サッカーがソフトボールに化ける。
2012年08月08日(水)
自民党が不信任案を出すとか、出さないとか、かなり出す方向で8日午前中が回答期限だというニュースが並んでいます。自民、公明、民主の3党合意で消費税率引き上げの法案の採決を諦めても、内閣不信任案を出すというニュースが出てきたのは8月6日(月曜日)のことでした。この日の夜のNHKの「NC9」テレビ朝日の「報道ステーション」でもこのニュースは取り上げられ、なぜこんな方向へ急展開したのかと、どちらのキャスターもきょとんとしたコメントを出していました。
8月7日夕刻にみんなの党などの中小の政党が内閣不信任案を提出しました。8月8日午前の時点では、自民党が不信任案を提出するか否かは民主の回答待ちと言うことになっています。消費税・社会保障一体法案の成立を見送っても、自民党は不信任案を提出することになりそうな見通しです。この急転直下の変化にさまざまな解釈が報じられています。
さてと、私はこの流れの変化については、今回はかなり明瞭に自分の見てきた流れを信用しています。それを示すと以下のようになります。
7月29日(日) 反原連による国会包囲抗議活動 7月31日(火) 反原連と政治家の「対話テーブル」 管直人前首相が出席し、野田首相と半原連代表との会見を提案する。 8月1日(水) 小泉進次郎自民党青年部長ほか11名が内閣不信任案を提出する緊急声明を谷垣総裁に提出。 この日、野田首相が反原発の代表との会見の検討を始めています。 8月3日(金)反原連による恒例の首相官邸前の金曜日集会。この日、野田首相が反原連の代表と会見すると言う情報もあり。いろいろな情報を総合すると反原連との会見をネット中継するか否かで揉めていた様子。 8月6日(月)自民党の内閣不信任案提出が現実味を帯びてくる。 反原連と首相の会見は8日に設定され、ネット中継される予定との発表がある。 小泉元首相が「野党が解散権を握れるなんていうのは滅多にない機会だ」と叱咤している様子の目撃談が報じられる。 8月7日(火)反原連と首相の会見が、8日に消費税関連法案の採決があるという理由で延期される。 枝野経済産業相が首相と反原連の会見に反対の意見を述べる。 8月8日(水 午前)自民党が内閣不信任案提出の構え。
8月1日に小泉進次郎議員の内閣不信任の提案があった時は「確率はひくいけれども、選挙になるかもしれないなあ」と感じました。 8月3日には、恒例の金曜日の首相官邸前抗議活動に首相が突然現れるというイギリス映画のような展開があれば、「どじょう」首相が「龍」に変身という可能性もありだなあと思ってました。たとえそれが竜頭蛇尾に終わるかもしれなくっても、そういう局面であったでしょう。 8月6日に小泉元首相の目撃談が報道された時は「ははん、これは自民党幹部の決心がつきかねているのをおとうちゃんが息子の援護射撃にでたんだなあ」と解釈。
抗議集会が大きくなりすぎて、不安を感じていたところ、「対話テーブル」の設定が早くのに驚いたのは前に書いたとおりです。その「対話テーブル」に管直人前首相が現れ、「対話テーブル」から「首相会見」へと話の焦点が変ったのを、私はサッカーのプレッシャーをかけ、パスを出したら、管直人前首相が手で受け取ってソフトボールを始めちゃったみたいだという印象を書きました。その比喩の延長でゆけば、管直人前首相の投げた球を「どじょうを龍にばけさせてはならじ」と小泉進次郎議員がカットに出たと、そんな感じです。カットされかけた球はゆるゆると、野田首相の手に。野田首相がぼんやりと球を投げると、今度は外野席から小泉元首相の叱責が飛び、ようやくソフトボールが始まったことに気付いた自民党議員が、球を奪いにでると。そんな感じの比喩を頭に思い描いています。
代々木公園での反原発集会、首相官邸前の金曜日の抗議集会、国会包囲抗議集会など一連の抗議活動の参加者数についての警察筋の発表の数があまりにも少ないことに私はこだわってきました。おそらく記者クラブ筋から出ている情報だろうと考えられる数字ですが、この数字について「抗議集会を小さく見せたいから」という説明を自分でもしました。そう説明すれば、多くの人が納得してくれますし、その可能性もまるでないわけではありません。ただ、私はこの小さな数字に記者クラブに警察筋の情報を流している人物(誰だかわかりません、誰かです)のある種の「あなどり」を感じていました。現実を見ようとせずに、「あなどった」印象でつくった適当な数字を口にしているのではないかという疑念が払いきれませんでした。そして警察筋の人物の「あなどり」は記者クラブの記者とも共有されていたのではないかと推察されていました。
もしそういう「あなどり」があったとすれば8月1日からの激変には、驚いたはずです。もっとも、サッカーがソフトボールに化けた瞬間に、政治の事情に精通していると考えている人々(記者に限らない)の従来とおりの解釈も有効性を帯びてきますから、サッカー的な要素は無視されるかもしれません。これを書いている間に事態は時々刻々と動いていることでしょう。
余談ですが、女子のソフトボールは前回の北京オリンピックを最後にオリンピック種目からはずれたはずですし、野球のオリンピック種目ではなくなったような。曖昧な記憶ですが、今度、ちょっと調べておきます。今回のロンドンオリンピックでは、ソフトボールの報道も野球の報道も見かけていませんが。
首相官邸抗議集会の参加者数について
2012年08月06日(月)
物書きの仕事を30年もしていると、自然にジャーナリストや新聞記者の話を耳にするようになります。私はフィクションの作家ですから、自分自身では事件や出来事の取材をしたことがありません。ですから、東京新聞の「新聞を読む」のコラムでも自分自身が知りえたことの範囲に限って、過不足ないように、文章を書いてきました。1回目、2回目ともに、首相官邸の金曜日抗議活動についてについて書きました。ただ、それだけでは、今回の抗議活動の参加者数の発表がいかにひどいものであるかを、充分にお伝えできていないことが、ツイッターのやりとりで解りましたので、詳細をここに書くことにいたしました。
