閖上まで
2012年03月21日(水)
海への緩やかな坂を車で下り、東仙台自動車道の土盛りを潜ると、津波が押し寄せた跡が残っていました。たいていの場合、写真で見るよりも実際の現場へ行ってみるとスケールが大きいことを実感するのですが、奇妙なことに想像していたよりも「小さい」と感じたのです。「狭い」ではなくって「小さい」です。この感じはなんだろう?とずっと考えていました。あ、あれに似ていると気づいたのは家に帰ってからでした。似ているというのは、引っ越しの時、荷物を運び出したあとの部屋を眺めると、せつなくなるほど部屋が「小さく」感じられることがあります。あれに似ていたのです。そこに広がっているはずの田畑もなければ、家々のない。ただ、潮を被った土地だけが広がっているという眺めでした。佐伯一麦さんが、この道路の土盛りの下あたりに多くの人のご遺体があったと教えてくれました。
東京の地下鉄池袋駅に毎日新聞がヘリコプターから撮影した津波の写真が掲示してあります。新聞協会賞をとった写真で、名取市を津波が一気に襲う瞬間を撮った写真です。津波の第一波は海岸の防風林だった松林を超える高さに達しています。この空撮の写真は連続して津波が押し寄せる様子を撮影しています。改めてその写真を見ると、NHKの中継カメラマンが「ああ」と小さく叫んだ沖合の第二波第三波を撮影した写真もありました。津波は引き波が怖いと聞いていましたが、どうも閖上に案内してくださった方のお話だと、引き波はとくに印象には残っていないようでした。そのお話と沖合の第二波第三波を撮影して写真を重ねて、考えてみると、波が引く間もなく、次々と巨大な波が押し寄せたのでしょう。
名取川に沿って緩やかな坂道を下ると、閖上のみなとにつきます。このあたりの海岸線はおだやかに褶曲した砂浜なので、川の河口に築港が築かれていました。閖上の集落はみなとの面した集落で、南側は築港、北側には水路があり、東川は名取川という三角形の島になっています。そのあたりの残っているのは、立ち並んでいた家のコンクリートの土台だけ。土台の間にコンクリート舗装の路地がありました。土台の間にむなしく残った路地のコンクリートの細い道のまがりくねり具合を見ると、なんとか辛うじて、そのあたりが、みなとを中心とした集落だったことが想像できました。コンクリートの土台のなかに、お花とお線香をお供えしているおうちが幾件もありました。お花もお線香も雨に打たれ、泥をかぶり土と一緒になりそうな色に染まっていました。あたりは泥に覆われているのです。
写真は日和山から仙台市若林区の方向を撮影したものです。全体を見ると「小さく」感じられるのに、道の曲り具合だけに目を凝らすと、そこに大勢の人が暮らしていた手がかりが広がってくるような感じがします。
名取まで
2012年03月20日(火)
仙台駅で佐伯一麦さんと待ち合わせ。仙台空港行きの電車で名取まで。快速だったので、名取までは一駅でした。
昨年の震災直後、唐突に仙台沿岸部の復興計画が出てきたのを思い出しました。都市の再開発計画に似た感じの復興計画で、高層マンションを建てるというような内容が新聞の一面に載ってました(何新聞だったか忘れていますが)原発事故はまだ進行中で、予断を許さないところがあったのに、たいへん違和感がある復興計画でした。
名取まで電車で走ってみると、仙台から仙台空港までは、新興住宅地になっていました。もともと、都市計画が進んでいたところのようなだという感想を持ちました。
名取駅で、津波の被害を受けられたという佐伯さんのお知り合いと待ち合わせ。 「この道をまっすぐに行くと海岸に出ます」と車を走らせてもらいました。 「仙台東部道路の土盛りの下を潜ると景色が変わりますよ。道路の土盛りで津波が止まってのです」 道はゆっくりとした下り坂。
「3・11 キオクのキロク 市民が撮った3・11大災害 記憶の記録」(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)という本を頂戴したのですが、その本に付属した地図を見ているうちに、名取川を遡った津波の映像に衝撃を受けたもうひとつの理由に気付きました。
