寝ないと
2013年12月09日(月)
また眠れなかった。2時ごろ寝て5時に起きてしまった。ルー・リードのことを書いていたので、ずっとYouTubeでルー・リードのライブやら、Baffalo Springsfield Retrospectiveやら、なんかそういうのを聴きまくって今まで仕事していた。でもさすがに寝ないと。今日はズンバが二つある。まだしめきりもある。まあカリフォルニアのうちでも、ズンバ行くほかはずっと仕事部屋で仕事していてやっと片付く程度ののろさであり、はかどらなさであり、仕事量であるのだから、いくらベルリンに来たからといったって、とつぜん気楽に外をがんがん出歩けるということになるわけはないわなーー。
へんな長い夢
2013年12月09日(月)
Xから電話があり、Mはもう死んでいないのにMは元気だと。おかしいなと思ってたら電話が途切れた。倒れているに違いない、助けにいかなくちゃと飛び出したが、あたしは着物を着ていて身動きができないから、まず着替えて、飛び出そうとしたら、つれあいが帰ってきて、引っ越しのように荷物をどんどん運びこむので、車も車の鍵も見当たらなくなったので、Zの車を使おうとしたら、車は山の上にあるというので、まずそれを取りにいかせようとしたが、ひとりじゃこわいというのでいっしょについていったが、そこには教授が住んでいて、黒猫が数匹いる、教授が寝ている間に、いちばんまっ黒な黒猫をつれてこなければならないといわれて、夜中にぐらぐらするはしごを組み、Zとあたしでのぼっていったら、ちょうどSが出勤してきて、なにやってんだというから猫をつれていこうとしているというと手伝ってくれて、猫のまだ若いのを2匹かかえてはしごを伝って降りたが、さんざんひっかかれたし、猫はするりと手をすりぬけてしまうのだった。ようやく降りた。手伝ってくれた少年が、おれはアメリカの××というところの生まれだからいつか遊びに行ってもいいか、と言うので、いつでもおいで、と言いながらも、おかしいな××は千葉県じゃなかったかと誰かにいうと、その人はこの子は知らないのだからそれでいいんだと言った。5時ごろ目覚めて、眠れなくなり、コンピュータの前に来て、メールチェックしたりした。そのとき母猫が子猫を加えて木の枝を伝って二階の窓から中に入る映像を見た、そんなもの普通なら見ないのに、くりっくして、見ながらああなんか思い出すと思ったら、このほんの5分まえに見ていた夢を思い出したのだ。
知らないとこを
2013年12月09日(月)
こないだBonnに行くとき、さんざん迷ってまごついて、ポツダム広場と中央駅は案外近いということを知ったが、昨日、Bonnから帰るとき、REなんとかという中央線みたいな電車に、東京駅みたいな中央駅から乗って、銀座みたいなポツダム広場に行こうとしたわけだが、中央駅からポツダム広場まではほんの2分だった。REの停車場から迷いつつ外に出たら、こないだ迷いつつベルリンフィルから戻りついたあたりに出て、そのときマーモクーヘンを買ったスタバみたいなコーヒーショップ(誰か文豪の名前を冠したとこだと思っていたらBalzac cafeだった、その前にBと待ち合わせたカフェはEinstein Cafeで、Einsteinといえばカリフォルニアではベーグル屋なのである)のまん前に行き当たり、同じくマーモクーヘンを買い求めたが、マーモクーヘンくださいと言うのを聞いて、お店の女の子はマーモブレッドと言い直した。そのとなりに陳列してあるのはバナナブレッドであった。これはこないだ買おうとして、なんだそれじゃあまりにアメリカ的と思ってやめたのだった。これもまたアメリカ化か。英語をしゃべる外人に親切に言ってるのか。こうして、知らないとこを(知らないのはあたしだけで、まわりを行く人々はみんな熟知しているのであるが)歩き回ってつまらないことをいっぱい知る。道を聞くのには、女連れの若い男がいちばんいいということも知った。 そういえば、ボン行きの電車に乗る前、駅で、パンを二つ買い求めた。一つはベルリナーとよばれるドーナツ(真ん中に穴のあいてないタイプ、ミスドのなら中にカスタードやチョコクリームがつまっているやつ)ともう一つはあきらかに上にカスタードクリームののったデニッシュ風。