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トピックス「豆の実」
   
 

月光洞建設計画2

2010年08月17日(火)





 長い間止まっていた月光洞建設計画ですが、2010年3月に土地を取得しました。
 夏になって、草ぼうぼうになっていた土地の草刈を両総管理の森社長がして下さいました。道の向こうに広がっている水田では、そろそろ稲穂が出る頃でしょうか?
 房総半島では8月末になるともう稲刈りが始まります。9月には房総の新米が、我が家の近くのスーパーにも袋詰めされて並びます。

「おたあジュリア異聞」宮本恭彦さん挿絵(その4)

2009年05月23日(土)

 <その1> <その2> <その3

下の画像をクリックすると、大きなものが見られます。


  

  

  

  

  

  

  

  

「おたあジュリア異聞」宮本恭彦さん挿絵(その3)

2009年05月23日(土)

 <その1><その2><その4
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「おたあジュリア異聞」宮本恭彦さん挿絵(その2)

2008年02月09日(土)

 <その1> <その3> <その4
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「おたあジュリア異聞」宮本恭彦さん挿絵(その1)

2007年11月01日(木)

 現在静岡新聞熊本日日新聞で連載中の「おたあジュリア異聞」での、宮本さんが描いてくれた挿絵の一部をご紹介します。
 <その2> <その3> <その4
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月光洞建設計画1

2006年09月13日(水)

 建築家の鈴木隆之氏に家の設計をしてもらっています。現在、小学館の「本の窓」でその計画について鈴木氏と共同で「田舎に家を建てる」を連載中です。このトピックスでは「本の窓」連載には盛り込め切れなった話を少しづつ書いて行きます。

 鈴木隆之氏は1987年に「ポートレイト・イン・ナンバー」で第三十回群像新人賞小説部門受賞者。私は第二十一回の群像新人賞受賞者なので、群像新人賞の受賞パーティでよくお目にかかっていました。
 家を建てる話も最初は群像新人賞受賞パーティの雑談からでした。

 月光洞はこれまで敷地が大原の下布施にあるところから下布施の家とか施主(なぜか建築のクライアントはこう呼ばれます)の私が小説家なので小説家の家などと呼ばれてきましたが、06年8月末に「月光洞」と命名しました。

銅板

 写真は鈴木隆之氏が家のイメージを銅版に打ち出したものです。またこの建築計画はSDレビュー2006のコンペテンションに入賞しています。

【リンク】
・SDレビュー2006
 建築・環境・インテリアのドローイングと模型の入選展
鈴木隆之氏のホームページ

「雨の日と青い鳥」朗読会バージョン

2006年07月19日(水)

「豊海と育海の物語」(集英社文庫)を書くきっかけになった「光村図書 国語2(中学2年生用教科書)」の書き下ろし作品「雨の日と青い鳥」をアップします。ただし、ここにアップするのは教科書そのままではなく、昨年の「豆畑の朗読会」第一回で読んだ朗読会バージョンです。教科書ではさまざまな配慮や制約があるために、削除された表現があります。朗読会バージョンのほうはそうした削除された表現を復活させるかたちになっています。

「雨の日と青い鳥」

 朝から雨が降っていた。春の雨は土のにおいがする。アスファルトで固められた道を歩いていても、春の海は黒い土のにおいがした。花の球根や野菜の種を優しく包んでいる土のにおいだ。育海はスカートのすそに泥はねが付く雨の日が好きではない。けれども、黒い土のにおいをかぐのは好きだった。
 育てる海と書いて「いくみ」と読む。宇野の好きな両親がつけた名前だ。新学期になると、いつも、先生から名前の読み方を質問される。今年も、新しく教科を担当する先生たちに名前の読み方を尋ねられた。理科の大和田先生は
「ほう、『いくみ』と読むの。君は、お兄ちゃんがいるだろう。豊かな海と書いて『とよみ』と読むお兄ちゃんがいるね。」
と言った。大和田先生は豊海のことをよく覚えていた。
「豊海君にはこんなかわいい妹がいたんだ。」
と感心したようににこにこしながら、出席簿をぱたんと閉じた。
 豊海と育海は年子の兄と妹だ。豊海は二月生まれ。育海は9月生まれだから、年は一つしか違わないが、学年は二つ違った。豊海はこの春、高校生になった。中学二年生になった育海は、先生たちに名前を尋ねられる一週が過ぎて、ほっとしたところだ。自分の名前は好きだけれども、クラスのみんなの前で答えるときは緊張してしまう。ほっとしたところで兄ちゃんとけんかをした。今朝のことだ。
 街の中で黒い土のにおいをかぎながら、あんな兄ちゃんなんて大きらいだと、育海はふくれっつらだった。雨はやまない。学校から帰って、本町の栄光堂書店に育海が行こうとしたときも、細くて白い雨は降っていた。道路も車も港も船も、そして魚市場も、みんな白い雨の中に煙っていた。 今朝、豊海は妹に、学校が終わったら栄光堂書店い行って模擬テストの申し込みをしてきてくれと頼んだ。兄ちゃんは頼んだと言うけれども、あれは頼むというよりも命令だと、育海はおもしろくない。育海の模擬テストの申し込みもあったから、ついでに手続きをするのはなんでもない。でも、兄ちゃんの言い方が横暴だった、だから豊海に言ってやった。「いやだ。自分で行けばいいでしょ。」
兄ちゃんは
「おれ、部活があるもん。」
なんて言い訳をした。新入生に部活動なんてあるわけがない。
「一年坊主のくせに、すぐばれるうそが言えるじゃん。」
豊海は妹に言い返す言葉がない。しばらく不愉快そうに口を閉じていた。それから、にっと笑った。
「おれ、部活の見学なんだ。だから、テストの申し込みに行ってくれよ。」
早口にそう言った。にっと笑った顔で、部活の見学なんて口実だとわかってしまう。雨が降っているから面倒くさいのだと育海は思った。栄光堂書店のある本町は、高校生が通学に使う電車の駅よりも港に近い。雨降りだから自転車も使えず、歩いて本町まで回るのがいやなだけだと育海は決めつけた。「行け。」「いやだ。」の応酬はたちまち口論となり、兄ちゃんが妹をののしるから、育海も思い切り悪口を言ってやった。
 栄光堂書店のレジで育海は申し込みをするかどうか迷った。そして、気がついた。兄ちゃんは受験料を渡してくれなかった。けんかで受験料どころではなかったのだ。

