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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

平成中村座

2012年06月10日(日)

 平成中村座の最初の公演は2000年11月でした。あの頃はまだちょっと暇もあって、富岡幸一郎さんたちを誘って出かけました。帰りは駒形どぜうに寄ったのを覚えています。11月でもう少し寒くなっていたので、炭火の匂いを嗅ぎたかったのです。お芝居のほうは、なんだか非常ベルが鳴り響くという騒ぎがあって、消防車が来たりとか、えらい騒ぎになったりと、そのあたりがおもしろい興業でした。出し物は「法界坊」。破天荒な芝居をこれまたもの慣れない様子で、なんだか、ばたばたさえひどくおもしろく感じました。駒形のどぜうのあとは、浅草の裏町でちょっと一杯。飲み屋のおばさんが「あたしはあの法界坊って芝居が嫌いでね」と言いだしたのも、おもしろい思い出のひとつになってます。

 翌年の「義経千本桜」の時は、やはり富岡幸一郎さんたちと見物にでかけて、帰りは米久へ。で、牛鍋を突っついていたら、なんだかヘン。米久の太鼓がお客さんの到来を告げて「どん」となるたびに頭がずきんと痛むという具合。こりゃ、いけないと皆さんより一足早く失礼して、タクシーの座席に転げ込みました。自宅に到着する頃には、えらい熱が出て、そのまま3日ばかり寝込んでしまいました。2003年の浅草寺本堂裏での「弁天娘」は一人で見に行き、ニューヨークのリンカーンセンター公演「夏祭浪速鑑」は見物に行くという編集者の話をうらやましく聞きながら、テレビでみました。これが2004年。そこから先は、ばたばたして、勘九郎が勘三郎を襲名したという歌舞伎座の看板を眺めるだけで、見物にもゆけず、なにがなんだか解らないうちに救急車で運ばれ、みなさんからは「あら、なんでもないじゃない」と言われはしたものの、なんだかぼけぼけ状態のまま2011年を迎え、ちょっと落ち着いたかなと一息ついたら、大地震でした。つまり、芝居見物どころではなかったのです。

 その間に勘九郎は勘三郎になり、平成中村座は初演の頃を思い出すと信じられないくらい立派になり、隅田川の向こうにはスカイツリーが建ってしまいましたとさ、となんだか昔話の口調になりそうなかわりぶり。京都の南座でお芝居を見たら、どうしても平成中村座へ出掛けたくなりました。切符はないだろうなと諦めるつもりでネットで探したところ、あきがあるではないですか! スカイツリーの開業初日に一枚だけ席があいていました。やった! とばかり、勘太郎から勘九郎になったばかりのすてきな三番叟を見てきました。ちょっと痩せた勘三郎さんの口上を聞いていたら、ああ、12年ってすごい歳月だなあと、なんだか奇妙な気持ちになりました。

有吉佐和子のお芝居

2012年06月09日(土)

 有吉佐和子さんの御嬢さんの有吉玉青さんとお話していたら、有吉佐和子さんは53歳で亡くなられたとのこと。意外でした。あの夥しい作品をそのお年までに書かれたのだと考えるとなおさら驚きでした。

 「和宮様御留」は有吉佐和子が「群像」に連載された作品です。私の最初の本が出た頃、「和宮様御留」はベストセラーになっていました。護国寺の講談社の前のウィンドーに私の最初の本と「和宮様御留」が並んでおいてありました。「和宮様御留」は舞台でも上演されていました。母と一緒に見に行った最初のお芝居は「和宮様御留」でした。園佳也子が演じた侍女が記憶に鮮明に残っています。日生劇場だったように覚えていますが、このごろ、自分の記憶に自信がありません。和宮様役は竹下景子。今でも再演されることが多い芝居です。時々、テレビドラマにもなっています。

 「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は「亀遊の死」という短編小説を有吉佐和子自身が戯曲化して、文学座の杉村春子主演で昭和47年に初演された芝居です。私はこの芝居を以前にも見たことがあって、なんとなく亀遊という遊女の自死が、世間の噂話や人の思惑で、現実の亀遊の思いや気持ちとはかけ離れて行ってしまう様子を描いたものだと思っていました。最初の一幕目で亀遊は死んでしまい、亀遊と親しかった芸者のお園さんが亀遊のことを語って行くという筋です。主役はもちろんお園さん。

