スリップウェア
2012年09月19日(水)
バーナード・リーチが作陶を始めて今年で100年目だそうです。バーナード・リーチはイギリスの外交官の息子として香港で生まれました。幼少期にしばらく日本で過ごしたこともあったそうです。イギリスで美術を勉強してから日本へ戻り、柳宗悦らに出会い、民芸運動の中心的人物の一人となります。「西洋と東洋の感覚の結婚」をめざしました。
スリップウェアは工業化する以前のイギリスの作陶方法で、釉薬を流しかけする(スリップさせる)素朴な陶器です。私が最初にスリップウェアに出会ったのは、城戸朱里さんたちと横浜の骨董市へ遊びに行った時でした。「これは本物のスリップウェアだね」と骨董市に出ていた四角い武骨な御皿を見せてもらいました。
7月、神田の「千鳥」でスリップウェアの技法を使った御皿を3枚買いました。横浜の骨董市で見たものよりもずっと薄手にできているもので、柄は武骨なスリップウェアの特徴がよく出ていました。この技本は最近また作陶をする人に注目されているという話をその時、聞きました。
島根の玉造温泉で1泊して、翌日、電車を待っている時に駅前に出ていた「湯町窯」の看板に骨董市で見たスリップウェアとそっくりな焼物の写真がありました。それで、電車を待つ間にちょっと寄りこんだところが、たいへん魅力的な品物がそろっていることに驚きました。お話を聞くとスリップウェアの技法は、昭和の初めにバーナード・リーチから直接に教わったものだそうです。昭和の初め、まだ、町でコーヒーなんか飲んだことがある人はいなかったのに、コーヒーカップの作り方を教えてもらったとのこと。横浜の骨董市で見たスリップウェアは武骨過ぎる感じがしましたが、湯町窯のスリップウェアは、良い具合に日本の土と風に馴染んでいました。豆を食べたり、栗を食べたり、芋を食べたりしたくなる器です。
写真は櫛目の小皿と、櫛目で小さな魚を描いた小皿です。
数えてみるとそれからもうすぐ90年になろうとしているのですが、その間、長閑に作り続けられた器は、大きさも厚みも色合いも、しっくりと手に馴染んでくるものでした。家に持ち帰って使うと、ますます、馴染みがよくなってきました。
日御碕
2012年09月17日(月)
出雲へはゼミの合宿に付き合いました。今年は休暇中ですが、合宿はちょうど日程があったので、出雲の後半だけおつきあい。昨年、伊勢神宮でしたから、出雲へも行ってみたかったのです。
というわけで出雲大社でゼミ生諸君と合流。例によって、各自、現地集合というやり方で、聞いてみれば、利用した交通機関もばらばら。飛行機で出雲空港へ降りたのは私だけでしたが。翌日もまた、それぞれに帰って行きました。私が「韓竈神社に行ってみたい」と言うと、何人かが同行を申し出てくれました。が、その先が困ったです。日御碕に行きたいという人と、玉造温泉へ行きたいという人がいて、方向が正反対。ああ、どうしようと思いながらもせっかく出雲へ来たのだから、どっちかを選ぶのもつまらない気がして、とうとう、両方行くことにしました。
この日はへんなお天気。あっちこっちで大雨が降っていた様子で、電車は雨のために遅れが出ていました。空も曇り模様。幸いなことに、大雨には遭遇せず、雨をよけながら移動できました。大社湾を囲む山の上にはたくさんの風力発電の風車が並んでいました。
日御碕でお昼。「雲丹は嫌いだ」という学生にむりやり雲丹を食べさせるという暴挙。それから韓竈神社へ。延喜式に乗っている製鉄の神様ということで興味を持ちましたが、行ってみると、なんと山道から急な石段の上り坂で、最後は幅45センチの岩の割れ目を通って小さなお社の前へ出るという神社でした。なんでも秘密のパワースポットとテレビで紹介されてから、お参りする人が増えたとのことで、この日も若い人のグループがいました。携帯の電波が通じない山の中。45センチの岩の割れ目にもし挟まったらたいへんなことに!学生諸君が同行してくれたのが、たいへんありがたく感じられる神社でした。挟まらなくってほんとに良かったと、本気で思いました。ネットで調べたら肥満の人は参拝不可能だと書いてありました。
