きゃーーーーーーー
2009年07月31日(金)
ああーーーーーーーーーっっっっっっっ。あさって離熊。それでも父を病院につれていかねばならず、原稿はアゲていかねばならず、郵便局にも銀行にも用はあり、洗濯しなければならず、片づけなければならず、荷物は明日までに送り出さねばならず、トメの相手もせねばならず、ごはんは食べねばならず、父の相手をして野球をみなければならないのである。巨人はまけたが中日もまけたので、父、機嫌よし。
WAN
2009年07月29日(水)
きのうは東京でU野さん、M口さんと。U野さんひさしぶりで、ものすごく楽しかった。熊本は雨だったが東京は暑かった。WANに入った。会費はあした払いにいく。WANというのはここほれのワンではなく、Wonen's Action Networkだそうだ。
おんだ祭り
2009年07月28日(火)
29日あたしは終日東京なのでトメをどうするかが懸案であった。M脇さんちに頼もうと思ってたが日本の中高校生は部活と課外で忙しくて時間がないことが判明した。父に頼もうとも思っていたが、老いた頭にそんな余裕はなくなっていた。誤算であった。それでじたばたしていっそ東京に連れて行くかと考えたが、直前すぎて、はちまんえんは痛すぎる。それでじたばたして、けっきょく午後はJ、夜はAちゃんに見てもらうことになった。Aちゃんはお泊まりにきてくれることになった。午前中は馬と父と犬の世話。このごろほったらかし気味で、少し表情が暗くなっていたのであわやと思い、きょうはT浜さんO野さんY山さんらで集まる予定だったがキャンセルしてトメの相手をすることにきめた。それでトメとK子ちゃんを連れて、阿蘇へおんだ祭り、ものすごくおもしろかった。白装束の女の行列がみたくていったのに、男たちが輪になって、北米インディアンの歌のようなものをしきりに歌っていたのに感動した。ホヘーホヘーという。こんな近くにこんなものがあったのだと目やら心やらを洗われる思い。K野さんが手厚く案内してくれた。手野のわき水から外輪山にあがり、牧場用の農道を伝って古墳群のそばにおりてきた。草波の中に、ユウスゲ、ナデシコ、萩。行列が阿蘇神社に帰りついたのを見届けたころには土砂降りの雨になり、ずぶ濡れになり、通りがかりの衣料品屋でスカートを買ってはきかえたほど。それから泗水の月ノホタル。泗水にいたとき、K下さんの父上の訃報を聞いた。
断続的に豪雨
2009年07月27日(月)
Birth講演会大盛況。豪雨の中、たくさんの若い人が来てくれた。Y田さんの話すごくよかった。M角さんの朗読すごくよかった。若者、おもしろかった(聴衆、M角さん)。熊本の若者は何もいわないと思っていたが、活発に手をあげ、ものをいうすがたを少しずつ見られるようになってきた感じ。すごいことだ。 隊員のみなさま、お疲れさまでした。こんどもどれだけの隊員が、働きにやってきたことか。すごいことだ。 今朝犬を散歩させていたら、このへんで仕事はありませんかと声をかけられた。聞けば某社の新人社員研修の一環で、数十円しか持たずに町へ放り出され、自分から町の人々に声をかけ、金かせいでこいとのプロジェクト。とんでもない新人研修だなと思いつつ、ついつい情にほだされて、自分の家までつれていき、庭の草むしり、棚直し。時給650円に弁当つきで雇い入れた。近所のE藤さんにももちかけたらE藤さんも雇ってくれた。唐茄子屋政談に出てきた、かぼちゃかついで困ってる若旦那を手伝ってやる町のおっちょこちょい、ああいう感じであった。長崎から出てきている子連れのAさかさんが、うちの窮状をみるにみかねて、午後トメと遊んでくれた。Aさかさん、LなちゃんとMきくん、ありがとうございました。あんまり疲れはてたので坪井温泉のT湯にいこうとしたがお休みでD湯に。銭湯のような温泉であった。ぐったりした。