 港では雨の中で、並んだ漁船がしょんぼりしていた。自分のテストの申し込みだけをした育海は、MDに録音した好きな音楽を聞きながら歩いた。港の雨は魚のにおいがした。新鮮な魚のにおいがした。魚市場は荷を揚げる船もなくて閑散としていた。受験料なしに、どやって申し込みをしろというのだろう。育海は兄ちゃんにそう言ってやろうと思っていた。雨のために空と海の区別がつなかい。港の入り口の赤灯台、白灯台がおたがいそっぽを向くように建っていた。海は広々している。

 家に帰ると、電話が鳴っていたような気がした。育海はMDのスイッチを切り、電話機を見つめた。じっと見たからといって、電話機が「はい、鳴っていましたよ」と答えるはずがない。気のせいかもしれないい。育海はウィンド・ブレーカーを脱ぎかけた。とたんに電話が鳴った。

「あ、育海、もしもし、育海だろ。」
兄ちゃんだった。携帯電話からかけているらしい。育海はきっと模擬テストのことだと思った。携帯電話の音声はとぎれがちで、豊海が何を言っているのか、よく聞き取れない。
「だから、そうじゃなくて、鳥がね。そう、鳥だよ。鳥が落ちていたんだ。」
兄ちゃんは大きな声を出していた。いくら大きな声を出しても、ガアガアいう雑音には勝てない。
「かご、かご、かごがあるだろ。」
という兄ちゃんの声を最後に電話はぷつりと切れてしまった。豊海は朝の口論のことなどすっかり忘れているようすだった。
「鳥が落ちていたんだって。」
育海はだれもいない家の中で、声に出して、そう言ってから、肩をすくめた。お父さんは水産加工の会社に、お母さんは漁業協同組合に勤めていたから、二人は保育園に通っていた。保育園のころを知っている人は、口をそろえて仲良しの兄妹だったと言う。でも育海にはそれが信じられない。
 兄ちゃんはずるい。保育園のころは兄ちゃんだけ年が一つ多いのも、ずるいと思っていた。誕生日が来て、もう少しで兄ちゃんと同じ年になれると楽しみにしていると、兄ちゃんも一つ年が増えて、また差が開くのが納得できなかった。さすがに、もう、どうして兄ちゃんは同じ年になるまで待ってくれないのだろうとは思わなくなったが、今は兄ちゃんの横暴に腹が立つ。横暴で、乱暴でそのうえ面倒くさがり屋だ。
 それにしても、兄ちゃんは、いったい、どんな鳥を拾ったのだろう。新しい制服のネクタイをよれよれにした兄ちゃんが、とさかの立派なおんどりを小わきに抱えて、玄関に立っている姿が浮かんで、思わず笑い出したくなる。
 でも、笑い事ではない。兄ちゃんが生き物を家に持ってきたために起きた騒動は幾つもある。理科の大和田先生がよく覚えているわけだ。中でも、カマキリ騒動はひどかった。家の中が暖かかったために、真冬の夜中にカマキリの卵が孵化してしまった。兄ちゃんが拾ってきた卵だった。いっしょの部屋で寝ていた育海、ぞろぞろうまれてくるカマキリの赤ちゃんに悲鳴をあげた。育海は虫がきらいだ。兄ちゃんはおろおろするばかりだった。掃除機をかついだお母さんがぱっと現れて、カマキリの赤ちゃんを吸い込んでくれなければ、いったいどうなったのだろう。カマキリ騒動以来、育海は豊海と別の部屋に寝起きをするようになった。兄ちゃんは面倒くさがり屋なにに、どうして次から次へと生き物を家に運んでくるのだろう。