まずデモの参加者についてですが、これは以前、新聞がひどい批判を受けたことがあるのです。主催者側の発表する参加者数だけを報じて、民心を煽っているという批判でした。実際、主催者側がかなり水増しをした参加者数を発表するということも、まま、行われていました。それ以来、警察発表と主催者側発表を並列で表記するというスタイルが定着しています。この数字を見ていますと、おおよそ、主催者側発表の4分の1が警察発表というのが相場です。6月22日まではこの相場の数字が金曜日の首相官邸抗議集会にも出ていました。この時の警察発表の数字が1万1千。6月29日の警察発表の数字は、私の記憶ですと1万7千。TBSは20万人と報じ朝日新聞は10万人から15万人で、主催者発表は10万人でした。ユーストリームの中継映像を見る限り、7,000人程度の増加ということはありえません。もっとたくさんの人がいました。
今回の金曜日首相官邸前抗議や、国会包囲行動、それから代々木公園で行われた抗議集会の警察発表に疑問をもたれたフリーのジャーナリストや、一般の参加者がいるようで、所轄の麹町署に問い合わせたり、警視庁に問い合わせたりして「警察は集会参加者数を発表していない」ということが、この時点でツイッターの情報から解ってきました。また新聞も「警備筋」や「警察筋」という言い回しを使って、それが警察の正式発表ではないことを匂わせるようになってきました。こういう書き方を新聞がする時は、たいてい記者クラブ周辺から出てきた数字だろうと、検討がつくのです。それが警視庁記者クラブなのか、それとも、国会記者クラブなのか、新聞記者の経験のない私には解りかねるところがあります。
記者クラブについてはあしざまな批判を耳にすることも多々あるのですが、その言い方をそのまま鵜呑みにするわけにもいかず「記者クラブ筋から流れてくるいいかげんな数字」という書き方を遠慮していたのです。 そのたぶん警視庁記者クラブの方面から流れてくる、警察筋の金曜抗議集会参加者数の数字だけを並べると、7月に入って抗議集会は縮小の傾向ということができます。この数字は記憶していないので、新聞の日付順に見てください。産経新聞は実際に「金曜集会は縮小の傾向」と報じていました。きっと警視庁記者クラブ筋の数字を信じて記事を書いたのでしょう。
さて、警察の警備ですが、抗議集会については花火などのイベントの雑踏警備の方式を用いていると、これは朝日新聞が報じていました。実際、金曜日抗議集会や国会包囲集会を歩いてみると、雑踏警備と、政治的集会警備の両方の方式を混ぜて使っている様子です。単なる雑踏警備では、公安警察がずらりと並ぶということはありませんが、金曜日の首相官邸前には公安警察がずらりと並んでいました。雑踏警備には人出の予想と人の流れの予想が必須の事項になっています。「警備上の理由から参加者数を発表できない」という警察の言い分は、正直なものでしょう。また、人の数と人の流れはかなり精緻に把握しているはずです。交通量調査の手法を使えば、それは可能です。私が歩いた国会包囲抗議集会の印象で言えば、人の流れを把握して、あっちこっちで横断歩道を遮断したり、歩道を一方通行にしたりして、人が大勢集まらないような工夫をこらしていました。東京ディズニーランドでは、アトラクションに並ぶ人の行列が長くなると迷路方式の柵の位置を変えて人の流れを作るというやり方をしていますが、あれに似たことを警察は首相官邸と国会周辺でしていると想像して下さい。
一方、主催者側ですが、これは組織動員をかけたデモのような水増し発表はしていないと、私は感じています。10万人の規模になると中継映像だけでは判断しにくいところもありますから、単なる印象の判断に過ぎないので、正確なところはわかりません。ただ、主催者発表よりもテレビ、新聞のカウントのほうが上回るということが、前代未聞です。 大阪では主催者発表に対して警察発表が50人上回るというようなこともおきたと、これはツイッターで流れてきた話です。全体で300人から400人の規模ですが。
いずれにしても、どうやら記者クラブ方向から流れてくる東京の警備筋とか警察筋の出す最近の数字は主催者発表の10倍から20倍の差のあるもので、集会参加者だけでなく、これはもう警備をしている現場の警察官にも無礼千万な数字になっています。こんな数字を示されて積算根拠も尋ねなければ、質問の方向を変えて、動員された警察官の人数や警察車両の数を質問しない記者もどうかしています。 さらに言えば、こうした警察筋と言われる情報をもとにコメントをする政治家のコメントも現実からかなりずれたコメントになる様子が見受けられます。きっと政治家は忙しいから、私のように、玉石混合のネット情報を漁ったりする暇はなく、新聞だけ読んでいるのかもしれません。(すいません、おおあわてで書きました。原稿の督促の電話がきちゃった)
去年の空 今年の空
2012年08月05日(日)
先週金曜日の8月3日に汐留シティセンタービルの最上階で知人と食事をしました。首相官邸前の恒例の抗議行動のある時間帯で、ヘリコプターが2基ほど官邸上空を飛んでいるのが見えました。その時 「去年はカレッタ汐留から東京湾を眺めたのでしたね」と 言われて、ちょっと首を傾げました。「去年だったかしら?」と考え込んでしまいました。よく思い出せなかったのですが「あ、それは」とある私的なことで「カレッタ汐留」でごはんを食べたのは、一昨年であることを思い出したのです。この頃、2010年と2011年の記憶が混同されているということがよくあります。やはり震災と原発事故は、人の時の感覚、それを「記憶」と呼ぶことも多いのですが、時の感覚をかなり混乱させている様子です。
東京駅で新幹線のチケットを買っていたら、隣の窓口にいた人が「すごいなあ、ここから半径5キロで日本の全てが決まっちゃうだから」と言い合っているのを見かけたのは、はて、今年の春だったか、それとも去年の秋だったか。身なりはお役人風のスーツ姿。5人ほどで連れだっていました。買ったチケットは東北新幹線のもの。どこか被災地の県庁から、東京の官庁もしくは国会か議員会館へ用事を足しに来た県庁の職員さんではないかとお見受けしました。「半径5キロ」の言葉に実感がこもっていました。
