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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

父と飛行機のきっぷ

2012年03月17日(土)

で、父のことだが。ここのところマジでストレスフルになっていて、書きたくなかった。しかたがない。書かないと(メモなのである、あたしの)。きのうS村さんとじっくり話せた。肩をうってから痛みがあって、それでどうしてもほかのことがおろそかになってるようだ、と。だいぶ続くでしょうけど、と。そのとき、いつものR病院に、それからもっと専門的なK病院に連れて行ってくれた。その結果、骨折ではないということだった。そしてそのとき、R病院から出されている眠剤を減らしてもらうようにした。わたしもR病院のかかりつけの先生に電話してそのことを話した、どうも薬のみすぎで昼夜逆転しています、薬が残っているから午前中一杯、午後もときどき寝ていて、夜寝られなくなり、夜中に眠剤のんでまた昼間寝ての悪循環、その上いつも眠剤が残っているようでふらふらします、と。眠剤が夜まで残っているのは、呂律がときどき回らないので推測できる。そしてその結果、かかりつけ医は眠剤を出さないでくれた。ところがそれについて父が文句を言う、言う、とうぜんだが。「3時まで眠れなかった、S村さんやあんたが先生にいったせいで眠剤くれなかった」と何回も何回もくり返した。この頃の父は、まるで入院する直前の母みたいに、何回何回も同じことをくり返すのである。まあしかし、眠剤がいきなりなくなったのだからそれはつらいと思う。数日間そうだった。そうして少しずつ慣れてきたのかなと思う。しかしおととい、電話したらすごく動揺した声で、「きょうはリハビリの日だったのに忘れちゃってた」と。「おれ、そういうこともわかんなくなってる。おれはこの頃スカパーみるのもできない、前は洋画チャンネルすぐまわせたけど、今はどうやってやるのかわからない」と、切々と混乱した声でうったえるのである。そのときにはすでに7日出発の便を抑えてあった、でももっと早く帰らないとだめだと思った。「早く帰ってきてくれよ」と父はいう。しかしぱっと行ってぱっと帰れる距離じゃないのである。その上、諸般の事情で予定がくるい、あたしは日本に4月末までいなきゃならぬ。ますます、ぱっと行ってぱっと帰るわけにはいかなくなってるのである。こっちの家にも家族がいて、こんな、てきとうな母だけれども、必要とされていると思う。それを考えると、ほんとに、ほんとに、行きたくない。でも行かねばなるまい。この頃は父に電話するのもほんとにつらかった。受話器をとると、父が大声で「はい?」というのである。その声にひとかけらの「話したい」という気持ちも感じられないのである。で、いつものとおり、どうしてる?というと、そっけなく「テレビみてるよ」という。そうして、なんとか話をつなかげていると、眠れないの、転んだの、テレビがこわれたの、孤独死だのという話題にたどりつくのである。しかしその話す声が、声そのものが、こわれているような気がする、こわれていて、何も把握できなくなっていて、ばらばらになってるような気がする。父は父ではなくなっちゃったような気がする。あたしを、害する気持ちなんかちっともなかったはずだが、今はもう、これをいえば比呂美を悲しませる、苦しませることになるのだ、なんてところも考えられなくなってるのだと思う。で、それはしかたがないことだと思う。などということを書いてると、でもこうなることは前からわかっていたんでしょ、と友人に言われた。そうなんだけど、これほどつらいとは思わなかった。ベルリン行きはキャンセルした、そのあと、日本に行こうと思えば行けたのだ、しかし、さすがに、あたしのなにかが「やめとけ」と。あたしはふつうの人よりずっと体力があって、どんなに動いても動けちゃうのかもしれない。まあどんな人でも、こういう状態になれば、こんなふうに動いてしまうのかもしれない。しかしそれでも、あたしのなにかが、もうタクサンと叫んでいるのが聞こえた。これ以上動いたら、たぶんぷっつり切れて、体力か精神力かが、そうしてもっとひどい状況におちいるから、いま、ここで「やめとけ」と。そう思えば、この家にいた、家にいて、S子やトメや、イヌたちやつれあいの変化を見ていた2か月は、必要だったのだと思う。

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