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つれあいの老いと

2014年04月13日(日)

そもそもつれあいは「予定の変更」「とっさの変更」ができない。柔軟性がまったくない。決まったことをじゅんじゅんにやっていくしかできない。昔からだが、老い果ててきて、よけいそれができなくなった。ときどき父をほーふつとさせるように、おれはもうわからないと投げ出したりもしている。ならば父のように、投げ出してあたしに任せてくれればいいのに、また蘇り、事態を仕切りたがる。「仕切りたがり」もまた前々からの傾向で、これはだいぶ弱くなってきたとはいえ、まだまだ残っている。こないだ「モラハラ DV 被害妻の傾向」というのを読んでいて、被害妻たちが、衝突を避けようといいなりになりがち、自分が悪くないのに謝ってしまいがち、というのを読んで、あてはまるかもとどきっとしていた、なんてことも昨日の長旅で何回か思い出した。とにかく仕切りたがるつれあいに対して、あたしは、80%くらいは仕切られても気にしない、しかたないと思いつつ、20%くらいは「なにをぅっ」と思ってむかついて反撃するあたしもココにおり、だからよけい事態がうっとうしいことになるのである。その結果、会話はとげとげしくなり、そもそも耳が悪いから何回いっても聞き取れなくなり、それでこっちも声を張りあげ、「なになになのよ、OK?」みたいにちょっと見下したいい方をするようになり、そこのところはおおいに反省しているが、その結果、さらにつれあいは感じ悪くなり、いやみな話し方になり、こっちが聞き取れなかったり、まちがえたり、言うことに従わなかったりすると、この世のおわりみたいな感慨をこめてため息をつく。これがまたむかつく。この人は、あたしのことをいったいどう思っているのかと考えるのはこういうときだ。アイラの旅だって、「比呂美の提案だ」と会う人ごとにいってるが、こっちはせめてつれあいのできることを、楽しむことを、と考えた末の提案をしたのである。あたし一人なら、ハドリアヌスの壁走破+イングランド乗馬の旅+各町でズンバ、みたいのを企画してるっての。で、あたしのことを何と思っているかと疑いたくなるが、嫌いでいっしょにいるわけじゃない、たんに老いがいらいらを身近なあたしに表現させているだけだと思うし、そう思いたい。ねーそうでしょう? と問いただしたくなるが、相手の反応は問いたださなくてもわかっていて、けっして「おれの対応がわるかった」なんつー反応は返ってこないというのは経験上熟知しているので、問いただしてみることは絶対にないと思う。昔、父と母が(まだ母が家で暮らしていたころだ)あんまりいがみあってるので、ヘルパー主任のSさんに話したところ、お年寄りの介護にかけては百戦錬磨のSさんが、「お年寄りはみなさん、そうなんですよ、いがみあうのもある意味、刺激ですから」といっていたのを思い出す(『父の生きる』光文社デス)。父と母も、母が入院したらいがみあわなくなったし、父は孤独にさいなまれるようになったから、あれでも刺激にはなっていたはず、しかし困るのはあたしもまた老い果てているのならいいのだが、あたしはまだそこまで老い果てていないということだ。こうまで「自分である」ことをシイタゲられるような言動をくりかえされちゃっちゃあ、たまりませんよ、と心で思っているのである。

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