よく見ればそこには「Puddingなんとか」と書いてあり、上に乗ってるのはまあそういうものだと知れた。ベルリナーは、(ケネディが来独して「わたしもベルリンっ子だ」みたいなことを言おうとしてBerlinerということばを使った、というので有名なものであるが)なんといってもポーランド名物のポンチクにうり二つなので、機会があれば食べるようにしておる。しかしあの懐かしのポンチク(複数形ならポンチキ)に勝るベルリナーにであったことがない。プディングデニッシュは、プディングのところが大げさすぎた。しかしまあ日本のクリームパンのクリームを大げさに作り替えたら、ああならなくもないという味だった(にゃーこに負けないように、一所懸命レポートしている)。 きのう下宿に帰りついたら、部屋が掃除してあった。いつものとおり散らかしてあったので恥ずかしかった。ゴミも捨ててあった。シーツも取り替えてあった。そういう取り決めと見える。そしたら今晩、下宿のおばさん(といっても同世代)がやってきて、姿がみえないからどうしているか心配していた、どう暮らしているか、と訊かれた。とっても快適、と答えた。もうクリスマスマーケットはいったか、慣れたかと訊くので、いろんなとこのに何回もいった、とても慣れた、地下鉄にもいっぱい乗ってる、と答えた。洗濯があれば出せ、やってあげるからといってくれたが、洗濯、てきとうに水洗いして(ズンバで汗まみれになる)あとは洗濯しないでカリフォルニアに持って帰るつもりだった。そもそも着替えもろくにしてない。
ベルリンに戻った
2013年12月08日(日)
ゆうべ遅く、といっても9時すぎ、滞りなくベルリンについて、少々まごつきながら中央駅からおなじみポツダム広場、乗り換えて、U2、U3と乗り継いで、家に、というか下宿に帰ってきたら、きのう雪降ったらしく、道は雪でおおわれていた。でも今朝は雨だ。たぶん溶けているに違いない。ゆうべは買い置きのソーセージゆでて、ほうれんそうをゆでて、途中で買ってきたマーモクーヘンという奇妙な組み合わせで食事して、ビールのんで、漫画よんで(「シュトヘル」を7巻まで読み通してしまった)寝た。くすりの量を倍にしたら8時間眠れた。 きのうはボンの日本補習校でお仕事だった。在アメリカの日系人から在ドイツの日系人に、苦労話を語るというかそういう。帰りのICEの中では寝くたれた。3〜4時間は眠ったと思う。やっぱりただの不眠じゃなくて時差ぼけのこじれたやつだった。 食料が尽きかけているので買い出しにいきたい。いや厳密にいえば、まだ卵もハムもパンもヨーグルトもシリアルもあるけど、同じものばかりで少々飽きた。しかしいったいドイツの店は日曜日にあいているのか。こないだ行ったスーパーならあいてるかもしれないがしと降る雨の中遠くまで歩くのはめんどくさい。なんだか家の中でぐったりしていたい。昨日のうちは、明日は植物園に行こうなどと考えていたが(20分歩けば植物園だ、そこから数分でスーパーだ)こうしてその場になるとむくむくと出不精の虫が動き出すものだなあ。いや、このかったるさは、まだ少し薬が残っているのかもしれない。 ……とか言ってるうちにまたベッドにもぐりこんで寝てしまった。Mさんのいうとおり、薬はいくらハーブ系の弱いものといっても、2つでよかったのかも。起きたら3時半であった。Iさんから植物園にいっしょにいきましょうというメールが入っていた。ごめんなさい、今起きましたと返信した。そしたら、じゃいっしょにお茶しましょうとメールが来て、植物園付属の喫茶室へIさんとSさんといっしょにいった。ルターの話がいつもおもしろい。親鸞のようでもありケセン語の山浦先生のようでもあり、たぶんもっともっと根源的に巨大なようだ。
ボン大学
2013年12月07日(土)
