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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

よく寝たけど

2013年12月30日(月)

きのうはSが来て、『リフカ』(理論社)の翻訳をいっしょにやった。できかけている原稿の推敲というか声合わせというか。二人で声に出しながら、13歳ロシア系ユダヤ人の少女の声を探りあてていく。けっこう疲れる作業だが、二人でやるとはかどる、はかどる。こうやって二人でやるのは初めてなんである。成長したものだ(あっちが)。午後またウエットサウナに行ってぐったりしたが、そのあと、トメを連れて大晦日用の買い物だのなんだのと動きまわり、シャンパン数本にハムやフムスやチーズを買い込み、うちに帰ってごはん食べたあと(できあいのスープにパンという簡便食)、もう起きていられなくなり、ベッドに入って本読むつもりがこてんと寝入ってしまった。それが7時半くらいだった。しかしそのせいで、それから咳で、起きたのが3時前、今、ここにこうしております。7時間は寝たのでヨシとするか。つれあいが風邪がうつったといって、憎々しげにこっちを見ておる。知ったことか、一蓮托生ぢゃ(といってるけど、その覚悟ができてないし、覚悟する気もないのは、あたしの方だ)。

よく寝た

2013年12月30日(月)

きのうはウエットサウナに脱力させられ(他にももろもろ理由はあると思う)午後3時間眠ったが、寝足りずに、8時すぎに本格的に寝てしまい、すぐ眠れ、そのまま、ときどきトメやなにかにじゃまされて目を覚ましたが、またすぐ眠れ、けっきょく6時半まで眠りとおしたのであった。10時間!昼間は犬どもを連れて日光浴びに外に出ているし、ズンバは再開したし、これで元通りだ。ただ風邪が極まって声がでなくなって咳が出てきたのにはまいった。これからが長くなる。つれあいからたびたび文句が出る過程なのだが、この頃のあたしはこれを抗ヒスタミン剤で折伏することをしっておる。これはアレルギー反応だ。つれあいの文句の主旨は、医者にいけとか、気管支炎じゃないかとかなのだが、すなおに言えばいいものを、おまえは自分の体調の管理ができておらんなどという責めとともに言ってくるから文句に聞こえる。風邪の治りかけでいちいち医者にいってられるかっての。昔は、つれあいの文句に負かされて医者にいって、なんといったか、人のいやがる強い薬、毒にも薬にもなるような薬、てとろどきしんみたいな名前の、ど忘れした、そういうのを処方されて飲んだり喉に噴霧したりしたが、効かなかった。何より抗ヒスタミンが効く。 

ウエットサウナと漫画と摂食障害

2013年12月29日(日)

今朝は早くからズンバにいき、次のクラスも取りかけたが、半分くらいやったところで(ウエイトを使って筋トレするクラスだった)自分の限度に達したのでやめて、ウエットサウナとジャクージに30分以上浸かっていたのである。あーーー心底からリラックスしてさっぱりした。天国だった、いやクリシェだな、浄土とかいうのもこんなかんじかもしれない。で、そこでまんじゅうみたいに蒸かしあげられながら、いろんなことを考えたのだが、きのう読んだ漫画の中に摂食障害の女の漫画があり、母と娘の葛藤がうまく描けていた。ちょっとだけ、あ、わかりやすすぎるんじゃないか、つまり、わかったことをわかるようにという漫画の括りに括られてしまっていると考えたのだが、こうしてウエットサウナの中でつらつら考えてみると、摂食障害という病気が、他のもろもろの病気とはちがって、いたってわかりやすい病気なのかもしれないな、と。だからあの漫画はあれでいいのだろうと。なんという漫画で、漫画家なのか、ここに書きたいのだが、チェックするためにまたあそこ(ネット書店のコミックコーナー)に戻ると際限なく読んでしまいそうなので、手をぷるぷるふるわしながら(今更ながら言いますが、あたしは漫画依存症だ)やめておく。たぶん月刊スピリッツだ。間違っていたらごめんなさい。

この頃の漫画

2013年12月28日(土)

カノコたちが帰って、今年の祝祭週間もほぼ鎮圧したかんじ、あとは大晦日のパーティー当番(例年だ)なので、ちょっと食べ物と飲み物用意するだけ。
きのうおとといと漫画をよみまくっているのは、ネット書店で、小学館系の漫画のただ読みができるからだ。それで「ウシジマくん」を3巻、「医龍」を3巻、「岳」を3巻、読んでしまった。あと、月刊スピリッツ(ここに「シュトヘル」がのっている)を数冊と、信長のお小姓にタイムスリップする女子高生の話、20歳まで生きられない男の子と幼なじみの女の子の恋愛話、いきなり子どもを預けられたキャリアウーマンの話、何か他にもいっぱい。月刊スピリッツ(と思うが雑誌名に確証がない)はこないだからときどき読んでいて、お、これは! と思うような新しい表現の漫画に再々出会う。数か月前に読んだ、偽札を作るお姫さまともうひとりの偽札作りの話はとてもよかったので、漫画友達に知らせたほどだ。岡田史子の再来!と思えるような漫画にも出会ったが、今、そっくりそのまま再来することに意味があるかどうかはわからない。ただ、だいたいの漫画は、やはり、わかっていることをわかっている範囲で語るという括りに括られてしまっている。しかしその括りを外せば、たぶん漫画というジャンル枠からは逸脱し、安心して読めなくなるというもともとの性格があるので、なやましいところだ。「ウシジマくん」はおもしろい。前からちょくちょく買っている。でも最初のほうは2巻しか持ってなかったのである。ウシジマくん(ないしは高田やマサル)が成長するかどうか。「ナニワ金融道」のおもしろさは各挿話、各キャラにもあったが、灰原が成長するbildungsroman的なところにもあったものだ。その要素がないと金太郎飴になる。いや、水戸黄門的なものを目指しているのかもしれないからこれでいいのかも。「医龍」も「岳」も読み応えあった。「岳」はヒューマンドラマ漫画か(よくある、そして鼻につく、わかっていることをわかっている範囲で感動的にという)と思っていたら、わからないことも豪気に投げ出してあって小気味良かった。「医龍」は、こないだ「ブラックジャックによろしく」がやっぱりただだったのでぜんぶ読み、ついでに新のほうも(これはたしか買ったような気がする)最後まで読みとおしたばかりで、なんだか大学病院づいているのであった。これまで読んできたほかの医療漫画では医者は男で女は看護師だ。なんだかおかしいと思っていたら「医龍」にはちゃんと女がまともな医者役で出てきた。ハイヒールはいてスーツ着ておっぱいでかくて美人というところに限界あり。なんてことを書いてないで仕事仕事。年明けに「お年玉」で、と催促しながらOさんが説経節を待っている。でも漫画読んでてぜんぜんはかどっていない。これは平凡社のウエブ平凡にて好評連載中。http://webheibon.jp/sekkyoubushi/

料理納め

2013年12月27日(金)

Dと息子たち、Eと夫と娘と息子が来た。それにカノコの家族、SとそのBF。われわれ。で、五目ずしを作ったけれども、カノコとSとトメ以外、わからない味だ。この間からこのていねいに作る五目寿司を作るのが楽しい。蓮根と牛蒡と筍と蒟蒻と人参と高野豆腐と絹さやといっぱいの錦糸玉子。ほんとは鰻を混ぜたいが、P(ベジタリアン)のためにしないでおいた。
赤ん坊もちゃんと子どもらの群れに立ち混じり、とくにいちばん小さい5歳児にしきりにからんでいくのを、いつも騒がしいだけのやんちゃ坊主と思っていた5歳児が、実に辛抱強く相手してくれているのに感心した。今晩カノコ一家は帰るけれども、カノコは昨日日本食屋で、その前に食べていくといってさんまを選んでいた。おでんも作る。大根と卵はもうゆでてある。それで今年は料理納め、残り物を食いつくすまで料理はしない。

家族の日

2013年12月26日(木)

羊とキャベツと狼というとんち話というか、クイズがあるが、ほんとにあんな感じで、悩みながら、ベジタリアン用ラザーニャを完成した。Pがそもそもベジタリアンで肉も魚も食べず、Dはきのことなすとアスパラが嫌い、トメはピーマンが嫌い、あたしはチーズが嫌い。だから主原料はトマトソースとズッキーニとホワイトソースだ。上にモツァレラをのせて、別にパルメザンを好きな人(あたし以外はみんな好きだ)ように添えた。いろんな人がクリスマスの挨拶にぞくぞくとケーキやクッキーやミンスパイを焼いて持ってきてくれるのだった。うちでもトメがしゃかりきになってキャロットケーキだフランだとお菓子作りに励んでいるので、家じゅう甘いものだらけ。赤ん坊をかこんで、日本語組が日本語の子どもの歌をうたえば、英語組が負けじと英語の子どもを歌を歌い、赤ん坊はそのどっちにも反応して、おどってみんなを笑わしている。Sと並んで立っていて、Sの背が伸びているのに気づいた。170はあるなと思っていたが、170の男はこんなもんじゃない(前につきあったことがある)。178の男(Sの父親はそのくらい)に近いかもしれないがそれよりはやや小型なので、175とかかもしれない。魚住や河田の家みたいだなあ。もっと差があるように感じるのはこっちが縮んだ(むかし、よく母がいっていたように)せいかもしれない。カノコにはそこまでの威圧感というか背高感は感じないから、せいぜい170くらいのようだ。三人娘の中で一人だけ小さいトメには少しだけ抜かれた。ほんの1センチ。抜き返せないだろうが、たいした差ではない。
しかしこの風邪と不眠はどうにかなんないか。また2時に起きた。それきり眠れない。今日、Mのズンバがあるのにこれではとうてい行かれない。来年までだめかもしれない。

