き回りたくって仕方がないのは私のセンチメンタル。
で、神田神保町です。すずらん通りにも白山通りにも靖国通りにもアーケードがかかっていたのは何時ごろまででしたでしょうか? アーケードがあり、舗道に商店の品物や看板がたくさん出ていました。全体にわんわんするような人の密度があったのを覚えています。
ネットが出来たので、神保町の古本屋には「荷」があまり入って来なくなったと聞きました。以前は日本じゅうの古本屋さんが「荷」を神保町に送って、本を売ってもらっていたとのことです。そこへまた本を探す人が集まって来たのが神保町でした。
本はマニュファクチャーの産物なんだと、この頃、しきりにそれを思います。あと、高級ブランドもマニュファクチャーの産物だと。「それがどうした」と聞かれるとなんともまだ言えないのですけど。考えはそこでぐるぐると回っているばかりです。例えば、いろいろな食物がどうしたって工業化に馴染まないところがあるように、本という品物も、工業化(たぶんITと言ったほうがいいのかもしれませんが)に馴染まないところがあるのではないかと、そういうことを考えているわけですが。
まあ、とぼとぼとした考えです。公方さまがいた江戸の町、東京を名乗りだした明治の東京、世界の1等国に踊りだした大正から昭和初期の東京、そういう東京はけっこう惜しまれたり愛されたりしているのに、とぼとぼ歩きながらぼんやり思い出している私の東京は、昭和中期の忘れられるだけの東京のような気がしてます。そんなことを考えていたら映画「3丁目の夕日」のポスターが張ってありました。
なにはともあれ大晦日にたどりつきました。
神田駿河台下
2011年12月29日(木)
考えてみると、学生の頃、うろうろしていたエリアってそう広いものではありませんでした。
西側はお茶の水の駅から線路沿いに坂を下って(雁木坂って言ったと思います)水道橋の駅あたりまで。線路を挟んで向こう側は、神田明神や湯島聖堂まで行くことも珍しいくらいでした。東側は聖橋まで。中央大学が八王子に引っ越して、ニッパンのビルが出来てからは、ニコライ堂のあたりに行くことも少なくなりました。今は明大通りと言われている坂を下って神田駿河台下の交差点は、左へ行くことは滅多にありませんでした。
だいたいうろうろしていたのは、すずらん通りと白山通り、それに明大通りの内側です。それでも、大勢の人が行き交って目が回るような広い世界に放り出されている気がしたものでした。駿河台下の交差点は大きい交差点ですが、明治大学の裏側あたりには、路地がたくさんあって、それを猫のように路地から路地へ歩き回っていました。製本屋さんがけっこうあって紙の匂いがしてました。あと、揚げ物の匂い。それからコーヒーの匂いとカレーの匂い。
靖国通りにガラス張りのタキイのビルが出来たときは、あれができてからちょっと雰囲気が変わったねと言ったともだちがいました。が、そのタキイのビルがすっかり取り壊されていました。あとにはきっと大きな建物が建つのでしょう。震災のあと、4月の半ばにこのあたりを歩いたときには、なんだかがらんとした感じがしたものでした。
この頃、家内制工業(マニュファクチャー)と本というようなことをぽつぽつ考えるのですが、考えていると明治大学の裏の路地をフォークリフトが走り回っているのが目に浮かんできたり、大きな封筒を持ったメッセンジャーボーイさんが急いで走り回っていたりするのが浮かんできて、なんだかあんまりまとまった考えになりません。御用納めのあとの神田あたりはきっとひっそりと人気もなくなっていることでしょう。
神田須田町
2011年12月28日(水)
今年ももうすぐお終いです。夕方、御茶ノ水から神田須田町を歩いてきました。ニコライ堂の前から靖国通りにかけては、しばらく歩いたことがなかったのですが、通りがきれいになっていました。というか、あっちこっちに昭和30年代の建物が取り残されている感じでした。この感じは御茶ノ水、神田界隈だけでなく、飯田橋あたりにもあります。昭和30年代から40年代、つまり日本の高度成長期の建物が取り残されているのは、なんだか寂しそうな感じがします。
今年はどうも夕方、何を食べようかなと考えているとセンチメントになるようで、昔行ったことあるお店へでかけてみたくなります。で、神田須田町の鳥鍋「ぼたん」へ行ってみました。飯田橋の牛込見付の石垣の上に一番星が出る頃に出かけてました。冬至を過ぎたばかりの日は暮れかけていましたが、時刻は5時を過ぎたばかり。ところが「ぼたん」は大賑わいでした。1時間ほど待たなくってはならないとのことでしたので、諦めて「藪そば」へ。こちらも大賑わいでした 今年は忘年会もほどほど、そこそこということが多い東京ですが、こんな古いお店は流行るようです。須田町の「ぼたん」「いせ源」「竹むら」「藪そば」などがある一画は、空襲で焼け残ったのでしょう。この一画だけ古いつくりのお店が並んでいます。
