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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

子どもと老人 そのほか もろもろ

2010年08月26日(木)

 近代的な個人。そういう硬い言葉で言っていいならば、近代的な個人と言うと、たいていは成人した男性を意味をしていることが多いなあと感じたのは、20歳くらいの時でした。女性は大人でも入っていないの。で、その女性の自立というテーマでエッセイなどを頼まれるたびに、近代的な個人というのは成人した男性がモデルになって組み立てられている観念だなあと感じていました。女の人は、実際は成人した男性と老人、子どもの間に立って大忙しで、どっちの面倒もみなくちゃいけないのに(肝っ玉母さんというテレビの人気番組がありました)保護されている存在ということになっていて、その辺の矛盾をほんとう言ってどう考えたらいいのか解りませんでした。

 小さな子どもの虐待死とか、行方不明の高齢老人とかが出ても、もう昔の家族主義を唱える人がいないのは、後戻りできないところまで来ていることを、おおかたの人が知っているからでしょう。それで、社会保障という話になるのですけれども、社会保障が整備された国って例えば北欧などをすぐに思い出すのですけれども、そういう国の宗教とか信仰ってどうなっているのかしら?もっと率直に言えば、みんな、教会に通っているのかしら? 北欧の映画で、ほとんどの人がどこかの教会に通っている場面を見たことがあるような気がしています。
 社会保障って、そういう信仰と両輪になっているのではないでしょうか? 信仰が同じ人、もっと日常的に言えば同じ教会に通っている人どうしの繋がりがあって、初めて世俗的な社会保障が機能するんじゃないかと、このごろ、考えています。
 そういう研究って誰か、している人がいるのかしら? なんか学問の世界にも管轄みたいなものがあって、管轄が違うと、誰の目にも明らかなことが、ちっとも調べられていないってことがあります。と言うか、宗教と社会保障の相互補完関係って言う視点の言論すら聞いたことがないような気がします。

 伊藤さん、お連れ合い様 無事ご退院おめでとうございます。アメリカの病院ってすぐ患者を退院させるのね。びっくりしました。お大事に。

 田原総一朗ノンフィクション賞佳作の「にくのひと」の上映会に、出かけていったら、なんと賞の受賞者、満若監督自身が「スタッフ」のカードを首から提げて暑い中でお客さんの誘導をしていました。思わず「ありゃま!」って笑っちゃいました。好青年です。

 実は司会をするはずの二木さんが欠席で、前の晩に、突然、司会をお願いしますって、事務局から連絡がありました。私は都内某所で「涼しい顔で下界を見下ろす会」の最中。ただの飲み会です。高層ビルの最上階から東京湾を見下ろしてワインを飲んでいました。

 で、司会って大丈夫かいな!? という具合にトークを始めたので、開場を見る余裕なし。ニコニコ動画のカメラも無視。そろそろ終わるぞって頃に、ちらりと会場を見たら、なんと、私の助手の深野女史がちゃっかり彼氏と座っているではありませんか。気がつくのが遅くって良かった。早くに気づいていたら、しっちゃかめっちゃかになっていたところでした。

カンボジアのスイカと瓜 2

2010年08月23日(月)

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 カンボジアのスイカ細工です。このほかにもいろいろ。ゴッホの絵をスイカに刻んだものなども、勝又さんから送ってもらった写真にはありました。

 壺井栄の「二十四の瞳」には、かぼちゃの提灯を作る場面がありました。主人公の大石先生が、自分の子どもを亡くしたときの場面です。戦争末期のことで、食料不足なのですけど、大石先生は「かぼちゃは子どもが遊ぶものだった」と言って、死んだ子の枕元に備えられていたかぼちゃに包丁を入れるのです。そして、かぼちゃに目と口をつけ、中身を刳り貫き、火を点して提灯にするという場面があります。大石先生の怒りが現れている場面ですが、壺井栄が描く「怒り」は切ない「怒り」でした。この場面を最初に読んだ時の、胸に包丁を突きつけられたような感じと言うのは、時間が過ぎても消えません。

