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安倍首相のバンドンスピーチ
2015年04月23日(木)
ポスト・モダンの哲学は19世紀の帝国主義、植民地支配の論理から抜け出すための思考だったはずなのに、日本ではアンチ権力の思考として扱われた。この場合のアンチ権力は日本国政府であって、大日本帝国政府ではなかった。 安倍首相が行った「戦争の反省はしても植民地主義の反省にしない」というのは1980年代から現在のかけての日本の言論の不備と特徴がそのまま生なかたちで現れている。戦略というよりも、思考の不備に無頓着な結果ではないか。 改憲論議で「基本的人権」が否定の方向で論議されえることがある。安倍政権の支持者に「明治憲法復元」を考える一群の人々がいることはもっと報道されれる必要がある。それなしには、「基本的人権」の否定が何を意味しているのかまったく理解できない。 アンチ権力という姿勢で現日本国政府に対して被害者(抑圧者)の立場に立ったポストモダンの哲学流行は、1990年代には価値の相対化を産み、サブカルチャー全盛と政治的無関心の温床になった。一方で、敗戦による大日本帝国の破綻を認めようとしない一群の人々は、「基本的人権」に代表される戦後の「日本国憲法」はまったく無視。さらに破綻のもとになった植民地主義も視野の外に置いた点ではアンチ権力の左派とあまり大差がない。 バンドン会議での安倍首相のスピーチは20世紀後半の日本の言論の不備の特徴が著しく現れたものに見える。 明治の精神を取り戻せと主張する安倍首相が植民地主義に言及できないのは「戦略」とは言えないでしょう。哲学の欠落でしかない。 とても残念なことだけど「哲学の欠落」は安倍首相だけではない。安倍晋三を首相にしておく日本社会にもある程度、共有された現象と言わざるおえない。 第二次世界大戦は戦勝国にとっても敗戦国にとっても共通して200年続いた植民地主義の敗北であったことを歴史の流れの中でもういちど考えなおしてみたい。フランスからベトナム戦争を引き取った米国の苦悩はそこにあったのだろう。
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