クリスマスデイ

2013年12月26日(木)

カノコたちが明け方の4時ごろ着くはずで、気になって2時半ごろ起きてきた。そして自分の部屋で漫画に読みふけっていた。で、なかなかつかないので、クリスマスの日は混んでるのかなーと思いながら、のどが渇いたので水をと思って台所にいくと、カノコたちの部屋のあかりが消えておる。のぞくともうみんないて、みんな寝ていた。とっくに着いて気がつかないうちに、みんな寝てると思ってそっと入ってきたらしい。しかたがないから、ニコといっしょに、カノコたちの犬を少しかまって、またもとの部屋に入れてあたしは寝た。もう6時近かった。朝になって、赤ん坊のなき声がして、あたしの横に寝ていたニコが勢いよくあたしを踏みあらして駆け下りていった。あたしも行きかけたが、まだ1時間しか寝ていなかったのでやめてベッドにもどり、赤ん坊も静かになった。1時間くらい寝てまた起きて、自分の部屋にいったら、カノコも起きだしてきた。道はがらがらで、クルーズコントロールというのを設定するほどで、いつもよりずっと早く着いたそうだ。赤ん坊は歩くようになっている。手を泳がせながら、すたすたと歩く。clockの下半分とballの上半分が言える。自分の名前の下半分も言える。いつもベビーシッターをしているトメによくなついている。それでSが悔しがっている。きのうよく寝たのに、またまた寝不足で、洟がすごくて鼻の周りがまっかに荒れている。

すっきり

2013年12月25日(水)

こっちはクリスマスイブだ。今日は昼前から夕方の5時まで眠っていたのである。ズンバもあったのに行かれなかった。よく寝てすっかりすっきりした。もっと寝る。寝てる間にSが来て、トメと手分けして、買い物をすませ、各方面にプレゼントを用意し、つつみ、犬どもを洗い、乾かしてくれた。まだかったるくて動きたくないので、冷凍飲茶を蒸して食べた。クリスマスにチキンを食べるという、日本にいたときはまあそんなものだと思っていた風習が、こうやって外に慣れてあらためて見ると、すごくおかしな風習に思える。明日はカノコたちが来るので大皿のラザーニャをつくる。明後日は五目寿司をつくる。

眠れない+風邪

2013年12月24日(火)

眠れるという薬を飲んで寝た。寝付きはいいのに眠りつづけられなくて、起きて本を読んでるうちにぱっきりと目が覚めてしまった。今はまっているのは「仏遺教経」だ。鳩摩羅什訳というところにぐっと惹かれた。あとベッドのわきにいつもあって、ベッドに入ってなんだか何も読みたくないときに、いつも読むのがトルストイの中村白葉の「人はなんで生きるか」だ。なんべん読んだかわからない。ちなみに旅行用かばん(肩から下げられるやつでコンピュータも入ればパスポートも入る)の中には柏木如亭の「訳注聯珠詩格」が入っていて、くりかえしくりかえし眺めている。とっくに読んじゃったような気がするが、いつまでも読みやめられない。2つ3つのしごとが重なって同時代の現代日本文学をいろいろと読まなくてはいけない責めを負わされている。なかなか取りかかれない上に、たまに勇気をふりしぼって読むと、生な感じがとても辛い。
ああ、そして今思い出した。へんな夢を見たのだった。詩人たちがいっぱいでてきた。北村太郎さんとか阿部岩男さんとかもっとたくさん。会ったことのない、写真だけで知ってるような詩人たちも。どこかで詩人の集会があってた(熊本弁)。でもそこのトイレが汚かった。そういう夢だ。ほんとはもっといろいろ覚えているが、書くほどのことはない。

風邪ひき

2013年12月24日(火)

頭がぴしぴしと痛いしなんとなくエナジーも低くて動きたくないし(これはめったにない)疲れと睡眠不足で死ぬかなと思っていたら、風邪だった。それで午後、A子さんとPeetsでしゃべってそのあといっしょにズンバにいくつもりだったけど、Peetsだけいって、ズンバはパスだ。よっぽどなんだね、とA子さんにいわれたが、ほんとによっぽどなんだ。帰ってきて、トメに頼んで、あさって用の食料品の買い物(つまりクリスマスの日にカノコたちが来る)を任せた。きょうは町じゅう、どうしちゃったのかというくらい、車が多くてどこにも駐車できない。買い物に入れば長蛇の列だ。そういうわれわれもプレゼントを買いに、アウトドア用品屋にいき、酒屋にもいった。クリスマスショッピング、例年はもう少しじたばたするのだが、今年はあたしが20日に帰ったということもあり、マジでなんにもしてない。酒屋でワインやビールを買いながら、つれあいのプレゼント用に恒例のスコッチを買おうとしたら、まだ2本もある(ベルリンに行く前に買っておいた)というから、それじゃプレゼントが何もないというと、じつはおれもおまえのものをまったく用意してないというので、今年はまあ、このように押し詰まっていることだし、あんたとあたしのことはあとでじっくり考えようじゃないかと提案したら、ほっとしたように、つれあいも同意したのであった。
台所でごはん作りながら(きのうの残り物とおとといの残り物)ぐたーっとしていたら、つれあいが、伝染らないといいけど、と言う。別の部屋に寝たほうがいいか、ときくと、いやそんなことはする必要はない、と言いつつ、一瞬マジで考えたようで、いや、もし伝染っているならもうとっくに伝染っているだろう、と言う。それでむかついて、つい口が出て、家族なんだから伝染ってあたりまえだ、そんなことは言うな、と吐き捨てるように言い捨ててやった。あたしの性格上やりたいことをやって食べたいものを食べ言いたいことを言って生きてると人には思われているけれども、実は、こういうときにこんなことをこんなふうに言うのははじめてだ。

カリフォルニアの生活

2013年12月24日(火)

カリフォルニアに帰ってきてもなんだか旅の空のよう。金曜日の夜に帰って土曜日のMのズンバはもう行った。Cのには行かなくて、日曜日は何もする気が(ズンバとかジムとか買い物とかということ)起こらず、半日パジャマのままでいた。家にはトメがいて、小汚く散らかっている。眠れているかというとそうでもない。あいかわらず寝つきはいいが、あいかわらずきちんと眠りとおすことができないで、へんな時間に起きている。ここは、ベルリンのあの下宿よりは隙間風はあり、室温も低いが、つれあいががんがん暖房つけているので、不快である。いっそ暖房の無い、洞窟のようなところに住みたいのかもしれない。あるいは暖房の無い、昔の日本の木造家屋みたいなところの方が性に合ってるのかもしれない。それで火鉢とか石油ストーブとか抱えて生きていきたいのかも。つれあいは、ベルリンに行く前は、おれは一人になるだのなんだの、生前の父みたいに、文句、不満をたれまくっていた。向こうにいる間も毎日Skypeをかけてきて、なつかしそうにしゃべり、切るときは口でちゅっとする愛嬌すらあったというのに、帰ってきてからというもの、まったく以前のまま、無視というか、空気というか。自分は年寄りだが、あたしはまだそこまで年じゃないし、空気になるにはまだ二十年早いっての(そもそも、基本的に西洋文明では夫婦は空気になっちゃいけないのだ)。などとこぼすとSが、じゃおかあさん何かしたいの、と聞くが、言われてみると、なんにもしたくなく、あたしはあたしでいたい、つまりほっとかれて仕事していればいいこの生活はいやじゃないのである。
さっきからルイが犬てんかんを起こしかけていて、しきりにもぞもぞしている。がくがく震えて、うろうろして、もぞもぞして、行動が落ち着かないし、何をしたいのかわからない。しかしそれでも発作はだいぶ減った。父と暮らしていたときは週に何遍も起こしていたのだ。

デンバー

2013年12月21日(土)

いま、デンバー。あっけなくベルリン生活は終わった。空港までIさんSさんが送ってきてくれた。R子さんとは最寄りのPodbielskialleeの駅で別れた。同じくらいの出発なのに、R子さんはShonefeld、あたしはTegelなのであった。ゆうべ、つれあいがSkypeかけてきたので、ちょっと友だちを紹介するからといって、R子さんに出てもらった。ビデオで顔がうつるのであった。R子さんと話して、つれあいの心の奥底にすこーーしだけある疑惑がはれたようだ、ひろみはほんとはベルリンでなくよそに行ってるとか、ほんとはベルリンで男と遊びまくっているとか。もっと住んでいたかった。ベルリンおもしろかった。どこへでも一人でちょろちょろ行けるのが楽しかった。友人知人がけっこうたくさんいるし、できたのであった。きのうはワークショップにY子さんもきてくれた。ゆっくり会ってと思ったら、Y子さん仕事でずっとマレーシアにいて会えなかったのである。いろんなことし残した。違う季節にもきてみたい。あたしが来るのはたいてい冬だ。何十年も前には緑のときにきたけど、忘れてしまった。こんど来たら車借りてポーランドにいってみたい。

帰る

2013年12月20日(金)

これから帰る。

観光二日目

2013年12月19日(木)