古代の神社は、たいてい、たいへん住良さそうな場所にあります。沖縄の御嶽も、心地良い風の吹く場所です。韓竈神社はその名前が延喜式に乗っているそうですが、場所は解らず、今の場所は江戸時代になってできた様子なので、山伏のような、山岳信仰の考えで盛んになってから鎮座したのかなと考えながら、山道を下りてきました。
最期に玉造温泉へ。日帰り温泉でひろ風呂浴びたら、もう電車に乗るにはぎりぎりの時間。なんらか泊まりたくなっちゃいました。玉造温泉に。で、学生諸君を駅まで送って「じゃあね」とばかりに、私だけ玉造温泉に一泊しました。これも17年ぶりです。前に泊まった時は柳美里さんと一緒のお部屋でした。
出雲大社
2012年09月16日(日)
95年の秋。日韓文学者会議のあと、韓国の詩人、作家のみなさんと出雲大社に行きました。17年ぶりということになります。前回、出雲大社に来た時には、この大きなしめ縄にコインがたくさん刺さっていたのを覚えています。最近はパワースポットブームとかで、若い人がたくさんお参りするとのこと。たしかに夏休みのカップルが目につきました。縁結びの神様だからかもしれません。
出雲大社のそばにできた島根県立古代出雲歴史博物館の銅剣は圧巻でした。関東だったら、1本出土しても大騒ぎになりそうな銅剣が358本も出て来たのです。358本の青銅の剣が、ぴかぴかするレプリカで壁面に展示されているのは圧巻でした。銅鐸も大小取り混ぜて、眺めきれないくらいたくさんに展示されていました。
領有権問題で大騒ぎになった竹島は島根県の島です。ある意味で出雲は国境の町と言えるでしょう。出雲の博物館と朝鮮半島の慶州の博物館の展示物がよく似ています。それは双方の交流のあとをそのまま物で物語っています。古代人が銅剣や銅鐸を大事にしていた頃は、もちろん、日本も韓国もなだなくって、現代とは異なった地理感覚で人は移動していたことでしょう。大社湾の水平線のかなたには白い積乱雲が並んでいました。水平線に積乱雲が並んでいるうちは「まだ夏です」とタクシーの運転手さんが言っていました。出雲へは羽田から飛行機で移動したのですが、考えてみると、ここでは関東平野の東京よりも朝鮮半島の古都の慶州のほうがずっと近いのです。古事記に、海を渡ってきた人が、死んだはずの兄にそっくりの人物を見つけておどろくという話があったのを思い出しました。
よくしゃべる荒焼(あらやちー)の壺
2012年09月12日(水)
やちむん通りの雰囲気がここ数年ですっかり変わったと見ていたのは6月です。それから2か月。あらまと驚いたのは、やちむん通りと、平和通りの市場の間に大きな道路が一本開通していました。平和通りの迷路のような市場から骨董屋さん、古道具屋さんの前を通ってやちむん通りへという流れが、道路一本で寸断され、やちむん通りは市場と切り離されてしまいました。孤立した感じがします。
以前はやちむん通りを歩くとあらやちー(荒焼)の壺や甕をたくさん売ってました。もともとは泡盛などをいれる器です。それからシーサーがたくさん並んでいた時期もありました。赤い塗料を塗ったようなお魚の柄の器が並んでいたこともあります。今は、ものやさしい菊紋や水玉の焼物が増えています。こんなに流行があるとは知りませんでした。
あらやちーの壺は前々から欲しいと思ってはいたもののなかなか高価で、しかも実用品ではないので手が出ませんでした。そのうちにと、見るだけにしているうちに数が減ってきたので、今度は一大決心。お店の棚の下で埃をかぶっていた壺をひとつ求めました。民藝から現代風なクラフトへという流れの中で取り残されたような壺でした。持ち帰るには重すぎるでの宅急便で自宅まで送ってもらいました。
荷をほどいてみると、壺にはちょっとした歪みがありました。この歪みができた時、心地よい風でも吹き込んだのかなと想像しました。作る人のちょっとした手の動きが残っているのをおもしろく感じたのでした。するとなにやら壺がむにゃむにゃと喋っているような。そんな感じがする物品は骨董屋さんで買ってきたものには時々あるのですが、今物では珍しいのです。
おや、おや、こいつはお喋りだと思うと、またむにゃむにゃ、何を言っているかまでは解らないのですが、なんだかむにゃむにゃ言っているのだけは耳に聞こえてきます。朗らかなおしゅべりさんです。なんだか仲良くなれそう。