仙台市宮城野区、若林区、それから名取川を渡って名取市の閖上から仙台空港のあるあたりは、太平洋の波が直接の打ち寄せるなだらかな海岸なのです。リアス式の複雑な海岸線ではありません。リアス式の複雑な海岸線ほど津波の被害を受けやすいというのは、私が小学生の頃に習った知識です。ところが今回の津波は、ゆるやかに褶曲を描く海岸を軒並み、津波が襲っているのでした。最初に見た映像の衝撃もさることながら、自分の驚きのひとつは、なだらかな海岸線を持つ土地がいきなり津波に這い上がられたことにあったのかと、気付きました。海岸へのゆるやかな坂道を下りてもらわなければ、その驚きを意識することはなかったかもしれません。
現在、YouTubeで3月11日のNHKの中継映像が幾つもアップされているのですが、その映像の最後は太平洋へカメラがパーンするところで、ほかの地域の映像に切り替えれていたと記憶しています。太平洋の沖合に第2波第3波が押し寄せているのを撮影したカメラマンが「ああ」と叫ぶ小さな声も入っていました。どういうわけか、現在、YouTubeにアップされている映像は、この海上の映像がありません。想像ですが、海上の映像はあまり衝撃力がないので、カットされているのかもしれません。私が自宅のテレビで見ていても、海は広すぎるので、あまり衝撃力はありませんでした。ただ、カメラマンの小さな叫び声だけが記憶に鮮明に残っています。海へと向かう緩やかな坂、それから津波浸水地域の地図、それにカメラマンの叫び声の三つを重ねて考えてみると、自分の驚きの正体が見えてきたような気がしました。ゆるやかな海岸線を持った平坦な土地に、大津波が直接に這いあがってくる恐ろしさでした。
閖上を案内してくださった方も、津波が来るという危機感はあまりなかったというお話でした、昨年、チリから来た津波の時も、ちゃんと避難したけれども、たいした被害はなかったからとおしゃってました。繰り返し津波に襲われている三陸のリアス式海岸とは、条件がまったく違う場所だったわけです。
あの日もこんな畑や田んぼの真ん中で、もし私が車を運転していて、津波に出会っても、それが津波だとは認識できなかっただろうなと感じたものです。海へのなだらかな下り坂を走りながら、改めて同じことを考えました。へたをしたら。好奇心のために「あの土煙のようなものはなんだろう?」と津波へ向ってハンドルを切ったりしかねないかもしれないとも思いました。
佐伯さんが最初に閖上を訪ねた時には、特別な異臭が漂ていたそうです。もちろん、あたりは瓦礫が散乱した状態だったそうで、むごたらしい記憶のお話も聞きました。今は所有者の撤去を待っている船が、あちらにぽつり、こちらにぽつりと、船底を陸地にさらしているのが目につきました。それから、あちらこちらに集めらた大きな石。たぶん、高価な庭石でしょう。御寺から流れ出したという墓石もひとつの場所に集められていました。
仙台行ってきました。
2012年03月19日(月)
2011年3月11日の東北地方では小雪がちらついていました。テレビの中継映像で小雪がちらつくのを見るたびに、なんだか身体の応えたものでした。だから寒いうちに一度、津波の被害を受けたところを見たいのだけどと、佐伯一麦さんにお話していたのに、1月2月はさまざまな用事に追われっぱなしで、こりゃあ、桜の花の咲くころにした出かけられないかなと半分あきらめてました。ところが、佐伯さんがちゃんとそれを覚えていてくださって、声をかけてくださいました。
17日、仙台に行ってきました。佐伯さんの話では、津波の被害を受けた名取川河口付近はそんなに広くないからと言うことで、半日もあれば見て歩けるよとのこと。私はテレビの中継映像から、平野全体が津波に呑まれたような印象を持っていたので、そこが食い違っていました。改めて中継映像を探して見てみました。その映像の中で「津波は河川を10キロくらい遡ることもあります」という解説が流れていました。それでなんとなく10キロ以上と思い込んでしまったようです。中継映像を見て、改めて驚いたのは津波の速さでした。15分ほごの時間に海岸線から5キロくらいまで津波は到達していました。ものすごい速さですが、記憶のなかでは、これが長時間だったような錯覚が生れてました。
広さとか速さとか、テレビ中継の記憶にはいろいろと錯誤が混じっているようです。
仙台で、震災の時も店を開け続けていたという朝市をちょっとのぞきました。今は山菜の季節。東京ではみかけない山菜もちらほらと。お魚屋さんには「かすべ」もありました。
仙台駅で佐伯一麦さんと待ち合わせ。常磐線で名取まで。常磐線は亘理から浜吉田まではまだ復旧していません。原ノ町から木戸までは福島原発事故のために不通でした。考えてみると、今度の地震の震源域の南側半分くらいは常磐線の線路と平行しています。