きのうはR子さんと、バスで動物園前駅に行こうとしたら、8分も待つので、近くにあったパン屋に入ったところ、快活で話好きなオランダ人のおばさんに(といっても同世代か若いか)話しかけられ、芥子の実入りシナモンロールみたいなのを買って、バスに乗り、動物園前までいろんな道を見ながら行ったら、Kaiser Wilhelmメモリアル教会がやたらに近く、それでつい見学し、そこからSバーンでHackescher Markt 駅にいき、ペルガモン博物館で大きな青い門に驚嘆し、ベルリン大聖堂のてっぺんまでのぼってベルリン市内の「普請中」を睥睨し、Hackescher Markt 駅にもどって、Hackescher Höfe という中庭のあるモールみたいな建物にいって歩き回ってみたが、そこのレストランはあまりにツーリスト向けっぽくて、前にBに教えてもらった近所のイタリアンにいっておいしく食べ、舞姫のモンビジュウ街をちら見して、路面電車にのってKWという現代美術センターにむかったが、方角間違えて、乗り直し、KWでChristoph Schlingensief 展を見て、SバーンでPotsdamer Platzにいって、Sonny Center を見学し、Glühweinという熱くて香料入りのワインを飲み、ベルリンフィルを遠くに見て、それからCharlottenbergのChristmas Marketにゆかむとおもひしが、ふたりとも疲れ果てて動きたくなくなっており、てきとうにそこのChristmas Marketの屋台で、芋の揚げたのやマジパンやちょっとしたおみやげやちょこちょこ買って、下宿近くの駅に戻り、スーパーでソーセージその他を買って家に帰って食べて、8時ごろ爆睡であった。R子さんは人並みの時間に寝たらしい。で、しめきりが気になり、2時すぎにおき、しばらくもがき、また2時間ばかり眠って今にいたる。さっきR子さんはオスロに持って帰るハムやらソーセージやらを買い出しにちょっと遠くの大きなスーパーに行き、クリームのケーキをおみやげに買ってきてくれた。きょうはもうズンバもいかずに仕事と準備をしておる。今晩、ベルリンでの最後のお仕事。

普請中

2013年12月19日(木)

とにかく「普請中」だ、どこもかしこも。えんえんと「普請中」なのである。

観光

2013年12月18日(水)

きのうは一日R子さんと観光だった。近所のスーパーをみて(R子さんはおばさんである)ベルリンに留学中のR子さんの学生に会い、博物館島にいき、Neues博物館をみて、外に出て、日没の光の中をドームから「普請中」のウンターデンリンデンをブランデンブルグ門まで歩き通した。それからStadtmitteのあたりにとって返して休憩して、FUの待ち合わせにいった。Iさんたちとあって弁士つきの日本映画みてごはん食べてかえった。疲れはてておる。

友人がきた

2013年12月17日(火)

オスロのR子さんが遊びにくるので、ベルリンウエルカムカード(3日間乗り放題)博物館島チケットつきというのを買って、Shonefeldの空港にいった。地下鉄とバスをのりついでいったが、通り過ぎる人々が三々五々たばこを吸っている。このごろ見なくなった光景だった。すごく東側的だった。そこは小さい、しょぼい空港で、壁崩壊の直後、ベルリンからワルシャワにいったとき、遠くの小さい、しょぼい空港から出たが、ここかもしれない。ワルシャワでは見慣れたオケンチェでないところについて、あわてたら、国内用の空港だった。しょぼくて小さかった。空港のすみにベトナム人がおおぜいいてパスポートチェックのとき、おまえもベトナム人かと聞かれた。ポーランドはすっかり様変わりしていた。ワルシャワから、ルブリンの友人のところに行った、そこで夜を徹して演劇のワークショップに出た。あれはすごく刺激的で詩に書いた。「のろとさにわ」の中の一つだ。当時はメールなんかなかった。どう動きまわり、人に連絡とったのだろう、覚えてない。そのルブリンの友人とはfbでときどき「はい」くらいやりとりする。おっとつい昔話を。この東独的なふんいきを見て、においをかいだせいだ。
今は昔。とにかく空港のArrivalで、すっかり地元民の気持ちでR子さんを待ったが、なかなか出てこない。しばらく待って気がついたら、その便だけ、別のターミナルだった。それであわててそっちに行くとR子さんが待っていた。午後、ズンバ、R子さんも初ズンバ、たのしそうにやっていた。インストラクターはいちばん簡単にフォローできて、しかも明るく楽しいG(男)。オスロでもやろうかなあといっていた。こうしてあたしはズンバ菌をあたりにまきちらしているのである。StadtmitteでBと待ち合わせ、いっしょにクリスマスマーケットにまたいって、Bとあたしはシュニッツェル、R子さんはオーストリア風きのこのグラシ、それからビール、これがBに会う最後だ。何回も会った。ゆうべも4時間しか寝てないのでぼろぼろに疲れて、帰ったらR子さんがデパスというのをくれた。熟睡して、6時間眠れたというわけだ。

けつに火が

2013年12月16日(月)

ついたまま、かちかち山状態で、『先生どうやって死んだらいいですか?』(文藝春秋、来年のはじめ発売、山折先生と)のゲラ見しておる。きのうは90歳の老指揮者がモーツァルトとブルックナーを振るのを見届けた。それからベルリン市内をIさんとSさんにつれられて、Mさんと。

ルター派教会

2013年12月15日(日)

今朝はIさんにくっついて近所の教会にいった。Iさんの通っているルター派の教会で、ベルリンでも1、2を争うほど古いそうだ。土台のあたりは1200年代にできたそうだ。つまりその頃はルターでもプロテスタントでもカトリックというか「普遍的な」「ふつうの」キリスト教の教会だったわけだ。今日は特別な日でIさんが堅信礼というのか、バーミツヴァみたいなもの、を受けてから50周年だから特別な儀式をやった。Iさんのほかにも50周年が二人、70周年が二人いた。Iさんにつれられて入っていくと、もう何人かがいて教会の牧師さん(というのか?)たちが、黒板みたいなところに数字を置き換えていた。運転手役で連れてきてくれた夫のSさん(日本人)が「異教徒だってわかっちゃったら、これからキリスト教徒になるつもりなんですっていうんだよ」とか「みんながおいのり始めたらちゃんと親指かくして」とかさんざんからかって自分は帰った(Sさんは教会に行かないんだそうだ、それはそれでよくわかる)。教会の内部は別に火の気が無かったが寒くはなかった。壁に浮き出しているはげかけた絵がいかにも古そうだった。椅子の状態は、四角くて閉じていて、なんとなくベルリンの地下鉄の内部みたいな感じ。鐘が鳴り始め、フェイドアウトしたら、オルガニストがパイプオルガンを弾き始めた。そして堅信礼記念の人々が入場した。すべてドイツ語だったのでもちろんよくわからなかったが、まあそんなものだ。さすがにルター派で、よく歌った。ぜんぶで、黒板にかいてあるのだけでも8曲、あと短い、あたしは知らないがみんなが知ってるのを歌っていたから10曲は歌ったと思う(あとで式次第をみせてもらったら、もっとだ。カトリックの典礼にあるようなキリエとかそういうのをいくつも歌って、そのあいだに賛美歌が8曲はさまったのだ)。そのあいだに黒い長い服に胸に白いリボンみたいなのをつけた牧師さんがお説教をした。最後のほうで、牧師さんがウェハースを見せて何かいうと、人々が前に集まった。かぞえてみれば35人くらいはいたと思う。出ていかない人も、何人かいた。そして輪になって牧師さんがウェハースを配った。食べる人も食べない人もいた。それから大きな金属の台つきカップをまわした。飲む人もいれば(まるで茶の湯みたいに次の人にまわした)さっきもらったウエハースを浸して食べる人もいた(もともとは飲むのだが、このごろは衛生的に浸して食べる人も多い、アングロサクソンの影響かもとあとで見習いの牧師さんがいっていた)そして手をつないでお互いに顔をみあわせてねぎらいあった。そして牧師さんがマイクの前で何か唱えて十字を切っておしまいだ。最後にオルガンが「主よ、人の望みの喜びよ」を演奏した。こういうふうにしてバッハが何か弾いた教会もあったのだなと思うとちょースリリング。

コンピュータアート

2013年12月15日(日)

きのうの画廊はDAMというすごい名前で、いやスペルはちがうからいいのだが、そこでドイツのコンピュータアートの第一人者の「フリーダー・ナケとその友人」というのをやっている。そこにつれあいも出してるわけだが、みながらいろんなことを考えた。つまりコンピュータアートのほとんどは、とくにそこにあったうちでも古いのは、ミニマリズムというか、ひとつの点を中心にしてそこから広げていくというか、派生していくというか、そういう印象を持つ。点も線も等価値に広がる。で、つれあいのはその中心がない。思えば初期からそうであった。中心がなく、赤ん坊がはじめてぺんをにぎって、ぐりんと描いたようなイメージが拡散していた。そこからむかしの地球みたいに、草木がはえだし、人が出始めたが、草木にも人にも顔が無かった。いつか草木はジャングルになり、そのなかを人が徘徊した。それから人が具体的に描かれ出して、表情を持った。人格ももった。草木は鉢植えになって机の上におかれた。あの時期がいちばんつまらなかった。それから人が消えて、植物のしげる時期に入り、植物がしげりはじめ、それから植物が形をなくし、くずれていって、色だけになり、今はごくごく初期の70年代のころの、イメージが、原始的にひろがるだけのイメージにもどっている。

一日券を活用した

2013年12月15日(日)