今年ももうすぐお終い。
神田小川町
2011年12月28日(水)
テレビをぼうっと見てました。今年のニュースを振り返るNHKと、テレビ朝日の原発事故検証番組。ああ、なんだか3月11日よりも前の2011年はなかったことになっているみたいな感じがしました。実感としても今年は長かったような、短かったような、2ヶ月くらい足りないような、時間感覚が自他ともにゆらいでいるみたいな感じがします。
池袋に買物へ行くつもりが、笹巻きのけぬきすしが食べたくなって丸の内線で淡路町まで出ました。須田町、淡路町、小川町と駿河台下からはそう遠くない街ですが、明治大学へ行っていたころは、明大通りを挟んで東側はなんとなく馴染みがありませんでした。ちょうど中央大学が八王子に引っ越した頃、明治に通っていましたが、まだ引っ越したばかりだったので、明大通りの東側は中央大学の勢力圏みたいな感じというか、思い込みみたいなものがありました。あとから考えてみると神保町というのは神田のはずれで、ちょっと神田とは雰囲気の違う街だったのだなあと、歩いていて納得。
28日をさかいに神田界隈は、ひっそりとします。笹巻きのけぬきすしを12個買って、それから「ささま」で最中を16個、さらに東京堂で、本をあれこれと買い込んで、これは重いので、発送してもらいました。で、ラーメンを食べて「さぼうる」でコーヒーを飲み、煙草を吸って、なんだか若い男の子たちがおしゃれになったなあと、となりのカップルを眺めていました。ちょっと深刻な話をしていたみたい。グレーがかった薄茶色の革ジャケットをセーターの上に着ていた青年。任地が遠い会社の内定をとっちゃったみたいで、彼女のほうはたいへん不満げな様子。なんだかぎくしゃくしたカップルのぽそぽそした会話を聞いてました。これがちょっとコーヒーの苦さにあっていて微笑。なんて、ヒトゴトだから微苦笑もしてられるわけですが。
タイトルの小川町から、馴染みの神保町へ移動しちゃいましたけれども、今日はまだせわしげな人も多い神田小川町でした。
馬に乗っとる伊藤さんがうらやましい。伊藤さ〜ん。いいなあ。馬。ぽこぽことまた乗りたいなあ。
ハン・ガン「菜食主義者」(クオン刊)
2011年10月20日(木)
韓国文学感想文コンテストの締め切りが近づいてきました。課題図書はハン・ガン「菜食主義者」(クオン刊)です。
ある晩、血みどろの夢を見て以来、肉が食べられなくなるという女性の主人公。肉が食べられないという主人公を巡って家族の中に波紋が広がって行きます。 肉が食べられなくなるという発想はどこから生まれたのだろう?おもしろい発想をする作者だなあと、この本を読んだときから、気になっていました。で、思い出したのが孔子が悲しみのあまり肉を口にしなかったという話です。3日ほど肉を食べなかったという話があったはずだと、おぼろげな記憶。
韓国ではお葬式、それから結婚式も儒教式で行われることが多いようですから、特別に「論語」などを読んでいなくっても、孔子の様々な言動などは、きっと日常の会話などに出て来るのでしょう。そういうものが作者の発想の原点にあっても不思議ではないなあと思いました。私の記憶が曖昧だったので、孔子が肉を食べなかった話をググってみました。
出てきたのは弟子の子路が戦死して、遺骸を塩漬けにされたと聞いた孔子が、子路の死を惜しんで家じゅうのシシビシオ(肉の塩漬け)を捨てさせたという話でした。子路のことは中嶋敦も「弟子」という小説で描いています。勇猛果敢な子路は、孔子がもっとも愛した弟子で、その性格から「畳の上では死ねない」と孔子に予想させた男でした。
で、これをググる時に目についたのが、孔子が捨てさせたシシビシオを人肉だと曲解する言辞。食肉を塩漬けにして貯蔵するのは珍しいことではなく、いたるところで用いている方法です。それをわざわざ人肉とするのは悪意としか思えません。なんだかため息でした。
話がハン・ガン「菜食主義者」から離れてしまいましたが、この小説すごく現代的で、すきっりとした構成を持っています。野菜しか食べなくなった義妹に恋する男(主人公の姉の夫)はビデオアーティストなのですが、 裸体の義妹には欲情しないけれども、服を着ると欲情するという転倒にも微苦笑させらました。このアーティストが義妹の裸体に興味を持ったのは、義妹のお尻に蒙古斑が残っていると聞いたときから。そう、あのアジア人の赤ちゃんが持って生まれてくる特徴の蒙古斑です。こうしたディテールからも、この小説が、もともとの持っていて生活の中に溶け込んでいる儒教の思想を、現代的な感受性の表現として造形したものに思えてくるのです。