 豊海が拾ってきたのは、水色のセキセイインコだった。
「育海、かごだ。かごを持ってこい。」
兄ちゃんの言い方はやっぱり命令口調だ。鳥は震えている。首の周りの羽根が抜けて、地肌があらわになっていた。みすぼらしいのは、雨にぬれたせいでもあった。育海はしぶしぶ物置に行った。兄ちゃんの命令は無視したいとろこだけど、鳥があんまり情けない姿をしているのは見ていたくなかった。物置には兄ちゃんが言ったとおり、鳥かごがあった。ほこりだらけだった。育海はおふろ場で鳥かごを洗う。洗いながら「面倒くさい仕事はいつもあたし」と一人で文句を言っていた。
「兄ちゃん、この鳥をどこで拾ったの。」
豊海は洗いたての鳥かごにインコを入れた。鳥しか入っていないかごは寒々しい。
「兄ちゃんってよぶなって言ったろ。」
かごに入れた鳥の様子を見るので夢中な豊海はぶっきらぼうに言う。
「じゃあ、何と言えばいいの。」
鳥はかごの片隅にうずくまった。止まり木に止まる元気はないらしい。羽根の中に頭をうずめようとするのだが、首の回りの羽根がないので、うまく頭をうずめられない。
「お兄さんと言え。お兄さんと。駅の裏で拾ったんだ。きっとだれか飼い主がいる鳥だよ。逃げちゃったんだね。たぶん。」
豊海は鳥かごにぼろきれを入れた。
「体が冷たい。温めてやらないと。」
ぼろきれで囲まれた鳥はおびえていた。豊海の親切が鳥にとっては恐怖を覚えさせるらしい。鳥はまばたきを繰り返した。
「温める方法はないかな。ストーブをたこうか。手の中で温めてやるのがいいのかな。」
うずくまったままの鳥に、豊海がやたらにぼろきれを掛けようとした。
「お医者さんにみせたら。」
「鳥のお医者さんなんて、どこにいるんだい。」
豊海の声は途方に暮れた響きがあった。それでも豊海は熱心に鳥かごをのぞき込んでいた。育海が熱をだしたとき、そんなふうに兄ちゃんにじっと見つめられたことがあった。いつもは育海が風邪で熱をだしても、無頓着でテレビを見て笑っている豊海だった。その晩は「いいかい、心配しないでいいよ。」と豊海も言った。育海は七つだった。豊海がいつになく真剣なのが、育海にはおかしかった。育海の額に冷たいタオルを乗せてから、豊海は地区の集会にでているお母さんを呼び戻しに夜の道を走った。後から育海の熱は風邪ではなくて、溶連菌感染症といういかめしい名前の病気だとわかって、家じゅうで驚いた。
 育海の異変を豊海が最初に見抜いたときのことをひょいと思い出すと、彼女は優しい気持ちになった。優しい気持ちになると知恵がわいた。育海は電話帳で「獣医」の項目を引いてみた。家の近くに獣医さんは五人いた。育海は片っ端から電話をしてみることにした。一軒目は「豚や牛が専門だから。」と断られた。二軒目は電話に出なかった。三軒目の電話番号は豊海が読み上げた。若い男の人が出た。「すぐに連れてきなさい」という返事をくれた。
 雨はさすがに小やみになっていた。夜の海がゆっくりとうねる海岸通りを豊海と育海は急いだ。鳥を冷たい風に当てないように、かご全体をバスタオルでくるんで豊海が抱えていた。電話で教えられた通り、港から本町へ出る坂を上っていくと、小暗い中に明かりの漏れている家が一軒だけあった。病院というより、八百屋かお菓子屋のような家の戸をたたくと、ぼさぼさ頭の男の人が戸を開けてくれた。それが電話に出た獣医さんだった。電話の声のほうが実物よりも若い感じがしたと育海は思った。
 豊海の話を聞きながら、ひととおりの診察を済ませた獣医さんは、鳥かごに戻したインコの様子を見ながら言った。
「へえ、拾ったの。」
鳥はまたかごの片隅にうずくまる。まぶたを閉じてじっとしていた。腹の辺りがかすかに動いている。うずくまると、首の付け根の羽根がないのがよけいに痛々しかった。
「僕も、ずいぶんいろんな生き物を拾ったなあ。拾って面倒をみたんだ。でも、中にはだめだったのもあった。巣から落ちた幼いすずめなんて、えさをやるだけでも難しくてね。朝になったら冷たくなっていたこともあったし、本当に小さな命はすぐに消えることがあるんだね。ちょっとしたことが命取りだ。」
獣医さんは感慨深そうに言った。話を聞いている二人には、獣医さんには獣医さんのさまざまな思い出があるとはわからないから、命取りという言葉だけが耳に残って、急速に不安がふくらんだ。二人の顔を見た獣医さんは、ぼさぼさの頭をかきながら笑った。
「大丈夫。いや、命のことであんまり感傷的になるのは命に失礼だったね。こんな成鳥になった鳥はそう簡単に命を落としたりしないよ。良いお薬を出しましょう。飲み水に混ぜて飲ませてください。すぐに良くなるよ。お大事に」
獣医さんは奥に薬を取りに行った。育海が診察料の心配を小声で豊海に話した。すると豊海は「お母さんからもらった模擬試験の受験料があるよ。僕は一年坊主だから、まだ受けなくてもいいんだ」と耳打ちした。二年生の育海は兄ちゃんの「一年坊主」という言葉ににんまりした。

「この鳥、手乗りだからかわいがられて育ったんだろうね。」
兄ちゃんは止まり木止まれるようになった鳥に手を差し出しては、自分の指に止まらせていた。「迷子の鳥 預かっています」のポスターを自分で作って、駅の裏のあっちこっちにはったくせに、鳥に向かって「おまえ、ずっとここにいろよ。」と話しかけていた。育海は、首の回りの羽根が肌を突き破るように生えてきたのを少し気持ち悪く眺めている。そして「また兄ちゃんとけんかをするのだろうな。」とひそかに思っていた。

豆畑の朗読会 vol.2

2006年03月26日(日)


 豆畑の朗読会2回目ゲストは詩人の伊藤比呂美さんです。伊藤さんは「河原荒草」で高見順賞を受賞したばかりです。今回のトピックスは私(中沢)の感想などもおりまぜてお伝えすることにします。

 伊藤さんの朗読がすごいなと思ったのは2003年に山形で開かれた日本とインドのシンポジウムの時でした。そのシンポジウムのあとで、ホテルの部屋で飲んでいる時、即興でモダンダンスを山形芸工大の先生が踊ってくれたのですが、その時何か踊るための「音」か「声」が欲しいということで、手じかにあったホテルのパンフレットなどを読みましたが、そのうち伊藤さんが般若眞経を唱えだしたのです。これに調子に乗った私がちょっと横から飛び入りで入って(朗読会では唱和と言ってましたが)ふたりでお経を唱えていました。これがおもしろくって、そのうちに伊藤さんと朗読会をやりたいなあと思ったのがきっかけです。