「チャイコフスキー」つまんなかった。寝てしまった。音楽は生ぬるくてダンスはあまりにクラシック、引用もなんだかなという感じで、古典使って現代やってる意味ないじゃん、かえったろかと思ってるうちに、ボレロみたいな円卓の周囲で、男だけがわらわらと踊りはじめ、赤い服の男の子がでてきて、そこは振り付けもすごくかわいくて、いっぱい拍手してしまったぢゃないか。ドイッチェ歴史博物館は、まず受付のおばさんが、昔ポーランドでさんざんいやな目にあったような、冷たくて融通のきかない東側的官僚的おばさんで、気圧された。ルターの前後しか見るつもりはなかった。クラナッハの描いたルターの肖像画は親鸞そっくりで、妻は恵心尼かと思うほどで、すごくよかった。必死で英語の説明よんで集中して展示ものを見てるうちに30分くらいで疲労困憊してしまった。そういえば上野の親鸞展も、あんまり一所懸命見過ぎて、30分くらいで疲労困憊していっしょに行ったM子に何かいわれたっけと思い出した。「ルター後の生活」みたいな特別展開催中だった。でもそっちの解説はほとんどドイツ語で歯が立たなかった。感動したのはウンターデンリンデン、だだっ広い大通りで、激しく改修中だったけど、壮大さはちゃんとわかった。こないだ来たときもたしか改修中だった。終わらないと見える。そしてうろうろしてたら、こないだBに連れていってもらったフランス聖堂、ドイツ聖堂のある広場にたどりついて、案外せまい地域をうろついていたのだということがわかった。それからMitte(中央区)とはいうものの、旧東ベルリンど真ん中(なにしろ最寄り駅の名が「マルクス主義博物館前」だ)の画廊にいって、つれあいの絵をみた。性格の悪い爺いだが絵はいいのだ、すごく。そのへんの光景がなんとなくワルシャワの前住んでいた住宅地みたいに荒んでいて、なつかしかった。それからズンバにいったら、今までとったことのない先生で激しいのなんの。疲れはてた。それから学生Mに会いに行き、親鸞の話に花を咲かせ、おもしろい、頭のいい、なんにでも好奇心のある男の子で、こういう日本文化に熱心な若い人はほんとにうれしいのだ。京都に留学していたから京都弁つかうのがおもしろかった。そこからStaatsoperにいった。帰り、地下鉄のなかで本を読んでいたらまた乗り過ごした。きょうはじめて地下鉄の1日券を買った。3回のるんなら、1日券のほうが安くなるが、きょうは6回乗って、有効すぎるほど有効に使えた。アインシュタインカフェというスタバみたいなところで、アップルシュトルーデルを食べたが、そのうまさたるや、スタバやPeet's(カリフォルニアのスタバみたいなところ)の食べ物の比ではなかった。

暖房と不眠の関係

2013年12月14日(土)

ゆうべは5時間眠れた。2時間とか3時間よりはずっといい。それで締め切りがひとつ終わった。だからきょうズンバの前に博物館へ行ける。つれあいの絵がどこかの画廊に出ているので、それも見に行ってやらねばならない。そのあと仏教をやってる学生に会う。それからボリス・エイフマンの「チャイコフスキー」を見に行く。眠りは足りないが、現代のバレエだから寝てしまうことはないと思う。
眠れない理由(の一つ)がわかった。この空気だ。部屋が密閉されて、暖かい。これで寝にくくなっているようだ。カリフォルニアの家は隙間だらけですーすーしておる。けっこう寒いときもあり、暖房はつけるが、夜はかならず暖房を消して、すーすーさせないとあたしは眠れない。熊本の家はもちろん冬は低温。あたしの部屋には電気のラジエーターがあって(あたしは)快適だが、来た人は寒いという。石油ストーブで、部分的に暖めてある。でも全体は低温、昭和のむかしの板橋の家ほどじゃないけど。ホテルなんかもこの密閉した暖かさがあるけど、眠れないということは時差ぼけのとき以外はない。違いがわからない。
ゆうべつれあいとスカイプでしゃべっていて、つい口論に。まったく。彼の世間に対する態度が、あたしは気に入らない。自分をいつの時代の何様と思っておる、とあたしは思っている。……読んでる方、これ、自分のためのメモなんで気にしないでください。

植物園とマツバラン(仮)とヤドリギ

2013年12月14日(土)

まだ日がやや射している1時に目が覚めた(3時間ばかり眠れた)ので、かばっと起き上がり、植物園に行った。こんどは時間に余裕があったが、ひとりなので道がわからず、見損なった温室もあった。ともかくベゴニアとシダと南米と蘭と竹と奇想天外と食虫植物は見られたからヨシとしよう。名札をいちいち読みながらゆっくり見た。三度目の奇想天外、ウェルウィッチア、よくよく数えると7つもあった。Pleaというのが気になって(一度も育てたことがないのであった)調べてみたらイラクサ科ミズ属という。不思議な名前だ。うちのもこんなになったらいいなあというようなビカクシダがあった。うちのほうのがすごいといえるゴクラクチョウカがあり、サボテンやアガベがあった。ランのところで、ヤドリギに似たふしぎなものがあった。着生植物で茎がヤドリギみたいで、ヤドリギみたいな丸い黄色い粒もついていた。隣には同じく着生植物でミルクブッシュにそっくりなものがあった。つまりそれらは木の上にくっついていたのだ。ミルクブッシュはトウダイグサ科で、木の上にくっつかない。ヤドリギか?? と思ったが確証が無い。帰ってきて「米村花き」のサイトで(ここはものすごく愛用している)しらべたが、わからない。で、あちこち探し回ってるうちに「マツバラン」じゃないかという気がしてきた。あの古典園芸植物のマツバランである。ラテン名、へーこんな名前なんだと思いつつ読んだのに、忘れてしまった。ううう、もういちど行かなければいけないかも。 
ヤドリギはほんとにおもしろい。ポーランドではクリスマスにこれを戸の上にかけてその下をくぐる風習がある。だからクリスマスのときはあちこちで売っていた。ここでもあちこちで売ってるのを見る。地下鉄の通路のさみしげな花屋にもおいてあった。植物園付属の賑やかな園芸店+雑貨屋にもおいてあった。同じ風習があるのか、ポーランド人がもちこんだ風習か(こないだIさんがたとえばにんにくを食べるのは東欧から持ち込まれた食習慣ですといっていた。昔はドイツではにんにくは食べなかったそうだ。発酵乳文化もそうかもといっていた)。ヤドリギはこないだボンにいったときの車窓からの風景でもいちばん目についたものだ。林があれば、かならずなかの数本は、ヤドリギで重たげなほど、全体がまっくろになってるほど、ヤドリギにたかられていた。たかられてない木もあった。鳥の巣よりはもっとまんまるい。そして枝の上だろうが中だろうが節操なくついている。木はあれで死ぬのか、共存か。日本では見たことがなかった。賢治の「水仙月の四月」で読んだきりだ。熊本の照葉樹なんかは、たかられていてもわかんないだろう。

不眠とすし飯の夢

2013年12月13日(金)

ゆうべは2時ごろ眠くなったのでいい案配だと思って眠ったが4時半に目を覚ました。もうカリフォルニアに帰るまでこのままかも。夢を見た。カリフォルニアで客をおおぜい迎えている。きゅうりの塩もみ、みょうがのかわりにしょうがを細い千切りにして水にはなしたの、を用意してすし飯に混ぜようとしている。そこになにか魚のほぐしたのを入れるつもりだ。別鍋に干鱈とトマトやズッキーニを煮込んだものができており、最初はそれをすし飯に混ぜようとしたが、やめたのである(今から考えると汁っぽいシチュー状なので、混ぜられるわけはない)。料理の過程を、客たちに酒を出したり、おつまみ出したりしながら、マイクで説明していた。外で子どもたちが遊んでいる。いろんな年代の子どもだが、みんなトメの友人たちだ。トメと旅行にいったらSがいた。Nもいた。石垣のつづく町を歩いたり走ったり何かを投げたりした。これは別の夢かもしれない。別なのにつながってるのかもしれない。きゅうりとしょうがと白身魚の入ったすし飯、うまそうだが、夢のなかではご飯がぐちゃぐちゃにできてしまうというのをすごく気にしていた。
目が覚めて仕事をするふりをしていたが、ぜんぜんはかどってない。カリフォルニアでもいつもはかどってないが、カリフォルニアではかどらないのとベルリンではかどらないのとでは、ベルリンではかどらない方が不毛のような気がする。いつまたどれくらい眠れるか気になって仕方が無い。

目覚ましの買い物と植物園

2013年12月13日(金)

今日は朝10時にズンバで Gleisdreieck(3つの線路という意味)という駅にいき、そこから帰りにいつも乗り換えるWittenbergPlatzで乗り換えずにZoologischer Garten(動物園前、ここは交通の要所のひとつらしく、うちの近くを通る110バスもここに行く。そこでSやUに乗り換えろとgoogle mapに指示される。でもまだ使ったことはない)で乗り換えて初めてのU9に乗り、Rathaus Steglitz(Steglitz の町役場という意味)に行き、なんのためにそんなとこに行ったかというと、そこに前に目覚ましを買った電器屋がある。電器屋なんてどこにでもあると思うが、どこにあるかわからない。それでいっそそこに行った方が早いと思った。で、買って、隣に本屋があったのでノートも買って(どこかに行く前はgoogle mapで周到にしらべて、それをノートに書きつけて、見ながら歩き回っている、乗り換えの駅名はともかく、乗ろうとする電車やバスの最終行き先を書いておかないとまごつく)帰りはS1で郊外に3つ乗ったところにLichterfelde Westという駅があり、そこで降りてまっすぐ北に歩けば、そこが自由大学だと地図をみていて見当をつけたのだ。しかし歩けど歩けどなかなかたどりつかず、不安になってきた頃、書き留めた通りの名がでてきて、約束の時間ぴったりにIさんのオフィスにたどりついた。Iさんのオフィスで本を借り、メンザという学食にいき、えらんだのが芋のパンケーキと思ったがベジタリアン用の豆パティみたいなもの、ごはん、キノコ入りシチュー、おいしかった。それからIさんと植物園まで歩いて、Sさんが合流して、植物園のなかを歩いてまわった。ここにはほんとに行きたかったのだ。毎日でも行きたいと思って、植物園に近い家を探してもらったのだ。でも時差ぼけやなにやらでまだ行けてなかった。去年つれていってもらったときはほんとに感動した。それは「図書」に書いた。『木霊草霊』という題で4月ごろに出る。あのガラス張りの鉄骨づくりの温室のなんと美しいこと。きょう見た植物たちのなんと懐かしいこと。外の日本の区画には、ムラサキシキブの紫の実がすずなり。イチョウの木の下にはびっしりとつぶれた黄色いぎんなん。下宿に帰ったら5時近く、そのまま倒れ込んで眠って、四時間で目をさまして今にいたる。
いろんな地名を好き勝手に読んで覚えている。
Rathaus をRat house (ねずみの家)
Lichterfelde をLichen(地衣類)
Spichernをspinach(ほうれんそう)
Rudesheimerをrudeなshlemiel(無礼なまぬけ者)
Nollendorfplatzをナポリタンなどと。