 昨日、法政の尾谷先生からiパッドを見せてもらいました。へぇと感心したのは「トイストーリー」の宣伝版。アニメーションの画像を触ると、動いたり、音が出たりしますし、英文を音声で読み上げながら、読んでいる単語の色が変わったりします。電子デバイス用の表現が出てくるだろうとは、前々から思っていたのですけれども、もう、ちゃんと、そういうものが出てきているのですね。これで、漢文の素読をやってくれるものができないかしら?語学には便利な道具だし、漢文の訓読文みたいなものは音で聞きたいから、そういうものがあるといいなあと、尾谷先生とお話しました。
 あと、尾谷先生が写真や動画の整理にiパッドを使っているのも見せてもらいました。これもいいなあと思った機能。PCで整理するよりも、iパッドのほうが気分的によさそうでした。前々から、なんでもかんでもパソコンで処理するのではなくって、道具を分けたいと思っていましたから。

 息子と息子の彼女(こういう言い方でいいのかな?どうも適切な言い方が思いつかない)と3人で銀座を散歩したのは今月の初めでした。その時、初めてiパッドに触りました。銀座3丁目のアップルショップを覗きたいと息子たちが言うので、つきあったのですけど、ズームインしたりズームアップすることができる地図があって「これはいいなあ」と思いました。ちょっとづつ、電子デバイスが、私のほうへ近づいて来ているって感じです。

カンボジアのスイカと瓜 1

2010年08月21日(土)

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 勝又浩さんから、カンボジアのお祭りで使われるスイカや瓜の細工の写真を送ってもらいました。

また工事。

2010年08月19日(木)

 こんどはマンションの大規模修繕です。外側に足場を組んで、外壁の塗り替え、ベランダの床の塗装する、ほかいろいろ。息子が小学校低学年のときに近所の人と散歩に行って買ってもらってきた桜の木も移動させなくちゃいけないのですけど、どうしたらいいんだろう?
ベランダで大きく育っているのです。やっぱり枝を切るしかないのかな?

 講談社文芸文庫から出る「女ともだち」のゲラを見ています。それから河出書房新社から評論集を出すことになっています。評論集は当初の計画通りだと、2段組にして800ページになりそうなので、300ページほど削ることにしました。今朝、ゲラが届きました。昨日、河出書房新社に行って打ち合わせをしましたが、持って帰ると熱中症になりそうだったから、宅急便で送ってもらいました。

 今朝から、足場を組む工事の音が聞こえてきます。

 このごろ、ゆっくりとしか物事をやれなくなっています。それから、物を捨てる決断が遅くなっています。時々、物があふれかえったゴミ屋敷が話題になりますけれども、ああいうゴミ屋敷ができる理由がわかる気がしてきました。元気で落ち着いていないと物を捨てることができないのです。そういうことが解っているから、まあ、それほど焦りもしないでいるのですが、ちょっとペースを上げないと、いけないかもしれないなあと、やや矛盾したのんびりモード。

 そんなわけで、今年後半は工事と家の片付けと、ゲラの手入れで、終わりそうです。大規模修繕は12月初旬まで続くということでした。去年みたいに家の中へ工事が入るわけではないので、ま、家の中も少しは片付くでしょう。

九州の列車

2010年08月18日(水)

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 東京は「Suica」大阪は「ICOCA」九州は「SUGOCA」だったけ? ICカードの名前がJRの地区ごとに違うのに、ちょっと笑えます。

 ソニック特急に乗ったのは、二度目です。福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を勘違いして熊本文学隊の皆さんを大騒ぎさせて以来です。ソニック特急のインテリアは未来的といったらいいのか、車体が小さく感じられるわけに窓が大きく開き、座席は人間の背中に合わせた形をしています。つまり外の景色がよく見える設計になっているようです。

 小倉は「楽隊のうさぎ」の取材で出かけて以来だったと書きましたが、その時は旦過市場には行ってません。けれども、再開発された小倉駅よりも、変わらない旦過市場のほうが、なんとなく記憶にある小倉に近い感じがしました。東アジア文学フォーラムの北九州市での打ち合わせを終えて、旦過市場で島田雅彦さんたちと昼ご飯を食べました。島田さんはカクウチがお気に入りで、ちょっと立ち寄ろうかという話も出ました。それは今度にと言うことで、お昼ご飯を食べてから、旦過市場で買い物をしました。なんと言ってもお魚が安い。それはそれは魅力的です。が、私はそれから由布院に回る予定だったので、お魚には手が出せません。でも何か買いたいというので、大きな苦瓜を買い、スーツケースに詰めました。
「たいへん安上がりな購買欲の満たし方だ」
 というのは島田さんの台詞。道楽の買物に経済学風な解説をつけるところが、島田さんらしい。島田雅彦さんが何を買ったのか思い出せないんですが、魚屋の買物で、きっとその日のうちに東京へ戻って、得意のお料理をしているのでしょう。