ボン大学のM先生のところで学生たち相手に朗読、Mさんが訳してくれた新訳般若心経、意味の虐待、ハラキリ。終わってから、Mさんがディナーとクリスマスマーケットに連れていってくれた。ボンのクリスマスマーケットはベートーベンの像のある広場にある。地元の人たちでにぎわっている。観覧車がある。小さい背の低い観覧車と思ったら、乗ったら広場じゅうを見渡せた。すごいいきおいでぐるぐる回った。爽快だった。Mさんの研究室で「西夏王国の言語と文化」をみつけ、一晩貸してもらった。たいへんおもしろく、いきおいで前から読んでみたかった「シュトヘル」を数冊ネットで買って読んだ。眠くなる薬を買ってきてもらったら、4時間眠れた。薬のんでこれである。ほんとは15時間くらい眠りたい。眠りつづけてみたい。 きのうの嵐で木々の木が折れている。町の中の昔のお城がボン大学になっている。その中に大きい木がいっぱいある。見たこともないような大きさのスズカケノキがあった。たいへん美しかった。Mさんと日本について日本の若い人たちについて日本の人たちについて日本の文化について憂えるのは楽しかった。外人として苦労してきた人の言葉だ。
ベッドと不眠
2013年12月06日(金)
ゆうべも眠れず。で、このまま起きてしまおうと朝食を食べに行ったが、コーヒーでもしゃっきりせず、その後午前中寝た。せっかくのボンが。午前中寝たといっても細切れで、1時間ごとに目を覚ます始末である。2時前にはこのまま目を覚ましておこうと思って起き出したが、こんどはそれがつらくて、なかなかからだがまっすぐにならない。泥のなかにずぶずぶ沈んでいくようだ。全身が眠気ですっぱくなってるような気分である。このまま倒れこんで夜まで眠りたい。油断しているとすぐ目が閉じる。鏡をみれば、目のふちは赤いし顔はむくんでいる。情けなや。 ドイツ語圏のホテルはどこも、ベッドに幅の狭いふとんを一枚置いてある。いま借りてるアパートメントもベッドはそんなふうに作ってあった。ここもそうだ。それが寝にくくて。予備の毛布を下に敷いて、一枚のふとんをたてに、もう一枚を横にしてマットの下に巻き込んでつつむ形にベッドを作って寝ている。でないとふとんがずり落ちる。アメリカはベッドより大きなシーツやおおきな上がけを使って、マットを包みこむようにベッドを作る。
ボンと少佐
2013年12月06日(金)
ゆうべもまた寝られず、2時間弱しか寝てなくてズンバ、そのあとボン行きの電車に乗るために中央駅にむかったが、おなじみポツダム広場で乗り換えようとしたところ、なんと、中央駅行きのSバーンが(山の手線みたいなものだと思われる)全面閉鎖していた。多少時間に余裕があったので、ここは振り出し(ズンバ)にもどって、ズンバやるんじゃなくてダンススタジオから歩いてちょっとのところに中央駅行きのバスが出てるのをしらべてあったから、それに乗ろうと、わざわざきっぷをもう一枚使って(後戻りはできない人生の教訓だから)2駅ぶん、地下鉄で戻り、歩いてバスに乗ったところ、なんと、さっきまで困ったなあと思いながらうろついていたポツダム広場を通って中央駅にいったわけだ。電車は嵐と強風で30分遅れて予定していたケルン乗り換えがなんだかわかんなくなり、てきとうなローカル線に飛び乗ってボンについて、しばらくうろついたあげくやっとMさんに出会えたのである。ホテルに歩いて行く途中に、教会があり、その前に山田寺の仏頭の三倍くらいありそうな石の首が二つころがっていた。殉教聖人の首だそうだ。あしたはボン大学でお仕事、でもその前に観光に連れていってもらう。見たいのはベートーベンハウスとNATOの本部とライン川。しかしベルリンに首都がうつった今、NATOの本部がボンにあるのだろうか。そもそもNATOはあるのだろうか。漫画はつづいているからあるんじゃないかと思う。順当にいったら少佐はもう65歳か70歳近いはず。引退しているから会えないかもしれない。25くらいのときからの夢だった。最初にポーランドにいったときも、わ、少佐の近くに来た、と密かに思ったものだ。
人生の規則と焼きそばとシャブリ
2013年12月05日(木)
