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そら豆 ナイトクラブ
2006年05月20日(土)

そら豆は天豆と書きます。なぜ天豆と書くのかというと豆の鞘が天に向かって育つからだそうです。写真は大原の田んぼのふちで5月のはじめ頃い撮影したそら豆です。房総では、米の裏作(冬の間の作物)としてそら豆を作ってました。ですから田植えが始まる頃に、そら豆の収穫があります。
最近は鹿児島産のそら豆が2月頃から市場に出回って関東のそら豆が出るころには、もうそら豆は売れないのでしょうか?あまり房州産のそら豆を見かけなくなりました。水田の裏作としても出荷するほど作ってはいないのかもしれません。
そら豆とナイトクラブはぜんぜん関係がないのですが、今朝、目が覚めたら、新宿東口の線路沿いに映画館の宣伝看板とナイトクラブの宣伝看板があったのをひょいと思い出しました。何時頃まで、あったのかな?ナイトクラブの看板はたいてい出演者のリアルな似顔絵で、青江ミナとか五木ひろし、森進一、クールファイブなんて人の顔が大きく描かれていました。それから、石川さゆりとか都はるみ、森昌子の顔もありました。
森進一は鹿児島から集団就職で東京に出てきたという経歴を週刊誌か何かで読んだことがあります。年齢的にはもうすぐ定年を迎えるという団塊の世代。都はるみも団塊の世代かな。中上健二が小説「都はるみ」を書いていますが、それは世代的な近さから書かれたものだと私は思います。森昌子は山口百恵、桜田淳子と一緒に中三トリオを呼ばれた時期もあって、これは私よりも1学年上。今となれば同じ年みたいなものです。石川さゆりも中三トリオを同じ年齢。山口百恵が主演した「伊豆の踊り子」の映画で肺病で死んでしまう少女の役で出演したました。 歌手のショーがあるナイトクラブなんて学生のは縁がない場所で、いつもその大きな看板を横目に見ながら、新宿を歩いていました。1980年にはまだその看板があったのを覚えています。紀ノ国屋ホールに芝居を見に行くために、東口を歩いていたある光景を記憶しているからです。80年代半ばにいわゆる演歌が売れなくなっった時期があって、そのあとのバブル期に新宿のナイトクラブは姿を消してしまったのかもしれません。今になって思い出していると、私と同じ世代までの歌謡曲の歌手はプロの仕事のひとつとしてナイトクラブのステージの経験があるのです。たぶん、それ以後はそうしたステージの仕事は激減したに違いありません。
ちなみに85年という年はオリコンのヒットチャートに2週以上続けて1位をキープした歌謡曲がなかった年です。
「豆畑の昼」という作品を書くときに、叙情性の変化を調べる指標にオリコンのヒットチャートを使いました。変化は確かに85年を境におきていました。ナイトクラブの話は、昨日のゼミの話の続きで、そら豆の話は夢の中でみた田んぼの景色から出てきました。そういうわけで今朝は頭の中がふた色に分かれています。
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