いしいしんじさんと大阪千日前のおすし屋さんでお話した時、私は自分が使った比喩と小沢健二氏の比喩の違いにこだわっていたので、いしいさんが興味を持たれたところを聞き逃してしまいましたが、あとから「ああ、そうか、そうだな」という納得が湧いてきました。いしいさんが首相官邸前の抗議行動の話を聞いて指摘したのは「68年から70年の時は年齢幅が狭かったでしょう」ということでした。街頭の政治活動の中心が大学生ですから18歳から22〜3歳というところです。それに高校生が加わるとしても15〜6歳から22〜3の幅で4〜5年から7〜8年の年齢差しかないのです。人生の中でも最も先鋭化しやすい年齢でもあります。いしいさんが興味をしめしたのは、首相官邸の抗議活動や国会包囲集会では親に連れられてきた赤ちゃんから高齢者まで幅広い年代の人が集まっている点でした。
いしいさんは京都で赤ちゃんを連れたお母さんたちが集まっているところで、そのお母さんたちと話す機会があったことを教えてくれました。いしいさんも赤ちゃんを連れていたとのこと。赤ちゃんや小さい子どもがいると、大人も会話をしやすくなるのは、幼い人の持つ功徳を感じます。で、そのお母さんたちの集まりは、東京から避難してきているお母さんの集まりだったのが、お話をしてみて解ったとのことでした。そう言えば、昨年7月に法政大学のボアソナードタワーで復興書店のイベントを開いた時にも、いしいさんは原発事故からの避難者の話をしてくださったのを思い出しました。避難という手段があることをなんとなく話しづらい雰囲気があるので、いしいさんの穏やかでユーモアのある話しぶりに救いを感じたものでした。
私の考えはもともと脱原発派で、非現実的な反原発ではありません。それは「豆の葉」にも事故直後に書きました。首相官邸前の抗議活動に積極的な興味を持ったのは6月中旬で、国会では3党合意による消費税率引き上げが論議されていました。これに続いて、民主党の小沢一郎氏が民主党離党を唱え始めたことに、あまりにも政治家としての緊張感がなく、震災も進行中の原発事故も「踏まえて」考えたり感じたりしていないという腹立ち紛れで、官邸前の抗議行動に興味を持ちました。首相よりは、むしろ、国会審議をストップさせた小沢一郎氏とそれに同調した政治家に腹を立てたのです。この頃から、首相官邸前の抗議活動の参加者数が増えたところをみると、私と同じような感覚を持った人も多かっただろうと思います。政治家が政治家の顔色を見て駆け引きをするのは2010年までの政治だと言いたい気がしました。
参加者が増えてみると、首相官邸前の抗議行動には、単に政治的主張を示すだけではなく、そこで人が出会って意見を交わして、考えを作る場になるという効果があることがわかってきました。また、あの東京駅で出会ったお役人さん風の人たちの感慨「東京駅から半径5キロ」を実際に歩いたという経験を持つ人がふえれば、政治に対する見方や考え方も、現実的で落ち着いたものになるでしょう。「国会」や「首相官邸」がただ新聞に書いてある文字ではなく「ここへ行ったことがある」場所として受け止められるだけでも、人間のものの感じ方あ変ってくるのです。
いしいさんとお話をして大阪から帰ってきたら「対話テーブル」のはずが、野田首相が抗議活動のメンバーを会見するかどうかという話になっていたというのは昨日書いたとおりです。なんだかうまくプレッシャーをかけてパスを出したら、管直人前首相が受けて、サッカーじゃなくってハンドボールを始めちゃったみたいな感じを受けました。へたをすると、また、政治家が政治家の顔しか見ていないとような状態に逆戻りするかもしれないなあと言うのが現実的な判断です。でも一方で、「どじょう」が「龍」に変身するかしらとも。さて、どうなるのでしょう。
首相官邸前の金曜日の抗議活動を主催しているのは「反原発首都圏連合」というグループです。このグループのポリシーを批判する意見を目にしたり耳にしたりするたびにちょっと黙っていられない気持ちになってきました。私も小さな政治的イシューについて、みなさんの意見表明のお世話係をしたことがあります。多くの人に参加してもらい積極的に御自分の考えを表明してもらうためには、工夫が必要でした。「反原発首都圏連語」のポリシーを見ると、大勢の人が集まって意思表示をするための工夫に満ちています。「場」を作り「場」の維持のためのお世話をするという点では、頭の下がる努力で、その努力には拍手を送りたくなります。このグループのメンバーが「匿名」の存在であったり、ハンドルネームであったりするのも、それが「お世話係」である限りは、そのポリシーにふさわしいでしょう。気がもめるのは、そのやり方が参加者が増えると政治的悪意にさらさえたり、責任追及をされるような場面に出っくわしたりすることです。
新しいカメラを買いました。前のカメラが壊れちゃったので。今、使い方を覚えているところです。写真は今年の青空を我が家のベランダから撮影したものです。
比喩に悩む
2012年08月04日(土)
大阪でいしいしんじさんたちと文楽を見てきました。30年ぶりの「曽根崎心中」。いろいろと感想、感慨があります。でも、それはあとで。
「潮見坂の上で話したこと」の続きです。7月29日の国会包囲集会はかなり大規模で、最後は国会正門前の道路に参加者が広がるという展開になりました。街頭での抗議集会が大きくなるにつれ、抗議集会を開いていた首都圏反原発連合では、全体をマネージメントできなくなるのではないかという心配と不安を「潮見坂の上で話したこと」に少し書きました。それが、30日には初めての「対話テーブル」が開かれるとのことで、展開の速さに驚いたのは追記に記したとおりです。こうした詳細な情報はツイッターを時間で追ってないとなかなか理解しがたいところがあります。
大阪では朝日新聞と日経新聞の関連記事を読みました。日経新聞の記事のほうが全体像を簡略に伝えていましたが、どちらも管直人前首相の発言だけがクローズアップされていて「対話テーブル」そのものはほとんど無視されていました。東京へ戻ると野田首相が金曜集会の代表者に面会する方向というニュースが駆け巡るだけで「対話テーブル」はどこかに消えていました。サッカーの比喩を用いれば、プレッシャーからパスが出たのは私の予想よりも早かったけれども、パスを受ける選手がいなかったというところでしょうか。