ゆうべもまた眠れず、朝の9時ごろに薬のんで寝付いて14時ごろに起きたが、寝ている間に起きた人々が、あたしのボン行きのきっぷについて激しくやりとりしていたのであった。Iさんは学生を動員して駅までつれてってくれようと画策していて、ありがたかったが、実はあたしは朝のズンバにクロイツベルクにいくつもりでその後、駅にいこうと周到に調べてあったのだ。夕方はちょうどAと待ち合わせていたので、Aにきっぷを受け取ってもらって一件落着であった。Aとは何で待ち合わせていたかというと、ズンバ。あたしのズンバ熱を見ていてついやってみたくなったらしい。こうやってあたしはズンバ菌をあたりにふりまいておるのだ。Aは途中で離脱するかと思っていたが離脱しなかった。おもしろかった、またやりたいといっていた。「まいどありー」である。SNもあたたかく迎えてくれた。体育会系ではまったくない、生きにくそうに生きている女で、いつ会っても、うちの娘を思い出して親近感を持つ。このままつづけてくれるといい。若い女の持っている生きにくさは、ズンバですっきりするはずだ(うちの娘どもにもすすめて、実際連れていったが、逃げられた)。 Iさんの秘書に「地下鉄のチケットでバスにも乗れるか、一枚のチケットで地下鉄とバスを乗り継げるか」と聞いたら、「ともにYES 1.5時間以内ならそのきっぷでOK、しかしあなたはbackwardに進むことは許されていない(たとえば往復の復として使う)」と返信が来て、ああ、とても深い、人生についての箴言のような規則であるなあ、と。 ズンバの帰りにSNにFU大65周年式典にさそわれたが、行かずに帰ってきた。しめきりやんなきゃ。帰りにスーパーによって、ゼリー寄せのハム(はまっている)とチーズケーキ、果物風のほおずき、なし、ノート等を買い、日清焼そばがあったので、思わず買ってしまった。だから今晩のごはんは、日清焼そばのサラダ用ほうれんそうと卵入り。それとワイン。よく合ふ、シャブリが。
ベルリンフィルと時差ぼけ
2013年12月04日(水)
時差ぼけでゆうべは一睡もできず、朝の10時ごろにアレルギー薬(スイミン薬のかわり)をのんで寝たら夜の6時すぎまで起きられなかった。陽の目を見ない地下生活者のようだ。飛び起きてベルリンフィルに行ったが、当然ながら5時のズンバは行かれなかった。Potsdamer platzで降りて歩いて行ったが、建物も人もクリスマスツリーもいっぱいで、なかなか方角がわからなかった。でも通りすがりの親切な人に教えられたとおりに歩いているうちに、向こうに見覚えのあるベルリンフィルの建物が見えた。Potsdamerplatzは町の要所で、前にもここに来ている。やっと記憶と地図が重なり合った感じだ。ピアニストはIgor Levit 若いにいさんと思っていたらおっさんぽく、後頭部は薄くピアノにおおいかぶさる背中は厚くて丸かった(つまり後ろ上の席をとったのでそればかり見ていた)。最初のは蛇口から水だしっぱなしにしたようなバロックで、げげと思ったが、3曲目のジェフスキはよかった。「北米バラッド」2だ。ジェフスキ、こうしてきくとミニマリズムな感じがよくわかる。そしてそれをきいたあとでは次のワグナーのリスト編曲のなんとかなんて、ろまぁんーーーって感じで力がたわまずに流れていってしまうのが気にかかる。不安にすらなる。イゴールくんはジェフスキを弾きながら足をふみならした。それから力をこめて終わった。 帰りがけにスタバみたいな店で、ケーキ買って帰った。ひとつはマーモクーヘンだった。甘くなくておいしかった。Monsterで殺しやの男がいつもたべていたアレである。ドイツ風のケーキをたべると、昔よんだ、好きだったヘッセの短編で、ケーキがすきで、食事にもケーキを食べる男の話を思い出す。きょうも思い出したが、今日も、そこしか思い出せない。題もすじもなんにも思い出せない。昔の新潮文庫の、水色の表紙の高橋健二訳だったはず……。しかしこれだけ甘くないなら、食事代わりに食べられるし、毎朝食べようという気にもなる。アメリカのマフィンやなんかとはずいぶん違う。 行きの地下鉄の中で、中高校生くらいの男の子たちがどやっと乗ってきて大声でしゃべっていた。たいてい黒っぽいジャンパーみたいのを着て、スニーカーで、にきび面で、髪はリーゼント崩れの子が多くて、だらだらとしたしゃべりかたをした。でも泥まみれの子犬の群れみたいでかわいかった。中年のパンクな格好の女が引率者らしく、男の子たちを見守っていた。