私は韓国文学感想文コンテストの審査委員をつとめてます。みなさんのすてきな感想をお待ちしてます。10月25日が締め切りです。
苦瓜
2011年09月26日(月)
鵜の目、鷹の目と言いますが、ほんとうに鳥はよく見ているものだと関心します。うちのベランダに実っていた苦瓜が鳥に食べられてしまいました。
風船蔓と苦瓜をベランダに植えたのは5月のこと。よく育って茂りました。しかし、台風12号の運んできた潮風には勝てず、茶色く枯れ始めたところで、緑色の苦瓜がなっていることに気付きました。それまで茂った葉に隠れていて、おおきな実がなっていることに気付かなかったのです。苦瓜のほうも、うまく隠れていたというところでしょう。
苦瓜は黄色く熟しました。そして、台風15号がどうやら我が家の近辺を通過。黄色く熟した苦瓜が見事に鳥に食べられているのを発見したのは、台風15号が通過した翌日でした。黄色い皮の中には赤くなった種が。鳥さん、さあ食べて、おいしくなりましたよと言わんばかりの苦瓜でした。でも、鳥って苦瓜を食べても苦くないのかしら。
新幹線遅延
2011年09月25日(日)
9月21日(水曜日)の東京は台風15号の通過のために交通機関が大混乱しました。台風15号は浜松へ上陸。そのあとは陸上を進んだのですが、勢力はさして衰えませんでした。東京付近を通貨したのは、夕刻の帰宅時間で、どこの駅も大勢の乗客で大混乱したそうです。
23日は久しぶりの大阪行き。東京駅の切符の切符売り場は閑散としてました。「今日は静かですねえ」と駅員さんと話をして、乗り込んだのはいつもの20時50分の大阪行き「のぞみ」。この時刻の「のぞみ」に乗ると、大阪には23時20分頃に到着して、日付が変わらないうちにホテルへ入ることができます。いや、できるはずでした。
「のぞみ」が臨時に停車したのは浜松駅。「豊橋駅付近で新幹線と人が接触しました」のアナウンスがありました。1本前を走っていた新幹線が、豊橋駅から3キロ付近で停車しているとのことでした。「警察がまだ現場へ到着していません」のアナウンスもありました。新幹線が人と接触したという以外に詳しいことは判りません。ふっと気付くと、私が乗っていた車両の隣りに、もう一本、新幹線が停車していました。これは、けっこう時間がかかるかもしれないと、予感しました。
先駆車両の車体の検査は済んでいますが、警察の現場検証が続いています。そういうアナウンスがあって1時間半ほどは何もアナウンスはなし。通路では車掌を捕まえて事情を聞く人も出てきました。外を見ていると、浜松駅へ、さらに3本目の新幹線が入ってきました。これがけっこうなスピードで、一瞬、追い抜かれるのかと思えるほどでした。いささか「むっ」としたのですが、この3本目の新幹線も減速して停車。深夜の浜松駅に3両の新幹線が並らびました。23時を過ぎていました。
それからも何度か「警察の許可を待ってます」というアナウンス。新幹線と人が接触したというアナウンスの段階で「ああ、人身事故かな」と思っていたのですが、なんだか奇妙です。東京の電車で「人身事故」と言えばたいてい飛び込み自殺を意味しているのですが、「人と接触」という表現は聞いたことがありません。
あとで判ったことですが、豊橋駅の防犯カメラに線路へ降りる男の人の姿が映っていたとのことでした。どうやら、走行中の新幹線に接触した人は、性別の判断もつきかねるほどの状態になってしまったようです。ニュースには類推的な書き方がされていました。 警察の検証が長引いたのは、ひょっとすると新幹線の線路内へ何か危険物でも持ち込まれたというような疑いもあったからなのかもしれません。
2時間19分ほど遅れた新幹線がようやく動き出しました。豊橋駅は徐行して通過。駅を過ぎてもしばらくはゆっくりと進んでいました。名古屋駅に到着したのは午前1時。すでに在来線は運行していませんから、名古屋駅には休憩用の車両が用意されているとのことでした。名古屋から意外なほどたくさんのお客さんが乗り込んできました。名古屋からは各駅停車になるとのことで、岐阜羽島、前原、京都と停車しました。大阪駅到着は午前2時前。大阪駅にも休憩用の車両が用意されていました。「朝5時まで御休憩いただけます」のアナウンス。5時になれば各方面への始発が動き出すのでしょう。