Literarisches Colloquium のイベント

2013年12月12日(木)

それで昨日、Literarisches Colloquium というとこであったイベントだ。ぜんぶ英語で、外国に住むこと、出たり入ったりすること、翻訳についてだった。最初に水村さんが「私小説」を日本語で読み(これがとってもおもしろかった)英語でも読んだ(これもおもしろかった、意味がないところがよかったのだ)。それからあたしが新訳般若心経をやった。それで必死になってゆうべ、というか前夜、Power Pointというやつを作った。やったことないが、こないだ入れたWordに入っていたのを思い出し(このベルリン滞在のために大きなスクリーンのMacBookProを買って重たいのを提げてきたのである。いつも持ち歩いているAirは極小で、しごとができる画面じゃないのだ)トメのfbに連絡せよと書き込んだが、まあトメだから、連絡はなく、なぜかSから連絡が入ったので教えてもらいながら作ったのである。さいしょに普通の英訳と玄奘の漢訳を並べ、それからサンスクリット訳を見せ、Mさんの独訳を見せた。Jの英訳も見せたかったが、持ってき忘れて間に合わなかった。だからあたしは日本語朗読に集中できた。ボン大学のときは、Mさんの独訳をMさんと交互に読んだ。こないだのミシガンツアーでもJの英訳をJと交互に読んだ。交互に読むのもわるくないけど、やっぱ気がたちあがりにくいような気がする。トークは楽しかった。Iさんの采配にあたしはもうすっかり慣れていて、その確実で、誠実な進め方に安心して自分を出せたし水村さんの話を聞けたし反応もできたからだ。人の英語が100%わかったわけじゃないというところがミソだ。少々とんちんかんな受け答えしたような気がするが、堂々とやればただの天然に見える。

眠れない

2013年12月12日(木)

眠れない眠れない。ひどく血まみれの血だらけの残酷な夢を見て起きたらたった2時間だ。きょうはあちこち出歩くつもりなのでこれでは困る、と思う気持ちがまた眠れなくする。昨日、文学館でMさんとIさんの司会で朗読ととトークだった。そのときテーブルの上にこないだ買った目覚まし時計をおいてやっていたが、そこに忘れてきたようだ。しかたがないからアメリカの携帯(時間が一時間遅れて表示される、どういうわけか)とここの家にあった目覚まし(音が鳴らない)をかけてあるが不安でたまらない、それでまた眠れない。きょう出歩く先は町であるから、目覚まし時計くらい買えると思うが、問題はどこにいったら買えるか知らないことだ。なくした時計を買った場所は(Sさんに車で連れていってもらったので)距離的には近いのに、電車で行きづらく、今日の行き先からは遠回り。Mさんも時差ぼけがなおらない、暗いせいだといっていた。

森鴎外記念館

2013年12月11日(水)

きょうは森鴎外記念館に行った。これが目的のひとつだったのでやっと達した。BとN子さんにはいろんなものを見せてもらったし教えてもらった。あたしの興味は翻訳と阿部一族である。翻訳のなかでも実は「聖ジュリアン」「冬の王」「パアテル・セルギウス」しか興味が無い。岩波の古い全集が時系列になっていて、それぞれの巻に、翻訳も小説もいっしょに入っていた。ジュリアンは6巻で「青年」といっしょ。冬の王は10巻で興津弥五右衛門といっしょ。セルギウスは14巻でもともとのタイトルは「出家」で、「護持院原の敵討」といっしょ。トルストイの死は1910年で鴎外はその顛末を知って椋鳥通信にかいた。セルギウスはトルストイの遺作で鴎外の翻訳は13年に発表されている。鴎外の書いたフランス語の手紙も見せてもらった。ドイツに来てから必要なのでフランス語を勉強しはじめたそうだ。セルギウスみたい。気になっていたHans LandはBも知らなかったといっていた。もちろん全集やなにかには資料がある。本名もわかった。それでwikiのドイツ語をみたら、あんなに探しても出てこなかったHans Landの仕事が出てきた。忘れられた作家の一人だ。年は鴎外と1つしかちがわない。老いたキミ子の顔がるんにかさなって見えた。もちろんそれを鴎外は見てないと思う。本をとっかえひっかえ読んでいて、記念館に5時間もいて、それからBがあちこち連れていってくれた。舞姫の舞台の通りや、チェックポイントチャーリーや。帰りはStadtmitteから地下鉄をのりついだが、Bにもらった資料を読みふけっていて降りる駅を乗り過ごした。

ラプンツェルとインスタント麺

2013年12月10日(火)

きのうの買い出し、そんな遠くのスーパーまで行った理由は、マジパンが買いたかったのと(前に買ったのであるのを知っていた)、近くのスーパーでは売ってない日本のインスタントラーメンがそこならあるかなと思ったからだ。マジパンはあったが(いっぱい買ってきた)ラーメンはなかった。お店の人にオリエンタルなヌードルはありませんかときくと、そのコーナーに連れていってくれたが、どう見てもタイ風の中国ヌードルか、中華風の中国ヌードルしかなく、泣く泣くカップ麺のを一つ買い求めて帰ってきてさっき食べたけど、うまくもなくまずくもなく。ただあたしが味わいたかったのは、うまいまずいより懐かしいなので、目的は達せられなかったのである。大学の近くの小さいスーパーにはいろんなアジア麺が出前一丁も日清焼そばも含めておいてあったが、留学生がいて需要があるせいか。しかしはまっているゼリー寄せのハムは、昨日のスーパーで、今まででいちばんおいしいのが買えた。
ソーセージとハムだけで(あとマジパンとチョコレート)生きている50女も悲しいと思って野菜たべなきゃと思うが、めんどくさい。それでサラダ用ほうれん草とサラダ用macheを買ってきて、お浸しにして食べている。で、このmacheだが、うち(カリフォルニア)の近所のスーパーでサラダ用が売っている。でもちょっとおしゃれな特殊なもの扱いだ。英語で「子羊の耳」日本語では「野ぢしゃ」という。つまり日本のそこらにいくらでも生えているアレだ。オミナエシ科。日本のは小さすぎて食べる気になれないが、花はきれい、小さすぎてなかなか見えないが。しかしここドイツではいちばん普通なサラダ野菜のようだ、どこにでもいくらでも売っている。それもそのはず、ラプンツェルとはこのことで、ラプンツェルの母親が食べたがって魔女と取引したのはこの草だそうだ。
ああ、しかしゆうべも3時間しか寝てない。いや3時間半は寝たかも。

小栗判官

2013年12月10日(火)

いよいよ比呂美訳「小栗判官」ウエブ平凡にて始まりました。挿絵は一ノ関圭。
http://webheibon.jp

これtwitterでも通知したけど、中にはこっちしか見てない人もいる。病気療養中のY子さんや夫の看病中のM子さんはたしかこっちしか見てないはず。元気のタシになればと思って届けます。

ズンバと買い物

2013年12月10日(火)

4時にSNと駅で待ち合わせてズンバ、SNは5時からのインストラクターGと仲がいいので、この間から誘われていたのである。メキシコ出身の若い男というのは聞いていたが、なんととっても若い男で、まるで麻雀放浪記のときの真田広之をちょっとえげつなくしたような感じの、薄ヒゲの筋肉もりもりの男で、いやほんとに真田広之に似ているのでおどろいた。でもメキシコ人。スペイン語とドイツ語はOKだが、英語はできないといっていた。そのズンバはそんなに激しくもめまぐるしくもなく、わりあいにローインパクトで、おばさん向けで(じっさいそのクラスはほかのクラスよりおばさん度が高かった)、さすがによく腰を回し、そして動きにパキパキとキレがあり、明るかった。合図をするのに口笛を使った。それがえげつなく、またとっても可愛かった(しょせん、あたしはおばさんだ)。腰をまわしたり、前後にゆすったりする動作のとき、こっちをくるりと向いて、あっちゃーはしたない、みたいに目をかくす動作を何回もした。可愛い仕草ではあったが(あたしはおばさん)やはりMやCみたいに「女だてらに」「雄々しく」腰を振り回すほうがあたしは好きだ。SNとはそこで別れた。こっちに来て出会ってたちまち仲良くなって、ずっと知り合ってるみたいに男の話をさんざん打ち明けてもらった。いま大変なんだそうだ。明後日からSNはセネガルに行く。SNは帰り(よそでピラティスを教えているので、それ用のボールを大量に持ち運んでいた)あたしは一人でJのズンバにも出て帰った。さすがに2時間ぶっとおしは疲れはてた。最後のほうはうごいているだけだった。
帰りはいつもの地下鉄U2からU3に乗り換え、少し前の駅で降りてバスの186番に乗り換えて、大きなスーパーにいくつもりが、方角を間違えて(バスの行き先の地名を知らなかったのだ)逆方向のバスに乗ってしまって、引き返さなければならなかった。予定よりだいぶ遅れてスーパーにたどりつき、あれこれ買って、買いすぎて、重たい荷物を抱えて歩いて帰った。歩きながら、こういうことを、ベルリンという知らない町に住んで、やりたかったのかもしれないなあと考えた。
昔ワルシャワで住んでいたようなふっつうーーーーの住宅街(集合住宅の建ち並ぶ)の中の道を通って帰った。家々の窓々のクリスマスのあかりが実にきれいだった。ワルシャワもこの時期はこうだった。ほんとに印象的だったのを覚えている。クリスマスツリーはホインカという、choinkaと書くのかなと思って、googleで調べたらあたっていた(あたしはポーランド語は英語より非識字者なのだ)。
この暗い、冬至間近の暗い、暗い、いんうつな日々に、クリスマスをまちのぞむ気持ちがああして窓々のかざりに、あかりになって現れる。カリフォルニアあたりのでこでこしいライトアップの飾りとは意味が違う。きのうIさんにアドベントの意味を尋ねたら、クリスマスまでをまちこがれる気持ち、その期間ということで、「もういくつねると」みたいな気持ちなんだそうだ。じっさい、「もういくつねると」「あと二つねると」「あと一つねると」みたいな歌があるそうだ。教会では、おとな向けのそういう美しい歌をいくつも歌うそうだ。
寒すぎはしなかったが(今日は9度あった)霧雨の中を20分くらい歩いたからぬれた。けっこう遠かった。