帰りの地下鉄の中もまた若い男の子でひしめいており、周りの話し声をなんとなく聞いていて、ドイツ語ってのは口をとじないでしゃべるのかなあ、よだれがたれないのかなあという感想を持った。つぎの駅でぞろぞろ降りていったのだが、行きに見かけた引率の先生がそこにいて、同じグループにまた行き会った、あれは思春期少年特有のしゃべりかただったのだと知れた。 家に帰ったら昼間返信してなかったメールがいっぱい、早く返信しろ、という催促もいっぱい。なにしろ携帯がないから、メールでやりとりしないと人と連絡がとれなくて、みんな困る。あさってからボンにいくが、その切符がなかなか買えなくて困っていた。わけわからないのだ、どの駅に行けばいいのか、どの電車を買えばいいのか。Iさんの秘書に泣きついたら手配してくれかけたが、印刷したやつを明日とりにいかねばならない。そしてあたしは、あしたも一日、うちで何のしばりもなくリラックスしていないと、眠れなくなるんじゃないかと思って、駅で買うことにした。
大学それからクロイツベルクのズンバ
2013年12月03日(火)
4時間しか眠れなくてもんもんとしつつ、11時に大学で待ち合わせだった。それでSさんに連れていってもらって用を済ませ、学食でごはんをごちそうになった。ドイツの学生のなんとすらりとしていること。アメリカの学食とちがって、自分でよそわないせいじゃないかと思う。ソーセージとフレンチフライ、とは言わないのだ、ポムフリット、なんでフランス語なのかわからないが、それを食べた。こっちにきて、一夕Iさんの手料理の南ドイツ料理をたべたほかはソーセージとハムしかたべてない。おいしいからいいけど。そして同じものばかり食べたい傾向の強いあたしとしてはソーセージとハムしか食べたくないのだ、今は。 4時にはSNと地下鉄で待ち合わせ、クロイツベルク(というとかなり中心地)のズンバにいった。そこは各種ダンスやピラティスのあるダンススタジオで、SNもそこのズンバクラスを取っている。Jというその先生はSNのズンバとは全然違って、うちの方のMやCなみの激しさだった。だからものすごくたのしかった。しかしあたしが最年長、みんな20代だった。そこだけが違和感。男がひとり激しく踊っていた。それもちょっと違和感、カリフォルニアに男がいないわけじゃないけど。Jのズンバは激しさ、明るさはMやCやPなみだが、格段にベリーダンスがうまかったことだ。トルコ系移民の多い社会の本場の味だ。Jの使う曲はどれも知らない曲だった。SNのは数曲かぶった。SNとクラスの前にしゃべっていたら、SNが、同僚のインストラクター(男)との確執をるると語った。彼はもっと商業的に、はでに、金儲けしながら、ズンバをやっていきたいそうだ。私(SN)はそんなの何それ? みたいなことを英語で言っていた。どの女たちも男の野心や不愉快な異質さの壁にぶちあたっていて、それをあたしに話す。クロイツベルクは遠いので、地下鉄を乗り継いでいった。しかし地下鉄はもうすっかり慣れた。都営三田線や千代田線みたいなもんだ。このようにただ目的に行くためだけに地下鉄に乗る、地下鉄のなかでぼーっとするというのも、旅行者としてはなかなか興味深い。 てなことをSkypeをかけてきたつれあいに言ったら、彼はど根性のクラシック好きだから、何のためにベルリンにいるんだみたいなことを言われ、ズンバばっかりやってて時間が惜しくないのかといわれ、しかしあたしは今、この瞬間、ズンバやってないとほんとに時間が惜しいのだが、まあ一理あるなと考えた。地下鉄の駅できのうぼんやりオペラの一覧ポスターを眺めていて「ルサルカ」みたいなあと思っていた。でもそれはちょうどあたしがボンにいってる間にやる。あたしが発つ日にもやる。ほかのは別にいいかなあという演目だ。ベルリンフィルのほうは前からチェックしてあって、3日は若い者のピアノ、ジェフスキやる、15日も内田光子と樫本大進の室内楽、でも15日はちょうどその日の同じ時間のポーランド人の老指揮者のモーツァルトに招待されていていかれない。で、思い立って3日のを取った。あしたはSNのズンバだから、そのあと走っていくことにした。汗まみれのまま。走ってないと気が済まないようだ。
↑前のページ / ↓次のページ
|