改札口は大混雑。「特急料金の払い戻しがされます。改札付近の係員から、遅延証明をお受け取り下さい」と繰り返しアナウンスされていますが、改札付近には、それらしい係員の姿は見当たりません。あるのは自動改札だけ。うっかり自動改札に切符を入れて、切符がそのまま機械の中へおさまっては困ると思ったのは私だけではないようです。おかげで改札を滞った人でごった返していました。で、通りがかった駅員に事情を聞いた人がいて、自動改札へ切符を入れると「遅延払い戻し」の印字がされるのがわかりました。そうなら、そうと言ってくれればいいのになあと、ぼやく人も。果たして自動改札へ切符を入れて、ちゃんと切符が出てくるのかしらと、少し疑いながら切符を入れたところ、出てきたのが冒頭の写真の切符です。赤い字で遅延の印字がされていました。
四万温泉
2011年09月20日(火)
群馬県は温泉の宝庫です。草津温泉、伊香保温泉と回ったので、四万温泉へもおまけで足を伸ばしてみました。台風12号の影響が出てないか、それもちょっと気になっていました。伊香保温泉が山の斜面に開けた温泉なら、四万温泉は谷あいの温泉です。
渋川あたりでは茶色い濁流だった川の流れも四万温泉まで山あいに入ると、清冽な水がごうごうと流れていました。四万温泉といえば積善館のお風呂が有名です。ガイドブックを見ると積善館の湯殿の写真が出ています。積善館は古い旅館ですが、男湯も女湯も同じように作ってあります。このごろでは、時間によって男湯と女湯を交代させる旅館も珍しくありませんが、私が大学生であっちこっちをうろうろしていた頃は、圧倒的に豪華な男湯に、つけたしみたいな女湯と言う温泉が多かったのです。考えてみると、こんなに山深いところに立派な湯殿を備えた旅館があるのも不思議なことです。
伊香保温泉にも草津温泉にも温泉療法を研究したベルツ博士の名前が残っています。けれども、私はベルツ博士のことをよく知りません。軽井沢は保養地として開けるまえは追分と呼ばれていたというのは、室生犀星の随筆で読んだ記憶があります。保養地の軽井沢と伊香保、草津のベルツ博士はなにか関係があるのかしら? それと四万温泉の積善館のモダンな湯殿は、なにか関係があるのかしら? そんな疑問がちょっと頭に浮かびました。
台風12号のもたらした雨はここでもすごいものだった様子で、積善館のお湯をくみ上げるポンプがいかれてしまったそうです。それでお風呂はお湯を抜かれてました。なんでもなければ。日帰り温泉としてお風呂にだけ入るということも可能だそうです。ちょうど積善館に泊まっていたお客さんが 「すっごい雨でしたよ。雨音がすごかった」 と話してくれました。お湯が抜いてあったので湯殿を見学させてもらうことができました。
さて、また台風です。沖縄でうろうろして、そのまま西へ抜けてしまうはずだった台風15号が関東に近づいてきています。
伊香保温泉
2011年09月19日(月)
草津温泉から2日おいて、今度は伊香保温泉へ。快晴。すてきに良いお天気。もちろん関越は全線問題なく通行できました。で、伊香保まで2時間。草津への8時間はいったい何だったのだろうと呆気にとられる速さでした。こういう便利さになれているから、ちょっと台風が来ると、大慌てしてしまうのですけど。
伊香保は山の斜面に温泉宿が並ぶ温泉街です。中心部の石段街は、少しずつ改修工事が進んでいるところでした。共同温泉の石段の湯は以前の場所から、県道よりへ移動していました。大型観光バスの入れそうな駐車場もふえていました。射的屋があるのは昔どうり。でもお土産屋さんは、おしゃれな店になっているところも。石段街を登って伊香保神社を通り過ぎ、元湯の露天風呂に入ってきました。記憶していたよりも小さい露天風呂でした。このごろ、自分の記憶はたいへん怪しいです。露天風呂では、ツーリングの途中のライダーの姿もありました。
台風12号では利根川もどうどうとにごった水が流れていましたから、渋川駅から程近い落合簗はどうなったことやら、と気になっていました。ホテルから簗に電話を入れてもらうと、営業中とのこと。簗は補強してあったので、流されずに済んだとのこと。で、簗に出かけました。お腹に子がいっぱい入った落ち鮎の塩焼きを食べてきました。利根川の向こうに榛名山を見ながら、初ノンアルコールビール。ビールというよりも麦ジュースでした。甘いし。でも、運転をすることを考えると、なんとなく心理的不安が。「騙されているんじゃないだろうなあ」と疑り深くなってしまいます。
伊香保温泉のホテル前に朝取りの野菜を売りに来ていた農家のおばさんと少しおしゃべりをしました。台風でりんごの実がこすれて傷だらけになったこと。今年は天候不順で野菜の出来がおかしいとのこと。そのほか諸々。おしゃべりをしているうちに、たくさんおまけをしてもらいました。丸なすと梅干を買ったら、胡瓜、みょうが、りんご、生姜をおまけしてくれました。丸なすは実がしっかりしていたおいしいなすでした、
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