あおい島バナナ
2012年09月03日(月)
先月、那覇からソウル・仁川へ飛んで、1ヶ月ぶりの那覇でした。牧志の公設市場を覗くと、青いバナナがたくさん、並んでいました。写真は沖縄産の島バナナですが、フィリピン産の青いバナナもたくさん並んでいました。島バナナはフィリピン産よりも小さくずんぐらもっくらした形をしていますが、味はフィリピン産よりも甘みと酸味の混じりあいが絶妙とのことです。
今頃がバナナの収穫期なのかしら?それにしても青いバナナばかりだと不思議に思っていたところ、与那覇恵子さんから「沖縄はお盆なの」と教えてもらいました。陰暦の7月14日、15日、16日青いバナナはお盆のお供え物に欠かせないそうです。青いバナナが黄色くなる頃、ご先祖様は「にらいかない」に帰り、お供えからお下がりの黄色いバナナと食べるとのこと。東京でお盆のお供えに使うほおづきも、青い実が熟して黄色くなるとご先祖様があの世から帰ってくるのだと言われていますが、バナナのほうがなんだか「おいしそう」な感じです。しかし、もともとの土地を離れて暮らす人にとってはお盆の先祖供養はけっこうたいへんです。
従軍慰安婦のことで、韓国の若い世代が祖母の世代の「名誉回復を考える」ことに興味を持ったと書きましたが、先祖供養のことなどを考え合わせると、それはけっして理解できないようなことでもないような気がするのです。韓国は儒教の考え方が強いからだという説明も耳にしますが、それはそうかもしれませんが、同じような感覚を持っていたのに、先祖の土地から離れてしまった日本では「あんまり考えたくないこと」だったのかなと青いバナナを眺めていました。それで「昔の人のことは忘れるようにした」と、そんな気持ちの動きがあったのは想像できることです。
9月8日は私の父の命日です。ここのところしばらくお墓詣りもしてません。弟任せにしてます。弟に聞いたらお寺さんがお墓をきれいにしてくれてあったとのこと。以前はお墓のお守りと言えば、誰も興味関心を持ってくれずに一人で孤軍奮闘しているような気になったこともありましたから、弟と弟のお嫁さんにすっかりお任せというのも「なんだかいいなあ」で肩の荷が下りたような感じです。もうちょっと涼しくなったら、房総半島先端のお寺に行ってこようかなと、考えつつ、つい青いバナナを買ってしまいました。黄色くなるまでに1週間くらいかかるそうです。
那覇の空
2012年09月02日(日)
首里城は赤いお城として有名です。以前の那覇は、もっと内陸へ海が入り込んでいたそうですから、泊の港へ入ってきた船の乗組員は、赤い首里城をきっと頼もしく眺めたことでしょう。浦賀へ現れたペリーの一向もまず琉球へ立ち寄り、当時の日本の国情を調べたそうですから、きっとペリーも洋上から赤い首里城を眺めたに違いありません。久しぶりに首里城まで行きました。復元工事はまだ続いていて、正殿の後ろ側に控える王族の居住部分が新しく作られていました。
写真は南殿の屋根。赤い瓦と白い漆喰、それに青い空のコントラストが見事だったので、カメラを向けたのですが、あの空の広々とした感じはなかなかカメラのは収まりません。那覇と東京を行ったり来たりするうちに、なんとなく日本の国境のイメージが湧いてきました。定規で引いたような国境ではなく、国と国の間に中間領域が存在しているような国境のイメージです。
平家物語は「祇園精舎の鐘の声〜」で始まる無常をとく物語と言われています。那覇の街を歩いていたら、平家物語の冒頭が唐天竺の「祇園精舎」から始まることがひどく意味深く聞こえてきました。平家は瀬戸内海の海上交通の権利を抑えた一門であり、遠く唐天竺までその力が繋がっていることがなければ、あの物語の冒頭はないのだなあという気がしてきたのです。中学校の時に無常を説く物語と教えられた時には「祇園精舎」は仏教思想の現れという意味の響きしかなく、抹香臭いお寺の匂いしか感じませんでしたが、那覇では唐天竺の祇園精舎への海上の道が夢想されました。
祇園精舎の鐘の声所行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現す
