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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

終戦後のことを知りたい。

2016年01月04日(月)

 1月2日のサウジアラビアが47人の人を処刑したそうです。IS関係のほかにイスラム・シーア派の聖職者が処刑されたことをきっかけにサウジアラビアとイランの間の緊張関係が高まり、イランのサウジアラビア大使館が群衆に襲われました。今朝、サウジアラビアはイランとの国交断絶を宣言。
 日本、韓国、米国は1月中にも3か国外務次官級協議を開く予定とか。開催されれば、昨年4月に続いて2回目になります。北朝鮮の有事が想定されている可能性を感じています。
 あっちでもこっちでも第二次世界大戦で作った秩序(国境線)がゆらぎ始めている。ヒットラーが政権掌握する過程への興味もあるけど、蒋介石が参加したカイロ宣言(1943年)からヤルタ会談(1945年2月)それからポツダム宣言(1945年7月)について知りたい。第二次世界大戦の戦後処理については、一般的に知られていることがあまりに少ない気がする。戦争反対の立場から開戦に至るプロセスはよく研究され、一般的な知識としても共有されているが、戦争が終わったあと、どのような対処をしたのかは共有されている知識が少ない。私が高校へ通っていた40年前。第二次世界大戦の戦後処理はまだ「知識」というよりも「体験」に入っていた。終戦後の預金封鎖や東京裁判それに続く朝鮮戦争やサンフランシスコ講和条約は社会運動として語られるのではなく身近な人の「体験」として耳にしていた。第二次世界大戦で作られた秩序が揺らぎ始めているのを感じると「体験」を「知識」に変えるプロセスがいかに重要なのかを痛感する。終戦から35年くらいまではなまなましい「体験」であったけれども、その後の35年は「体験」を「知識」に変えるプロセスが必要だった。
 終戦の翌年のお正月はたくさん雪が降ったと亡くなった母が言ってました。日本人は「敗戦」を「終戦」と言い換えるからいけないと言われるけれども、「終戦」という言葉を使っていた時のほうが「敗戦」の実感がその言葉の中にこもってました。「敗戦」と言い出してからのほうがなんだか軽薄になった。
 生きていれば今年81歳になるはずの母はお正月になると終戦の翌年のお正月は雪がたくさん降ったという話をして、それから家の前で行き倒れた人がいたことを決まっているみたいに話していました。行き倒れた人の胃にはミカンの皮が3つしか入ってなかったとか。食糧不足は戦後のほうが深刻だったと。
 暮れに亡くなられた野坂昭如さんは昭和5年(1930年)の生まれで「闇市焼跡派」を名乗っていた時期がありました。終戦の時、15歳。野坂さんくらいの世代には戦後処理は「体験」そのものだったわけで。

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