雨
2009年07月25日(土)
雨。 メールソフトからメールが消えてしまう。どんどん。記憶障害とはこんな感じなのかと考えるほど。不義理のメールがいっぱいあるのに手につかない。
日食と大雨
2009年07月22日(水)
きのうM子から電話があって、雨ふってるんだってーというから、たいしたことないよというと、でも山口ですごいよというので、山口って熊本からすごく遠いよといったのだが、わかってるよと言われたのである。それで、老いた親のぐちをこぼしあって電話を切った。きょうは日食で、朝、父に御飯食べさせにいったらすでに緊張して日食だ日食だといっており、熊本では9時37分にはじまるというので、犬をつれて外に見にいったところ犬は木陰にばかり行きたがるのでよく見えず、木陰じゃなくとも分厚い雲がおおいかぶさっていて(その半分は雨雲)ところどころ薄くなって空の地のようなところが見える気がしたが、それも青くはなくうっすらと膜が張ったように白く、つまり太陽の在処はなんとなくわかっても太陽そのものは見えなかった。次回の日食の時と所もわかるというので、それなら、アマテラスオオミカミが隠れたのも九州で見える皆既日食と考えていけばだいたい時が特定できるではないかと考えたが、こないだの阿蘇の火山博物館で知った事実、つまり二万年前の洪水とその決壊の記憶を、たかだか千年や二千年前の人が神話として伝えているということ、それなら数千年から数万年前の日食と、ヒミコなりなんなりがごっちゃになっていてもおかしくはないのだなと考えた。おお、きょうはとってもまじめ。
また映画
2009年07月21日(火)
ゆうべは9時25分からのレイトショーの「ハリー・ポッター」に。トメは終始くすくす笑っていた。こういう思春期少女をよろこばせる思春期恋愛が満載。ほんとはDenkikanでやってる「小三治」がみたいんじゃ。でもたぶんトメは飽きる。そういえばあたしも子どもの頃、休みになると父が「しびや」の映画館につれてってくれたが、父が映画を選ぶので、どきゅーんどきゅーんといった、殺し殺される映画が多くて子ども心に閉口したものだ。あれがトラウマになって、いまだに人の殺される場面が怖くて見られない。
ヤキトリ屋
2009年07月20日(月)
ゆうべはたいへんおいしいヤキトリ屋につれていってもらった。N田さん、K枝さん、そしてM脇さん。ついでに弁護士のくずの6、7、8とBilly Batを買った。きょうは湿気が多くてたまらなく不愉快。
黒塚、清経
2009年07月19日(日)
きのうは暑かった。午後3時になったら暑さもまさに極まって、お城の木々はおおいかぶさってくるし、光は強すぎて見えないほどだし、運転しながら、これはてんぷらだろうか遠火でローストされてるのだろうかとつまらないことを考えていた。段山(だにやまと読む)の能楽堂に、金春松融会の練習をみにいったのである。社会教育課のA山さんが誘ってくれた。数年前、A山さんに誘われて見にいった薪能であたしは能に出会った。それは「とげ抜き」に書いた。あれはほんとにありがたい出会いだった。ずっと前にかってあった謡曲集が、ずっと待っててくれたように感じたものだ。きのうのは黒塚と清経だった。テキストをみながら、聞いて観察するので、たいへん、たいへん、おもしろかった。謡というのはうただった。みんな歌っていた。そしてテキストにはちゃんとスコアが、つまり文字のわきにいろんな印がついており、それを読んでいけば、ちゃんと歌える、初見奏もできるかもというようなきっちりしたスコアだったが、やはり、間のとりかたなどは、かなり人によるので初見奏はむりでしょうということだった。 この時期、外には風が吹いて涼しい気持ちにときどきなるのに、家の中は閉塞的でじつに暑苦しい。