祇園精舎への鮮やかな海上の道が見えてくると、沙羅双樹の花の色も、南海に咲く熱帯植物の色の濃さが目に浮かびます。平家の栄華はそのような色鮮やかなものだったのでしょう。おかげで俊寛が鬼界ヶ島に流されたのも、なにやら意味深く思えてくるのでした。
首里城の北殿には、沖縄サミットが開かれた時の晩餐会のメニューと、当時の森首相の写真がありました。晩餐会で使われた食器類の展示も。それを眺めていると、そばにいた参観者のおばあさんが「この頃は日本も良かったよねえ」と嘆息していました。沖縄サミットは2000年7月。20世紀最後の年の夏の初めに開かれたのでした。
ソウルの駐韓日本大使館前の従軍慰安婦少女像
2012年08月23日(木)
ソウルの駐韓日本大使館の前に従軍慰安婦の「少女像」が建てられたのは2011年12月でした。この少女像の撤去を野田総理が李明博大統領に求めたのも昨年12月のことです。これに対して李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求めました。これが今回の李明博大統領の竹島上陸、天皇への謝罪を求める発言、そして15日の従軍慰安婦問題解決を促ながす演説という行動と発言の発端になっていると思います。
この一連の流れについてはネットではなく、活字によるパブリックな発言をするつもりでいました。が、ここ数日、ツイッターを見ていますと、茂木健一郎氏や吉村作治氏など、人気のある人物が新聞が報じる「李明博大統領の豹変」的な内容をそのまま信じたとみえる発言が繰り返し流れていました。そうした内容がそのまま広がって行くことに危惧を覚えました。
ネットでは、それがHPであれ、ブログであれ、NSNであれ、どのようは内容でもすぐに発言できますし、また、簡単に訂正できます。簡単に内容を取り消したり、訂正したりできます。そうした機動性は、記録としての不安定性と表裏一体です。ですから、2011年の12月から2012年8月に至る日韓の交渉の過程についての私の考えは、記録としての安定性が高い雑誌もしくは新聞などの紙メディアに発表することが好ましいと考えていたのでした。しかし、このまま、乱暴な言論が影響力の大きい人々のNSNで伝播するのは不安なので、これまでに経緯について、私の見方を簡略に書いておきます。
昨年12月にソウルの駐韓日本大使館前に少女像が建てられたことは前述のとおりです。従軍慰安婦問題は1993年に当時の官房長官であった河野洋平氏の談話が発表され、これが日本政府の見解となっています。この河野談話を日本政府が否定したという話は寡聞にして聞いていません。もともと日本政府の受け取りと、韓国側の主張にはすれ違いがあり、河野談話の評価については、韓国側にも日本側にも不満がありました。1993年8月から2011年12月に至る経緯は複雑なので、今回は省略。
ソウルの駐韓日本大使館は復元作業が進む景福宮前の安国にあります。安国は王宮前の両班(貴族)の屋敷があった街です。現在は景福宮を訪れる外国人観光客の姿もよく見られる場所にあります。ここの従軍慰安婦の「少女像」が建てられたのです。右翼的な考えの人はこれを「従軍慰安婦像」と言いますが、大人の女性ではなく少女の姿をしているのは、おそらく従軍慰安婦の名誉回復が主題だという運動をする側の考えが反映されているものだと推察されます。野田首相がこの少女像の撤去を李明博大統領に申し入れたのも昨年12月でした。 日本ではこの野田首相の申し入れはほとんど報道されませんでした。そもそもソウルの駐韓日本大使館前に「少女像」が建てられていることそのものが、あまり報道されていないので、野田首相の申し入れも報道されないという状況になっています。 これに対して李明博大統領が従軍慰安婦問題の解決を求めたことは「唐突に過去のことを言いだした」というニュアンスの報道がされました。前提の駐韓日本大使館前の「少女像」が報じられていなければ、李大統領の発言は「唐突」に感じられるはずです。
