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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

砂漠の駱駝とニクソン大統領

2011年02月07日(月)

 母がぽつっと「あれがなければ、あんたたちを私立大学へ入れるくらいの蓄えはあったのにね」と言ったことがあります。あれがなければと言うのは、オイルショック後の狂乱物価。インフレでした。そんなことを母が言ったのはいったい何時ごろだったか? 結局私は明治大学の2部へ滑り込みましたし、弟はもともと国立にしかない学部を志望していたから、そんな実害があったという話ではなかったのですが、親としては落胆の表明をしたかったみたいです。

私も弟ももう大学へ入っていたかもしれません。母の胸の中にそんな落胆の固まりがあったのかと、意外な気がして忘れられません。小学校(国民学校ですが)の苦く甘い思い出は学童疎開。苦いほうが先で、苦さをかみ締めていると甘くなるという様子。昭和10年(1935年)生まれの母でした。

 オイルショックは何度かありますが、最初の1973年の第4次中東戦争のほうのオイルショックです。ドル・ショックのあとを追いかけるように勃発した原油の値上がりで、なぜかトイレットペーパーや洗剤の買占め騒ぎが起きました。トイレットペーパーを自転車に積んでいたおじさんが、強盗に襲われるなんて、笑いたくなるような事件まであった騒ぎでした。第二次世界大戦が終わって28年。戦争が終わっても物資の乏しい時代が数年は続きましたから、まだ、品物がなくなる恐怖を生々しく持っている人が大勢いたのだなと、振り返って、改めて想像することがあります。母は37、8歳だったわけで、「喉元過ぎれば熱さを忘れるは恥だ」が口癖がでした。
 1979年のイラン革命の時のオイルショックの時にはもう大学へ入っていました。

 カイロで始まったムバラク退陣運動のデモ隊の中で暴れる駱駝の映像を見ていて、冒頭の母の嘆息を思い出したのです。どこかアメリカのニクソン大統領が大統領支持派にベトナム戦争反戦運動のデモ隊を衝突させた時の様子に似ていました。

 オイルショックの時のアメリカ大統領はニクソンでした。ニクソン大統領はアメリカ軍をベトナムから撤退させた大統領です。当時、ベトナム反戦運動が盛んで、これがベトナムからの撤退交渉の障害となると判断したニクソン大統領はテレビ演説で、反戦運動に加わっていない無言の支持者たちに支持を呼びかけます。大統領の呼びかけに応えた、ブルーカラーの人々が反戦運動の学生に襲い掛かるシーンの映像を、私が見たのはずいぶんあとになってからです。ヘルメットを被ったブルーカラーの人々の動きの素早いこと。実にシャープな動き方をして脆弱な学生をぼこぼこにしてしまいます。

 エジプトのムバラク支持派とムバラク即時退陣派と衝突の映像で、駱駝を見たとき、このニクソン支持派のすばらしくシャープな動きを連想したのでした。砂漠の駱駝使いはアメリカの労働者よりも、なんだか笑いたくなるような感じもしました。

 テレビを使って自身への支持を呼びかけたニクソン大統領は、結局、ウォーターゲート事件で退陣を余儀なくされてホワイト・ハウスを去ります。エジプトから流れてくる情報を断片的に受け取っていると、なぜか20世紀後半のさまざまな出来事が個人的な記憶と一緒によみがえってきます。ウォーター・ゲート事件のあと日本ではロッキード事件が起きます。ロッキード事件のあとはリクルート事件。報道は、しだいにパターン化しました。

 中国とアメリカの国交を開いたのもニクソン大統領でした。日本と中国の国交を快復させたのはロッキード事件の田中角栄首相でした。

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