 今度、京都の南座で坂東玉三郎のお園を見たのですが、「あれ」という感じがしました。自分の「あれ」と首を傾げた気持ちをうまく言葉にできなかったのですが、お園さんの「語りの芸」ができるプロセスを見せてもらったような気がしたのでした。それに気がついたのは芝居を見てから、すこしあとですが。

 芸者のお園さんが亀遊の自死をタネにした「語りの芸」ができるプロセスが描かれる一方で、お園さんの心の中には、生きていた亀遊の姿がいきいきと残っているというふたつの心情を、手にとるように見せてもらった気がしました。事実と虚構それに現実と美化。そういうものの絡み合いがおもしろく、それを一番、感じさせたのは、お園さんが三味線を弾いて小唄で亀遊の死を語り終える場面でした。亀遊の死は小唄となり、みごとに虚構として出来上がっているはずなのに、小唄の御終いで三味線の音を、玉三郎はわざと外すのです。最後まで見事に三味線を弾けば、劇場の玉三郎ファンのお客さんは、それが芝居であることを忘れて、玉三郎の三味線に盛大な拍手を送るかもしれない場面で、三味線の音が外れ、芝居の中で亀遊は虚構の中の人物ではなく、お園さんが親しかった思い出の中の生身の人へ戻るという「捻じれ」を興味深く見ました。

 芸は虚構で支えられているのだということを、はっきりと、しかもおもしろく浮かびあがらせながら、同時に芸の外側に漏れる心の秘密や心の宝物をも見せるというお芝居なんだなと、そう思う一方で、杉村春子だったらまたちがう印象になっただろうとも思うのでした。プログラムの上演記録を見ていたら、藤山直美主演という記録もありました。藤山直美だったら、また、別のお園さんが見られそうです。亀遊さんに憧れる友達としてのお園さんとか、そんな感じになるのでしょうか? プログラムを見ながらいろいろ想像するのも面白いです。

お芝居を見に行く。

2012年06月01日(金)

 5月はぼんやりしているうちに過ぎてしまいました。なんだか気が抜けたみたいです。しわしわの風船。もしくは昨晩、コップについだサイダー。なぜか、あっちこっちで怒っている人を見かけました。ぷんぷんって。

 京都の南座で坂東玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を見ました。このお芝居、以前から見たかったお芝居です。で、それを見たら、今度は猛烈に浅草の平成中村座が見たくなりました。勘九郎さんが勘三郎さんになってから、まだ一度も見に行ってないなあと、残念に思っているうちに歌舞伎座のさようなら公演も終り、しばらくお芝居から足が遠ざかっていました。

 浅草の平成中村座の7か月のロングラン公演も5月で終り。勘太郎さんが勘九郎さんになって、いよいよ、新時代だなあって、平成中村座のHPを見たら、なんと1席あきがあるではありませんか。ちょうど東京スカイツリー開業の日。出かけました。雨がざんざん降っていて、スカイツリーは半分は雲の中でした。お芝居の最期で舞台後方が開き、隅田川の景色が見えるという趣向。雲に隠れたスカイツリーが偉容を誇っていました。

 お芝居の楽しみ。まず演目を調べたり、出演役者を調べたりなど切符を買う前が楽しい。それで切符を買ってわくわく。切符が好きで、半券をずっと持っています。それからすじがきやプログラムを劇場で買って、芝居を観終わったあと、こんどはとくとすじがきやプログラムを読むのが楽しい。そうか、そうだったのねえと頷きながら、あれを思い出し、これを思い出しするのが、なんとも言えない楽しみです。

 そういうわけで5月はお芝居へ行く楽しみを思いだしてしまいました。名高い芝居を片っ端から見たいものだと言う気になっています。

日仏学院の枝垂れ桜

2012年04月28日(土)