電車の中から仮説住宅が見えました。聞いた話だと、仮設住宅も初期のものは、簡略な造作で、あとからできたものの中には建築材料もしっかりしたものがあるとのことでした。私には都市近郊の新興住宅地の中に仮設住宅があることがちょっとしたショックでした。いかにも念願のマイホームと言ったおもむきの誇らしげな様子の住宅と、仮設住宅が混在していた仙台郊外でした。
名取駅から閖上までのことはまた改めて書きます。
思い出すことども
2012年03月14日(水)
3月11日から3月12日にかけては、大よそを記憶しているのですが、そのあとの記憶がひどく曖昧。3月12日の午後、福島第一原発の一号機が爆発した頃までは、だいたい時系列で覚えています。調べたら3号機の爆発は14日の午前中でした。これはネットで映像を見てかなりびっくり。
このあとがどうも時系列の記憶がないのです。近所のお米屋さん電話で、お米と水のペットボトル12本と灯油を一缶注文したのはいつだったか?12日の午後だったか、13日だったか、はっきりしません。電話で注文した時には、もう水のペットボトルは品薄なので店に買いに来てくださいと言われました。買占めをするな、買いだめをするなの大合唱が始まる少し前のことでした。「買占め、買いだめをするな」の大合唱には、私は大立腹!品物がいつころ出回るのかの見通しの情報をちゃんと出してくれれば、誰もいらんものなんか買いません!と激怒してたのを覚えてます。
飯田橋の駅前の交番のところにパトカーが、新見附橋の交差点に消防自動車が停車しているのを見かけたのはいつだったか?3月23日に法政大学へ出かけているので、その時ではないかと思うのですが、はっきりしません。原発事故の影響が出た場合の広報用に待機しているのかなと推測しました。が、これもうっかり表だって言えませんでした。アエラが「東京に放射能が振ってくる」という特集をして、非難されていた時期と重なっていました。いろんな人と話してみると、ネットで情報収取している人と、テレビのニュースだけの人では原発事故についての認識に大きなずれがあるのを感じたのもこの時期でした。
新聞連載の挿絵でお世話になっている画家の宮本恭彦さんの義姉さんが「避難しませんか」とお電話をくださったのもこの前後。東京の水道水から放射性物質が出て乳幼児には飲ませないようにと言われたのが、いつだったか?娘はお風呂に入って、このお湯にも放射性物質が入っているのかしら?と首を傾げていましたが、私も同じことを考えていました。
あと印象的だったのは、地下鉄の駅の売店の売り子さんが週刊誌を並べながえら「なんで、こんな報道ばかりするんだろ」って文句を言っていたことです。週刊誌の表紙は凄惨な津波被害の写真ばかり。「こんなもの並べて売りたくない」と言ってました。3月11日から4月初め頃までの「不安にさせないで」「安心したい」という圧力は相当なものがありました。日常的なマスコミ不信と不安になりたくないという心理がないまぜになっている様子が見てとれました。
学生と話しをしていたら「被災地では中国人による略奪や強姦事件が発生している」と言う話が出てきたのは3月28日でした。話を聞いてみると、流言飛語のパターンに当てはまるので、懐疑的になりました。そういうことがあるのか、ないのかはわからないので、用心するに越したことはないと前置きをしてから、一般的な流言飛語のパターンを説明しておきました。そのパターンによくあてはまる話だったのです。
計画停電の対象になったのは2回。1回目は夕方で、まだ明るかったので、そんなに不便は感じませんでした。2回目は夜。やることがないので、ろうそくをともしてお風呂に入ってました。ただお湯が冷えても追い炊きができないので、風邪をひきました。
東武デパートへセルロイドの石鹸箱を買いに行ったのは、計画停電の始まる前だったかもしれません。明け方に配達された新聞の折り込み広告を見て、どうしてもセルロイドの石鹸箱が欲しくなったのです。というよりも、なんでもない買物に出掛けたくなったのですが。行きの地下鉄はがらがら。すいてました。帰りはぎゅうぎゅう詰。大停電になる恐れがありと、海江田大臣が緊急記者会見をして、それで、みんな、一斉に帰宅を急いだためでした。
桜の花がいっぱい咲いたお堀端の土手を歩いたのは、もう4月になってからかもしれません。いつもなら新入生が大勢いるはずの大学も5月まで開講が延期になり、ただ桜も花が満開になっていました。
冬から春へ
2012年03月12日(月)
ようやく新しいPCに慣れてきました。嬉々として新しい機械が使う人がうらやましくって仕方がありません。