12月に発端があり、3月、5月と李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求める演説をしています。これに対して日本政府がなにか応答をしたという報道は、私は見ていません。おそらく何の反応もしなかったのではないでしょうか。6月に入って日本の右翼と思われる人物がソウルの駐韓日本大使館前の「少女像」に「竹島は日本の領土だ」と書いた杭を縛り付けるという事件が起きました。これは私は韓国の中央日報の日本語版で知りましたが、日本国内ではほとんど報道されていません。12月の野田総理の「少女像」撤去要請から6月の少女像に杭が縛り付けられるという事件が李明博大統領の行動と発言の伏線になっていると私は思います。極端な解釈をすると李大統領は2011年12月から2012年6月に少女像を巡って起きた事柄を、逆回転させて見せたという解釈も可能です。
まず竹島に上陸して、「竹島は日本の領土だ」と書いた杭を少女像に縛りつけた日本の右翼の行動に対応した行動をする(これが8月10日だったかな)そして、大学の講演で天皇は独立の志士に対して謝罪すべきだと発言(これが8月14日だったか)これは日本政府が従軍慰安婦問題に無為無策な態度をとっていることに対して国民的不満が出るとはどういう状態なのかを作り出すという効果をねらったと考えることもできます。実際これ以降、「韓国は日本へ謝罪しろ」の大合唱になりました。そして15日に従軍慰安婦問題の解決を求める演説をして、問題を昨年12月の時点にまで戻すという流れだったのではないでしょうか。
これが政策的に見て良い政策であったのか、まずい政策であったのかは私には解りません。ただ、解っていることは李博明大統領は2012年12月には任期切れで退任が決まっているので、かなり思い切った態度に出て、日本に従軍慰安婦問題の解決を迫ったことだけは確かです。そしてそれは駐韓日本大使館前の「少女像」撤去をも視野にいれているものと思われます。私が危惧するのはもともと発端の「少女像」についての報道が日本でなされていないために、日本側の言論がどんどんと歪んだものになって行くことです。
昨日(8月22日)も日本の右翼がソウルの従軍慰安婦博物館と歴史問題研究財団に「竹島は日本の領土だ」という杭を打ち込むという事件が起きています。これについては韓国の警察が捜査中です。また橋下大阪市長は「韓国大統領が突然、歴史問題を蒸し返して豹変」という新聞報道を信じ切ったのか、ネトウヨなみの不用意な発言をしています。茂木健一郎氏、吉村作治氏のツイッターでの発言も、新聞報道を信じ切っているために出た発言と思われます。
「従軍慰安婦」の名誉回復
2012年08月15日(水)
従軍慰安婦問題がクローズアップされたのは1991年頃でしたので、かれこれ20年前になります。従軍慰安婦であった女性の「名誉回復」がポイントだと私に話してくれたのは、元従軍慰安婦の共同生活の様子を撮影したドキュメンタリー映画「ナムヌの家」の監督ピョン・ヨンジュさんでした。その頃はまだ20代の女性だったピョン・ヨンジュさんも、考えてみるともう40代になろうとしているはずです。しばらくお会いしていませんが、お元気でしょうか。宝塚の女優さんみたいな風貌の人です。
私が興味を持ったのは、女性の社会的政治的地位が向上したあとに、成人したピョン・ヨンジュさんのような若い世代が、歴史の波の中で翻弄された老女の「名誉回復」を計ろうとしていることでした。過去を置き去りにして、自分の世代の自由を謳歌するという態度ではないことに興味を持ったのでした。従軍慰安婦については、沖縄の従軍慰安婦を取材した「赤瓦の家」を書いた川田文子さんにもお会いしてお話を伺ったことがあります。川田さんが過去を丁寧に辿っているのに対して、ピョン・ヨンジュさんは「現在」をテーマにしていました。
もしピョン・ヨンジュさんから従軍慰安婦の問題は「国による名誉回復」がポイントだと聞いていなければ、いろいろな場面でたいへん困惑を味わったはずです。と言うのも、この問題には「女性の社会的名誉」「ナショナリズム」「性」「歴史観」など感情を刺激しやすいテーマが複雑に、絡み合い、錯綜した経緯をたどっているからです。李明博大統領の「竹島訪問」から「天皇謝罪」発言までの経緯も、従軍慰安婦問題のポイントが「国による名誉回復」だと知らなければ、面喰ったはずです。