 日仏学院のレストラン入り口の枝垂れ桜です。しばらく日仏学院のレストランに行ってなかったのですが、予約がとれるようになっていました。桜の季節ももうおしまいですが、叔母と従妹それに叔母のおともだちと4人で御昼を食べました。

 母の形見の着物を着てきた叔母です。小さな扇面がいっぱいにちらしてある柄で、叔母が縫ったものです。母が亡くなった後、叔母に形見としてもらってもらったのですが、ちゃんと着てもらっていたので、うれしくなりました。この頃は、形見分けと言っても、ただかたちだけで、実際に使ってもらえるということは少なくなりましたから。扇面の柄がいっぱいに散らしてある着物はまだ40代だった母には、地味だったようです。いや、本人が気に入って作ったにもかかわらず、高校の同窓会に着ていったら地味に見えたというので、たいそう不機嫌になりました。母が着たのはそれ一度きりでした。

 なんて地味な着物を作っちゃったのだろうと、おかんむりなところへ持ってきて、松の柄とおもっていたものが実は扇面と解ってなおさら不機嫌に。扇面の柄は嫌いだったのです。なんで、そんな勘違いをしたかと言えば扇面の柄がほんとに細かくって、ちょっと見には松に見えるのです。だから、母は松林のイメージで、その着物の柄を見ていたのです。広々とした松林を身にまとうという感じで気に入っていたのに、いざ、着てみたら想像よりもずっと地味で、腹を立てながらよくよく見てみたら松じゃなくって扇面だったというおまけまでついて、この着物は箪笥の中で眠ることになりました。

 反物で想像したよりも作ってみたら地味だったということが着物にはよくあります。ひとつは洋服の感覚が身についてしまっているので、それが反映されてしまうためということがあります。それから、反物を選ぶときには、近くから見て選ぶのですが、実際に着るときには、かなり遠くから眺めることになります。地味なものを選んでしまう理由の二つ目です。

 母を不機嫌にさせた着物ですが、60半ばの叔母にはよく似合ってました。それに、その着物はモノトーンではありますが、扇面の細かい柄が全体に大きなうねりを作っているので、母が言うほどには地味ではありません。それや、これや、おもしろくお話しながら、日仏学院のランチ(フレンチのフルコース)を食べました。鯛のポワレを選んだのですが、鴨の赤ワインソースのほうがおいしそうでした。あと、従妹が食べた豚肉のコンフィがおいしそうだったので、家にあった豚肉の塩漬けをコンフィにしてみました。これがすこぶる美味でした。

赤いさくら白いさくら

2012年04月26日(木)

 さくらはぱっと咲いてぱっと散るとよく言われますが、花の盛りの期間としてはそんなに短いわけではないと思います。2週間くらいのうちに、蕾から花盛りを迎えて、だんだんに散って行く花はほかにもいろいろあります。でも、桜は、枝いっぱいに咲いた花に見とれているうちに、周囲の木々の芽がみどりに葉にかわり、はっと気づくと若葉が青葉に変わろうとしているという、背景とのコントラストが見事なので、より一層、ぱっと咲いて、ぱっと散るという印象が強くなるのでしょう。

 白い里桜と赤い染井吉野が並んで咲いているのが、家から見えましたが、もう、この桜も若葉青葉の中に沈んで、遠目には、どれが桜の木なのか解らなくなりかけています。今は白い里桜のとなりで八重桜が、ぼってりと咲いています。八重桜は桜のしんがりですね。

散る桜

2012年04月15日(日)

伊藤比呂美様

 御父上様ご逝去とのこと。御悔やみ申し上げます。

                  中沢けい   
 

さくら

2012年04月09日(月)

 今年の桜です。4月6日に市ヶ谷の外濠土手でお花見をしました。この時はまだ寒くって、みんな、地面に座っているとだんだん冷えてきました。今年のお花見は、ちょっと飲みすぎる人が多いらしく、救急搬送された人の数は先昨年にくらべて10倍とか。お花見自粛だった昨年ですが、2010年に比べても5倍とか8倍とか、そういう数字がニュースに出ていました。