 北九州空港までバスに乗るという島田さんに、新しくなった小倉駅まで送ってもらいました。小倉駅で
「じゃあね」
 と別れてから、ソニック特急で大分へ。関門海峡から豊後灘へ、海の景色をキレギレに眺めながらの列車の旅でした。小倉では、あれほどかんかん照りだったのに宇佐のあたりで猛烈な雨に降られました。大分で、由布院に行くために乗り換えた電車は、かわいらしい赤の電車。私が乗車した時は2両編成でしたが、時には1両で走ることもあるようでした。小さくて真っ赤な電車で、阿蘇に続く山々の間へ分け入って行くのはなかなか心地良いものでした。

4年分の紙類と格闘しています。

2010年08月15日(日)

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 豆蔵君、そうか伊藤さんの豆畑支所を作った記念メルマガ以来なのね。それが06年。なるほどねえ、じゃあ、今度はツイッター開始記念になるのかしら? あ、そうじゃなくって、メールフォーム故障記念かしら?
 いずれにしても今年のうちには、お家の中は片付かないんじゃないかという気がしてきました。
 だめじゃ、こりゃ。

 木曜日に紙バッグを持って家を出て、郵便局でお金を振り込み、地下鉄に乗って、飯田橋で降り、雨が降っていたから薬局で傘を買いました。それから理科大裏のお菓子屋さんまで歩いて、マシュマロとオレンジ入りのケーキを買い、とことこ、法政大学まで歩き、入り口のコンビニでカップ焼きそば(これがモーレツに食べたかったの)とフライドチキンを買って、研究室に入ったところで「あっ」と気づきました。
 紙バッグがない、どうしよう。
 で、コンビニに忘れたかもしれないと、室内スリッパのまま、急行。
「紙バッグのお忘れ物はありません」
 はあ、そうですかとばかりに、もしかしたら、土手の上で煙草を吸ったときに忘れたかもしれないと、土手に戻ってみました。ただ、煙草を吸ったかどうかの記憶があやしい。で、土手の上の喫煙所にも紙バッグはなし。

 紙バックの中身は日芸で開催された「同人雑誌の変遷」展の図録と、自宅の机の上に散乱していた紙類をクリアファイルにまとめたもので、一般的な意味で価値のあるものは入っていません。だから持ち去られたという心配はなし。

 ここに無いなら次は理科大裏のお菓子屋さんか? と、お堀の向こうの理科大がやけに遠く見えるのがうらめしい。アグネスホテルのパティシエの作るお菓子を売っている店で、ここのマシュマロが大好き。紙の山が散乱しているのは自宅の机の上だけじゃなくって、研究室も同じで、マシュマロを餌にそれを片付けるつもりだったのです。ま、馬の鼻面に人参をぶる下げるみたいなものですね。理科大裏まで歩こうかどうか、思案していたところへ、コバフミちゃんこと近世の小林先生。胸にシャーリングが入ったサマードレスで現れました。
「あら、中沢先生」
 二人で手に手をとって小学生みたいにぴょんぴょん。
「小林先生、夏休みモードですね」
「中沢先生も」
 私はピンクのランニングでした。これですっかり足元は室内スリッパだということを忘れて、ともかくも薬局までは行ってみようという気になりだすと、今度は、助手の深野女史が土手を歩いてきました。
 なんだかブレーメンの音楽隊みたいな展開。深野女史に「これこれ、うんぬん」と話すと
「じゃあ、先生、きっと薬局ですよ」
 とてきとうな返事。で、薬局に行きました。紙袋はありません。なぜか、ここまで来たのに理科大裏のお菓子屋さんには電話で問い合わせることにして、深野女史と法政へ引き返しました。今度は土手の上で日本音楽史のネルソン先生とばったり。もうすぐ、オーストラリアにお帰りだとのこと。
「気をつけてお帰りください」
 とご挨拶して、研究室に戻ってきました。で、お菓子屋さんに電話。1個90円のマシュマロを20個も買ったんだから覚えていてくれました。でも紙袋はありません。あとは郵便局。こっちも電話しました。紙袋はないというお返事。
「じゃあ、先生、ぜったい紙袋は地下鉄ですよ。それじゃなければ、お家に置いたままか」
 深野女史が言うのです。
「うちだといいんだけど。」
「東京メトロに電話かけてみますか?」
「そうねえ」
 なんとなく気が進まないのは、地下鉄に乗っていた時の記憶がきれいさっぱり抜けているからでした。いろいろ聞かれても、どこに乗っていたのか、ぜんぜん思い出せません。時々、そういう空白の時間があるのです。それが嫌なの。
「なんか東京メトロに電話するの嫌だ」
「先生、わがままなんだから」
 と深野女史が電話をしてくれましたが、これがさっぱり通じません。お話中のまま営業時間が終わってしまいました。
 
