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フラソワーズ・サガンと森村桂
2004年09月28日(火)
今朝の新聞に森村桂さんの訃報が載っていました。自殺?らしいのですが。
庄司薫とか森村桂とか、あるいは鈴木いずみとか、そういう作家の仕事の延長線上に村上春樹や山田詠美、吉本ばなながいるような気がします。そういう文学史を組み立ててみるのもおもしろいでしょう。
数日前の新聞にはフラソワーズ・サガンの訃報がありました。最初に来日した時に「週刊女性セブン」で対談をしました。すごい皺の深い顔に驚いたのを覚えています。深い皺の刻まれた皮膚は、濃密なと言いたいくらい細かい毛の覆われていました。産毛のようなその毛はライテングの具合でぼんやりと金色に輝いて見えるときもありました。幾らか赤みがかった白い肌が金色の毛で覆われ、そして深く皺が刻まれていたのです。そのときのサガンは50歳くらいだった勘定になります。皺は深いけれども柔らかく、表情の変化とともにゆるやかな曲線を描いて風紋のように変化するのでした。通訳の入る対話をそっちのけにして、よほどまじまじと皺を見詰めていたみたいで、今でも目にくっきりと浮かびます。
対談をした時のことを新潮社「波」に書いたのですが、今まで書いたエッセイの中でも一番書きにくいエッセイでした。なぜって顔の皺ばかり目の前に浮かぶのだけれども、そのことは書かなかったから。豆しぼりの手拭をねじってスカーフのかわりに首に巻いていました。フランス人だからサマになるけれど、日本人だったら笑っちゃうようなファッションでした。
フラソワーズ・サガンとかコレットなどのフランスの女性の小説家がいなかったら、私は小説を書こうと思わなかったかもしれません。小説に対するいちばん甘い願望はフランスの女性作家によって触発されたのかもしれません。
久しぶりにフィリップ・ロスの小説「ヒューマンスティン」を読んでいます。アメリカの田舎町の大学が舞台なので、懐かしいような本の名前や哲学者の名前が出てきます。とくにフランス人の女性の教授の周辺には、懐かしい名前がごろごろしています。
私の少し上の作家、例えば中上健次などはフォークナーを読んでいましたし、その上になるとヘミングウェイを読んでいました。フィリップ・ロスやそれに南米のガルシア・マルケスが日本に紹介されたのは、私が大学に入る頃でした。
ただ懐かしいのではなく、何か歴史の流れの中で見晴らしの良い場所に出てきているなあという感じがしています。
それにしても今年はいやに「自殺」の文字が目につきます。今日はお月見。旧暦8月15日の十五夜です。
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