「デモって意味あるのかしら」と某先生から質問を受けました。それで、たまたま大学は前期の成績の採点の時期だったので、採点の比喩を使ってしまいました。以下のような具合。
街頭行動で政治的プレッシャーをかける。→C評価
C評価は低いようですが、単位は取得できます。こういう街頭行動はあまり目立ちませんが、保守派も革新派も東京ではいろいろな活動をしてます。
街頭行動から政治的意見聴取や意見交換の場を作り出す。「対話テーブル」の設置などはこの段階です。 → B評価
この段階が公に公開するかたちで開くことが、これまでの日本ではなかなかできませんでした。政治家にも公開で「対話テーブル」を開く習慣を持っていません。支持者団体とのクローズな会合が開かれるとか、支持団体との会合が開かれるという場合はよくあります。ただ、日本の政治家は不特定多数の納税者、有権者と対話するのは苦手なようです。「人見知り」が激しいのかもしれません。蛇足ですが、「人見知り」をすると「偉そうに、威圧的に振る舞って防御に出る」という癖がある人もわりによくみかけます。だから「物知りの老人」風の受け答えや「先生然」とした受け答えを始めたら、これは「人見知りで怯えている」と考えても、そんなに間違うことはないでしょう。
意見聴取、意見交換を通じて、意見集約を図り代表者を決定して、具体的な政策を作り出す。
ここまでくれば → 評価A
日常的にも支持者団体の中から政治家を出して、すったもんだのすえになんとか法案が成立したり、政策が決定されたりすることがあります。でも、そのプロセスに興味関心がない人には、ただ政治家が官僚のいいなり作った法律としか感じられない場合がままあります。
作り出された政策が衆知を集めた立派なものであればもちろんそれは → 評価A+
「それはとてもわかりやすい比喩だわ、ちょうど採点の季節だし」とお褒めをいただきましたが、どうもこの比喩を私自身は好きになれませんでした。内心で我ながら「そんなに先生やってどうするんだ」と忸怩たるものが。まあ、でも政治的な意思決定の段階を「先生」風に眺めることも、たまにはおもしろいかもしれません。
歌手の小沢健二、愛称オザケンさんは街頭での抗議活動について「病人と患者」の比喩を使っていました。小澤昔ばなし研究所発行「子どもと昔話」に連載された「うさぎ」というエッセイの一部のようです。私はツイッターで流れてきたものを読みました。政治的抗議を街頭でするのは例えてみれば「患者が医者に痛みや苦痛を訴えるとうなものだ」と言うのです。それで治療法や対処法は医者が提案すればいいと言うのです。現代では医者も患者に「説明責任」を負っていますので、医者から提案される治療法や対処法は患者が説明を受けて受け入れるかどうかを決めることになります。先ほどの成績評価の例えで言えばこれが評価B段階。治療法や対処法が決定され、実行されれば評価A。その結果がとても良いものであれば評価A+。なかなかわかりやすいすばらしいたとえ話です。デモでも集会でもやって、まずは病状を訴えなけれなというところが大事。感心しました。ネットで探せばこの文章を読むことができます。
私はサッカーのゲーム展開のイメージを使って首相官邸の金曜日の抗議活動を始めとして、政治的な抗議のありかたをここに書いてきましたし、自分でもそのイメージでものを考えてきました。「病気の比喩」と「サッカーの比喩」どっちがいいのだろうと、内心で悩んでいます。病気の比喩はすばらしいのですが、サッカーのゲーム展開のイメージも捨てがたいのです。そんなことを大阪でいしいしんじさんにお話ししました。いしいさんの御意見は「病気の比喩だと、ひとりひとりの気持にはぴったりとあてはまるという利点があるけど、サッカーの比喩だと出来事の全体が見渡せるんだなあ」ということでした。そう言われてみれば「そうかあ」と思ったしだい。おすしを食べながらそんな話をしました。
首相官邸前の抗議集会について、あるいは国会包囲抗議活動について、「ガス抜き」だとか「自己満足」だという意見を聞くたびに悲しい気持になります。過激化して解体した70年安保以来の固定観念化した言説(早い話が固まった頭)のまま、時間が少しも経過せずに、ただ精神的な怠惰が呟かせている言葉として、私の耳には響くのでした。熾火のような怒りを含んだ悲しみです。
潮見坂の上で話したこと
2012年07月30日(月)
3月から首相官邸前で反原発を訴える金曜日の抗議活動が続いています。金曜日は大阪に行かなければならないことが多く、ユーストリームの中継でこの集会の様子を見ていました。27日に有楽町へ出る用事があったので日比谷公園から潮見坂を登り、首相官邸前まで歩いてみることにしました。
7月27日(金曜日)この日はいつもの反原発首都圏連合主催の首相官邸前抗議はおやすみで、そのほかの主催団体による抗議が行われてました。日比谷公園から潮見坂を登ると、警官が警備線を引いていました。交差点を渡ったところで、知人にばったり。7週間前から毎週金曜日に来ているという知人と、扇を使いながらよもやま話をしていると、とおりかかった女性が「暑いので、塩飴をどうぞ」と飴をくれました。知人の話では、この日は5月末と同じくらいの人出だったようです。首相官邸前はさすがに混み合っていましたし、官邸の向かい側には警察の装甲車と公安警察の人がずらりと並んだ姿が見えました。 この抗議活動に参加者が増えたのは6月22日のことでした。6月29日にはさらにふくれあがりました。今日はこれから大阪へ出掛けるので、少し急いでいて、詳細を書けないので、潮見坂の上で知人と話したことだけを大急ぎで書いておきます。
参加者の数が毎週数万人、時には、20万人という数(7月29日の国会包囲抗議行動の時)になってきたから、これまでのゆるやかな紐帯の個人の集まりという主催者のやり方を、数万人の人の安全を確保して行くための仕組みに整えなおす必要がありそうだという方向の話をしました。たぶん、そうした工夫ももう始められているだろうし、労力(道案内や参加者の誘導)や専門知識を提供する人(弁護士さんの会が結成されたそうです)も現れるだろうと、ちょっと心配になりながら話しました。いや、もう昔からの知り合いだから「組織を作りなれたセクトに乗っ取られちゃわないといいねえ」ってな調子の話だったのですが。