眠いが起きた

2013年12月09日(月)

目覚ましを3時にかけておいた。3時45分にはここを出るつもりだった。でも2時には目が覚めてしまった。寝る前に薬草系入眠剤を2つぶ飲んだからか、ぼうっとしてかったるくまた横になって目を閉じればあと数時間眠れるかも。目覚ましかけて、あと30分でもいいから眠るかと思って目を閉じてみたが眠れずにもう立ち上がる(今まではベッドの中)。癇性っていうのかな、これは。ひやきおう丸でも飲んだ方がいいのか。

寝ないと

2013年12月09日(月)

また眠れなかった。2時ごろ寝て5時に起きてしまった。ルー・リードのことを書いていたので、ずっとYouTubeでルー・リードのライブやら、Baffalo Springsfield Retrospectiveやら、なんかそういうのを聴きまくって今まで仕事していた。でもさすがに寝ないと。今日はズンバが二つある。まだしめきりもある。まあカリフォルニアのうちでも、ズンバ行くほかはずっと仕事部屋で仕事していてやっと片付く程度ののろさであり、はかどらなさであり、仕事量であるのだから、いくらベルリンに来たからといったって、とつぜん気楽に外をがんがん出歩けるということになるわけはないわなーー。

へんな長い夢

2013年12月09日(月)

Xから電話があり、Mはもう死んでいないのにMは元気だと。おかしいなと思ってたら電話が途切れた。倒れているに違いない、助けにいかなくちゃと飛び出したが、あたしは着物を着ていて身動きができないから、まず着替えて、飛び出そうとしたら、つれあいが帰ってきて、引っ越しのように荷物をどんどん運びこむので、車も車の鍵も見当たらなくなったので、Zの車を使おうとしたら、車は山の上にあるというので、まずそれを取りにいかせようとしたが、ひとりじゃこわいというのでいっしょについていったが、そこには教授が住んでいて、黒猫が数匹いる、教授が寝ている間に、いちばんまっ黒な黒猫をつれてこなければならないといわれて、夜中にぐらぐらするはしごを組み、Zとあたしでのぼっていったら、ちょうどSが出勤してきて、なにやってんだというから猫をつれていこうとしているというと手伝ってくれて、猫のまだ若いのを2匹かかえてはしごを伝って降りたが、さんざんひっかかれたし、猫はするりと手をすりぬけてしまうのだった。ようやく降りた。手伝ってくれた少年が、おれはアメリカの××というところの生まれだからいつか遊びに行ってもいいか、と言うので、いつでもおいで、と言いながらも、おかしいな××は千葉県じゃなかったかと誰かにいうと、その人はこの子は知らないのだからそれでいいんだと言った。5時ごろ目覚めて、眠れなくなり、コンピュータの前に来て、メールチェックしたりした。そのとき母猫が子猫を加えて木の枝を伝って二階の窓から中に入る映像を見た、そんなもの普通なら見ないのに、くりっくして、見ながらああなんか思い出すと思ったら、このほんの5分まえに見ていた夢を思い出したのだ。

知らないとこを

2013年12月09日(月)

こないだBonnに行くとき、さんざん迷ってまごついて、ポツダム広場と中央駅は案外近いということを知ったが、昨日、Bonnから帰るとき、REなんとかという中央線みたいな電車に、東京駅みたいな中央駅から乗って、銀座みたいなポツダム広場に行こうとしたわけだが、中央駅からポツダム広場まではほんの2分だった。REの停車場から迷いつつ外に出たら、こないだ迷いつつベルリンフィルから戻りついたあたりに出て、そのときマーモクーヘンを買ったスタバみたいなコーヒーショップ(誰か文豪の名前を冠したとこだと思っていたらBalzac cafeだった、その前にBと待ち合わせたカフェはEinstein Cafeで、Einsteinといえばカリフォルニアではベーグル屋なのである)のまん前に行き当たり、同じくマーモクーヘンを買い求めたが、マーモクーヘンくださいと言うのを聞いて、お店の女の子はマーモブレッドと言い直した。そのとなりに陳列してあるのはバナナブレッドであった。これはこないだ買おうとして、なんだそれじゃあまりにアメリカ的と思ってやめたのだった。これもまたアメリカ化か。英語をしゃべる外人に親切に言ってるのか。こうして、知らないとこを(知らないのはあたしだけで、まわりを行く人々はみんな熟知しているのであるが)歩き回ってつまらないことをいっぱい知る。道を聞くのには、女連れの若い男がいちばんいいということも知った。
そういえば、ボン行きの電車に乗る前、駅で、パンを二つ買い求めた。一つはベルリナーとよばれるドーナツ(真ん中に穴のあいてないタイプ、ミスドのなら中にカスタードやチョコクリームがつまっているやつ)ともう一つはあきらかに上にカスタードクリームののったデニッシュ風。よく見ればそこには「Puddingなんとか」と書いてあり、上に乗ってるのはまあそういうものだと知れた。ベルリナーは、(ケネディが来独して「わたしもベルリンっ子だ」みたいなことを言おうとしてBerlinerということばを使った、というので有名なものであるが)なんといってもポーランド名物のポンチクにうり二つなので、機会があれば食べるようにしておる。しかしあの懐かしのポンチク(複数形ならポンチキ)に勝るベルリナーにであったことがない。プディングデニッシュは、プディングのところが大げさすぎた。しかしまあ日本のクリームパンのクリームを大げさに作り替えたら、ああならなくもないという味だった(にゃーこに負けないように、一所懸命レポートしている)。
きのう下宿に帰りついたら、部屋が掃除してあった。いつものとおり散らかしてあったので恥ずかしかった。ゴミも捨ててあった。シーツも取り替えてあった。そういう取り決めと見える。そしたら今晩、下宿のおばさん(といっても同世代)がやってきて、姿がみえないからどうしているか心配していた、どう暮らしているか、と訊かれた。とっても快適、と答えた。もうクリスマスマーケットはいったか、慣れたかと訊くので、いろんなとこのに何回もいった、とても慣れた、地下鉄にもいっぱい乗ってる、と答えた。洗濯があれば出せ、やってあげるからといってくれたが、洗濯、てきとうに水洗いして(ズンバで汗まみれになる)あとは洗濯しないでカリフォルニアに持って帰るつもりだった。そもそも着替えもろくにしてない。

ベルリンに戻った

2013年12月08日(日)

ゆうべ遅く、といっても9時すぎ、滞りなくベルリンについて、少々まごつきながら中央駅からおなじみポツダム広場、乗り換えて、U2、U3と乗り継いで、家に、というか下宿に帰ってきたら、きのう雪降ったらしく、道は雪でおおわれていた。でも今朝は雨だ。たぶん溶けているに違いない。ゆうべは買い置きのソーセージゆでて、ほうれんそうをゆでて、途中で買ってきたマーモクーヘンという奇妙な組み合わせで食事して、ビールのんで、漫画よんで(「シュトヘル」を7巻まで読み通してしまった)寝た。くすりの量を倍にしたら8時間眠れた。
きのうはボンの日本補習校でお仕事だった。在アメリカの日系人から在ドイツの日系人に、苦労話を語るというかそういう。帰りのICEの中では寝くたれた。3〜4時間は眠ったと思う。やっぱりただの不眠じゃなくて時差ぼけのこじれたやつだった。
食料が尽きかけているので買い出しにいきたい。いや厳密にいえば、まだ卵もハムもパンもヨーグルトもシリアルもあるけど、同じものばかりで少々飽きた。しかしいったいドイツの店は日曜日にあいているのか。こないだ行ったスーパーならあいてるかもしれないがしと降る雨の中遠くまで歩くのはめんどくさい。なんだか家の中でぐったりしていたい。昨日のうちは、明日は植物園に行こうなどと考えていたが(20分歩けば植物園だ、そこから数分でスーパーだ)こうしてその場になるとむくむくと出不精の虫が動き出すものだなあ。いや、このかったるさは、まだ少し薬が残っているのかもしれない。
……とか言ってるうちにまたベッドにもぐりこんで寝てしまった。Mさんのいうとおり、薬はいくらハーブ系の弱いものといっても、2つでよかったのかも。起きたら3時半であった。Iさんから植物園にいっしょにいきましょうというメールが入っていた。ごめんなさい、今起きましたと返信した。そしたら、じゃいっしょにお茶しましょうとメールが来て、植物園付属の喫茶室へIさんとSさんといっしょにいった。ルターの話がいつもおもしろい。親鸞のようでもありケセン語の山浦先生のようでもあり、たぶんもっともっと根源的に巨大なようだ。