 夜になって娘から電話がありました。
「家の玄関の前に蝉が伸びていて、ばたばたやっているので怖くて家に入れない」
 という電話でした。難儀な娘じゃと「蝉は怖くないよ。弱っているだけだから」となだめすかして、家に入ってもらいました。そして、蝉をなんとかよけて家に入った娘に私の部屋を見てもらいましたが
「ざっと見たけど、紙袋はないよ」
 という返事でした。

 で、なぜか、土曜日になって急に呼ばれたような気がして東京メトロに電話してみました。すると、すぐに電話がつながって「紙袋の忘れ物ありますよ」というお返事が返ってきました。すぐに上野駅に忘れ物の紙袋をとりに行きました。東京メトロの本社って上野駅にあるのを初めて知りました。

 不忍の池では、蓮の花がたくさんに咲いていました。そうだ、いつだったか寒い冬の日に、まだ赤ん坊の息子を背負って、母とこの池の中の道を弁天様の方向へ歩いたなと、24、5年前のことが頭を過ぎりました。桜の花が咲き出して、あれよあれよという間に上野の山いっぱいが桜色に染まった日に、運よくめぐり合って、やはり忍ばすの池の中の道を歩いたのは06年の春だったような気がします。その日、会社をサボっているらしい新入社員とその先輩格のサラリーマンがボートを漕いでいました。あの二人のサラリーマンは今でも同じ会社に勤めているのでしょうか?

 紙袋の長い長い旅でした。

固まっていた時間が溶け出す

2010年08月14日(土)

 4年ぶりにメルマガ出しました。ずっと出せなくってすみません。私自身、4年ぶりと聞いて驚いています。

 4年前と言うと07年かな?
 07年は8月に静岡新聞で「おたあジュリア異聞」の連載を始めました。ここらあたりから、かなりタイトなスケジュールで動き始めていたわけで。
 08年に入って小川国夫さんが亡くなられたのが4月のこと。「大人になるヒント」のために大忙しになって9月に本を出しました。10月にはソウルで東アジア文学フォーラムに参加。11月にはなんとか「おたあジュリア異聞」の終わりが見えてきたかなと思っていたところ、激烈な歯痛に襲われてダウン。これが心筋梗塞の前兆とは、この時は気づかず。
 09年1月にイギリス旅行の予約をとりました。ともかく連載が終わったら遠いところに行きたいという心境になっていました。
 1月16日に心筋梗塞。どうも遠いところが、ちょっと違う方向だったみたい。
 救急車で順天堂病院に運び込まれてカテーテル手術。糖尿病の治療と合わせて12日、入院。以来、毎月、糖尿病の先生のところへ行き、2ヶ月に一度、循環器内科の先生のところへ通うことになりました。
 退院して、卒業制作面接と入学試験採点。2月になんとか静岡新聞「おたあジュリア異聞」の連載を終わらせることができました。そうそう、退院して来たら、マンションの管理組合から給湯菅と給水菅の取替え工事の予定があると告げられ面食らって、宮崎学さんからは田原総一朗ノンフィクション賞の選考に加わるように言われて「おもしろそうだけど、心臓には悪そう」と思いつつ「イエス」の返事。
 3月にはかねてのお約束どおりに、熊本文学隊の皆さんのところへ出かけました。
 4月にHP「豆畑の友」をリフォーム。
 5月に給湯管、給水管の取替え工事のため、家の廊下、風呂場、トイレ、台所と水周りの壁や床を壊しての大工事。これで壁と床を壊したので、その延長で居間と廊下のリフォーム工事をやることにしました。
 7月、大学の前期終了。「わぁい、終わった、終わった」とばかり飛行機に飛び乗ってロンドンへ。イギリスのコーンウォール半島を旅行してきました。
 姜英淑さんにはこの時のことをおたよりしようとしてまだ書けていません。
 8月は、心臓の検査のために順天堂へ再入院。3日ほどの入院で、再びカテーテルを入れました。
 9月は、白内障の手術。御茶ノ水の井上眼科で日帰り手術。10月には例年のとおり新沖縄文学賞選考のために那覇へ。家の居間と廊下のリフォーム工事をしたのも10月でした。で、そのリフォーム工事のあと、なぜか、荷物が元へ戻らず、散乱状態で現在に至る。
 11月は田原総一朗ノンフィクション賞の選考会と授賞式。糖尿病のインスリン注射を服用薬に変えることができたのも11月だったと思います。注射ではなく飲み薬になって、めでたしめでたしと09年が終わりました。