大阪から帰ってきたらまた改めて書きます。大阪はいしいしんじさんにお誘いいただいて、文楽の「曽根崎心中」を見物してきます。こちらはこちらで、橋下大阪市長の過激な発言があったとか、それが毎日新聞の誤報だとかいろいろで、大騒ぎみたいです。 村上春樹風に「やれやれ」じゃすまなくって「結果をださないとまずいぞ」って時代になったようです。
追記 もたもたしていて大阪に行きそびれ、7時の新幹線に乗ることにしました。で、オリンピックの馬術見たさに布団からはい出してみると、脱原発首都圏連合のツイッターアカウントに「初の国会議員対話テーブル開催」の告知がありました。7月31日(火曜日)17時30分から19時で、一般の聴講はないようですが、中継はあるそうです。司会は歴史家の小熊英二。 政治的プレッシャーをかける街頭行動から、政治家との対話集会という流れのことについて、昨日、書きたいと思っていたところです。それが予想よりも早い流れになっているので、追記しました。 海外でのデモの様子はテレビや新聞でよく伝えられます。それが暴動、騒乱に発展した場合も「事件」として報道されるのですが、政治的プレッシャーから政治的対話へと展開される場合は、ほとんど報道されません。「事件」でもなければ「事故」でもないので、ニュースにならないのです。ただ、そういう方法があることは、以前から漏れ聞こえていたので、それを昨日は書きたかったのです。サッカーで言えば、プレッシャーからドリブルに持ち込むとか、パスをフォワードに出すという展開部分です。(7月31日AM6時 追記)
政治的プレッシャーについて
2012年07月28日(土)
プレッシャーグループについて教わったのは、中学校か高校の時でした。政治的なプレッシャーをかけるグループをそう呼ぶと。日本だと農協や漁協、それに労働組合や市民団体などが政治的なプレッシャー・グループとしての役割を果たすのだと。その頃はまだプロ野球全盛の時代で、毎年、巨人が優勝を続けていました。まだサッカーはプロリーグはなく、都市部にはリトルリーグが出来始めていた頃だったでしょうか。私も小学生の時、体育でサッカーをやりましたが、サッカーのゲームでは相手へプレッシャーをかけることが重要だなどとは知りませんでした。みんなでボールを追いかけて右往左往するへたくそサッカーの見本みたいなものです。考えてみると指導して下さった先生は、野球の経験はあってもサッカーの経験はなかった時代なのかもしれません。
政治的なプレッシャー・グループについて教えられた時も、サッカーのプレッシャーのイメージは浮かびませんでした。今ではすばらしいプレッシャー技術を持ったなでしこジャパンのおかげで、小学生でもサッカーのプレッシャーの意義を知っています。
では、街頭での抗議行動やデモンストレーションが政治的なプレッシャーであると教えられたのかどうか、思い返してみてもよくは思い出せません。書店には60年代の安保闘争で亡くなった樺美智子さんの手記が置いてありました。国会前のデモで樺美智子さんが亡くなったのは私が生まれて一年後(正確には8か月後ですが)の出来事です。その手記に興味を持って読んでみたのは高校1年生の時ですから、樺さんの死から15年後くらいのことで、今で言えば、高校生がオウム事件の記録を読むようなものです。70年安保、東大安田講堂占拠事件の時は小学校4年生でした。それで小学校5年生の担任の先生は、大学を出たばかりで、大学では学生運動にも加わったという先生でした。などなど思い出しても、街頭の政治的集団活動は、政治的プレッシャーだと教えられた記憶はありません。
街頭での抗議活動やデモは、サッカーで言えば、シュートではなく、プレッシャーだと説明すると、その意見に賛成か反対かは別にして、意味するところは、サッカーの観戦になれた今の人にはすぐ理解してもらえるでしょう。私がその比喩を思いついたのは、ついこの間です。毎週金曜日に首相官邸前で行われている反原発の抗議集会に参加する人が増えだしたのは、6月中旬からです。私は家でユーストリームの中継を見ていました。国会では消費税率の引き上げを巡って、民主党が割れるか否かで、小沢輿石会談の最中。25年近くも議論している消費税ではなく、震災と現在進行中の原発事故についてもっと真剣に緊張感を持った議論をしてほしいという民意が、政治家にプレッシャーをかけ始めたのだと、そう感じた瞬間でした。
街頭での抗議活動やデモは政治的プレッシャーであって、決して何かを決定するためのシュートではない。プレッシャーはひじょうに重要な手段であり、シュートではないから意味がないということにはならないと。そんなことを考えるうちに、中学校か高校で教えられたプレッシャー・グループという名称を思い出したのでした。私は現在、日本の政治家には強いプレッシャーをかける必要を感じています。そんな話を知人にすると「プレッシャーをかけたあとはどうなるんだ?」と尋ねられました。
考えてみると中田英寿の時代には良いパスを出しても球を受ける選手がいなかったのが日本のサッカーのナショナルチームです。それが今や、なでしこジャパンはオリンピックでの金メダルを期待されながら、白星発進、男子のナショナルチームはスペインを破って欧州を驚かせるまでに至っています。政治だって、大勢の人が集まって良いプレッシャーをかければ、きわめて有能なカリスマ性のある政治家の登場を呼び出すことができないとは限らないでしょう(←まだ弱気だけど)。
琉球大学へ行く
2012年07月24日(火)
今年は琉球大学の国際沖縄文化研究所の客員研究員という身分をいただいています。琉球大学での研究テーマは「島尾敏雄の『南島研究』の研究」というものです。 島尾敏雄は「死の棘」の作者として有名です。「死の棘」は妻と夫の諍いを描いた小説で、小栗康平によって映画化もされています。この作品のテーマは一口で言えば、時間が過ぎて行かずに反復を繰り返すというものだと言えるでしょう。反復する時間というテーマは1945年以降の日本文学では様々な描き方をされています。また1990年代以降は「うつ状態」の心理と言うスタイルとなって現代文学のテーマとされている場合もあります。