 昨年の春が暗くってさびしかったことを話すと、よく覚えている人、すっかり忘れているのに驚く人、ああ、そうだったとすぐに思い出してくれる人と、いろいろです。

 ところで、乱暴な植木屋さんの仕事にまた悩まされています。こんな仕事は植木屋さんの仕事と呼ぶべきではないでしょう。春休みの間に法政大学の校舎のケヤキと樅の木の剪定が行われました。いや、これも剪定などと呼ぶべきではないでしょう。だって、ケヤキも樅の木も電動のこぎりで半分にちょん切られたのです。ケヤキは大空に伸びた樹木の姿を失いました。ただの丸太棒です。樅の木は、5、6年前に植樹したものですで、クリスマスの頃にはツリーとして電飾で飾られてました。でも半分にちょん切られました。こんな仕事にお金を払うべきではないと私は思います。こんな仕事には、損害賠償を求めるべきです。ケヤキは枯れてしまう可能性が大きいです。樅の木が姿が良くて、幾らと値段が付くのですから、半分にちょん切られたのではに二束三文になってしまいます。しかしお金の問題ではありません。

 たまたま用事があって小池昌代さんと学内を歩いている時、ひどい剪定の木の話になりました。小池さんは「学校を愛していないのかしら」と嘆息。そうかもしれません。学校だけでなく、樹木が天に向かって伸びて行く、その健やかな時間の流れに、なにか憎しみを持ってはいないかしらと疑心暗鬼になっています。樹木の姿が象徴しているものへの敵意を感じてしまいます。
 電動のこぎりで、根の生えた丸太を作っている人はそんなことを考えてはいないかもしれないのですが、考えてはいなくっても、感じてはいなくっても、感覚の中に時間の流れへの敵意が潜んでいるということは、充分にあり得ることでしょう。

 それにしてもこんなひどい仕事にお金を払ってはいけません。むしろ損害賠償を求めるべきです。雨漏りの修理と称して大工さんがやってきて、屋根をべりべりと壊し、屋根がなくなりましたから、雨漏りはなくなりましたと言っても、お金を払う人のいないのと同じです。

 さくらの季節にちょっと憂鬱でした。そのさくらも、13日の夜からの雨で、もうおしまいですね。

天上の時間

2012年04月09日(月)

 3月の末、金星、月、木星が夕方の西の空に並びました。びっくりするほどの明るさで、ベランダへ洗濯物を取り込みにいったついでに撮影してみました。写真の腕はないので、遠い空に輝く星が写るとは思わなかったのですが、改めてデジタルカメラの性能の良さに簡単しました。

 震災の時、佐伯一麦さんは月を眺めていたというお話を聞きました。2012年3月19日は月が地球に最も接近するスーパームーンという現象のあった日です。11日の震災と、津波、それに続く原発事故で、緊張していたツイッターのタイムラインには、大きな月の話題が並んでいました。19日は東京消防庁が原発に放水を行った日でもあって、深夜に記者会見をありました。実際はこの時、危機は去ったわけではなく、依然としてかなり危機的な状況が続いていたのですが、11日以来の緊張がやや緩んでいた夜でした。ツイッターのタイムラインを見ていると、じつに多くの人が月を見上げて言葉にならない感慨にふけっている様子でした。

 閖上を案内してくださった方から聞いた話です。3月11日の午後は曇っていたのですが、夜半になって空が晴れ渡ってきたそうです。津波で、中学校へ逃げ込み、その晩はそのまま中学校で過ごしたとのこと。学校の屋上へ上がってみると、晴れ渡った夜空に満天の星が輝いていたとお話になってました。地上はと言えば、繰り返し押し寄せた津波が、そのまま水浸しの状態であたり一面に広がり、その水面に星空が映し出されていたのを見たそうです。頭上も星空、足元も星空。なんだか宙に浮いているような感じがしたと。