伊藤比呂美さん

 伊藤比呂美はある時期から積極的にお経とか説教節を詩の中に取り入れています。
 笑ったのは伊藤さんが歌を歌うと「お前の歌はご詠歌だ」と親から言われたことです。伊藤さんと私は似ているなあとお互いに思うことがあるのですが、私も親から「お前の歌はご詠歌だ」と言われました。カラオケでもご詠歌になっていしまうほうです。ご詠歌とかお経とか説教節って、日本人の身体感覚と言葉をつなぐリズムやメロディーを持っているし、唱和(声を合わせる)ということを考えるでハーモニーも持っているのかもしれません。(この意見はしばしな音痴の言い訳と言われる)その伊藤比呂美は80年代に猥褻な表現や卑猥な表現を解体して、明るい身体的な表現に変えてゆくような大らかな詩を書いて詩壇に登場してきた人です。

 一回目の朗読会がファンタジーを読む方向になったので、今度は「大人の朗読会」にしようということを前々から言っていました。伊藤さんはちょうど「日本ノ霊異(ふしぎ)ナ話」(朝日新聞社刊)を書いたばかりで「ねえ、ねえセックスの話しない」って電話で言ってました。で、今回、私がそれを思い出したというわけです。

豆ちゃん(笑) 豆ちゃんは「じゃあ、僕、バージンブルースを歌いましょうか」なんて言い出しました。と言うわけで第二回朗読会の幕開けは豆ちゃんの歌。「月のひざし」と「バージンブルース」です。野坂昭如の「バージンブルース」なんて言ってまいしたが、けっこう可愛い声で歌っていて、野坂昭如というより秋吉久美子。あとで聞いたら戸川純で覚えた「バージンブルース」がそうです。

 この選択を最初に聞いたとき、一瞬「どうかな?止めようかな?」と迷いました。どうかすると裏目にでる可能性があったからです。というのも「バージンブルース」の頃って、伊藤比呂美や私が詩や小説を書き出した時代で、その時代の匂いや雰囲気にそれぞれ違和感を抱いていたことが、創作の原動力になっていたのは間違いがないからです。うまく行けば拍手喝采。まちがったら苦い幕開けになってしまいそうでした。

 で、豆ちゃんの歌を聞いた伊藤さん「ねえ、彼は歌手なの?」と私の耳のそばで聞きました。そのくらい彼の軽くて透明な「バージンブルース」はいいところがありました。うしろの席にいたら「いいぞ、豆ちゃん」って声をかけたいくらいでしたが、ステージにあたるテーブルで直前まで打ち合わせをしていた私たちは、一番前の席にいたので、ひそひそ話をしていました。

 豆ちゃんが「バージン・ブルース」を明るく冷たく透明に歌うなんていうのは、大袈裟に言えば、伊藤比呂美のような詩人が、あるいは小説家も含めて、それまでに日本のエロチシズムの感覚を新しい感覚に作りなおす努力をしてきた結果なんのだということもできるでしょう。それについては私はほんとうに大真面目に、誰も読んでくれなくてもいいから、文芸評論を一本いや一冊書きたいのです。

 最初にお互いの作品を入れ違えて読み、それから、自分の作品を読むという方法は、外国の作家とのシンポジウムなどで使います。今回の朗読会でもその方法を使うことにしました。シンポジウムでは、お互いの言葉の響きが理解できるようにという目的で双方の作品を入れ違えて読むのです。この場合、お互いに翻訳された作品である場合がほとんどで、音はわかるけれども意味は解りません。今回は、そうは行かない! 伊藤さんは詩人としての出発からずっと朗読会をやっているのです。「日本の作家が自分の作品を読むのなんて聞いたことがない」って言ってましたが、私は外国の作家とのシンポジウムなどで、便宜的に自作を朗読することがあるだけで、伊藤さんのように観衆の前で朗読なんてほとんどしたことがありません。つまり競争にも何もならないのです。

 最初の「豆畑の昼」を読む予定でしたが、伊藤さんが「あれ、あれが読みたい」と選んでくださったのは「楽隊のうさぎ」でした。テキスト(つまり本)がなかったので急遽、近くの本屋へ新潮文庫版の「楽隊のうさぎ」を買いにいってもらいました。で、私は「河原荒草」から「河原を出て荒地に帰る」の部分を読むことにしました。 この詩集は活力と快復感のあるほんとうに良い詩集です。どこから読んでもいいし、最初から最後までお話を読むように読み通してもいいし、時々、ちょっと覗くだけでもいいです。卑猥やものや猥褻なものをきれいさっぱりと解体したあとで、生命力に満ちた深い官能性の発見があります。



 伊藤さんは「楽隊のうさぎ」から「シバの女王」を演奏するくだりを選んで読んでくれました。ええと自分で言うのもなんですが「こんな立派な文章を書いたんだ」と驚くくらい高い響きで読んでもらいました。表題音楽なので、音楽の描写のそこに物語があるから、純粋な音の描写よりも楽に描写ができた部分です。それからふたりで「のだめカンタービレ」の話。さらには「スラムダンク」の話。確かに「楽隊のうさぎ」を書いた時にはスラムダンクを参考にしてました。(ばれちゃった)


 でここからが本題。
「セックスの話がしたいって言ったのは中沢さんよ」
 はて、そうだったかしら? 「日本ノ霊異(ふしぎ)ナ話」を出したばかりのころ、伊藤さんが電話でそう言っていたのを覚えていたんですけどね。
「日本ノ霊異(ふしぎ)ナ話」の冒頭の「前書き」の章を伊藤さんが読んでくれました。これは、まあ冒頭ですから、これからどんなお話が始まるのか、語り手は誰なのかという部分です。説教節の感じが文章に出ているから聞いていておもしろい。おもしろいからさらにお願いしてしまいました。
「もうひとつ読んでもらえないかしら」
「エッチなやつ?」
「うん、エッチなやつで」
「それじゃあ」
「日本ノ霊異(ふしぎ)ナ話」から「邪淫の葛」を朗読。
 ううん。「まら」とか「くぼ」とか「まるいしり」とかどんどん出てきます。こういう単語って古語のほうが使い安いのですね。現代語だと卑猥になりすぎちゃうので。それに「日本ノ霊異(ふしぎ)な話」の元になっている「日本霊異記」を書いたのは景戒という男の坊さんなので、伊藤さんの本でも男の坊さんの景戒が語り手になっています。男の語り手だと使える単語も女の語り手だと使いにくいなんて話をしました。