そういう家なんかなけりゃいいのにといつも考えるものだが、古い能楽堂の木だけの建物はものすごく涼しかった。ところどころあけっぱなしなので風が通り、陰になってるので日差しは射し込まず、これなら平安時代の人々も(こないだ京都で御所を見学したのだ)戦国時代の人々も(きのうは「センゴク桶狭間戦記」を買った)室町時代の人々も、夏は空調なしで楽しくすごせたにちがいない。暗い室内から外を見ると光は実にとげとげしいくらいに明るかった。照葉樹がぎらぎらしていた。暗い室内で、だらだら汗を流しながらうたい、動く人々を見ていた。
香港
2009年07月18日(土)
香港の大学に一ヶ月滞在してinternational writer's programというの、やらないかと何人かから誘われたが、もちろん無理である。カリフォルニアと熊本の行ったり来たりならできるけど、それ以外は。どうせいっちゅーねん、父も干上がる、家族も干上がる。しかし仲介のY田さんが、これは日本の女の詩人指名なので、ぜひともこの枠を確保したいので他にだれか知らないかときかれ、いろいろ模索して、メールとか各方面にうちはじめた矢先に、もう男の詩人にきまったということで、もんのすごく、もんのすごーーーく、がっかりしている。むかし、M郎さんがミシガン行った後、あたしも行きたい行きたい行きたいと騒いで、アイオワにもそういうのがあるので、行きたい行きたい行きたいと騒いでみたが、行かれなかった。なぜかわからない。いつも遠い熊本に住んでいて、人脈もなく(それなりにあったはずだ)、主婦で子持ちで大学で教えてもないし男でもないし翻訳もないし(ちょっとずつあったけど)行かれなかったのかなあと思うと(ひがんでみた)、すごく口惜しい。英語も、ぜんぜんできなかったけど、そのために英会話学校にさんざんかよってできるようになったってのに。それで、とうとう待ちきれなくなって、自分で行ってやらあっと出かけていって(故K関先生に紹介していただいて)帰れなくなっちゃった。しかもそういうプログラムじゃなくて個人でいったから、立場があいまいで、人と思うようにつながれなかった。だからぜひこの「日本の女の詩人枠」を後輩(つーか若い人たちに)につなげたいっっっ‥‥と思ったのである。数年前にもどこだかの大学のプログラムで同じようなことがあった。そのときもあたしは行かれず、人を探してくれといわれて、さんざん探した。たしかあのときは「女の詩人」じゃなくて「女の作家」か「男の作家」が行ったんじゃなかったっけ。それも、なんかとてもくやしい。
らくだ
2009年07月17日(金)
朝、馬場、それから父の朝食、それから馬場、それから家に帰って少しだけ仕事して、父の昼食。父はこのごろあたしが力の3/4を子どもにそそいでいるので不満げである。「銀行のほうをそろそろ済ましたい」とへんなふうに催促され、もうとっくにやっちゃって、やったよと報告したことなのにムカツク。それからトメをプールに落として獣医にいったが、思いがけず時間がかかり、2時間たってもまだ終わらず、いったんトメを迎えにいってまた獣医にとって返し、診断はしっぽの「ホットスポット」(湿疹によるかきむしり、いらいら‥‥タケもコレだった)ということで、帰ったのは5時近く、薬をのませようと格闘したががんとして飲まないのであきらめた。ムカツク。父から待ちくたびれたと不満げにいわれて、たいへんムカツク。きょうは映画を見にいくからもう帰るといったらますます不満がられて、ますますムカツク。夜は「らくだ」と「連獅子」を見にいったが、トメはつまらなかったそうである。まだ劔岳のほうがおもしろかったそうである(あれも最初のうちはつまんなかったけど、といわれた)。これにもMとRを連れてこようとおもってたが、時間切れでできなかった。連れてこないでよかったそうである。わかっちゃいるけどやめられない。それでもトメに日本文化を教えたい親心。DVDを借りてソフトクリームを食べながら家に帰った。しかしあらためて落語には死体が頻出することに気づいた。らくだ。黄金餅。野ざらし。粗忽長屋。死んだ人への冒涜である。連獅子のほうは宗教への冒涜である。それを冒涜と思わずにファニーと思う日本文化なのである。