 そして、暗闇の中で火の手が上がるのを見たそうです。民家の屋根の上に避難していた人が、寒さのあまりたき火をした火だとあとで解ったとおっしゃっていました。そのたき火をした人と、その後、避難所で出会ったとも。そのお話を聞いてから、かれこれ3週間ほどが過ぎているわけですが、ずっと天上の時間というものを考えています。人間が住んでいる下界の時間に対して天上の時間というものがあるという考え方はずいぶん古くからあるようです。永遠とか無限とか、人間の人生の感覚では測りがたい時間を「天上の時間」として捉える感じ方がありますが、星空の光とたき火の火は、その天上の時間と下界の時間が暗闇の中で出会った瞬間のような印象を持ってお話を伺いました。

 今日明日の食べ物の心配から、日常生活を取り戻すための手立てに必死な時に、天上の時間などという抽象的な感慨を持ちだすのは、なんだか悪いことをしているような気がしないでもありません。それでも、言葉というものを扱う世界に住んでいると、ああ、天上の時間がこの下界に大きな裂け目となって現れる瞬間があるのだと、言葉にならない感覚が湧きあがってくるのは抑えがたいのでした。

 津波をかぶった土地は、水を含んでしょっぱい湿地となっています。もともと、海岸付近のそのあたりは、塩気を含んだ湿地だったのでしょう。塩気を含んだ湿地にも昨年の春は、菜種の花が咲いていたようで、その写真を見せてもらいました。ほんの数分で、その土地のもともとの姿に帰ってしまった場所に、自然はもくもくと仕事をして、植物の芽を出させ花を咲かせるのでした。そこにまた、人の手が加わって、波に飲まれる前の肥沃な土地が生れてくるわけです。肥沃な土地は、人と自然の共同作業で生まれてくるわけでと、私はそのことに興味を持っています。それが、言葉が生れるプロセスに似ているようなイメージを持っています。言葉が物語に凝固するプロセスと繋がっているような予感を持っています。物語が歌になるために必要な時間がそこに眠ってはいないでしょうか。

 テレビで仙台の映像を見てただただ驚いてしまったのですが、津波は千葉県の九十九里浜の海岸や、九十九里浜にそそぐ川も遡っていたことを最近、耳にしました。

日和山の桜

2012年03月26日(月)

 佐伯一麦さんが『それでも三月は、また』(講談社刊)というアンソロジーに「日和山」という短編を書いています。仙台へ行くまえに、その短編を送って下さいました。
「日和山」に別府さんとして登場するのが、今度、私を閖上に案内してくださった方です。佐伯さんは「記録」という意味合いを込めて短編を書いたとしゃってましたが、小説的なフィクションをかけたくないというお気持ちはわかる気がしました。なぜ、そう思うのかは、うまく説明できないのですが。今はまだフィクションをかけるには、時期尚早の感があります。

 別府さんのおうちの前の通りを横切ると魚市場、市場の向こうは、赤貝の水揚げ日本一と誇った港でした。地震から津波まで「1時間ほど時間があったんです」とのこと。すでに停電していて、テレビなどは見ることができなかったそうです。で、隣のお寿司屋さんが「逃げましょう」と声をかけてくれなかったら、家にいて地震の後片付けをしていたに違いないとのことでした。一昨年のチリから来た津波の時は避難していても、ちっとも津波が来なかったので、今度もそうなるかもしれないと思っていたというお話でした。

 2010年2月のチリから来た津波がなかったら、もう早めの避難で助かった人もいただろうと、青森でも1月にその感想を聞きました。
「日和山まで歩きましょう」
 というのは佐伯さん。写真はその日和山です。空や海の様子を見て天候を占う日和見のための築山です。高さは海抜10メートルほどでしょうか。津波は日和山の松を超えるほどの高さだったと言います。三々五々、日和山を訪ねる人の姿が見えました。山頂に鎮魂のための木の柱が立っていました。小さなお社があったそうで、今は二柱の木でお社の神様を勧進してありました。