 次は私のばん。内心「やだなあ、太刀打ちできないもん」と思いつつ「豆畑の昼」(講談社刊)を読むか「豊海と育海の物語」(集英社文庫)の「うさぎ狩り」を読むか迷ってました。「豆畑の昼」はコンドームを使うシーンがあるのです。そこを読もうかと朗読会が始まる前には考えていました。コンドームって日常的な道具なのに小説や詩ではまだうまく使いこなせていない単語だからです。叙情的に使えていないという意味です。

「でもなあ」と迷った挙句に「豊海と育海の物語」から「うさぎ狩り」を読むことにしました。この作品はエロテックな感情の萌芽が子どもの残酷な遊びになっているというものです。このあと「豆の葉」に書いた「鼓膜」を「股間」と読み間違えるというアクシデント。焦りました。
「え、いったい何が起きたの?」
 そう伊藤さんに聞かれても改めて説明するのさえ、躊躇しちゃいました。なにしろ股間で蝉がないちゃったんですから。
お客さんはほぼ満員。ありがとうございました! 朗読会では「うさぎ狩り」を読む前にMr.チルドレンの「隔たり」という曲を親子で聴いてしまったという話をしたのですが、ここでは別の話を書きます。森鴎外の奥さんで森しげという人がいます。この人は森茉莉さんのお母さんです。鴎外に進められて小説を書いています。森しげの作品に新婚の夫が避妊をしたので侮辱されたと感じたという短編があります。(ごめんなさい。これもあとでちゃんとタイトルを入れます)日本の社会にはちょっと前までは玄人と素人の区別があって、婚姻外の男女関係を見るまなざしが険しかったという事情があります。森しげの小説はそのあたりの微妙な感覚が出ているのでよく記憶していました。医学者としての鴎外の考えとお嬢さんから人妻になったばかりの奥さんの感じ方が食い違ってしまうのも無理がないところがあります。もともと、素人と玄人を区別するようなベースのあったところに、敗戦のショックが来て、ますます話がこんがらがった挙句に、豆ちゃんが歌った「バージンブルース」の頃には若い娘が玄人みたいな振る舞いをするというけわしい目と、自由になっていいなあとやっかんだり羨んだりする目が交錯していました。「神田川」とか漫画の「同棲時代」というような同棲を扱ったやや暗め、いや、ものすごく暗いものが大流行だったのがその時代です。

 伊藤さんが現代詩手帳賞を取ったのが78年なら、私が群像新人賞をとったのも78年でした。
 今になって振り返ると「同棲時代」や「神田川」それに「バージンブルース」の暗い男女関係の叙情の世界へ伊藤さんは大鉈を持って、私は出刃包丁を持って飛び込んでいっちゃったような気がします。で、いろいろと壊してきたわけですが、壊すだけじゃなくて、ちゃんと作るものもあったんだということを今度の朗読会でつくづくと感じました。

 お花をいただきました!で、最後は大鉈をかついだ伊藤さんの朗読です。読むのはもちろん高見順賞の受賞作の「河原荒草」から「道行き」です。です。2時間は私にとってはあっと言うまでした。あとの小宴で「股間で鳴いていたのは油蝉かつくつく法師か」と聞かれでまたおお焦りでした。


 写真:未卯/豆蔵

豆畑の朗読会 vol.2 予告編

2006年02月24日(金)

 昨年の6月に開催し、好評をいただいた「豆畑の朗読会」のvol.2を開催することにいたしました。

 場所は去年と同様神田小川町の図書新聞小川町画廊で、3月18日の土曜日に催します。
 河原荒草

 今回はゲストに詩人の伊藤比呂美さんをお招きしてます。詩集『河原荒草』(思潮社、2005)で本年度高見順賞を受賞されています。3月17日には高見順賞受賞式があります。朗読会はその翌日。きっと楽しいお話が聞けると思います。


 また詳細につきましては追々お知らせしてまいりますので、いましばしお待ちください。


◆豆畑の朗読会 vol.2◆

 2006年3月18日(土)

 開場16:30、開演17:00

 出演 伊藤比呂美 中沢けい

 (終了後ささやかなパーティーあり)


 会費:1000円(飲み物および少々のおつまみがつきます)

 場所:
小川町画廊交通経路・地図はこちら



 40席予約受付けます。

 また、お席の予約が満員の場合は立ち見の場合もございます。御了承ください。御予約はこちらまで。



◆伊藤比呂美さんプロフィール伊藤比呂美さん

  1955年東京生まれ。詩人、小説家、エッセイスト。詩集に 『伊藤比呂美詩集』(思潮社、1988)、詩集『青梅(あおうめ)』(思潮社、集英社文庫、1988)詩集『テリトリー論』III(思潮社、1985・1988)などがある。最新詩集『河原荒草』は本年度、高見順賞を受賞。小説『ラニーニャ』(新潮社、1999年)で野間文芸新人賞を受賞。


 近年は『日本ノ霊異フシギナ話』(朝日新聞社、2004)など日本の古典をベースにした作品を発表する。また『良いおっぱい悪いおっぱい』(集英社、1992)『おなか ほっぺ おしり』(集英社、1993)などの出産・育児をめぐるエッセイがベストセラーに。最新刊『ミドリノオバサン』(筑摩書房、2005)では室内園芸について存分に語っている。

台湾キャラバンノート

2006年01月07日(土)



