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いやあ、伊藤さん、御元気でなにより
2010年08月11日(水)
伊藤さん、御元気でなによりです。なに、なに。明治5年の聖書。「聖書は申す」って。申すってところがすごいなあ。
今日、初めてiPadなるものに銀座のアップルストアで触りました。予想よりもずっと触り心地は良かった。地図を見たんだけど。ぱらってめくれる感じが画面とは思えないほど実感があった。
あ〜、ほんとのことを言うと病気をしてからね、遊んで歩くのが楽しくって仕方がない。5歳児の頃に、遊び歩いて日が暮れて、お母さんに叱られてから、なんで日が暮れているんだろう? って驚いたような心境と似たり寄ったりになっていて、はて、さて、どうしたものだろうかしら?
ええと話は戻るのだけど、一昨年の春に福岡の別府(べふ)と大分の別府(べっぷ)を間違えて(ありえない間違いじゃ!)熊本の皆さんを大騒ぎさせた時、特急で小倉を通っているのですけど、その時は小倉の駅舎が新しくなっていることに気づきませんでした。 「楽隊のうさぎ」の取材で小倉に行ったのは、1997年だから、もう13年前。お城が立派な町だという印象が残っています。1978年の年末には戸畑へNHKの番組で、自殺した中学生の女の子を取材に行きました。たぶん、この取材の時、はじめて飛行機という物に乗ったんじゃなかったかしら? 東京から福岡まで。番組の宣伝用に若戸大橋で撮影した写真が残っています。
今度は門司港から船に乗って、八幡製鉄所や若戸大橋を海側から眺めてきました。工場って、すごく不思議な印象をもたらすんだけど、これが言葉でうまく言えないのがもどかしい。100年以上も鉄を作り続けている工場ってのは、真っ赤に赤錆に染まっていて、なんだか溶鉱炉の魂があるって感じがしました。 あと、巌流島ってこんなところにあったんだと、感心。それから平たい藍島というのがあって、なぜかこの藍島に行ってみたくなりました。平たい島の姿が気に入ったの。鮑がとれると聞くとますます、藍島へ行きたくなりました。あのあたりは山口県の下関と福岡県の北九州市の島が入り組んで点在している海域でした。
歴史の教科書で、馬関戦争ってのが出てきて、長州はイギリスから砲撃されましたって書いてあったけど、門司から海に出てみると、関門海峡はほんとに狭くって、きっと長州が砲撃される様子は、門司からよく見えたに違いないのです。門司の人々、それから小倉のお城の侍たちは、その砲撃をどんな気持ちで眺めていたのかしら? 気になりました。
島は好きで、大分空港でも、山口の祝島が、瀬戸内の吉野と言われているのを知って、行ってみたくなったのですけど、実はひどい船酔いの癖を持ってます。今回も門司から小倉まで船で移動する間にちょっとだけ外洋にでると聞いてので、酔い止めの薬をもらって飲んでいました。響灘へ出ると、船底に当たる波の感触が急に硬くなるのが解りました。 こりゃ、たまらんと、デッキから船室に戻りましたが、その昔、海を渡ってきた坊さんや宣教師は波に揺られるのは平気だったのかしら?
ありゃ? 伊藤さん、明治5年ってまだキリスト教は禁教令がとかれていなかったんじゃないかしら? 違う?
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