お彼岸までの10日間。三寒四温と言いながら、着実に春めいてくる季節です。いや、太平洋のふちに南北にながく横たわる日本ですから、北の北海道、東北はまだ冬、南の九州は春の気配、さらに下って沖縄では、もう初夏を思わせることも珍しくないという季節がまた廻ってきました。地震、津波、原発事故と打ち続く災害に腰を抜かしていたのは昨年のことです。
例年、3月10日前後は確定申告を終えて、なんとなく神経を使かう細かな仕事から解放される時期で、去年の地震の時も、そんな感じで昼寝をしていました。一般的な事務処理や、さまざまな公的文書などを読む力を私が持っていると、誤解している物書き仲間がいます。怠け者の私がこの言葉を使うのは、ちょっと躊躇しますが、事務処理や公的文書の読み込みは、能力がないので「努力」(この言葉を使うのに、ややためらいが)の産物なのだと、自分でつくづく思います。苦手なことをやったあとには、好きなことをした時には、残らない神経のこわばりが、残るのです。目から額にかけての神経がばりばり言っている感じがします。
このばりばりと取るのが一仕事。3月10日前後からお彼岸あたりまでは、このばりばりをとるための貴重な時間なのですが、これが震災でふっとんだのです。それから1年。ああ、なんだかしんどい気がします。多くの人と共有された緊張が、これからは、個々の人の運命や宿命や使命によって、それぞれに分かれて行くことでしょう。
2011年3月11日。地震の揺れで昼寝から目を覚ました。多くの人が言っているように、揺れは東西方向へ30分ほど続きました。いや、それからも次々と余震が続いてずっと揺れていたのですが、居間へ出てテレビをつけたのが3時30分頃。テレビでは天井が落ちたという九段会館を上空から撮影した映像が流れてました。もちろん大津波警報が出ていることは繰り返し伝えられていましたが、唖然としたのはそのあとです。
仙台の名取川河口付近を津波が遡る様子が中継映像で入ってきました。「川を津波が遡るのは、日本海中部沖地震でも観察されました」と解説が。日本海中部沖地震は娘が生まれたばかりのことでした。産院から自宅に戻って数日後のことで、乳飲み子の娘を抱いて、川を遡上する津波の映像を「恐ろしい」と見ていたのです。そんなことを思い出す閑もなく、NHKの中継画面は陸地を進んできた黒い水の広がりを映し出しました。黒い水の壁がばりばりと大型のビニールハウスを押しつぶし、さらには流されてきた家が、押しつぶされたビニールハウスの上を流れて行きます。
黒い水が進んで行く先には、自動車の走る道路があり、津波の到来に気付いて、陸地側へ曲がろうとして順番を待っている車列がありました。間一髪で陸地側へ曲がることができた車、間に合わずに黒い水のまきこまれた車。この映像の間も、余震で家は揺れていました。が目はテレビにくぎ付け。津波のすさまじさに、東京の沿岸部が液状化していることも、市原で石油コンビナートが火災を起こしていることも、忘れてしまいました。いや、それどころか、息子や娘がどうしているかも、ほとんど気にならない始末。日本海中部沖地震の時に、乳飲み子だった娘はもう28歳ですし、息子も30歳になろうという年ですから、心配してもらうのは、私のほうってことでしょうか。
2011年の暮れに仙台文学館からお招きを受けた時、佐伯一麦さんに「あの名取川のあたりを見に行ってみたいのだけど、いけないかしら」とご相談すると、案内してくださるとの御返事。そいうわけで、今月の17日に仙台へ行ってきます。
PCが不安
2012年02月15日(水)
なんだかパソコンがいやな音を立ててます。ブォンブォングルグルギュルギュルっていう音です。これは早急になんとかしなくっちゃなあと、またまた、管理人の豆蔵君をたよりにしているのですが……。さて、どうなるやら。なんとかあと3日はもって欲しいものです。
パソコンの寿命ってどのくらいなのかしら?感覚的には三年がいいところのような感じがしていますが、短すぎるかな。仕事の道具なので、できるなら、同じものをずっと使いたいです。だから、ソフトがどんどんバージョンアップするのも、いささか迷惑な気もします。頭で考えて仕事をしているのではなくって、手順を踏むことで、ある程度、仕事のリズムが生まれてくるわけで、それが混乱すると、もとのリズムに戻るまでに一苦労です。ああ、またPC買い替えかなと思うと、それだけで憂鬱。もっとも買い換えるたびに「へえ」と感心するような進歩があるのも事実ですが。
