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刺青奇遇(いれずみちょうはん)
2005年01月16日(日)
また「かの字」の話です。勘九郎日記でお父さんの勘三郎が亡くなったときの感想で次のようなものがありました。
「普通の人なら忘れてしまいたい心の傷を、まるで宝石のようにたくさん抱えて生きてきたから、演技がほかの人より光ったのだと思う」
ああ、そうだ。そうだ。と思わず頷きたくなったのは文学にも普通なら忘れてしまえばいい心の傷が、まるで宝石のようになるところがあって、それが好きで本を読むのが楽しかったのを思い出したからです。
災害はあるたびに「心の傷のケア」と言われます。それはそれで結構なのですが、心の傷を宝石にするような感覚がちょっとなくなってしまっているのが残念です。
勘九郎の芝居でまた見たいぜひ見たいと思うのが長谷川伸の「刺青奇遇」です。とくに幕切れで、やくざにぼこぼこに殴られた主人公が舞台中央でのびている場面は忘れがたいものがあります。背景にはほのぼのと明けて行く春の空があって、風はまだ冬の名残で冷たい。主人公の肌にそういう冷たい風が吹き付けるのがわかるような幕切れです。この幕切れにはカーテンコールは必要なくて、ただ、幕が下がってもまだ、背景の春の空が見ていたこちらにまとわり付いてくるような感じがあるのが好きです。
長谷川伸と言えば「瞼の母」というくらいに、「瞼の母」が有名ですが、「瞼の母」よりも「刺青奇遇」のほうが現代の観客向きなのではないでしょうか?
舞台中央で主人公がのびて幕切れになる芝居では「研辰の打たれ」もそういう終わり方をします。こちらのほうは研辰という人物がどこかぜんまい仕掛けの人形みたいなところがあるせいか、カーテンコールがあったらいいなあと思います。私が見た時は、最後にひとひら葉っぱが落ちてきました。これが偶然なのか演出なのかわかりません。芝居では時々、そういう偶然もあります。で、今度の勘三郎襲名披露では「研辰の打たれ」を再演するそうですから、ぜひ、最後のところで葉っぱが落ちてくるかどうかを確かめたいと思います。
同じ役者が同じスタイルの幕切れを演じても、カーテンコールが欲しい芝居とカーテンコールはないほうがいい芝居があります。見ているほうが、主人公に感情移入してしまう芝居はカーテンコールが必要ないし、役者の演技を楽しむ芝居は、どうしたって最後に役者さんそのものを見たいという気持ちになります。そらから考えてみると、野田秀樹さん(「研辰の打たれ」の演出家)の芝居はカーテンコールのある西洋演劇に自然と近づいているということになるのでしょうか。
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