この20年間に従軍慰安婦問題は、さまざまな要素が付け加わってしまい、混乱した状態を生み出しています。が、最初の「国による名誉回復」というポイントは今回の李明博大統領の行動や発言を見る限り、まだ生きている問題だと感じました。この問題は1995年の村山内閣の時に「アジア女性基金」が設立される計画が出て、その後、幾多の変遷をへて実際に基金が設立されました。この時、この基金が「国」ではなく「民間」の団体とされたことが、反発を呼びました。設立から2007年の解散まで、それこそもみくちゃの議論や批判が日韓双方から出て、その議論にはとてもついては行けないものを感じました。「国」によるか、「国」によらないかというところが重要なポイントになっています。
「国による名誉回復」は私はピョン・ヨンジュ監督から直接聞いた言葉で、新聞報道では「謝罪と賠償」をいう表現が使われています。「謝罪と賠償」も間違いではなく、そういう要求がされていることも事実でしょう。そして日本側では「謝罪」のほうは軽く扱われる傾向があり「賠償」問題として捉えられることが多いのです。「名誉回復」は「謝罪」の要求のほうに含まれるのですが、これが「賠償」のほうに傾くことで、すれ違ってしまうのです。また日本の政治家も官僚もあまり「名誉」について語る言葉を持っていないために余計に事態が面倒なことになる場面も何度も見ました。
自分自身の権利を放棄するという意味で「名誉なんかどうでもいい」と言うことはできます。また同じ仲間の中で「名誉なんかどうでもいい」と言えば、それは仲間同士で権利を譲り合うことを意味する場面を生み出すでしょう。しかし、外に向かって、仲間以外の相手に向かって「名誉なんかどうでもいい」と言えば、これはもう喧嘩を吹きかけている状態であると言えるでしょう。「内向き」の言葉しか持っていないという状態が、従軍慰安婦問題では時折、火を噴くように現れます。
言葉にこだわるついでに、「従軍慰安婦」という言葉にもこだわっておきます。韓国では「従軍慰安婦」という言葉を使わず「挺身隊」という言葉を使っていました。この「挺身隊」は日本では女学生などが、軍需工場などに動員された時の名称です。この言葉のすれ違いを巡って滑稽な場面が展開されるのを私は何度か目撃しています。それがいつのまにか「性奴隷」という言葉が使われるようになりました。この「性奴隷」という言葉は、従軍慰安婦問題が国際化する過程の中で、英訳する時に使われ始めたのかもしれないと、私は推測しています。そして、この言葉の変遷は、この問題が歴史に翻弄された女性の「名誉回復」から、しだいに国際的な「道義問題」へと展開したことを物語っているように見えます。問題が異様なほど肥大化してしまった結果として「性奴隷」というような刺激的で、しかも空疎で、かつ、当事者双方にとって不愉快な表現が使われるようになっていましました。
「従軍慰安婦問題」が出るたびに、日本の右サイドからの発言も、左サイドからの発言も、私にはどちらも不愉快で憂鬱を生み出します。右はひどく口汚い罵りを投げつけてきます。左は「過去の名誉」については無頓着な表情を見せています。ひどい時には「かわいそうなおばあさん」という表現を使われます。「助けてあげたい」という場合もあります。右は「自己の名誉感情に拘泥し過ぎ」で左は「名誉感情は無視していい子のふりをする」と括っては括り過ぎでしょうか。
高麗の器に伏見人形の鼠を置く
2012年08月14日(火)
ソウルでご一緒した城戸朱理さんのHPを覗いたら、ソウル滞在中の無駄使いがすっかりばれてしまっていました。我ながらちょっと買物のし過ぎだなあという今回のソウル旅行でした。買物をし過ぎたわりには、最初の目的だった朝鮮白磁の壺は買いませんでした。仁寺洞の骨とう品屋さんには手頃な物があったのですが、なんだか気が進みませんでした。仁寺洞の骨とう品屋さんは、日本からの観光客が多いので、好みは「日本人好み」に傾いている様子です。とりわけ朝鮮白磁は、日本人好みにかなり傾斜しているように見えました。