子どもらは帰った
2009年07月16日(木)
もんじゃ焼きが食べたいとRがしきりにいってたので、飛行機の時間を計算しながらもんじゃ焼きの店に寄り、「はいあと5分で食べ終わるように」「あと2分でここを出る、ついてこないやつは置いていく」などと子どもらを急かしながら食べて空港に送り届けた。はじめて食べるもんじゃ焼きはへんな食べ物だった。子どもの頃は男の子が駄菓子屋で食べてたものだ(女の子は食べなかった)。クッキー生地を生で食べるような感覚であった。というわけでMとRは離熊した。こないだH田さんにメガネの安い店というのを教えてもらい、つねづね行きたいと思っていた(アメリカのメガネ屋は、顧客が広辞苑を読んだり古い岩波文庫を読んだりすることを想像できないのである)、空港からその店のあるアメリカにあるような大型ショッピングモールに行って、広辞苑の読めるメガネを買った。ついでにトメの服もいろいろと買わされた。破けたシャツとかすり切れたジーンズとか。こういうモンを買う必要あるのか。あたしは「センゴク天正記」を大人買いした。ただの「センゴク」より作家がうまくなっていて、じつにおもしろい。じつに、じつに、おもしろい。「家族」だなんだという青臭い主張はなくなっているし、あいかわらず引用参照はまめまめしくしてあるし。大家さんからよなよなエールがっっっっっ。ううううまいっっっっ。ありがとうございます。
阿蘇
2009年07月15日(水)
月曜日。午前中は獣医だ銀行だと黷スジーンズとか。こういうモンを買う必要あるのか。あたしは「センゴク天正記」を大人買いした。ただの「センゴク」より作家がうまくなっていて、じつにおもしろい。じつに、じつに、おもしろい。「家族」だなんだという青臭い主張はなくなっているし、あいかわらず引用参照はまめまめしくしてあるし。大家さんからよなよなエールがっっっっっ。ううううまいっっっっ。ありがとうございます。
阿蘇
2009年07月15日(水)
月曜日。午前中は獣医だ銀行だと用ができて、出発はおひるすぎになった。で、まずミルクロード、大観峰で草波と大地の波、それからカルデラの中に降りて、猿まわし劇場、それから地獄温泉の清風荘。清風荘は、古めかしくてひなびていて貧乏くさくて、夕食も気取った旅館食なんかじゃなくて、豪快にいろりばたで田楽なので、おきにいりなのである。 夜、部屋に、思いがけなくB場さんが、ケーキ持ってあしたの打ち合わせにきてくれた。阿蘇高校の国語の授業に、MとRとトメを参加させてもらう予定なのであった。 火曜日。B場さんの授業に3人を放り込み、あたしは三年のM山さんのクラスで朔太郎の「こころ」について。次の時間には一年の英語で、三人は前にたち、観客としてのB場さんに支援されながら(ここもB場さんの凄い一面‥‥講演者をノセて話しやすくしてくれるのである。あんまり気づかれてないけど。Mは気づいていた)、アメリカの高校生活について話し、高校生ふう英語を教え、まったく、アメリカの高校生の地力が出たのであった。Mたちが、「日本の高校生、何もいわないから何いっていいかわかんなかった、困った」といいながら教室を出たら、後ろから、ほんとは話したい女の子の集団が、連中に教わったばかりのカリフォルニア高校生英語を連呼しながら追いかけてきた。 豊後街道をとおって池山水源へ。