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伊藤製作所「豆畑支所」
   
 

名古屋の夢

2013年02月24日(日)

夢ばっかり見ていて夢に溺れているような日々である。夢はつぎからつぎへ湧いて出て、とどまるところを知らない。今回時差ボケからなかなかもどらないのは、ズンバもあるけど、夢のせいもある。あまりいやな夢で覚めたとき息ができなかったこともある。書きとめておきたくってつい仕事場へ来ちゃったのもある。どの夢にも人が出てくる。複雑な事情や展開がある。あたしは日々ここで、ものすごく単調に暮らしておる。ズンバ、犬の世話、鳥の世話、植物の世話、家族とのわずかな共有時間、それだけ。なんで夢のなかでこんなに人とかかわり、人としゃべり、いやなのも善いのも感情を噴出させ、歩きまわったり動き回ったりして生きてるのかなあと不思議になる。きのうの夢は、どこかの研究室でいろんな人と何かを相談していた、大きな塀のある道を何人かで歩いていた、つねに人と話していた、それから名古屋に行った、親戚にあうためだ、叔母と叔父が迎えにきてくれた、そしたらバスのなかで、連絡をとっていた若い人とばったり会って、今後の相談をした、瀬戸(叔父や叔母の家のあるところ)からは遠いので、レンタカーして動き回ろうと考えた、というような。

父の夢

2013年02月23日(土)

父が生き返っていた。死んで数日してからだ。うちはべつに葬式なんかもろくにしなかったから、なんとなく生き返ったままだ。何のめんどくさいこともなかった。父は前よりも元気になっていたし、よく食べるようになっていたし、頭のなかもしゃっきりしていた。ああよかった、と思った。もっと帰って来ようとか、熊本に移住もちらと考えたが、いやいやだめだと。S村さんに連絡したら、よかったですねーーとすごく喜んでくれた。医者(身元不明、かかりつけの先生ではない。しかし夢のなかでは知り合いだ)も来てくれて、タイコ判押してくれた。でもかかりつけのK先生に知らせようとすると、その医者が自分に診せてくれと言い張る。S村さんが、でも、K先生のかかりつけに戻らないと、わたしたちが来られない(K医の病院のヘルパーステーションの人たちなのだった)と。それでみんなが悩んでいたが、どう解決したかわからない。気がついたら、凍りついた道を友人夫婦と走っていた。友人妻の運転はとても危うい上に遅くて、うしろに車が何台も何台もつづいて、あたしは気が気ではなかった。

父と板橋の家の夢

2013年02月18日(月)

きのうはすごくいやな夢をみて飛び起きたので、忘れようとつとめてちゃんと忘れた。きょうは父の夢だった。昔の板橋の家に、仕事の人たちがやってきて、家だの仕事場だのを見せているのだ。母はもう死んでいて、父と二人だった。工場に使っていた別棟が大きくなっていて改装されていて、そこにはあたしの仕事場もベッドも、父のベッドも箪笥も運びこまれていた。トイレもあったし、壁には絵がいろいろとかかっていた。あたしが熊本の自分の家に運びこんだ母の和箪笥もあった。ホビットの家みたいな感じであった。父は「おれが一人でやった」と得意だった。父は子どもみたいになっていて、知らない人がいるのでうれしくて飛びはねて、箪笥からいろんなものを出して、着物を着たり、着物にブーツはいてさらに女もののハイヒールをはいたりもした。父とあたしはけっこう幸せにそこで暮らしているのだった。というところで目覚めて、感じたのが多幸感というか、霊というものがあるなら、今ここにおとうさんが降りてきてても不思議はないなあという。下に降りて仕事しようかと思ったが、したくなかった。ベッドにいたかった。そのうちまたとろとろした。父はアメリカ人の田舎者の男になっていて(危険なふうじゃなくごくあたりまえに)長い銃を持っていた。ここは、Melting Coyote Canyonといって、向こうの家との境に50センチ、だれのものでもない土地がある。そこがカナダの国境だといっていた。でもそのときはもう父というわけではなくて別人の男になっていた。

   
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