私が大学へ入った1978年という年は戦後33年。年忌供養で言えば1945年から34回忌ということになります。一般には34回忌というのはあまりやりませんから、翌年の1979年の35回忌というのがちょうど一区切りの年忌として法事が行われることが多いようです。35回忌の次は何回忌になるのか、たまに耳にするのは50回忌とか100回忌ですが、供養される人と供養する人が共に生きた時間を持っているのは、35回忌くらいまででしょう。子どもの頃、私の家に来ていた呉服屋さんは「親の35回忌をさせるなんて、親不幸ならぬ子不幸だ」と笑ってました。 私の場合はあと6年もすると父の50回忌の年と母の35回忌の年が同時に巡ってきます。さすがに50回忌になるとかなり遠い昔です。 話が脱線しましたが、私が大学へ入った翌年には太平洋戦争終結から35回忌の年忌の年が巡ってきたのです。国民国家の戦争という体験が、国民共通の「死」の体験であったとすれば、私が大学生の頃には、その体験はそろそろ清算をされる時期に入っていたのだと言えるでしょう。
現代文学のテーマに「時間の反復」というものがあることを知ったのも大学生になった頃のことでした。その「時間の反復」を切実にかつリアルに描いた小説が島尾敏雄の「死の棘」でしょう。「死の棘」に対して「南島研究」は前に開ける時間を、文学のリアルな言葉で捉えようとした作品群だと言えるでしょう。その多くはエッセイという形をとっています。また「南島研究」で島尾敏雄は「ヤポネシア」という概念を見つけ出しています。日本列島から琉球弧、台湾、フィリピン、あるいは北海道からアリューシャン列島へと連なる島々として日本を見るという視点の発見に喜び、また、その視点が発展することをせつに願っています。
島尾敏雄が海軍の魚雷艇特攻隊長として終戦を迎えたのは奄美大島諸島の加計呂麻島でした。また、終戦後移り住んだのは奄美大島の名瀬市でした。ですから「南島研究」をするなら奄美大島に滞在するのが、直接的には正解なのかもしれません。琉球大学を選んだのは、沖縄タイムス社の新沖縄文学賞の選考委員としているご縁から琉球大学の山里勝巳先生を知っていたこともあります。ただ、そういう便宜的な側面ばかりではなく、1945年以降の時間が刻銘な刻印を残している場所としての沖縄ということも意識していました。
琉球大学はアメリカ民政府によって1950年に設立された大学です。朝鮮戦争はこの年の6月に始まっています。1952年には奄美大島に琉球大学大島分校が設置され1953年12月に奄美大島の本土復帰のために分校が廃止されました。1966年に琉球政府の府立大学となり、1972年沖縄の本土復帰により国立大学となりました。校舎は首里城跡にありましたが、1977年から84年にかけて現在の千原キャンパス、上原キャンパスに移転したそうです。 私は1981年の初秋に初めて沖縄へ出掛けていて、ちらりと首里に残っていた琉球大学の校舎を見ています。現在のキャンパスは西原町、中城村、宜野湾市にまわがる広大なもので、西に東シナ海、東に太平洋を眺めることができます。今年は沖縄本土復帰40年の年に当たります。
島尾敏雄の「南島研究」は「死の棘」からの脱出の文学的記録でもあるのですが、もうそんなことに興味を持つ人はそんなにいないだろうと、歎息しつつ、このテーマを選んだのは、1945年から35年目あたりから、時間が前へ進まないという現象と付き合わざるえなかったという感慨を持ったからでした。現代文学にかかわることは、すなわち時の反復につかまることだったという感慨が私にはあります。1945年からの30年は、鋭敏な感受性を持った人によって「死の棘」は意識されていましたが、1980年からの30年は、もっと一般的に広く薄く、時間が反復されるという現象に包まれていたようです。経済状況は90年以降を「失われた10年」あるいは「失われた20年」と呼ばれますが、その前の85年から90年へのバブル期も含めて「時間の反復」はすでに多くの人の感情生活を浸食していたのだと、感じています。だから多くの人に興味を持ってもらえなくっても、島尾敏雄が「南島研究」で前進する時間をどう捉えていたかは、私にはひどく興味深いテーマです。
丘の上の琉球大学で、西に東シナ海、東に太平洋を眺めていると、それだけで島尾さんのエッセイを読む心地がいきいきとしてきます。
「ネットと愛国」
2012年07月21日(土)
大阪で日の丸の旗を掲げたデモを初めてみたのは09年3月でした。外国人参政権に反対という趣旨でしたが、なぜかデモ隊のところどころで、掴み合いや殴り合いがあり、警備の警官が間に割って入ってました。
私が見ていたのは、日航ホテルのロビー喫茶室から。デモ隊に背を向ける形で携帯のカメラで写真を撮影している人が大勢いたので、不思議に思って、喫茶室の中を見回してみると、すぐ近くの席にピンクのスーツを着たアントニオ猪木氏が誰かと談笑していました。
この日の丸のデモ隊が「在日特権をゆるさない市民の会」だと知ったのは昨年のことでした。通称「在特会」。 2012年6月15日(金曜日)首相官邸前の「反原発抗議集会」の様子をユーストリームで見ていたら、在特会が「原発賛成」を「反原発抗議集会」を開いているすぐそばで叫んでいました。至近距離です。こんな至近距離で、まったく意見が異なる集団が対峙したら、どうなるのだろうと息を飲んでしまいました。が、この時は「反原発抗議集会」に主催者発表で4万5千人の人が訪れ、日が暮れる頃には「原発賛成」の主張をする人の姿はなくなっていました。
ネット右翼と呼ばれる人々はいったい幾つぐらいの年齢なのだろうと思っていたのですが、日の丸を持ったデモ隊の人の姿を見ると30代とおぼしき人が多いなという印象です。けっこう女性もいます、時には子どもを連れた女性の姿も見かけます。
安田浩一「ネットと愛国」は副題が「在特会の闇を追いかけて」で、在特会を中心にネット右翼と呼ばれる人々の姿をたんねんに描いています。これを丹念に取材するのはさぞ骨の折れる仕事だっただろうと想像するにあまりありました。いや、正直、ネット右翼と呼ばれる人たちの言動に、半分切れかけて「このやろう、日の丸を汚すな」と怒り心頭になることもしばしばあり、それはこの本の著者も同じような心境になってことを本文中で明かしています。また、従来の右翼、新右翼と見られていた人々も在特会に「怒り」を現していることもレポートされていました。