さてどうなるやら。
奈良美智
2012年02月08日(水)
青森美術館に行ったら、犬に逢ってくればいいと言われました。「?」だったので、「探してみます」と答えると「探さなくってもわかるから(笑)」で、ますます「?」でした。青森美術館で「犬が見たい」と言ったら今度は「今は帽子かぶってます」と。ますます「?」でした。
残念なことに帽子を被った巨大犬の写真を撮ってきませんでした。惜しいことしました。美術館の中庭にいたのは奈良美智作の巨大犬でした。いったいどのくらいの大きさがあるのでしょう。かなりの大きさでした。春から秋は犬のいる中庭に出ることができるそうです。今は冬なので中庭は閉鎖。美術館の中から犬を眺めることはできます。つるりとした頭に雪がふんわりと積もって、積もって雪が凍り、凍った雪がちょっと融けてを繰り返して、今は犬が白いハンチングをかぶっているに見えます。この帽子がよく似合うこと。写真を撮ってこなかったのがすこぶる残念でした。
奈良美智は弘前出身とのこと。NYのイメージが強かったのですが、雪の中でみるあの上目使いの女の子の絵もなかなかよかったです。都会だとなにか不満げな感じがする上目使いが、雪の中だと「負けないぞ」という感じに見えてくるから不思議でした。
ミュージアムショップで奈良美智のぬいぐるみの女の子を見つけました。
青森美術館
2012年02月07日(火)
12月9日に東京で小雪が舞いました。こういう年は年明けから大雪になることが多いなあと思っていたら、やっぱり記録的な豪雪になりました。
青森美術館で佐伯一麦さんと自作を読んできました。青森では暮れから雪が降りっぱなしとのことでした。正月三ヶ日は晴れたものの、それからまた雪、雪、雪の毎日。除雪はされているものの、トラックが被災地の仕事に回っているので、雪を運び出すことができないそうです。市街地でも道路の両脇に雪の壁が出来ていました。
青森美術館に到着したのは、日暮れ時。新青森から乗ったタクシーの運転手さんに「ここが青森美術館です」と言われても、見渡す限り真っ白な雪がぼんやりと光っているだけ。不安ととおり越してほんのちょっぴり恐怖を感じました。どこにも美術館が見当たらないのに、タクシーにいなくなられたら、どうしたらいいのでしょう! と。美術館がまっしろな建物だったので、日暮れの光では見分けることができなかったのです。よくよく見てやっと解りました。あれが美術館だと。それからは、街灯、これも雪に埋もれてましたが、街灯の明かりをたよりに美術館まで辿りつきました。
翌日のパフォーミングアーツにご出演の皆さんはリハーサルの真っ最中。佐伯一麦さんも岡山から青森まで8時間も新幹線に乗って到着していました。
これが1月20日のこと。下北の横浜町やむつ市で多くの車が吹雪に巻き込まれて立ち往生したのは、2月3日のことでした。日本列島は猛烈な寒気団に包まれて、東北、北陸各地から吹雪のニュースが伝わってきてました。下北では、夜半過ぎに自衛隊に災害派遣要請が出たと聞いてはらはらしました。幸いことなきを得たようですから、まだまだ油断できません。
2月に入るとばかに暖かな陽気の日も出てきます。そういう日はなだれや落雪が怖いとのこと。で、また寒気が来ると、融けた雪が氷になり、そこに雪が降り積もるわけで、その怖さは想像にあまります。
青森の皆様、どうぞこの冬をご無事でお過ごしになれますように。
マーケティングと宣伝広告の手法
2012年01月03日(火)
50歳を過ぎるとめっきり集中力がなくなると、以前、人から言われたことがあります。で、ちょっと前までは怒りっぽくなってたけど、この頃は、集中力がなくなったのに慣れて怒りもしなくなったし(ため息)。というわけで、のろくさと机の上を片付けていました。途中でTBSが出している「調査情報」の最新号をちょこっと読んだり。この途中で何かを読み始めるというのは小学生の頃からちっとも変わってませんが。
テレビドラマにマーケティングの手法が使われたり、原発の広報に広告宣伝の手法が使われていることはこれまでも指摘されてきました。共通しているのは、それがどちらもビジネスの手法だということです。それで思い出したのが昨年見た映画の「イブ・サンローラン」。「ファションはアートだったのに、ビジネスになってしまった」という台詞。アートがビジネスになるというのは、ファッションに限らず、ジャーナリストの世界でも同じことが言えそうですし、テレビドラマ制作でも、お笑い芸人の世界でも、それから文学の世界でも言えそうです。と、これも今まで耳にたこができるくらい聞かされてきた話とそう変わりはないのですが……。