 目の前の障害(仕事)を、少し先の娯楽を目当てに次々と飛び越して行くというような感じの09年でした。10年に入って法政大学の学生諸君と「法政文芸」6号の編集作業を本格化させたのですけど、正直言って、今回は不安でした。何が不安って、雑誌の編集作業を進めるときには、時間の見通しを立てながら、全体の進行させ、同時に変更する事項が出てきた場合に臨機応変に対応する必要があるのですが、そうした時間の流れの感覚をうまく捕まえることが、今の自分にはできないんじゃないかという不安を抱えていました。
 編集作業の進行を見ていてくれた藤村先生も冷や冷やなさったようです。「最後はするっとまるっと収めてくれると思ってました」と言って下さったのですが、するっとまるっと収まったのは一重に法政文芸編集委員の学生諸君のおかげです。

 ここ3、4年の時間の流れの感覚をあえていえばカードはめくっているような感じです。流れにならないの。1枚、1枚、めくったカードをぽいぽいと後ろに捨てているようなもので、3枚先には「楽しい事」や「おもしろい事」が待っているぞ!とは感じても、後ろを振り向けばカードが時系列を無視してばらばらに散乱しているという状態でした。そして、散乱したカードがぐちゃぐちゃに固まってしまって何がなんだか解らなくなってしまっていました。こうして人は自分が年をとって行くことを忘れちゃうんだなあと呆れました。毎日が反復した連続でしかなくなり、緩やかな曲線と言ったらいいのか音楽的な起承転結のある流れを失うみたいです。音楽の言葉で言えば、メロディーが失われ、ハーモニーは他の人たちとの関係でようやく保たれていても、乱調になり、リズムだけがやけに際立つという事態。

 メルマガを出そうということになったきっかけはメールフォームの故障でしたが、なんとかメルマガが出せたので、ぐちゃぐちゃになった時間がちょっと溶け出してくれたので、ほっとしました。

 ところで豆蔵君、この前、メルマガを出したのはいつだったの?教えて下さい。

※ 2006年7月31日となっています。伊藤製作所が出来た記念で出したようです。どうやら。(豆)

ERって(冷や汗)

2010年08月13日(金)

 こんにちは。伊藤さん、ERってそれは重篤じゃないですか。ほんとうに、次々のご苦労。どうぞ伊藤さん自身が疲れないようにして下さい。

 昨日の「ややや」は、伊藤さん流に言えば、吉行淳之介に「やややの話」っていうエッセイ集があって、そこからお声をおかりしました。新聞などを開いて「ややや」と驚く感触を言っているのです。「あれっ」というぐらいの軽い驚きから、今の言葉で言えば驚いて「ヒイチャウ」ぐらいのやつ、それから冷や汗が出るような驚き、その他、いろんな種類の驚きを「ややや」と表現したものです。吉行淳之介の「やややの話」が出た頃にはもう少し古風な表現になっていました。