自分と同じ意見の人の声には耳を傾け安いのですが、意見が違うというだけではなく、なんと言ったらいいのか「呆れてしまう」とか「論外だ」と感じる相手に対して辛抱強く取材をするのは、いかばかりの力がいるものかと「ネットと愛国」を読んでいて、しばしば歎息しました。そして、著者は特在会登場の背景に「怨嗟の声」を聴くまでに至っています。さて、この「怨嗟の声」はいったい誰に向けられたものなのでしょう。特在会の攻撃対象は在日韓国人、朝鮮人ですが、どうも「ネットと愛国」を読んでいると、在日韓国人という存在は仮想の敵にしか思えないのです。仮想の敵の向こうに怨嗟の対象は存在していると、そう考えられました。それは著者の次の仕事のテーマになるのかもしれません。
ソウルで久しぶりに星野智幸さんとお昼ごはんを食べて日本へ帰国したら「ネットと愛国」が講談社ノンフィクション賞を受賞していました。納得できる選考です。
星野さんとはスターのおっかけが、語学習得のモチベーションになったり、多様な文化理解を生んだりするという話題を愉快に喋りました。いや、星野さんの「俺俺」が亀梨和也主演で映画化されるので、ソウルの亀梨和也ファンにとっては、大画面が全部亀梨和也で埋まるという快挙な映画になるという話で、亀梨和也ファンが翻訳された「俺俺」を買ってくれ、さらには星野さんにサインを求めるという話が発展したのでした。「僕は亀梨和也じゃないんだけどね。でも俺俺だからいいか」と星野さんは苦笑。そこで星野智幸さんの名言が飛び出しました。 「ネトウヨやっているよりもアイドルのおっかけやっているほうが人生豊かになるよ」 ほんとに、そのとおり、げにも、と手を打ちたくなる一言でした。ちょっと爽快。でもそのあとで「人生を豊かにする術を失った人々」というテーマが頭に浮かびました。短絡的に言ってしまうと「ネットと愛国」の著者が聞き取った怨嗟の声は「精神の貧しさを生んだ人々」に向けられているような気がしたのでした。
ブラックアンアン
2012年07月03日(火)
北原みのり「毒婦 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」を読みました。この事件が発覚したばかりの頃、複数の男性を殺害したという被告の写真が公開され、美人というよりも、まるぽちゃ顔で、かわいいという類いの女性だったのが意外でした。ブスとはっきり言う人もいました。うちの娘が「すごい美人じゃなかったから、みんな、信用したのね」と言った時には、ああ、なるほどと納得したものです。 それ以上の興味を持つこともなく数か月が過ぎました。
ある日、明治大学時代のゼミの後輩と言う方からご連絡をいただきました。ゼミの後輩と言っても、社会人入学をされた方で、年次こそ後輩になりますが、年齢的には私と同世代です。で、木嶋佳苗事件が発覚するきっかけになった埼玉事件の被害者が、これまたゼミの後輩であることをその方からお知らせいただきました。私が卒業してからずっとあとの卒業生ですから、面識はありません。ただ、テレビや新聞の中の事件が、身近に迫ってきた感じはありました。「埼玉事件」の被害者が大学のゼミの後輩で、神田の人。車の中で遺体となって見つかったのは埼玉県富士見市。加害者として逮捕された女性は、板橋のマンションに住み、のちに池袋のマンションに転居していると概況を知れば、ほとんど私の生活圏の中で起きた事件でした。
それで北原みのり「毒婦」を読んでみたのです。この事件は本の表題にもあるとおり100日間の裁判員裁判であり、裁判員制度としてこれは一般の人から選ばれた裁判員の負担に耐えるかということが問題提起された裁判でもありました。状況証拠はあるのに、決定的証拠はないために、複数の事件を一括審理する形になったことが裁判員裁判であるにもかかわらず100日の長い審理になった理由のひとつです。被告は起訴された3件の殺人事件については無罪を主張。状況証拠だけで「死刑」判決が出たことについて、これもまた司法記者にとっては特筆する必要がある事件になりました。
捜査段階では複数の結婚詐欺を働き、詐欺の被害者を練炭自殺に見せかけて殺した女が「ブス」だったという点が強調され、マスコミを賑わせました。この点については、すごい美人だったら、それはそれで大騒ぎになっていただろうと思います。「ブス」という単語が飛び交うマスコミ報道でしたが、娘が言ったとおり「平凡な顔立ち」というところが、被害者にとっては安心を呼ぶところであったのだろうと私は考えてました。裁判の傍聴をした著者によると声に上品な魅力があり、仕草が美しいとありましたから、あるいは、お付き合いの相手としては「親しみやすく」同時に「憧れを誘う」「夢見心地にさせてくれる」女(ひと)であっただろうことは想像できます。 裁判の過程では、司法上の問題提起的な内容が含まれていたために、被害者の人物そのものよりも裁判制度、司法運用がクローズアップされました。
私のゼミの後輩だという方がお話になっていたのは「彼はなぜ殺されなければならなかったのだろう」ということです。裁判傍聴記を読めばある程度の推察はできるだろうと、読み始めたのですが、読めば読むほどわからなくなることが多くなるという経験をしました。北原みのりの観察眼はいきいきとしたもので「わからなさ」を正確に表現して行きます。わからなくなるのは著者の書き方がまずいという意味ではなく、対象の木嶋佳苗そものもが「不可解」な存在なのです。
予想したとおり女性誌に描かれているような生活を夢見るタイプ。しかも売春には後ろめたさを感じていないどころか独特の価値観を持っている。いや、売春という言葉さえ適当ではないくらいセックスに自信を持ち、特別な技能として捉えていること。そのあたりを読んでいると雑誌「アンアン」のパロディとして「ブラックアンアン」というのがあったら、こんな感じなんだろうなあと感嘆してしまいました。で、そのあたりから「なんで殺しちゃったんだろう?」と、殺人の動機がわからなくなったのです。男性を殺さなかくっても「恋の夢を見させる特別な存在」の女性として成功できたような気がしてきました。ただの夢見る夢子さんが、夢を見ることができなくなって追いつめられたということだろうという私の予想が裏切られました。
動機が解らないというのは著者の北原みのりも同様の指摘をしています。