つまりは「規模」の問題なのだと、そんなことを夜中に考えてました。
マス・メディアがマス・メディアで有る限り、マスとしての規模を維持し、さらに規模拡大を図るとうことで、ビジネスとして成立つなら、アートの場合は、その希少性を重視して、規模をいかに小さく抑えるかが重要になると、そう考えてみました。
デジタル技術とネットは、システム自体はグローバルな巨大システムです。が、個人の使用の状態から言えば、パーソナルなもので、これまではテレビ局しかできなかったような情報発信が個人で出来たり、映画会社しかできたかった映画製作が個人の力を集めてできたりするという機能を持っています。
ええとね、IT技術はシステムそのものはグローバルで巨大な「ビジネス」というこころが注意ポイントのひとつ。もうひとつはIT技術はこれまでのマス・メディとはことなるパーソナルなメディアとなったことで、こっちは「アート」というわけなのが、注意点の2点目。つまり「ビジネス」の上に「アート」が載っているという状態だということになるわけですが。
つまりは規模の問題なんだとまた考え込むという始末。やれやれ集中力がほんとになくなっています。
IT技術の「ビジネス」の部分には、肥大化した金融市場がくっついて、まだ実用化されていない試験的な事業にも大きな投資がされるし、「アート」の部分はものすごく多種多様な大衆化した「アート」が経済的価値判断から乖離した状態で増殖していると、そういうふうに見ることもできるのではないでしょうか。
「ビジネス」と「アート」の間になにか、もうひとつ人間の身体的能力と釣りあった仲介役が必要なのではないかなと、そういうことを考えるのでありました。
フォークリフトの走る街
2012年01月02日(月)
小説は「紙に印刷された本」と不可分の文芸じゃないのかと、この頃、ずっと考えています。もちろん、ネット配信で読む小説というものもあるでしょう。携帯小説というものもあるでしょう。それらを否定はしませんが、また、それらが私が知っている小説と同じものだとも思えません。源氏物語は手による写本から活版印刷の本になったら、中身が変わったと言えるのかと聞かれると「さあ」と首を傾げざるをえないのですが、中身はさておいて、その鑑賞の仕方は大きく変わったと言えるでしょう。紙の本とデジタルデータの作品の間には、それくらいか、またはそれ以上の違いがあると予想されます。
昨年から家内制手工業と本というテーマがまとまりなく頭に浮かぶのも、にわかに近代史がおもしろくなりだしたのも、震災後の東京の変貌を想像して、東京都心をうろうろしているのも、根っこではみんな、どこかで繋がっているんだなあと、考えています。どこがどう繋がるのかは、まだ私自身にも解っていませんが。
神田の須田町それから秋葉原の万世橋あたりにかけては小さな会社が多いビジネス街です。西へ移動して九段下が近いあたりの神保町は本の街。裏通りに入ると以前は製本屋さんのフォークリストが走り回っていました。九段下から飯田橋のほうへ行く道にも、けっこう、製本屋さん、印刷屋さんが多く、飯田橋の五差路を江戸川橋の方向へ神田川にそって行くと、取次ぎのトーハン、凸版印刷があります。そうそう、飯田橋の五差路には「モリサワ写植」の大きな看板が立ってました。市ヶ谷の大日本印刷、御茶ノ水の日販を加えれば、だいたいめぼしいところになるのではないでしょうか。
手にとることができる、目で見ることができる、歩き回れる範囲にめぼしいところが集中している。そういうところで本はできていたのだなあと、ちょっと思い出しているところです。
食物ならスローフードとか地産地消とか、着るもの、日常の道具ならクラフトとか手作りとか、個別にそういう単語で主張されている事柄をなんとかもう少しまとまりのある考えにすることはできないのでしょうか。同時に「本」についても同じような、膨張ではなく縮小の考え方が生み出せはしないかしら? と思っています。つまりそれは規模の問題なのだと。イメージとしてはある特定の規模のものが、ネットワークで繋がるような、そんな感じです。エネルギーならスマートグリットに近いような、そういうイメージを統合するような哲学を、うまく考えだせはしないかしら。
あいかわらずとりとめがありません。
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