 お問い合せのメールフォームが不通になっていました。すみません。何人かの方からお知らせをいただいて気がつき、昨日、豆蔵君に修理してもらいました。ご迷惑をおかけした皆様、たいへん申し訳ありませんでした。

 それで、ものすごく久しぶりにメルマガを出そうということになりました。
 さらにツイッターを利用すればお問い合わせフォームの不通などにも対応しやすいのではないかということで、ツイッターにも入りました。

 ツイッター:中沢けい

 以上、お知らせです。

 伊藤さんくれぐれも無理をなさらずに、お過ごし下さい。どうぞ、どうぞ、お大事に。物事に感じやすい人はそれだけで、疲れ易いのですから。

ややや!

2010年08月12日(木)

 伊藤さん、それで、お連れ合い様は、いかがしましたか? 大丈夫? ともかくお大事にして下さい。

いやあ、伊藤さん、御元気でなにより

2010年08月11日(水)

 伊藤さん、御元気でなによりです。なに、なに。明治5年の聖書。「聖書は申す」って。申すってところがすごいなあ。

 今日、初めてiPadなるものに銀座のアップルストアで触りました。予想よりもずっと触り心地は良かった。地図を見たんだけど。ぱらってめくれる感じが画面とは思えないほど実感があった。

 あ〜、ほんとのことを言うと病気をしてからね、遊んで歩くのが楽しくって仕方がない。5歳児の頃に、遊び歩いて日が暮れて、お母さんに叱られてから、なんで日が暮れているんだろう? って驚いたような心境と似たり寄ったりになっていて、はて、さて、どうしたものだろうかしら?

 ええと話は戻るのだけど、一昨年の春に福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を間違えて(ありえない間違いじゃ!)熊本の皆さんを大騒ぎさせた時、特急で小倉を通っているのですけど、その時は小倉の駅舎が新しくなっていることに気づきませんでした。
 「楽隊のうさぎ」の取材で小倉に行ったのは、1997年だから、もう13年前。お城が立派な町だという印象が残っています。1978年の年末には戸畑へNHKの番組で、自殺した中学生の女の子を取材に行きました。たぶん、この取材の時、はじめて飛行機という物に乗ったんじゃなかったかしら? 東京から福岡まで。番組の宣伝用に若戸大橋で撮影した写真が残っています。

 今度は門司港から船に乗って、八幡製鉄所や若戸大橋を海側から眺めてきました。工場って、すごく不思議な印象をもたらすんだけど、これが言葉でうまく言えないのがもどかしい。100年以上も鉄を作り続けている工場ってのは、真っ赤に赤錆に染まっていて、なんだか溶鉱炉の魂があるって感じがしました。
 あと、巌流島ってこんなところにあったんだと、感心。それから平たい藍島というのがあって、なぜかこの藍島に行ってみたくなりました。平たい島の姿が気に入ったの。鮑がとれると聞くとますます、藍島へ行きたくなりました。あのあたりは山口県の下関と福岡県の北九州市の島が入り組んで点在している海域でした。

 歴史の教科書で、馬関戦争ってのが出てきて、長州はイギリスから砲撃されましたって書いてあったけど、門司から海に出てみると、関門海峡はほんとに狭くって、きっと長州が砲撃される様子は、門司からよく見えたに違いないのです。門司の人々、それから小倉のお城の侍たちは、その砲撃をどんな気持ちで眺めていたのかしら? 気になりました。

 島は好きで、大分空港でも、山口の祝島が、瀬戸内の吉野と言われているのを知って、行ってみたくなったのですけど、実はひどい船酔いの癖を持ってます。今回も門司から小倉まで船で移動する間にちょっとだけ外洋にでると聞いてので、酔い止めの薬をもらって飲んでいました。響灘へ出ると、船底に当たる波の感触が急に硬くなるのが解りました。
 こりゃ、たまらんと、デッキから船室に戻りましたが、その昔、海を渡ってきた坊さんや宣教師は波に揺られるのは平気だったのかしら?

 ありゃ? 伊藤さん、明治5年ってまだキリスト教は禁教令がとかれていなかったんじゃないかしら? 違う?

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