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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

終わって初めて解ること

2005年10月21日(金)

 フランス自然主義を矮小化して受容した日本の自然主義ですが、これが私小説を生み出します。私小説にはいろいろな議論があるのですが、結局のところ、近代的な文章で語られる叙情を生み出すという役割を大きく果たしたのではないでしょうか?

 鴎外は「ウィタセクスアリス」を書いた翌年に「青年」を書いています。このニ作品を読むと、鴎外は自然主義が科学主義的態度で社会を観察して書くという自然主義の方法を理解していたようです。で、その限界にも気付いていて、「青年」以降は歴史小説を書くようになります。

 ところが、フランス自然主義文学を矮小化して捉えた日本の近代文学は告白と描写を組み合わせることによって、近代的叙情を切り開いて行きます。これは日本の発明でした。たぶんそういいきってかまわないと思います。言語改良運動は、どうしたって旧来の叙情を殺してしまうものですが、観察という方法論は告白と言う主観表現を呼び込むことによって、叙情の再構築を可能にしたと言えるでしょう。

 近代文学は終わったというのは90年代に入ってからの文芸評論家の意見でした。気短な批評家は文学さえ終わってしまったかのような極論さえ唱えましたが、終わって初めて理解できることというものがあると思います。今、鴎外の「青年」を読むと、近代文学の終焉の時の諸相が早くも鴎外が予想するところになっているのに驚かされます。が、その鴎外の自然主義が私小説を生み、それが近代の散文的叙情を構築するという展開は予想できなかったようです。韻文あるいは韻は踏んでいたくても詩的な叙情についてはこれとは別な展開があったようですが、そのあたりは詳しくないので、今度、詩人の城戸朱理さんにあったら聞いてみたいと思います。

 そうそう城戸朱理さんのブログを見つけました。骨董市の買い物日記がおもしろいです。

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