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政治的プレッシャーについて
2012年07月28日(土)
プレッシャーグループについて教わったのは、中学校か高校の時でした。政治的なプレッシャーをかけるグループをそう呼ぶと。日本だと農協や漁協、それに労働組合や市民団体などが政治的なプレッシャー・グループとしての役割を果たすのだと。その頃はまだプロ野球全盛の時代で、毎年、巨人が優勝を続けていました。まだサッカーはプロリーグはなく、都市部にはリトルリーグが出来始めていた頃だったでしょうか。私も小学生の時、体育でサッカーをやりましたが、サッカーのゲームでは相手へプレッシャーをかけることが重要だなどとは知りませんでした。みんなでボールを追いかけて右往左往するへたくそサッカーの見本みたいなものです。考えてみると指導して下さった先生は、野球の経験はあってもサッカーの経験はなかった時代なのかもしれません。
政治的なプレッシャー・グループについて教えられた時も、サッカーのプレッシャーのイメージは浮かびませんでした。今ではすばらしいプレッシャー技術を持ったなでしこジャパンのおかげで、小学生でもサッカーのプレッシャーの意義を知っています。
では、街頭での抗議行動やデモンストレーションが政治的なプレッシャーであると教えられたのかどうか、思い返してみてもよくは思い出せません。書店には60年代の安保闘争で亡くなった樺美智子さんの手記が置いてありました。国会前のデモで樺美智子さんが亡くなったのは私が生まれて一年後(正確には8か月後ですが)の出来事です。その手記に興味を持って読んでみたのは高校1年生の時ですから、樺さんの死から15年後くらいのことで、今で言えば、高校生がオウム事件の記録を読むようなものです。70年安保、東大安田講堂占拠事件の時は小学校4年生でした。それで小学校5年生の担任の先生は、大学を出たばかりで、大学では学生運動にも加わったという先生でした。などなど思い出しても、街頭の政治的集団活動は、政治的プレッシャーだと教えられた記憶はありません。
街頭での抗議活動やデモは、サッカーで言えば、シュートではなく、プレッシャーだと説明すると、その意見に賛成か反対かは別にして、意味するところは、サッカーの観戦になれた今の人にはすぐ理解してもらえるでしょう。私がその比喩を思いついたのは、ついこの間です。毎週金曜日に首相官邸前で行われている反原発の抗議集会に参加する人が増えだしたのは、6月中旬からです。私は家でユーストリームの中継を見ていました。国会では消費税率の引き上げを巡って、民主党が割れるか否かで、小沢輿石会談の最中。25年近くも議論している消費税ではなく、震災と現在進行中の原発事故についてもっと真剣に緊張感を持った議論をしてほしいという民意が、政治家にプレッシャーをかけ始めたのだと、そう感じた瞬間でした。
街頭での抗議活動やデモは政治的プレッシャーであって、決して何かを決定するためのシュートではない。プレッシャーはひじょうに重要な手段であり、シュートではないから意味がないということにはならないと。そんなことを考えるうちに、中学校か高校で教えられたプレッシャー・グループという名称を思い出したのでした。私は現在、日本の政治家には強いプレッシャーをかける必要を感じています。そんな話を知人にすると「プレッシャーをかけたあとはどうなるんだ?」と尋ねられました。
考えてみると中田英寿の時代には良いパスを出しても球を受ける選手がいなかったのが日本のサッカーのナショナルチームです。それが今や、なでしこジャパンはオリンピックでの金メダルを期待されながら、白星発進、男子のナショナルチームはスペインを破って欧州を驚かせるまでに至っています。政治だって、大勢の人が集まって良いプレッシャーをかければ、きわめて有能なカリスマ性のある政治家の登場を呼び出すことができないとは限らないでしょう(←まだ弱気だけど)。
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