で、なんとなく「欲しいな」と手が出たのは高麗の青磁陽紋の鉢でした。青磁の発色がもっと良いものもあったのですが、あんまりきれいな発色が出ている物よりも、これでも青磁の仲間ですとちょっと遠慮しているような鉢を一つ求めました。城戸朱理さんによると、13世紀の物だそうですが、さて、ほんとに700年以上も人から人の手に渡ってきたものなのでしょうか。もし、そうだとしても、この器も私のスーツケースに詰め込まれて海を渡ることなど、器自身想像していなかったにちがいないとか、この器と同じ窯で生まれた青磁の器がもしかすると玄界灘の底に沈んでいるかもしれないとか、物を手にするといろんなことを考えるものです。
李明博が竹島を訪問しました。竹島は、日韓の間に領有権を巡って決着のつかない紛争が続いている国境の島であり、現在は韓国が実効支配をしています。おやと思ったのは、この李明博大統領の竹島訪問に文学者の金周栄さんと李文烈さんが同行していたことです。新聞はお二人を小説家と紹介しています。韓国を代表する小説家であることは間違いないのですが、私はあえて文学者という言葉を使いたいと思います。 金周栄さん、李文烈さんのどちらとも、私は面識があります。たぶん「お目にかかってお話をしたい」とお願いすれば、予定をとっていただくことはできるくらいの知り合いでもあります。だから、このお二人は日本にもいろいろと話ができる人との縁を持っているに違いないのです。
外交官でもなく、武官でもなく、なぜ金周栄さんと李文烈さんだったのだろうと、不思議に思っていたところ、今朝の東亜日報日本語版が、今度の李明博大統領の竹島訪問は「従軍慰安婦問題への回答がない」日本政府への一種のプレッシャーだったと報じています。昨年12月に野田首相と会談した李明博大統領は「従軍慰安婦問題の解決を求めたにもかかわらず日本政府から何の回答もない」ことに圧力をかける意味で竹島に上陸を果たしたとのことでした。政府が何も言わなかったことが、今回の大統領の行動に繋がっているということになります。これで、長く日本との対話の努力をしてきた金周栄さんと李文烈さんが同行した意味が解ってきました。大統領が求めているのは「日本側の言葉」です。
従軍慰安婦問題についての日本政府の謝罪と賠償を韓国が求めていると新聞は書きます。求めているのは「国による謝罪と賠償」で、これは慰安婦であった女性たちの「公(国)による名誉回復」を求めているのだということは、日本の新聞はあまり伝えていません。公(パブリック)とは何かという議論は1970年代以降、複雑な議論を重ねてきました。必ずしも、国が公で民間が公ではないということにはならないのですが、従軍慰安婦問題に関して言えば、韓国側は「国」がパブリックを代表すべきだという考えです。それから「名誉」。これが簡単なようで、かなり難しいのです。「名誉」について日本政府はどのくらい考えを持っているのか。たぶんあまり持ってはいないのではないかなと言うのが私の予想です。「名誉なんかどうでもいい」と風潮が70年代以降の日本の風潮で、国内的にはそれで、カジュアルで気楽な社会を築くことに成功しましたが、対外的には「名誉なんかどうでもいい」と言うことにはならないのです。名誉を回復させるのは何をどう語るかという言葉の問題にかかっています。ここに、1970年代からの女性の政治的地位の向上という状況が重なります。 日本政府は日韓の賠償問題は1965年の日韓条約で解決済みという姿勢をとっています。女性の政治的地位が向上したのはそれ以降のことで、日本政府、日本の政治家は1970年代以降の政治意識の変化をどのような言葉で語るべきなのかと問われていると言っていいでしょう。
韓国政府は日本政府を「健忘症」だとせめているようですが、70年代以降の意識の変化は、日本国内でもあまり意識的に整理されてはいないのです。「健忘症」以前に時代を意識する感覚がまだ生まれてないと言えないこともありません。そこが一番のネックなのではないでしょうか。
700年も人から人の手に渡って来たらしい高麗の青磁をいじりながら、こんなことを考えることになるとは思いませんでした。水盤として花活けにすることを考えていたのですが、伏見人形の唐辛子鼠を載せてみると似合っていました。伏見人形は豊臣秀吉の文禄慶長の役の頃に流行りだした土人形だそうです。ソウルから帰ってきたら、韓国の文学者の金源祐さんからご連絡をいただきました。今、管理人の豆蔵君に金源祐さんのエッセイを「豆畑の友」にアップするコーナーを作ってもらう作業をしてもらっています。