「日台文学キャラバン」の概況を書きます。はじめにキャラバンという変わった名称ですが、これはアジアの作家との交流のことをいつのまにか参加者がそう呼ぶようになっていました。もともとは韓国との文学者会議が始まりでしたが、その後、中国女性作家との会議、インドの作家との会議などがありそのたびに自前で事務局をつくり参加者相互に協力するというやり方をしてきました。その結果がなんとなく「キャラバン」という呼び方になりました。今回の台湾の場合は、それが正式名称に近いものになってしまいました。で「台湾キャラバンノート」です。交流の詳しい様子は日本では「すばる」誌06年4月号に台湾では同時期の「INK」(印刻)誌に同時に紹介される予定です。ここでは初めての台湾旅行の印象も含めて概略を書きます。

東呉大学の呉先生といけばなの先生
+ 日本側

 川村湊、芽野裕城子、津島佑子、星野智幸、松浦理英子、リービ英雄、清水賢一郎、藤井久子事務局長、水野好太郎(集英社)、高橋至(集英社) 滝川修(集英社)、待田晋哉(読売新聞)、山口和人(講談社)

+ 台湾側
 (たくさんの人に会ったので主だった人だけ)

* 朱天文
 1956年生まれ、候孝賢監督のシナリオを担当。朱天心さんのお姉さん。
 ご本人は本来は小説書きなどで、仕事でシナリオが増えたと言っています。
 今回は候孝賢監督にもお目にかかる予定でしたが、たまたま東京映画祭で黒澤賞を受賞されて東京にお出かけになっていました。

* 朱天心
 1958年生まれ、小説家。眼の大きな人。お姉さんよりも活発で明朗な性格が容姿に表れているかのような感じがする。
 代表作に「古都」(日本語では清水賢一郎訳で国書刊行会から2000年に出版されてます。この訳がすばらしく良い)

* 唐諾
 自称「専業読者」つまり批評家です。朱天心さんの夫。
 余談ですがソウルの申京淑さんの夫も文芸評論家で、川村湊さんはタイプが似ていると言ってました。ただし、申京淑さんの夫はどちらかと言えば紅顔の美少年の面影が残っているけど、唐諾さんは髭面。でも優しい笑い方をする。

対談中の朱天心さんと舞鶴さん

* 舞鶴
 1951年生まれ、小説家。天才肌。独特の作風。96年発表の「余生」は霧社事件を巡って狂気、暴力、性、諧謔が複雑に入り組んだ実験小説となっている。
 ブ・ハーもしくはウ・ハーと読む名前だそうだが、日本側は中国文学者の清水賢一郎さを除いてほとんど発音できず。「まいづる」のほうが読みやすいし覚えやすい。
 サングラスをかけているが、サングラスの下では眼がよく動く。とくに興味のある話題の時には、らんらんとした輝きがサングラスごしにも伝ってくる。髪は東洋人らしい黒くて細いしかも艶のない髪だが、眼がらんらんと輝くとこの髪がすごく魅力的に見えた。おでこから中央部がはげているので、兜をとった武者という感じがした。
 余談だが、時々、外国の作家の名前で覚えられないあるいは発音できないという名前にであうが、それ以上に厄介なのが舞鶴氏のように日本語式で覚えれてしま名前。インドのキャラバンのときはサララーエという女性作家の名前を「皿洗い」と覚えてしまい(参加者が便宜的に打ち合わせ段階で使っていた愛称みたいなもの)で、本人の前で「皿洗い」と発音しないように苦労した。

* シャマン・ラポガン
 1957年生まれ。小説家。ランユウ島紅頭村生まれ。台東高級中学を卒業後、原住民子弟枠での大学推薦入学を拒み、台北に出る。80年淡紅大学仏語科入学。その後、原住民運動に参加する。89年ランユウに戻り、小中学校で講師を務めながら伝統文化を学ぶ。98年に国立精華大学人類学研究所修士過程入学 05年成功大学博士課程に進む。代表作「黒い胸びれ」(日本語訳あり)
 台湾ではもともと台湾島に住んでいた少数民族を原住民と呼び、これは原住民自身が誇りを持ってこの名称を使っている。
 シャマンさんはランユウ島の飛び魚を採って暮らす民族の出身。おもしろかったのは飛び魚料について実際に知っている私は「黒い胸びれ」とおもしろく読めたのだが、星野さんと松浦さんはこれを読むのに苦労していたこと。「読む」というのはどういう行為なのかを物語るような感じがした。
 後日談だが、12月になってからシャマンさんが日本に来ている時のことだが、突然「富士山にいる」という連絡がキャラバンのメンバーにあったそうだ。
 で、いったい富士山のどこにいるのだろうと、メンバーの間で首をひねりながらシャマンさんが東京に現れるのを待つことになった。残念ながら、私はこのときお目にかかることはできなかったが、なんとなく漁師らしいなあと感じた。自分で漁もすれば潜水もするし、船も作るという屈強な身体の持ち主。私としては文学の話よりも釣舟屋をしている叔父もしくは従兄弟を同道して、漁の話や船の話を聞いてみたかった。シャマンというのは日本語に直訳すると「お父さん」でシャマン・ラポガンは「ラポガンのお父さん」ということになる。原住民の伝統的な名乗り方だという。

* ザン・ツァー
 1954年生まれ。詩人。子どもの時に一家で台東に移り住んだ。農民運動に加わり、台湾農民連盟副主席。農業改良指導員でもある。詩集に「手的歴史」 「海岸燈火」「海浪和河流的隊伍」などがある。
台東に行く自強号の車中


+ 日程

 05年10月30日から11月8日まで(私が参加したのは6日まで)

