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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

終戦記念日

2005年08月15日(月)

 私の母は小学校四年生で終戦を迎えました。神奈川県の秦野に学童疎開をしていたそうです。5月の横浜大空襲のあと山形への疎開が決まっていたのですが、ソビエトが参戦したために見合わせになったと言ってました。もし山形へ移動したあとに終戦だったら、しばらくは、交通事情が悪くて家には戻れなかっただろうと話していました。

 学童疎開の引率をしたのは20歳そこそこの若い先生で、あとから考えてみると、あんなに若かったのによく大勢の子どもを預かることができたものだと感心したそうです。終戦の日は、整列してラジオを聴いていたそうです。で、6年生は泣き出したので、なにをそんなにめそめそしているんだろうと思ったという話でした。
 ラジオの音が悪いのと言葉が難しいので終戦の勅諭を本土決戦玉砕の放送と勘違いしていたそうです。

 田んぼの中を歩いていた教頭先生がアメリカ軍の機銃掃射で殺された話とか、横浜大空襲のあと、ひそかに横浜まで歩いて戻り、家族の安否を確かめた話をしていました。母の家族も家も無事だったのですが、同級生の中には、家も家族も無くなっていた子がいたそうです。

 畑のにんじんがおいしかったのと、白い絵の具を食べると甘かったと、食べ物を送ってもらうのは禁止されたいたので、代わりに歯磨き粉を送ってもらって舐めていたのと、そういう食べ物の話が多かったのを覚えています。「戦争はひもじい」という話をしたのは母ばかりではありませんでした。いつのまにか「戦争はひもじい」という話は聞かなくなりました。私が子どもの時でも、テレビドラマの戦争の場面では、かならず、誰かが瓶にお米を入れて棒で突いていました。脱穀をしているのです。そういう脱穀の場面がテレビ・ドラマから消えて久しくなりました。

 戦後の話になりますが、中学校の時に同級生がアメリカ兵相手のパンパンをしていた話とか、聞いてはいてもなんとなく当事者ではない人間には書きづらい話もたくさん聞いています。戦争を語り継ぐと言っても、語られただけで、消えて行ってしまう話もたくさんあるのだなと思います。それに風化という言葉がしきりに使われた時期がありますが、風化しなければ見詰めることができない真実もあるように思われるのですが。

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