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さくら
2012年04月09日(月)
今年の桜です。4月6日に市ヶ谷の外濠土手でお花見をしました。この時はまだ寒くって、みんな、地面に座っているとだんだん冷えてきました。今年のお花見は、ちょっと飲みすぎる人が多いらしく、救急搬送された人の数は先昨年にくらべて10倍とか。お花見自粛だった昨年ですが、2010年に比べても5倍とか8倍とか、そういう数字がニュースに出ていました。
昨年の春が暗くってさびしかったことを話すと、よく覚えている人、すっかり忘れているのに驚く人、ああ、そうだったとすぐに思い出してくれる人と、いろいろです。
ところで、乱暴な植木屋さんの仕事にまた悩まされています。こんな仕事は植木屋さんの仕事と呼ぶべきではないでしょう。春休みの間に法政大学の校舎のケヤキと樅の木の剪定が行われました。いや、これも剪定などと呼ぶべきではないでしょう。だって、ケヤキも樅の木も電動のこぎりで半分にちょん切られたのです。ケヤキは大空に伸びた樹木の姿を失いました。ただの丸太棒です。樅の木は、5、6年前に植樹したものですで、クリスマスの頃にはツリーとして電飾で飾られてました。でも半分にちょん切られました。こんな仕事にお金を払うべきではないと私は思います。こんな仕事には、損害賠償を求めるべきです。ケヤキは枯れてしまう可能性が大きいです。樅の木が姿が良くて、幾らと値段が付くのですから、半分にちょん切られたのではに二束三文になってしまいます。しかしお金の問題ではありません。
たまたま用事があって小池昌代さんと学内を歩いている時、ひどい剪定の木の話になりました。小池さんは「学校を愛していないのかしら」と嘆息。そうかもしれません。学校だけでなく、樹木が天に向かって伸びて行く、その健やかな時間の流れに、なにか憎しみを持ってはいないかしらと疑心暗鬼になっています。樹木の姿が象徴しているものへの敵意を感じてしまいます。 電動のこぎりで、根の生えた丸太を作っている人はそんなことを考えてはいないかもしれないのですが、考えてはいなくっても、感じてはいなくっても、感覚の中に時間の流れへの敵意が潜んでいるということは、充分にあり得ることでしょう。
それにしてもこんなひどい仕事にお金を払ってはいけません。むしろ損害賠償を求めるべきです。雨漏りの修理と称して大工さんがやってきて、屋根をべりべりと壊し、屋根がなくなりましたから、雨漏りはなくなりましたと言っても、お金を払う人のいないのと同じです。
さくらの季節にちょっと憂鬱でした。そのさくらも、13日の夜からの雨で、もうおしまいですね。
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