10月30日 出国 台北着
10月31日 台北芸術村で台湾作家との顔合わせのお茶会
11月01日 台北 東呉大学で日本語学科の学生院生対象のシンポジウム
 →川村湊、津島佑子、松浦理英子、星野智幸、中沢けい
11月02日  台北芸術村での座談会
 →台湾側 朱天心、舞鶴
   日本側 松浦理英子、星野智幸
11月03日 列車で台東へ移動 (台北からおよそ5時間)
11月04日 台東 国立台湾史前文化博物館で座談会
 →台湾側 シャマン・ラポガン、ザン・チェー
  日本側 芽野裕城子、リービ英雄
11月05日 ランユウ島ヘ行くグループと台北に戻るグループに分かれる
 →中沢は台北へ
11月06日 中沢帰国
11月08日 ランユウ島グループ帰国

台東に行く自強号の車中
国立台湾史前文化博物館

+ 台北の作家たち
 座談会の様子は「すばる」と「INK」誌に掲載されます。ここでは印象に残ったことをいくつか拾って書くことにします。
 まず朱天心さんについて、ですが、上海の女性作家の王安億さんと親しいと知ってうれしくなりました。その朱天心さんが最初のお茶の会で話題にしたのは村上春樹をどう考えるかというものでした。ちなみに朱天心さんのお母さんは日本文学の翻訳者で松浦理英子さんの「親指Pの修行時代」の翻訳者であり、村上春樹の作品の翻訳者です。
 台湾は日本の植民地の時代がありましたが、その複雑な政治的変転のために日本に対する悪感情はあまり表には出ていません。日本のあとから来た蒋介石の国民党軍に比べて比較優位な感情を持っている様子も見受けられます。ですから日本の文化もかなり自由に台湾に入っています。で村上春樹ですが、この作家について朱天心さんはかなり批判的もしくは挑発的な発言をしていました。なぜかその発言を聞いていた私は「ああ、アジアの国々にとって1980年代から90年代は輝かしくすばらしい時代だったんだなあ」という方向違いな感想を抱きました。この話題は朱天心さんが出席された座談会に持ち込まれたのですが、その座談会を傍聴していても、その印象はより深められました。これについては、もう少しゆっくり考えたいと思います。一昔前には日本は欧米の文化は輸入超過だといわれたものですが、アジアに限って言えば日本の文化は輸出超過で、輸入のほうが少ない状況になっています。
 もっとももう一人の台湾側の座談会出席者である舞鶴氏の作品は翻訳不可能と言われるくらい言語の特性を縦横に使用した作品だそうです。こうした翻訳できないものを書いてみたくなる作家の気持ちは、その作品を読むことができなくても想像できるところがあります。村上春樹作品がどこの国でも翻訳して受け入れられものであるとすれば、翻訳不可能な世界も存在していることを強調したくなるという側面も生まれてくるものです。


+ 東呉大学のシンポジウム 
 台湾では新学期が9月から始まるのだそうですが、新学期が始まるのと同時にシンポジウムの準備をしていただいていたようです。シンポジウムは通訳なしの日本語で行われました。
 会場では東京へアートの勉強に行きたいという学生さんとも少しお話しました。
 このシンポジウムのあと、東呉大学の院生の皆さんに士林市場を案内してもらいました。食堂がたくさん並ぶ市場です。ここで「恋のマイアヒ」が流れていて「のまネコ」の話になりました。学生の皆さんの日本への関心はサブカルチャー、ポップス、アニメなどの分野に集中しています。そうした日本の大衆文化が生み出される背景にある社会的な豊かさの維持するためのさまざまな苦痛や絶望あるいは不安などを現代文学に触れることで知ってただければいいなと思いました。そこまで進めなくとも何か印象を持っていただければ幸いです。サブカルとポップスとアニメだけだと、日本はサンリオピューロランドみたいな国というイメージが出来上がってしまいそうですから。
 朱天心さんの村上春樹批判を聞きながら、私の中に湧いてきたイメージというのは、欧米の文化が日本を含むアジアの大衆社会に投げ込まれて、しだいに変形してゆく時のプロセスのイメージです。まだそれをうまく言葉にできませんが、この件については例えば上海の王安億さんやソウルの申京淑さんとも意見を交換してみたい気がしました。「それでその時の通訳はどうするの!」という事務局長の悲鳴が聞こえてくるようなプランではありますが……。これは「かわいいもの大好き」という女の子の気持ちが理解できる(共感できるかどうかは別ですが)女性の作家の感覚を通して考えてみたいテーマです。申京淑さんも朱天心さんも同い年で、どちらも経済発展を遂げたあとに受け入れられた女性作家です。日常生活の中で夢を見ることが可能になった経済力が生まれてきたときに受け入れられる作家という点では日本の村上春樹をよく似ていながら、なぜか村上春樹に違和感を抱いているところが興味深かったのです。上海の王安億さんは文化大革命の下放も経験しているので、朱天心さんや申京淑さんよりも幾らか年上です。

