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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

比喩に悩む

2012年08月04日(土)

 大阪でいしいしんじさんたちと文楽を見てきました。30年ぶりの「曽根崎心中」。いろいろと感想、感慨があります。でも、それはあとで。

 「潮見坂の上で話したこと」の続きです。7月29日の国会包囲集会はかなり大規模で、最後は国会正門前の道路に参加者が広がるという展開になりました。街頭での抗議集会が大きくなるにつれ、抗議集会を開いていた首都圏反原発連合では、全体をマネージメントできなくなるのではないかという心配と不安を「潮見坂の上で話したこと」に少し書きました。それが、30日には初めての「対話テーブル」が開かれるとのことで、展開の速さに驚いたのは追記に記したとおりです。こうした詳細な情報はツイッターを時間で追ってないとなかなか理解しがたいところがあります。

 大阪では朝日新聞と日経新聞の関連記事を読みました。日経新聞の記事のほうが全体像を簡略に伝えていましたが、どちらも管直人前首相の発言だけがクローズアップされていて「対話テーブル」そのものはほとんど無視されていました。東京へ戻ると野田首相が金曜集会の代表者に面会する方向というニュースが駆け巡るだけで「対話テーブル」はどこかに消えていました。サッカーの比喩を用いれば、プレッシャーからパスが出たのは私の予想よりも早かったけれども、パスを受ける選手がいなかったというところでしょうか。

 「デモって意味あるのかしら」と某先生から質問を受けました。それで、たまたま大学は前期の成績の採点の時期だったので、採点の比喩を使ってしまいました。以下のような具合。

 街頭行動で政治的プレッシャーをかける。→C評価

 C評価は低いようですが、単位は取得できます。こういう街頭行動はあまり目立ちませんが、保守派も革新派も東京ではいろいろな活動をしてます。

 街頭行動から政治的意見聴取や意見交換の場を作り出す。「対話テーブル」の設置などはこの段階です。
               → B評価

 この段階が公に公開するかたちで開くことが、これまでの日本ではなかなかできませんでした。政治家にも公開で「対話テーブル」を開く習慣を持っていません。支持者団体とのクローズな会合が開かれるとか、支持団体との会合が開かれるという場合はよくあります。ただ、日本の政治家は不特定多数の納税者、有権者と対話するのは苦手なようです。「人見知り」が激しいのかもしれません。蛇足ですが、「人見知り」をすると「偉そうに、威圧的に振る舞って防御に出る」という癖がある人もわりによくみかけます。だから「物知りの老人」風の受け答えや「先生然」とした受け答えを始めたら、これは「人見知りで怯えている」と考えても、そんなに間違うことはないでしょう。

 意見聴取、意見交換を通じて、意見集約を図り代表者を決定して、具体的な政策を作り出す。

 ここまでくれば →  評価A

 日常的にも支持者団体の中から政治家を出して、すったもんだのすえになんとか法案が成立したり、政策が決定されたりすることがあります。でも、そのプロセスに興味関心がない人には、ただ政治家が官僚のいいなり作った法律としか感じられない場合がままあります。

 作り出された政策が衆知を集めた立派なものであればもちろんそれは → 評価A+

 「それはとてもわかりやすい比喩だわ、ちょうど採点の季節だし」とお褒めをいただきましたが、どうもこの比喩を私自身は好きになれませんでした。内心で我ながら「そんなに先生やってどうするんだ」と忸怩たるものが。まあ、でも政治的な意思決定の段階を「先生」風に眺めることも、たまにはおもしろいかもしれません。

 歌手の小沢健二、愛称オザケンさんは街頭での抗議活動について「病人と患者」の比喩を使っていました。小澤昔ばなし研究所発行「子どもと昔話」に連載された「うさぎ」というエッセイの一部のようです。私はツイッターで流れてきたものを読みました。政治的抗議を街頭でするのは例えてみれば「患者が医者に痛みや苦痛を訴えるとうなものだ」と言うのです。それで治療法や対処法は医者が提案すればいいと言うのです。現代では医者も患者に「説明責任」を負っていますので、医者から提案される治療法や対処法は患者が説明を受けて受け入れるかどうかを決めることになります。先ほどの成績評価の例えで言えばこれが評価B段階。治療法や対処法が決定され、実行されれば評価A。その結果がとても良いものであれば評価A+。なかなかわかりやすいすばらしいたとえ話です。デモでも集会でもやって、まずは病状を訴えなけれなというところが大事。感心しました。ネットで探せばこの文章を読むことができます。

 私はサッカーのゲーム展開のイメージを使って首相官邸の金曜日の抗議活動を始めとして、政治的な抗議のありかたをここに書いてきましたし、自分でもそのイメージでものを考えてきました。「病気の比喩」と「サッカーの比喩」どっちがいいのだろうと、内心で悩んでいます。病気の比喩はすばらしいのですが、サッカーのゲーム展開のイメージも捨てがたいのです。そんなことを大阪でいしいしんじさんにお話ししました。いしいさんの御意見は「病気の比喩だと、ひとりひとりの気持にはぴったりとあてはまるという利点があるけど、サッカーの比喩だと出来事の全体が見渡せるんだなあ」ということでした。そう言われてみれば「そうかあ」と思ったしだい。おすしを食べながらそんな話をしました。

 首相官邸前の抗議集会について、あるいは国会包囲抗議活動について、「ガス抜き」だとか「自己満足」だという意見を聞くたびに悲しい気持になります。過激化して解体した70年安保以来の固定観念化した言説(早い話が固まった頭)のまま、時間が少しも経過せずに、ただ精神的な怠惰が呟かせている言葉として、私の耳には響くのでした。熾火のような怒りを含んだ悲しみです。

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