 別府さんが地域の子どもたちと一緒に植えた桜の苗も日和山で雨に濡れてました。枯れるかと心配だったとおっしゃるのも道理で、以前は家々に囲まれていた日和山も写真のとおり、更地にぽつりと置かれた御饅頭のような状態になっています。太平洋の風と潮がそのまま吹きつける状態なので、苗木には過酷な環境です。枯れるかと心配だったという苗木は、なんとか今年の冬を越した様子でした。もう少し暖かくなれば緑の芽も伸びてくるでしょう。「20年くらいしたらこの木の下で、ここの子どもたちとお花見をしたいな」という別府さんでした。桜の木はだんだんに大きくなるというものでもなくって、最初の10年くらいは花をつけても頼りなげな若木ですが、17、8年が過ぎた頃に、うゎっと精力的になり、どうどうとした古木の様子に変わります。あれはなんだか不思議な眺めです。何度かそういう若木が古木の雰囲気を漂わせるところを、私は見たことがあります。そのことをお話しました。
 時間の積もり方の不思議さを感じさせるのが桜の木です。今は苗木の桜の木の下でみなさんがお花見ができるようになる頃に、日和山から見る景色はどう変わっているのでしょうか。「閖上まで」の写真は日和山から仙台市内の若林区の方向を撮影した写真です。豊かな田畑も、家々もすっかり流され、今は潮を被った湿っぽい土地になっています。この潮を被った土地が、どう蘇るのかに私は興味を持っています。この場合、興味という言葉はあまりそぐわない言葉かもしれませんが、人間の計画する復興プランとはまた別の、自然との共同作業がどう進むのかを、見てみたいのです。

 日和山に昭和8年の津波の碑があったことは佐伯一麦さんの「日和山」に記されています。その碑に刻まれた文言を短編「日和山」で読むうちに、私が小学校の頃に教えられた津波の特徴と言うのは、昭和8年の三陸大津波をもとにした知識だったのではないかと、そう疑うようになりました。昭和8年に名取川を遡った津波は、「幸い人畜の被害はなく」済んだのだそうです。平坦な海岸線では、津波は大きくならないと教えれたのは、その時の被害状況によるものだったかもしれないと考えました。震源との関係もあるかと思います。

 正直に言って、自分がどうして、潮を被った田畑のその後にこんなに関心を持つのか自分でもわかりません。名取川を津波が遡る映像を見た時からずっと、あの人の手で豊かに耕された田畑は潮を被ってどうなってしまうのだろうと、気になっていたのです。

卒業生のみなさん

2012年03月25日(日)

 卒業おめでとうございます。卒業式があるということがこんなに楽しいものだとは知りませんでした。昨年の卒業生のみなさんも、1年遅れではありますが、卒業式の雰囲気を味わってもらえたことと思います。

 この1年間はみなさん、それぞれにお考えになることがたくさんあった1年間だったことでしょう。私にとって意外だったのは、言葉を信じる、言葉の力を取り戻そうということを考えたり、感じたりする人が多かったことを発見したことでした。言葉は無力だと、感じてもよい大災害を前にして、多くの人が言葉の力を、改めて信じようとしたことは、意外でしたが、また当然でもあると思いました。
 破壊は言葉を必要としません。しかし、何かを作ること、それは災害からの復興であるかもしれませんし、新しいエネルギー生産技術であるかもしれませんし、みなさんおひとりおひとりの生活を作ること、人生を築くこと、それらすべて、何かを作ることのために、人は言葉を必要とします。そのことを多くの人が、実感する場面が多い1年館だったのではないでしょうか。

 大学生活の4年間、みなさんにはたくさんの本を読んでもらうようにしました。自分のためにだけ読んでいると思わないでください。みなさんが本を読むのはほかの人のためでもあるのです。言葉はほかの人と、話をする、話を聞くために存在しています。自己と他者を結びつけるため、自己と他者を切り離すため、言葉は存在しています。だからみなさんが多くの本を読んで、ただたんに知識や情報を得るのではなく、ものの感じ方を学んだこと、それぞれに新しいものの感じ方を作り出す方法について考えたことは、みなさんご自身のためだけではなく、この世界を豊かにする人間の共同作業に、みなさんも加わったことを意味しています。
 どうぞみなさんで、豊かに暮らせる、豊かな精神を持った時代を作り上げてください。

 さようなら。またお会いできる日を楽しみにしています。どうぞお元気で。朗らかにお過ごしください。

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