滝室というあたりは大地の波が木々におおわれてせまってくるようで凄かった。 火口へ行く途中阿蘇に異動したK野さんとこに寄ったら、火山博物館でS藤先生に案内していただけるようアレンジしてくれて、ほんとにラッキー、まさにあの滝室が、断層が走っているところだそうで、それであの地形の妙も納得した。二万年の前の出来事が阿蘇の神話にしっかり反映されている事実にも感動した。いったいだれがどうやって伝えたのか。 それから火口を見て、俵山をとおって市内にもどり、ガストでごはんたべてフォンティーヌでケーキ買って帰った。つ・か・れ・は・て・た。B場さん、M山さん、一年の英語の先生、S藤先生、ありがとうございました。
今日はお城
2009年07月12日(日)
「劔岳」をみた。凄い映画だった。大きなスクリーンでみてよかった。しかし子どもらにはむずかしかったか(わかっていたことだ)。劔岳のあたりから富士山が見えるシーンがあって、それがどういうことかもわかんない子どもらだから。エンドロールの「仲間たち」も、左右に小声で「なかまたち、とかいてある」とささやかねばならなかった。でもいいJapan体験になると思ったのだ。予告の「HACHI」で泣けた。ずるいと思う。 今日は晴れたので子どもらはお城。あたしは家で仕事と洗濯。暑いのに気の毒だが、天守閣の上まであがってくるようにと送り出した。M子さんにもらったCDをやっと落ち着いてきいている。夕方はE藤さんちでお茶のお手前を体験させてもらう。夜は映画の「ごくせん」に行く。あたしゃ行きません。あしたは阿蘇の地獄温泉に一泊してくる。
雨は蕭蕭と降つてゐる
2009年07月11日(土)
ゆうべは巨人がおいつかれ、同点で膠着したまま延長戦にもつれこんだところで父から電話がかかり、もう疲れはてたから寝ると悲愴な声で訴えられた。それで気になって、そのあともネットで刻々状況を把握せざるをえなかった。勝ってほっとした、父のために。きょうは朝から雨だったが、やんだのでトメを馬場に落っことし、父のところにむかったとたんまた雨が降り出したが、父に朝食は食べさせなけりゃならず、子どもは濡れてもいいやってことでそのまま父の家に、まず新聞をとどけて機嫌のいいところへベーコンエッグと小さなサラダとトースト、そのうち土砂降りになってきたのであわてて馬場へ行くとなんとか終わって濡れねずみになって待っていたのをさらに待たせて、奥さんと立ち話して、伊藤さん、むかしはきりきりしていたが、今はとってもやわらかくなった(ふとったけど)といわれ、アメリカにいってよかったんですよといわれてなんだかうれしかった。昔、ほんとに世話になった馬場の奥さんなのである。あの頃は、やるせなかった。息するのさえつらかった。人間とつきあいきれなくなってそこに逃げてたが、馬とさえつきあい切れなくなってやめた。それ以来乗ってない。2年前、トメにねだられて阿蘇の山のウエスタン牧場に乗りにいったら、すっかり乗り方を忘れていた。でも10分もしたら思い出して、しかも、乗ってなかった15年間に、犬をさんざん訓練したので、そのやり方が身に染みついており、馬にもふつうに向き合えた。 きょうは雨なので、子どもらをつれてモスバーガーを食し、「劔岳」をみる。ついでにT夏ちゃんにちょこっと会う。それから子どもらを野に放ち、あたしは帰って仕事する。仕事終わらす(決意)。
からおけ
2009年07月10日(金)
