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那覇の空
2012年09月02日(日)
首里城は赤いお城として有名です。以前の那覇は、もっと内陸へ海が入り込んでいたそうですから、泊の港へ入ってきた船の乗組員は、赤い首里城をきっと頼もしく眺めたことでしょう。浦賀へ現れたペリーの一向もまず琉球へ立ち寄り、当時の日本の国情を調べたそうですから、きっとペリーも洋上から赤い首里城を眺めたに違いありません。久しぶりに首里城まで行きました。復元工事はまだ続いていて、正殿の後ろ側に控える王族の居住部分が新しく作られていました。
写真は南殿の屋根。赤い瓦と白い漆喰、それに青い空のコントラストが見事だったので、カメラを向けたのですが、あの空の広々とした感じはなかなかカメラのは収まりません。那覇と東京を行ったり来たりするうちに、なんとなく日本の国境のイメージが湧いてきました。定規で引いたような国境ではなく、国と国の間に中間領域が存在しているような国境のイメージです。
平家物語は「祇園精舎の鐘の声〜」で始まる無常をとく物語と言われています。那覇の街を歩いていたら、平家物語の冒頭が唐天竺の「祇園精舎」から始まることがひどく意味深く聞こえてきました。平家は瀬戸内海の海上交通の権利を抑えた一門であり、遠く唐天竺までその力が繋がっていることがなければ、あの物語の冒頭はないのだなあという気がしてきたのです。中学校の時に無常を説く物語と教えられた時には「祇園精舎」は仏教思想の現れという意味の響きしかなく、抹香臭いお寺の匂いしか感じませんでしたが、那覇では唐天竺の祇園精舎への海上の道が夢想されました。
祇園精舎の鐘の声所行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現す
祇園精舎への鮮やかな海上の道が見えてくると、沙羅双樹の花の色も、南海に咲く熱帯植物の色の濃さが目に浮かびます。平家の栄華はそのような色鮮やかなものだったのでしょう。おかげで俊寛が鬼界ヶ島に流されたのも、なにやら意味深く思えてくるのでした。
首里城の北殿には、沖縄サミットが開かれた時の晩餐会のメニューと、当時の森首相の写真がありました。晩餐会で使われた食器類の展示も。それを眺めていると、そばにいた参観者のおばあさんが「この頃は日本も良かったよねえ」と嘆息していました。沖縄サミットは2000年7月。20世紀最後の年の夏の初めに開かれたのでした。
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