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本屋さんに行く
2011年01月06日(木)
しばらく行ってなかった近所の本屋さんに行きました。電車の時刻表が欲しかったのです。以前は毎月買っていた時期もあったのですが、目的地がはっきりしている場合は、ネットの検索で充分に間に合ってしまうので、いつか時刻表を買わなくなりました。
今年は7日の週末から大阪です。その帰りに名古屋から木曽谷を辿って中央本線に乗ってみようという気になりました。電車に乗るだけなんてときには時刻表は1冊持っているとたいへん便利です。気紛れができるから。電子ブックのようなものとか、スマートフォン、あるいは携帯を使いこなせれば時刻表もいらないのかな。そうなのかもしれませんが、気紛れに電車に乗って行くのにそんなに便利じゃなくっても不自由はしません。
本屋さんに行ったら、NHKの「無縁社会」の本が目につきました。ずいぶん前に、社会的地位は引退したら「ただの人に戻るのが理想」って話をしてくれた弁護士さんがいました。飲んでいる時の雑談ですから、ちょっとした理想論だったのですけど、その理想論で少し引っかかるところがあったのです。仕事は仕事、私的生活は私的生活って完全に割り切っちゃったいいのかなあ?っていう疑問です。たいていの人は、自分の仕事のために多くの時間をさいているのに、その仕事から退いたら何の人間関係の財産も築けていないとしたら、それはとっても「へんちくりんな」ことなんじゃないかと、その時に感じました。
弁護士とか政治家とか大学教授とか、そういう職業の場合は、仕事と私的生活を分割しちゃっても、あとになんらかの職業上の人のつながりという財産が残るでしょう。そういう職業の人が考える「理想」と、そうではない人々が考える「幸福」って違うんじゃないでしょうか?あえて「理想」と「幸福」っていうふうに単語を置き換えてみたんですが。どんなものなのでしょうね?お正月に息子や娘たちと話す機会があったのですけれども、人間関係の作り方に工夫がいる時代になったなあと、それぞれに感じているようでした。 「人間は生まれるときも一人だし、死ぬときもひとりだ」ってよくそう言う言葉を耳にしたこともあります。男の人はこの文句が好きなようですが、逆に言えば一人で人の手を煩わせることなく生まれることができる人はいませんし、死ぬときは一人でも、あとの始末は誰かにしてもらわなければならないってこともあります。 生死(いきしに)の「世話をする」とか「面倒を見る」というのは職業的な仕事として割り切れないところがいっぱいあるように思えるのですが、どんなものでしょうか?このごろ、自分の感じていることをうまく言葉にできなくって少し困っています。
古典を読んでいると社会保障なんてない時代ですから、登場人物はみんな個人的な人間関係を築くのにそれはそれは奮闘努力しています。テレビが出来ても映画が滅びなかったように、電子末端が発達してもたぶん本はなくならないって話と、古典の登場人物が人間関係を築くのに、それはそれは奮闘努力しているのはちょっと似ているかもしれません。充分に整備された社会保障が出来たとしても、古典の登場人物のような人間関係の財産を気付く奮闘努力がいらなくなってしまうっていうわけではないのでしょう。
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