東の空の夕焼け
2012年08月12日(日)
東の空がピンク色に染まる夕焼けを見つけました。8月7日の夕焼けです。ここ数日、考えがいろいろ変ってきました。今日はちょっとメモ的な感じで書いてみます。
もうすぐオリンピックが終わり。オリンピックが終わったら、第二のリーマンショックが来ると言われています。ニュースを見ているとユーロ危機に関連して金融危機が起こりそうな懸念がありますから、その兆しは感じ取ることができます。6月に突然、民主、自民、公明の3党合意が成立して、消費税率アップの法案が出てきたのも、この金融危機の予兆と関連しているのでしょう。日本は財政赤字から抜け出す政策をすでに打っているという形式を作り出す必要があったのだろうと想像しています。
ちょっと飛躍した話になりますが、新聞を読むための元手になるような経済の概念を説明した本を幾冊か読んでみました。それで、唐突に「アメリカは世界に米軍基地を維持する費用を持っているのだろうか?」という疑問に突き当たりました。幾つかの経済の本を読んでいるうちに、ニクソンショック以来、世界が「金融資本主義」に振り回されてきたのは、アメリカが世界に米軍基地を維持するための費用の捻出だったのかあという感慨にとらわれたのです。で、その「金融資本主義」のマジックもそろそろ効果が限界まで来ていると。そんなことを考えたのです。ここにきて、日本の近隣諸国との領土問題が噴出しているのはアメリカの覇権の力が弱まっているためだという指摘は専門家から出ています。北方領土をロシア大統領が訪れ、尖閣諸島周辺では中国漁船の領海侵犯事件から始まる一連のごたごた続き、韓国が実効支配する竹島に李明博大統領が訪れる。これに沖縄の米軍基地問題とオスプレイ配備を加えれば、日本は近隣諸国のほとんどと、もめる種を抱えています。
で、東の空の夕焼けです。太陽は西に沈むのですから、東の空の夕焼けは西に沈む太陽の照り返しを受けているわけで、と。ちょっとこじつけかなと思いつつ、東の空が美しくピンク色に染まるのを撮影しました。20世紀が残した問題を21世紀の空が反映させているような、そんな感じでした。
ここ数日で考えが変ったと言うのは、まず、脱原発の目標はだいたい15%くらいがいいんじゃないかと私は考えていたのですが、目標なら0%でよいと考えるようになりました。達成目標としては15%などという曖昧な数字よりも明瞭に0%を目指したほうが解りやすいですし、政府の態度も決めやすいでしょう。国際社会に向かってのアナウンス効果も高いでしょう。それから、選挙をするべきだという考えに傾いてきました。原発依存0%の目標を掲げても、現在の日本なら議論はそう空想的にならないという確信が生まれてきました。なにしろ、電気に関する議論なのだから、誰もが使うもので、そうそう空疎な議論はできないはずです。ここ数日の国会内外の動きを見ると、ことさらに選挙をするべきだと言わなくっても、今年のうちに選挙がありそうですが、あえて選挙をするべきだと言うに至ったのは、消費税率アップの法案成立に至るまでの国会の動きを見ていると、民主党政権と言うのは「アンチ自民党」が政治的テーマの時代の選択として選ばれた政権だということが、はっきりしてきたのが実感されたからです。「アンチ自民」の時代は終わったのだと3党合意の様子を見ながら、それを実感したのでした。 「アンチ〜〜」という発想では、震災や原発事故や国境紛争は対応できないと。そういう考えに至ったのです。選挙をやれば、めでたし、めでたしと言うわけにはゆかないでしょうけれども、切実なものを抱えた有権者は震災、原発事故、国際情勢の変化、金融危機を踏まえることができる政治家とそうでない政治家を選び分けることができるのではないかと。どうなるのか、わかりませんが、やってみるよりが結局は回り道のようでいて早道だと考えるに至った数日間でした。
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