きょうは朝トメをたたきおこし、乗馬にひったて馬場に落っことし、父にごはん食べさせにいき、犬の散歩させ、トメひろって帰り、家でまだ寝ていたMとRをたたきおこし、朝食を食べさせ、とってかえして父を病院につれていき、診察がおわったのでとり天弁当かいつつ家に送りとどけ、薬をとりにいこうとしたところ汗みどろになって歩いてくる子どもらに出会い、今日は雨模様なのでからおけに行くことにしたらしく、アメリカの子どもにとってからおけというのはアニメやマンガと同じく魅力たっぷりの日本文化であるらしく、MとRは前にも経験したがトメはじめてのしかも念願の経験であり、わくわくしてる三人をからおけやに送りとどける前に病院によって薬ゲットし、ヘルパーさんと立ち話をし、からおけやにいって会員になって割引券をゲットし、三人をおいて、懸案の銀行にいって、ついにそろえ尽くした相続用の書類を提出したところ、まあだなんだかんだあいまいなことをいいやがるのでむかつきつつも書類一式あずけ、家にかえって仕事したけど身が入らず、梁塵秘抄など読みちらし、子どもらつれて「劔岳」でも見にいこうと思ったが子どもらなかなか帰らず、やっとかえってきたのは夕方で、暑さとうたいすぎでぐったりしており、3時間半で50曲うたって三人で1200円だったということで、アイスあたえてとにかく父のところに夕方の見回りに出かけ、きょうは映画にいくからとことわってそうそうに帰ってきたが子どもらはまだぐったりしているので映画はやめにして、父のところに相手をしにひきかえし、巨人勝ってるのをみとどけて、ステーキ弁当とからあげ弁当とビビンバ弁当とわかめごはん弁当をかい、子どもらの注文の「ポニョ」を借り、注文されてないが「マジックアワー」も借り、阿蘇の伏流水まんじゅうと、あしたの朝食用パンをかいもとめて、家に帰ったのである。とても蒸した日であった。
若人
2009年07月10日(金)
カリフォルニアからトメの友人二人(MとR、姉弟である)が遠路はるばるやってきて一週間ばかり合流する。かれらはあたしらと同じく、日本で生まれて育ったけど、アメリカに来て、日本に帰るつもりはとうめんない日本人家庭の子どもたち、アメリカで生まれた子たちなので、トメと同じように「アメリカ人」の意識をもちつつ、日本文化にどっぷりつかって生きている。熊本には祖父母のいる関西からやってきた。 ついてすぐ長崎ちゃんぽん、それから家に荷物をおろして熊本の街へ出かけて、このくそ暑い中を3時間歩きまわり、さらに父の犬を連れて河原を一時間歩きまわり、ものすごい体力である。 夜は近所のK子高校一年が学校帰りの制服のまま立ち寄ったので、同世代で話しこみはじめ、そこにK子妹のR子も加わって、ただの冷麦が冷麦パーティーになって、夜遅くまで盛り上がっていた。みんなよく自分の意見をいうすっきりした子たちなので、会話が、どんなおとなの夕食パーティーよりもなめらかにすすみ、もりあがり、みていてたいへんさわやかでおもしろかった。あたしひとり、テーブルのはじっこで、まっかな熊本トマトやあまくとろける熊本赤なすや熊本豚の冷しゃぶで、熊本工場直送の(かどうかわかんないけど)プレミアムモルツを晩酌してたのであった。ばばくさー。
やったらめったらむしあつい
2009年07月09日(木)
蒸し暑さにへきえきしながらかけずりまわっている。A井さんにあって、T尻さんにあって、B場さんにあって、番頭さんと電話で話して、I牟礼さんにあって、K二さんにあって、そのあいまあいまに、トメの夏服をかいあつめ、水着(スクール水着‥‥プール用。アメリカふうのいろっぽいビキニなんか着せて県立体育館に泳ぎに行かせられるかっての)とか下着とか買って(日本のティーンズ用プラはかわいい)、トメを県体や乗馬場(「乗馬を極める」がトメのこの夏のプロジェクト‥‥くそ暑いのに)に送りとどけ、迎えにいき、父の相手をして野球をみて、不振がつづいた坂本の本塁打に安堵した。 先日ブックオフで買って気に入って、おとな買いしておいた「センゴク」、これはおもしろい。さいしょは井上さんの影響の強い少年漫画という印象であったが、なんの、読み込むにつれ、巻がすすむにつれ、ものすごくおもしろくなってくる。