ボン大学

2013年12月07日(土)

ボン大学のM先生のところで学生たち相手に朗読、Mさんが訳してくれた新訳般若心経、意味の虐待、ハラキリ。終わってから、Mさんがディナーとクリスマスマーケットに連れていってくれた。ボンのクリスマスマーケットはベートーベンの像のある広場にある。地元の人たちでにぎわっている。観覧車がある。小さい背の低い観覧車と思ったら、乗ったら広場じゅうを見渡せた。すごいいきおいでぐるぐる回った。爽快だった。Mさんの研究室で「西夏王国の言語と文化」をみつけ、一晩貸してもらった。たいへんおもしろく、いきおいで前から読んでみたかった「シュトヘル」を数冊ネットで買って読んだ。眠くなる薬を買ってきてもらったら、4時間眠れた。薬のんでこれである。ほんとは15時間くらい眠りたい。眠りつづけてみたい。
きのうの嵐で木々の木が折れている。町の中の昔のお城がボン大学になっている。その中に大きい木がいっぱいある。見たこともないような大きさのスズカケノキがあった。たいへん美しかった。Mさんと日本について日本の若い人たちについて日本の人たちについて日本の文化について憂えるのは楽しかった。外人として苦労してきた人の言葉だ。

ベッドと不眠

2013年12月06日(金)

ゆうべも眠れず。で、このまま起きてしまおうと朝食を食べに行ったが、コーヒーでもしゃっきりせず、その後午前中寝た。せっかくのボンが。午前中寝たといっても細切れで、1時間ごとに目を覚ます始末である。2時前にはこのまま目を覚ましておこうと思って起き出したが、こんどはそれがつらくて、なかなかからだがまっすぐにならない。泥のなかにずぶずぶ沈んでいくようだ。全身が眠気ですっぱくなってるような気分である。このまま倒れこんで夜まで眠りたい。油断しているとすぐ目が閉じる。鏡をみれば、目のふちは赤いし顔はむくんでいる。情けなや。
ドイツ語圏のホテルはどこも、ベッドに幅の狭いふとんを一枚置いてある。いま借りてるアパートメントもベッドはそんなふうに作ってあった。ここもそうだ。それが寝にくくて。予備の毛布を下に敷いて、一枚のふとんをたてに、もう一枚を横にしてマットの下に巻き込んでつつむ形にベッドを作って寝ている。でないとふとんがずり落ちる。アメリカはベッドより大きなシーツやおおきな上がけを使って、マットを包みこむようにベッドを作る。

ボンと少佐

2013年12月06日(金)

ゆうべもまた寝られず、2時間弱しか寝てなくてズンバ、そのあとボン行きの電車に乗るために中央駅にむかったが、おなじみポツダム広場で乗り換えようとしたところ、なんと、中央駅行きのSバーンが(山の手線みたいなものだと思われる)全面閉鎖していた。多少時間に余裕があったので、ここは振り出し(ズンバ)にもどって、ズンバやるんじゃなくてダンススタジオから歩いてちょっとのところに中央駅行きのバスが出てるのをしらべてあったから、それに乗ろうと、わざわざきっぷをもう一枚使って(後戻りはできない人生の教訓だから)2駅ぶん、地下鉄で戻り、歩いてバスに乗ったところ、なんと、さっきまで困ったなあと思いながらうろついていたポツダム広場を通って中央駅にいったわけだ。電車は嵐と強風で30分遅れて予定していたケルン乗り換えがなんだかわかんなくなり、てきとうなローカル線に飛び乗ってボンについて、しばらくうろついたあげくやっとMさんに出会えたのである。ホテルに歩いて行く途中に、教会があり、その前に山田寺の仏頭の三倍くらいありそうな石の首が二つころがっていた。殉教聖人の首だそうだ。あしたはボン大学でお仕事、でもその前に観光に連れていってもらう。見たいのはベートーベンハウスとNATOの本部とライン川。しかしベルリンに首都がうつった今、NATOの本部がボンにあるのだろうか。そもそもNATOはあるのだろうか。漫画はつづいているからあるんじゃないかと思う。順当にいったら少佐はもう65歳か70歳近いはず。引退しているから会えないかもしれない。25くらいのときからの夢だった。最初にポーランドにいったときも、わ、少佐の近くに来た、と密かに思ったものだ。

人生の規則と焼きそばとシャブリ

2013年12月05日(木)

ゆうべもまた眠れず、朝の9時ごろに薬のんで寝付いて14時ごろに起きたが、寝ている間に起きた人々が、あたしのボン行きのきっぷについて激しくやりとりしていたのであった。Iさんは学生を動員して駅までつれてってくれようと画策していて、ありがたかったが、実はあたしは朝のズンバにクロイツベルクにいくつもりでその後、駅にいこうと周到に調べてあったのだ。夕方はちょうどAと待ち合わせていたので、Aにきっぷを受け取ってもらって一件落着であった。Aとは何で待ち合わせていたかというと、ズンバ。あたしのズンバ熱を見ていてついやってみたくなったらしい。こうやってあたしはズンバ菌をあたりにふりまいておるのだ。Aは途中で離脱するかと思っていたが離脱しなかった。おもしろかった、またやりたいといっていた。「まいどありー」である。SNもあたたかく迎えてくれた。体育会系ではまったくない、生きにくそうに生きている女で、いつ会っても、うちの娘を思い出して親近感を持つ。このままつづけてくれるといい。若い女の持っている生きにくさは、ズンバですっきりするはずだ(うちの娘どもにもすすめて、実際連れていったが、逃げられた)。
Iさんの秘書に「地下鉄のチケットでバスにも乗れるか、一枚のチケットで地下鉄とバスを乗り継げるか」と聞いたら、「ともにYES 1.5時間以内ならそのきっぷでOK、しかしあなたはbackwardに進むことは許されていない(たとえば往復の復として使う)」と返信が来て、ああ、とても深い、人生についての箴言のような規則であるなあ、と。
ズンバの帰りにSNにFU大65周年式典にさそわれたが、行かずに帰ってきた。しめきりやんなきゃ。帰りにスーパーによって、ゼリー寄せのハム(はまっている)とチーズケーキ、果物風のほおずき、なし、ノート等を買い、日清焼そばがあったので、思わず買ってしまった。だから今晩のごはんは、日清焼そばのサラダ用ほうれんそうと卵入り。それとワイン。よく合ふ、シャブリが。

ベルリンフィルと時差ぼけ

2013年12月04日(水)

時差ぼけでゆうべは一睡もできず、朝の10時ごろにアレルギー薬(スイミン薬のかわり)をのんで寝たら夜の6時すぎまで起きられなかった。陽の目を見ない地下生活者のようだ。飛び起きてベルリンフィルに行ったが、当然ながら5時のズンバは行かれなかった。Potsdamer platzで降りて歩いて行ったが、建物も人もクリスマスツリーもいっぱいで、なかなか方角がわからなかった。でも通りすがりの親切な人に教えられたとおりに歩いているうちに、向こうに見覚えのあるベルリンフィルの建物が見えた。Potsdamerplatzは町の要所で、前にもここに来ている。やっと記憶と地図が重なり合った感じだ。ピアニストはIgor Levit 若いにいさんと思っていたらおっさんぽく、後頭部は薄くピアノにおおいかぶさる背中は厚くて丸かった(つまり後ろ上の席をとったのでそればかり見ていた)。最初のは蛇口から水だしっぱなしにしたようなバロックで、げげと思ったが、3曲目のジェフスキはよかった。「北米バラッド」2だ。ジェフスキ、こうしてきくとミニマリズムな感じがよくわかる。そしてそれをきいたあとでは次のワグナーのリスト編曲のなんとかなんて、ろまぁんーーーって感じで力がたわまずに流れていってしまうのが気にかかる。不安にすらなる。イゴールくんはジェフスキを弾きながら足をふみならした。それから力をこめて終わった。
帰りがけにスタバみたいな店で、ケーキ買って帰った。ひとつはマーモクーヘンだった。甘くなくておいしかった。Monsterで殺しやの男がいつもたべていたアレである。ドイツ風のケーキをたべると、昔よんだ、好きだったヘッセの短編で、ケーキがすきで、食事にもケーキを食べる男の話を思い出す。きょうも思い出したが、今日も、そこしか思い出せない。題もすじもなんにも思い出せない。昔の新潮文庫の、水色の表紙の高橋健二訳だったはず……。しかしこれだけ甘くないなら、食事代わりに食べられるし、毎朝食べようという気にもなる。アメリカのマフィンやなんかとはずいぶん違う。
行きの地下鉄の中で、中高校生くらいの男の子たちがどやっと乗ってきて大声でしゃべっていた。たいてい黒っぽいジャンパーみたいのを着て、スニーカーで、にきび面で、髪はリーゼント崩れの子が多くて、だらだらとしたしゃべりかたをした。でも泥まみれの子犬の群れみたいでかわいかった。中年のパンクな格好の女が引率者らしく、男の子たちを見守っていた。帰りの地下鉄の中もまた若い男の子でひしめいており、周りの話し声をなんとなく聞いていて、ドイツ語ってのは口をとじないでしゃべるのかなあ、よだれがたれないのかなあという感想を持った。つぎの駅でぞろぞろ降りていったのだが、行きに見かけた引率の先生がそこにいて、同じグループにまた行き会った、あれは思春期少年特有のしゃべりかただったのだと知れた。
家に帰ったら昼間返信してなかったメールがいっぱい、早く返信しろ、という催促もいっぱい。なにしろ携帯がないから、メールでやりとりしないと人と連絡がとれなくて、みんな困る。あさってからボンにいくが、その切符がなかなか買えなくて困っていた。わけわからないのだ、どの駅に行けばいいのか、どの電車を買えばいいのか。Iさんの秘書に泣きついたら手配してくれかけたが、印刷したやつを明日とりにいかねばならない。そしてあたしは、あしたも一日、うちで何のしばりもなくリラックスしていないと、眠れなくなるんじゃないかと思って、駅で買うことにした。