+ 台北から台東へ
 これは列車の旅でした。その様子は「豆の葉」にも少し書きました。夏に下見に訪れた津島さんの話では、退屈な列車の旅で車内販売もないという話でした。 INKの編集部の皆さんには「どうして飛行機を利用しないの?」といささか呆れらました。が、結果としては列車が正解だったと思います。本音を言えば台湾キャラバンで個人的にもっとも印象に残ったのが、この列車の旅でした。
 台北駅は清潔でよく管理されています。オリンピック開催を控えた北京よりも台北のほうが以前の共産主義国のように管理されているような転倒した印象を持ちました。「車内販売もない」という津島さんのアドバイスに従って、ここでお弁当を購入。なぜか台湾の駅弁は鶏の胸肉を揚げてから煮たものがご飯の上にどんと載っているものばかりでした。列車の隣の席はリービ英雄さん。子どものときは台湾にお住まいだったそうで、全体に豊かになっているとおしゃっていました。そのリービさんは煮卵を購入。日本で列車の旅といえばゆで卵が定番という時代がありましたが、台湾ではこれが茶色い煮卵になるようでした。台湾に駅弁があるのは日本が植民地時代に持ち込んだ習慣だそうです。私の買った駅弁は「新国民弁当」と包み紙に印刷してありました。
 3000メートル級、つまり富士山みたいな山が連なる下はすぐ砂浜でその先にある海は太平洋という地形の中を列車が進みます。山と山の間を流れる川はほとんど枯れ川でした。川原は青い石灰色の石、そのどれもこれもが、まんまるくなった石ばかりです。ひとたび、雨が降ればこの川にどうっと水が流れ込むのが想像できる景色です。華連から海岸を離れた列車は内陸部に入って行きます。
 内陸に入ると水田が広がり、あぜ道には椰子の木が立っていました。駅名は日本の殖民地時代のままで「瑞穂」とか「豊国」なんてのがありました。確かのその景色は「とよあしはらみずほのくに」という文句を思い出させるものがあります。椰子やサトウキビなども鹿児島や沖縄よりものびのびと育っている感じがしました。寒い思いもせず、やたらに台風の潮風に凪ぎ倒されもしない伸びやかさを見ていると植民地支配の是非はさておき、この景色を見た日本人はその気候がもたらす豊かさに感嘆したことだろうと思いました。水田では稲刈りを終わったところもあれば、田植えが始まっているところもあり、どうやら二期作のようです。あとで農民詩人ザン・チェーさんから伺うと、確かに稲作は二期作なのですが、政府があまり農業を保護していないのでだんだんと二期作ができなくなっているとのことでした。
 水田地帯に入る少しまえに川原に銀色の葦の穂がたくさんそよいでいる場所がいくつかありました。子どもの時に次郎物語を読んでいて「白鳥蘆花に入る」という言葉がたびたび出てきてのを思い出しました。日本の葦は茶色くなってしまって、たとえ白鳥が葦の花の中に入ってもその白さが目立つだろうと変に思っていたのですが、台湾の葦の群生地なら白鳥が入ればその姿は隠れてしまうでしょう。で、その話をちょっと川村湊さんにすると「次郎物語」の下村湖人は台湾にいたことがあるんだよと教えてくれました。この葦原は今回の旅行でいちばん印象に残っていて、眼をつぶると思い出すことができます。

国立台湾史前文化博物館での対談前の風景


+ リービさんの煙草好き 
 台東の国立台湾史前文化博物館での座談会の様子は「すばる」誌に出ることになっています。座談会の内容はそちらに譲るとして、ここでは禁煙文化がいかにグローバルに広がっているかという話。いや、リービさんの煙草好きの話を書きます。私も煙草好きですが、リービさんも煙草好き。禁煙の列車の中でも苦労しましたが、博物館ももちろん禁煙。で「禁煙の会議室では座談会をしたくない」いや「できない!」というリービさんの主張で、座談会の場所は急遽、会議室から博物館のテラスに移動することになりました。こういうアメリカ人がたくさんいてくれるとほんとうれしいのですが、ご本人に聞いても少数派です。
 座談会の内容を録音するには雑音がないほうがいいのは言うまでもありません。そのために博物館の噴水を止めてもらいました。人間の話す声よりも噴水のような単純な水の音を機械は拾ってしまうことが多いのです。すると、なぜか博物館の芝生の上に小型のショベルカーが出て来て穴を掘り出しました。何の工事かわかりませんが、これもお願いして中断していただくことになりました。さあ、これで安心して座談会ができるぞと(このときはもう時間の関係で座談会は始まっていたのですが)思うや否な、頭上はヘリコプターが飛び始めました。博物館からは見渡す限り山と山が連なる景色なのですが、山陰に軍用地があるのです。夕方になって軍用地に戻ってくるヘリコプターが何台もあるのでした。これはさすがに「止めろ」と言えません。さらに、戦闘機までが基地をめざして帰ってきたのです。こちらの音もヘリコプターよりもすさまじい。極めつけは、列車が汽笛を鳴らしながら通過する音が山裾から響いてきました。もし、リービさんの煙草好きがなければ、見渡す限り山また山という景色の広がりの中に立つ国立台湾史前文化博物館が、これだけの騒音に囲まれていることにはまったく気付かなかったでしょう。

国立台湾史前文化博物館テラスからの眺め

 騒音の話のついでに、音の話をもうひとつ。台北へ戻る日の朝、私は地響きのようなドラムの音とともに沸きあがった男女の混声合唱、それも大合唱の声で目覚めました。台湾の選挙は派手と聞いていましたが、こんな大合唱と猛烈な太鼓の響きは初めて聞くものでした。そう選挙運動のための集会が大通りで開かれていて、その音がホテルの部屋まで聞こえてくるのでした。しかもそれは1時間以上続いたのです。もし選挙があると知らなければ、大昔の戦か何かに突然巻き込まれたような妄想を膨らませるところでした。
 さて、煙草好きのリービさんですが、飛行機の機内用に噛み煙草をお持ちで「もし必要があれば差し上げます。奥歯でかみ締めるとおいしいニコチンのジュースが流れてくるのです」と帰国便を待つ空港で、日本では買うことのできない上等な噛み煙草を見せていただきました。貴重なものなのでいただくのはどうかと遠慮しましたが、たばこ好きもここまでくると立派です。私は飛行機の中では気絶したように眠ることができるので、たばこをそれほど必要としません。でも、空港に降り立ったらまっさきに煙草を吸いに駆出すほうです。帰国の飛行機が成田に着陸してすぐに煙草をおいしく吸いました。


+ キャラバンノートのおまけ

ランユウ島

 ランユウ島まで入った皆さんの勇姿です。撮影は芽野裕城子さん。芽野裕城子さんは「ランユウなんじゃもんじゃ軍団」と名づけてました。

 台湾キャラバンについては「すばる」2006年4月号(3月6日発売)をご覧下さい。

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