なにしろ気に入ったのがいろんな文献からの参照、引用。じつによく調べてあり、読み込んであり、それをまたイキイキと引用している。古文がじつに美しくはめこまれている。「家族」ということばと論理で、あの時代のたたかう原動力をまとめているところは、なっとくできるようなできないような、感動はするのだが。 というか。 これは熊本にとどいていたので帰ってきてから読んでいるのだが、移動中は「仮往生伝試文」にむちゅうになっていた。つい漫画を読む。いけないことである。「仮往生伝試文」、マジですごかった。重たいのを運んできた甲斐があった。
東京
2009年07月07日(火)
いまはNちゃんちで時差ぼけで起きている。いったん乗り込んだアメリカン航空機が故障かなんかで突然キャンセル、降ろされて再スケジュールされたのが深夜発の大韓航空ソウル行きで日本航空に乗り換えて東京、それで12時間をトメと二人でLAX空港で過ごして独立記念日の花火も見た(窓から)。ソウル着は明け方の4時で空港はがらーんとしていた。そういうわけで昨日の仕事には遅れて、関係者各位にほんとにご迷惑をおかけしました。成田でできるだけ早く待ち合わせ場所に着こうとして走った。トメには「ついて来な」とさけんで先に走って切符買ったりして、10年位前にもこんなふうに子どもつれてさんざん空港を走り、空港で食べたり寝たりしたもんだ、となつかしく思い出した。あのころの子どもと子どもが違う。あのころ抱いて走ったのが、今は荷物持ってちゃんとついてくるようになった。たどりついたところでN村うさぎさん、O野あつこさんと。メークのUとみさんに「ちょっとふっくらした?」といわれてぎくりっ。ここんとこストレスにまけて爆食していたつけが、やはり回ってきたのである。そのあとNちゃんがトメを迎えに来てくれたのでA部さんのお宅へ。奥様としみじみと。ほんとにしみじみと。A部さんの写真とお骨に手を合わせながら、いろんなことを思い出した。お会いした最初の一瞬はいまでもきらきらひかって思い出される。それからK森さんとたぬきについて。Nちゃんちに帰ってトメの注文のからあげとNちゃんの仕事の残りの天むす。
もうすぐ暑いとこにいく
2009年07月03日(金)
あと二日でここを出るので秒読み。部屋はぐちゃぐちゃ。仕事はほうりっぱなし。頭のなかがうずまいてる感じ。きゃーーーーーーてなぐあいである。そしたらamazonの中古屋さんに注文したCDがぎりぎりセーフで今日とどいたが、題名同じで、ちがうやつが来た。ゲルギエフのチャイコフスキーの注文したのにジャズがきた。同じ題名(White Nightsというありがちな名前だ……)で同じようなロシア名の人の演奏なので、しかたがないとは思いながら、あーあである。日本は、熊本も東京も、みんなが暑い暑いというので行く前からうんざりしている。たんすをひっかきまわしたらここ数年のうちに買い集めたらしい、薄物の、はおるものが、何枚も何枚も何枚もでてきた。下にタンクトップとか着て、おばさんなので肉体の線を隠したいので、その上にはおるものである。「あっすずしそう」と思うと、矢も楯もたまらず買ってしまうんだと思う(自分でも意識しないで買ってた)。まるで、一時期の母みたい。ねたきりになって入院する前の母はちょっとぼけかけていて、冷蔵庫をあけると、マーガリンがずらりと並んでいたし(ほとんどそれだけだった)、台所の戸棚にはしょうゆがずらり。入院した後、洗面所の戸棚をあけてみたら、下地クリームがやはりずらり。それはありがたく使わせてもらった。資生堂のけっこう高いやつだった。きっと同じ無意識のなせるわざだ。しかしこれだけ無意識を動かすとは、ここんとこの夏の暑さがこの身によっぽどこたえていたにちがいない。と他人ごとみたいなことをいってるが、じつはほんとにこたえていたのである。そこに身を投じるのがものすごくいやなのである。
