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ナスタチウムと父と孤独死
2011年06月30日(木)
数日前から庭いっぱいに小さなナスタチウムの芽が。芽とか子犬とか子猫とか人間の赤ん坊とか、幼いものはみんなかわいいので、つい摘み取れずにいるが、これが伸びれば、よく知ってるたけだけしいナスタチウムになる。きれいな花を咲かせて目クラマシしているうちに、蔓を縦横無尽にのたくらせてあたり一面をおおいつくすというのが、連中の魂胆だ。でもほんとにかわいい。これは昔の日本では、キンレンカとかノウゼンハレンとか呼んでたものだ。こんなにたけだけしいものだとは知らなかった。ゆうべは、父が、「おれには看取ってくれるものがいない、誰もいない、ルイじゃだめだし」と言い出して(ときどき言いたがる)つい「それは聞くのがつらいから言うのやめようよ」といったら、「ときどき愚痴こぼしたっていいじゃないか、あんたしか言う相手がいないんだし」と言うのであった。たいへんうっとうしいが、そういう気持ちを持つ父の気持ちをわからないではないのである。たまたま電話が切れちゃって、5分くらいしてからかけなおすと、父も多少反省していた。父とあたしは同じような性格をしているので、仲直りはものすごくかんたんにできる。「両方とも相手の気持ちはわかっているんだから、おじいちゃんはそう言いつづけるしかないし、おかあさんは、言わないでおこうよと言いつづけるしかない」と人の心理をよく理解する娘に言われた。こういう状態を回避するには、死を若いうちからシミュレーションして、死ぬときは一人だと考えておかねばならないのだ。てなことを善導もいっておる。あと新聞なんかが、孤独死だなんだとかき立てるのをやめねば、なかなか、死ぬときは一人だという考えを持つようになれない。
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