とくに事件発覚の発端になった埼玉事件の被害者は知りあってからほんの数日で死体となって車の中から発見されています。私のゼミの後輩である人物です。検察側主張のように「借金の返済を迫れて」という動機が発生する暇もない早さです。立件された三件の事件の中でももっとも動機については不可解な事件です。
衝動的な殺人とか、理由なき殺人というものとも違うように感じられます。一件ごとに、なにかひどく納得の行く動機がありそうに思えるのです。少なくとも女性には「ああ、そうか」と思い当たるふしがありそうな何かがあるような気がしてなりません。ただ、被告は「無罪」を主張しているわけで、「殺人はなかった」のですから、被告の口から動機が語られるということはありえないことになります。
大きくて暗い洞(うろ)のようなものを木嶋佳苗に著者の北原みのりは感じています。たしかに心に「本物の空洞」を持った人間が今の世には存在しているのかもsれません。私のところのお話に来て下さったゼミの後輩にあたる方も、親しかったお友達が事件に巻き込まれたショックとともに、この「本物の空洞」に触れてしまった驚きをお話しになりたかったのかなと想像しました。
「方の会」のこと。
2012年06月14日(木)
「虚実の皮膜」という文芸の批評用語を最近はめっきり聞かなくなりました。リアリズムの退潮という現象に伴って、現実と虚構の狭間を扱うということも少なくなったからでしょうか。小説よりも演劇のほうが、虚構の要素は高いのに、実際にそこに演者がいて、観客がいるという現実を伴っています。いや、難しいことを言いだそうとしたのではなくって、京都の南座、浅草の平成中村座、それから銀座のみゆき館劇場と立て続けにお芝居を見て、そう言えば「虚実の皮膜」という批評用語が飛び交った頃もあったのを思い出したのです。
銀座みゆき館劇場の方の会の御案内は前々からいただいていたのですが、なにしろ公明新聞で日刊の連載を持っているので、予定を立てるという心境になれずに、予約をとるのをのびのびにしていたら、初日の幕が開いてしまいました。それで劇場に電話をして、無理を言って席をとっていただきました。無理を言いましてまことに申し訳ありませんでした。でも、今年はサバティカルで学校がないので「ここが空いています」という日に飛び出して行けます。学校がないのって、ほんとにいいなあでした。
「学校時代の同級生で女優さんになった人がいる」と母から市川夏江さんのことを教えてもらったのは、まだ高校生の頃でした。母は横浜の関東学院の卒業生で、学校の話を聞くと、田舎の高校生でいるのがつまらなく思えたものでした。都会の高校生と言うのは、田舎の高校生よりもずっと大人だと、母も言っていました。私は高校進学率100%に近い時代の高校生ですが、母の時代の高校進学率は今の大学進学率よりもずっと低かったのですので、そのあたりの事情も関係している事柄ですが。ともかく高校を卒業する頃には、それぞれが生き方を選んでいるというのが母の時代であったと言えるでしょう。いつの頃からか、母の縁で「方の会」主催の市川夏江さんからお芝居の案内をいただくようになりました。
「泣いて笑った私の人生〜清川虹子のこと〜」は、冒頭に書いた「虚実の皮膜」へ観客を誘い込むお芝居でした。清川虹子というと、私は声に特徴のある女優さんとして記憶しています。低い声で、その低い響きのなかに縮緬皺が寄ったような感じのする声でした。清川虹子を演じた矢野康子の声は、生前の清川虹子の声とは質を異にする声ですが、お芝居を見ているうちに清川虹子の声が耳の底にありありと蘇るので、驚きました。 もっとも私が知っている清川虹子は晩年で、毎月、2本も3本も映画を撮影していたという時代ではありません。昭和10年にPCLと専属契約したという清川虹子の経歴を紹介する市川房江の台詞に「私が生まれた年であります」と一言付け加えがありましたが、私の母は市川さんと同級生なのですから、私の母の生まれた年でもあります。昭和16年から昭和22年までは、大沢清治(PCLが東宝となったあとの東宝の御重役だったらしい)と家庭を持ち映画に出演しなかった清川虹子は、昭和22年の大沢清治が亡くなったあと再び映画女優に復帰します。 「あんた、映画に出たらいいと言ったけど、一年に23本も出演しろとは言わなかったわ」 と言う山本五十鈴(白石奈緒美)の感嘆の声は、とうていお芝居の中の台詞とは思えず、なんだか清川虹子邸に居合わせていたような気がしました。虚実の皮膜が破れ、現在の時間の流れの中に溶け出す瞬間でした。
それにしても市川夏江さんが清川虹子さんと親しかったというのは意外でした。お芝居の中でに喜劇役者の弟子になったのに、なんで新劇の役者の指導を受けなくっちゃならないだとぼやく若い人が出てきましたが、映画と芝居というだけでも別世界のような気がするのに、新劇(シリアス)と喜劇(コメディ)はひどく対立していたような気がします。純文学と娯楽小説という対立の激しい世界に私がいたせいで、そう感じるのでしょうか。
今現在が新しいコンフュージョンの時期に入っていることを、この演目を通して、私が過去と重ねあわせながら徐々に感じとりました。それにしても、市川夏江さんの役柄は「市川夏江」その人であります。小説家は自分自身のことを一人称で書くこともありますし、エッセイというスタイルで「自分のこと」を書くこともありますが、この演目では市川さんはさしずめ「エッセイ的な市川夏江」を演じているのです。昼の部、夜の部と毎日二回公演するのはどんな気持ちなのだろうと、しきりにそれが気になりました。というのも、そこに現在の時間と過去の時間が交錯しながら、美しいハーモニーを奏でる瞬間を何度も見たからです。人間は単調に刻まれる現在と言う瞬間の積み重ねを生きているわけではなく、過去から現在へかけての複雑で重層的な時間の和音の中に生きているのだということを、濃縮して見せてもらうようなお芝居でした。
閉演後、劇場の階段で市川夏江さんに御挨拶しました。「米元綾子の娘です」と自然に母の学校時代の名前が出ました。そう、「方の会」のお芝居の時は母の変り、代参をしているような気が少ししています。
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