観音経偈とMシ
2009年07月02日(木)
観音経偈が訳しおわった。Dと、やっとふたりだけでごはんを食べた。Dが、こんなのをみつけたといって、このあいだ亡くなった夫のMシとあたしがうつっている写真をくれた。二人とも若かった。あたしはDに、黒い皮財布をプレゼントした(Dはもう国に帰るので、そのおせんべつ)。渡しながら以前、クリスマスの前に忙しくてきゃーーーっとなっていたMシに(Mシはいつもきゃーーーーっとなっている男であった)Dにまだクリスマスプレゼントを買ってない、悪いけど買ってきてと頼まれたことがあった。それはイブの日で、あと一時間でお店はぜんぶしまるというときで、指定された黒い皮n條の母みたい。ねたきりになって入院する前の母はちょっとぼけかけていて、冷蔵庫をあけると、マーガリンがずらりと並んでいたし(ほとんどそれだけだった)、台所の戸棚にはしょうゆがずらり。入院した後、洗面所の戸棚をあけてみたら、下地クリームがやはりずらり。それはありがたく使わせてもらった。資生堂のけっこう高いやつだった。きっと同じ無意識のなせるわざだ。しかしこれだけ無意識を動かすとは、ここんとこの夏の暑さがこの身によっぽどこたえていたにちがいない。と他人ごとみたいなことをいってるが、じつはほんとにこたえていたのである。そこに身を投じるのがものすごくいやなのである。
観音経偈とMシ
2009年07月02日(木)
観音経偈が訳しおわった。Dと、やっとふたりだけでごはんを食べた。Dが、こんなのをみつけたといって、このあいだ亡くなった夫のMシとあたしがうつっている写真をくれた。二人とも若かった。あたしはDに、黒い皮財布をプレゼントした(Dはもう国に帰るので、そのおせんべつ)。渡しながら以前、クリスマスの前に忙しくてきゃーーーっとなっていたMシに(Mシはいつもきゃーーーーっとなっている男であった)Dにまだクリスマスプレゼントを買ってない、悪いけど買ってきてと頼まれたことがあった。それはイブの日で、あと一時間でお店はぜんぶしまるというときで、指定された黒い皮のスケジュール帳は買えなかった、それをDに、黒い皮財布を渡しながら思い出した。それでやっと、数年前のMシの頼み事を完遂したような気がした。それからDとさんざんMシの話をしてわかれた。そしたらあたしはMシの夢をみたのである。明け方にNちゃんからの電話で起こされた。それまでその夢をみていた。Mシは若くて、ティムロビンスみたいに立っていて(本人はぜんぜんティムロビンスに似てないが、でもそれはMシだった)これから死ぬので、最後の時間をDと子どもたちと過ごすのだといった。それであたしたち(うちの家族もそこにいた)はみんなでMシをハグして、じゃーね、ありがとう。ほんとにたのしかったといって、Mシが家族と部屋に入っていくのをみおくった。NちゃんとD、Mシは、しりあいなのである。黒皮財布をわたしながら、あたしもむかしNちゃんがくれたお財布をずっと使っていて、財布をあけるたんびにNちゃんに守護されているような気がするとDに話したのである。でもNちゃんにそのときは夢の話をしなかった。電話をきってまた眠ったが、またMシの夢のつづきをみた。でもそれは覚えていない。他人にいうとつくり話だと思われそうな夢である。きょうになってNちゃんには話したが、信じてくれた。Nちゃんはこないだ日本にきたDとあっているが、Mシはまだそのときかろうじて生きていた。Mシが死んだってあらためて気づいたとメールにかいてきた。
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