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天上の時間
2012年04月09日(月)
3月の末、金星、月、木星が夕方の西の空に並びました。びっくりするほどの明るさで、ベランダへ洗濯物を取り込みにいったついでに撮影してみました。写真の腕はないので、遠い空に輝く星が写るとは思わなかったのですが、改めてデジタルカメラの性能の良さに簡単しました。
震災の時、佐伯一麦さんは月を眺めていたというお話を聞きました。2012年3月19日は月が地球に最も接近するスーパームーンという現象のあった日です。11日の震災と、津波、それに続く原発事故で、緊張していたツイッターのタイムラインには、大きな月の話題が並んでいました。19日は東京消防庁が原発に放水を行った日でもあって、深夜に記者会見をありました。実際はこの時、危機は去ったわけではなく、依然としてかなり危機的な状況が続いていたのですが、11日以来の緊張がやや緩んでいた夜でした。ツイッターのタイムラインを見ていると、じつに多くの人が月を見上げて言葉にならない感慨にふけっている様子でした。
閖上を案内してくださった方から聞いた話です。3月11日の午後は曇っていたのですが、夜半になって空が晴れ渡ってきたそうです。津波で、中学校へ逃げ込み、その晩はそのまま中学校で過ごしたとのこと。学校の屋上へ上がってみると、晴れ渡った夜空に満天の星が輝いていたとお話になってました。地上はと言えば、繰り返し押し寄せた津波が、そのまま水浸しの状態であたり一面に広がり、その水面に星空が映し出されていたのを見たそうです。頭上も星空、足元も星空。なんだか宙に浮いているような感じがしたと。
そして、暗闇の中で火の手が上がるのを見たそうです。民家の屋根の上に避難していた人が、寒さのあまりたき火をした火だとあとで解ったとおっしゃっていました。そのたき火をした人と、その後、避難所で出会ったとも。そのお話を聞いてから、かれこれ3週間ほどが過ぎているわけですが、ずっと天上の時間というものを考えています。人間が住んでいる下界の時間に対して天上の時間というものがあるという考え方はずいぶん古くからあるようです。永遠とか無限とか、人間の人生の感覚では測りがたい時間を「天上の時間」として捉える感じ方がありますが、星空の光とたき火の火は、その天上の時間と下界の時間が暗闇の中で出会った瞬間のような印象を持ってお話を伺いました。
今日明日の食べ物の心配から、日常生活を取り戻すための手立てに必死な時に、天上の時間などという抽象的な感慨を持ちだすのは、なんだか悪いことをしているような気がしないでもありません。それでも、言葉というものを扱う世界に住んでいると、ああ、天上の時間がこの下界に大きな裂け目となって現れる瞬間があるのだと、言葉にならない感覚が湧きあがってくるのは抑えがたいのでした。
津波をかぶった土地は、水を含んでしょっぱい湿地となっています。もともと、海岸付近のそのあたりは、塩気を含んだ湿地だったのでしょう。塩気を含んだ湿地にも昨年の春は、菜種の花が咲いていたようで、その写真を見せてもらいました。ほんの数分で、その土地のもともとの姿に帰ってしまった場所に、自然はもくもくと仕事をして、植物の芽を出させ花を咲かせるのでした。そこにまた、人の手が加わって、波に飲まれる前の肥沃な土地が生れてくるわけです。肥沃な土地は、人と自然の共同作業で生まれてくるわけでと、私はそのことに興味を持っています。それが、言葉が生れるプロセスに似ているようなイメージを持っています。言葉が物語に凝固するプロセスと繋がっているような予感を持っています。物語が歌になるために必要な時間がそこに眠ってはいないでしょうか。
テレビで仙台の映像を見てただただ驚いてしまったのですが、津波は千葉県の九十九里浜の海岸や、九十九里浜にそそぐ川も遡っていたことを最近、耳にしました。
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