大学それからクロイツベルクのズンバ

2013年12月03日(火)

4時間しか眠れなくてもんもんとしつつ、11時に大学で待ち合わせだった。それでSさんに連れていってもらって用を済ませ、学食でごはんをごちそうになった。ドイツの学生のなんとすらりとしていること。アメリカの学食とちがって、自分でよそわないせいじゃないかと思う。ソーセージとフレンチフライ、とは言わないのだ、ポムフリット、なんでフランス語なのかわからないが、それを食べた。こっちにきて、一夕Iさんの手料理の南ドイツ料理をたべたほかはソーセージとハムしかたべてない。おいしいからいいけど。そして同じものばかり食べたい傾向の強いあたしとしてはソーセージとハムしか食べたくないのだ、今は。
4時にはSNと地下鉄で待ち合わせ、クロイツベルク(というとかなり中心地)のズンバにいった。そこは各種ダンスやピラティスのあるダンススタジオで、SNもそこのズンバクラスを取っている。Jというその先生はSNのズンバとは全然違って、うちの方のMやCなみの激しさだった。だからものすごくたのしかった。しかしあたしが最年長、みんな20代だった。そこだけが違和感。男がひとり激しく踊っていた。それもちょっと違和感、カリフォルニアに男がいないわけじゃないけど。Jのズンバは激しさ、明るさはMやCやPなみだが、格段にベリーダンスがうまかったことだ。トルコ系移民の多い社会の本場の味だ。Jの使う曲はどれも知らない曲だった。SNのは数曲かぶった。SNとクラスの前にしゃべっていたら、SNが、同僚のインストラクター(男)との確執をるると語った。彼はもっと商業的に、はでに、金儲けしながら、ズンバをやっていきたいそうだ。私(SN)はそんなの何それ? みたいなことを英語で言っていた。どの女たちも男の野心や不愉快な異質さの壁にぶちあたっていて、それをあたしに話す。クロイツベルクは遠いので、地下鉄を乗り継いでいった。しかし地下鉄はもうすっかり慣れた。都営三田線や千代田線みたいなもんだ。このようにただ目的に行くためだけに地下鉄に乗る、地下鉄のなかでぼーっとするというのも、旅行者としてはなかなか興味深い。
てなことをSkypeをかけてきたつれあいに言ったら、彼はど根性のクラシック好きだから、何のためにベルリンにいるんだみたいなことを言われ、ズンバばっかりやってて時間が惜しくないのかといわれ、しかしあたしは今、この瞬間、ズンバやってないとほんとに時間が惜しいのだが、まあ一理あるなと考えた。地下鉄の駅できのうぼんやりオペラの一覧ポスターを眺めていて「ルサルカ」みたいなあと思っていた。でもそれはちょうどあたしがボンにいってる間にやる。あたしが発つ日にもやる。ほかのは別にいいかなあという演目だ。ベルリンフィルのほうは前からチェックしてあって、3日は若い者のピアノ、ジェフスキやる、15日も内田光子と樫本大進の室内楽、でも15日はちょうどその日の同じ時間のポーランド人の老指揮者のモーツァルトに招待されていていかれない。で、思い立って3日のを取った。あしたはSNのズンバだから、そのあと走っていくことにした。汗まみれのまま。走ってないと気が済まないようだ。

鴎外の見た風景

2013年12月02日(月)

きのうは日没前に鴎外記念館のBと待ち合わせて、地下鉄で町中にいき、鴎外も見ただろうドイツ大聖堂や鴎外も見ただろうフランス大聖堂や鴎外も見ただろうシラーの像のある鴎外も歩いただろう広場にできている鴎外も見ただろうクリスマス用の屋台群をのぞいて、鴎外ものんだだろうホットワインを飲みながら、近くにある鴎外よりは前の世代の、ゲーテのころの文学サロンあとを見学し、という鴎外ツアーであった。Bはさいしょにあったとき(数年前にベルリンにいたとき、どうしても鴎外記念館にいきたくて、その前にベルリンにいたときは閉まっていていかれなかったので、今回はぜひと便宜を図ってもらって行ったのである)わたしは二十数年間鴎外一筋だった、男はいろいろ変えたけど、といっていた。そのときにした鴎外のつきあった女論は忘れられない。あたしはつねづね、鴎外というのは同じ女ばっかり繰り返し繰り返し描いておる、それはいかにも意志の強い、当時の日本的でないような女である、なんなんだろうと考えていたが、Bもそれを指摘して、エリスだけが例外だ、なぜみなエリスばかりに目をとられるのかと憤っていた、ほんとに同感であった。
クリスマス屋台のある広場は、鴎外の頃は日曜日になると市が立ったが、その頃、衛生上の問題で、市場の建物が建てられ、市場がその中に移動していったその過渡期だったそうだ。見学しながらものすごいいきおいで鴎外のことをしゃべりまくった(Bは日本語もあたし顔負けの早口)が、鴎外の子ども向けグリム童話の翻訳(長男といっしょにやった)と鴎外と飛行機少年とのかかわり(飛行機ということばも鴎外がつくったそうだ)、文学サロンの影響(鴎外の西洋文学の取捨選択はどういうふうにやっていたか)椋鳥通信がおわって(戦争の影響でシベリア鉄道が使えなくなりドイツ書が鴎外の手元に来なくなったのでつづけられなくなった)鴎外が日本の歴史人物にどーんとのめっていったという風が吹いて桶屋が的なこと、等々、日々の愚痴も体制に対する不満もぶちまけあい、Bは「わたしはエリスか阿部弥一右衛門か。こんど切腹しなくちゃ」といって笑ったのである。あたしは鴎外の香気漂う文章のくせやスタイリッシュで美しすぎるリズムについての熱い思いを語ったが、Bはさすがに自分には外国語でそこまでわからないのだと悔しそうであった。
ビールビールといってるあたしをビールののめるレストランにつれていってくれたが、Bはビールを飲まないので、ありついたビールはミュンヘン産のくせにへんにアメリカ風なPale Aleで残念だった。ベルリンも小醸造所ブームだそうで、そのセンのビールのようだ。そんなもの流行らせずに昔ながらのドイツビールのほうがずっとおいしいのに。
帰りの地下鉄のなかで、ある駅で大音量でアナウンスがあったが、なんだかよっぱらってるような声で、ドイツ語っていうのは、よっぱらって聞こえるのかなあと思いながら聞いていたら、ま後ろにいたよっぱらいがわめいていたのであった。そういえばあたりの空気が酒臭かった。地下鉄のる前はどきどきしたが、乗ってしまうとものすごく簡単だった。もうどこでも行ける。
地下鉄の中はあっとおどろくほど狭くて閉鎖的な空間になっている。そして思いがけず異文化の混ざり合いが少ない。少なくともアフリカ系やアジア系はあんまり見ない、北米の町みたいには。ポーランド人あたりはいっぱいいると思う。
帰ってきてやっとSkypeでつれあいと話せた。もう感謝祭で来ていた子どもらは全員帰ったといっていた。Trader Joe'sの冷凍食品をいっぱい買い込んできたといっていた。大好きなShepherd's pieもあった、といっていた。それからネットで検索したら近代文学ライブラリーというので鴎外とおと訳の「しあはせなハンス」が見つかった。でも文章的にはいまいちだった。

2日め

2013年12月01日(日)

時差ぼけでとんでもない時間に起きていたので明け方(といっても時間的に明け方なだけで、まっくら)寝たら、起きたのは14時半だった。びっくりした。カリフォルニアの家ではさすがに犬どもが黙っていない時間だ。夜はIさんSさん宅にいって、MさんIさん夫婦と。長居して申し訳なかった。子牛の胸腺スープはほんとにおいしかった。南ドイツの料理は、なんでもない日常性の中に横溢する滋養みたいな味がした。帰ってきて2時すぎまで起きて、それから寝て、4時半に起きて今に至る、と。そろそろ寝ないと。今日は日没頃に町中まで出かけていってBさんに会う予定だが、まず地下鉄の乗り方を習得しないと行かれないので、さっきネットで予習していた。一昨日はズンバにいくのに、乗り方がわからないからめんどくさくて一駅歩いてしまった。車も携帯もない生活。これでネットもなけりゃどんなにいいか。
借りた家は半地下で、かなりゆったりした空間にベッドとソファのある部屋、それに快適な台所と広いバスルームがついている。台所には食卓があり、椅子が四脚。居間寝室には手頃な机がないので、自然とあたしは台所で暮らしている。女中みたい。寝るときだけ主部屋に行く。この家には床暖房が通っていると大家さんがいってたが、床はタイルでつめたい。おととい、きのうは、寒くていっぱい着込んで暮らしていた。靴下も二枚ばきだ。ラジエイタがあるからつけようとしたが働かない。でも今日になったら、とても暖かいのに気がついた。Iさんちがそうなように、家の中が暖かい。だから外に出ても、たいして寒さを感じない。寒いばかりの冬のカリフォルニアの家や熊本の家とはずいぶん違う。外を歩くと白玉のようなシンフォリカルポスの実がやたらと目につく。ホラホラ、これがぼくの実だ、みたいに、白い実だけ残っている。

   
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