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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

あれはペギー・ロッシュだったのか

2009年06月14日(日)

 銀座のシネスイッチで映画を見てきました。和光の裏と覚えて出かけたのですけど、道を一本間違えて、少しうろうろ。初めて行く映画館でした。

 見たかったのは「サガン」。この間「ココ・シャネル」を試写会で見たついでに、こっちのほうも見たくって出かけました。「ココ・シャネル」は仏、伊、米の合作でシャネルは「英語」を喋ってました。歌を歌うところだけ仏語。サガンが英語! なんてことはないだろう。フランス映画だしと思いつつ、映画館の前に到着。

 チケットを買って、少し時間があったので、2件となりの洋服屋を覗いて、お買い物。映画館は地下なので、ゆるくカーブした階段をそろりそろりと下りていました。左目が曇っているので、初めての階段を下りたり登ったりする時は、ゆっくりお婆さんふうに行かないと、思わぬときに躓くのです。すると上の方から「お客様」の声。洋服屋さんに忘れ物をしたのでした。「映画に見に来たの」をしゃべっていたのが幸い。店員さんが追いかけてきてくれました。
 これは、本当にお婆さんだなと思いながら、再び、階段をそろりそろり。と、今度は下から「先生!」。ゼミの島田君が白いYシャツにネクタイで、受付にいました。今日はなんだろう! 学校ではネクタイを締めているところは見たことがなかったのですけど、やっぱり男性はネクタイを締めるとなかなか立派に見えます。
「ねえ、ここって全部、禁煙かしら?」
「あ、全部、禁煙です」
「じゃあ、外に行って煙草を吸ってくるから、チケットの半券を返してもらえないかな」
「再入場券があります」
 てなことを問答をして外に出してもらい、煙草を吸って戻りました。だって、この間、見た「ココ・シャネル」はずっと煙草を手放さずに、コレクションの準備をしていたんだから!それにサガンもシガレットは大好き。うちに30年前にサガンと対談をした時、もらったサイン入りの肖像写真があるけど(どっかにあるはず。でも、このごろ、見ていない。探せばあるはず)その写真も煙草を吸ってました。

 で、30年前の夏、サガンに会った時からずっと気になっていたことがあったのです。サガンの隣にいた栗毛色の髪をした背の高い美人は、誰だったのだろう? ってことが。サガンとは親密な様子で、吸いかけの煙草を二人で吸ってました。編集者? 日本の編集者とは雰囲気が違うのですが、フランスの編集者って付き合ったことがないからわからないし? マネージャー? そう思ったほうがすっきりするのですが、外国の作家ってマネジャーがいるのかしら? って疑問は消えず。この時は小学館の女性週刊誌の依頼で、サガンと対談したのですが、小学館の編集者も「?」でそれが誰だったか判らないのでした。だからなぞのまま。

 サガンとの対談はホテルオークラでしました。ロビーでデビ夫人を見かけて「あれ、デヴィ夫人は日本にいるんだあ」見とれたのを覚えています。で、編集者と一緒に客室へ。なぜかダブルのベッドルーム。きているはずのカメラマンの姿は見えず、編集者と顔を見合わせて「???」でした。どう考えても部屋の真ん中にダブルベッドがあるその部屋では対談ができるはずがありません。フロントに問い合わせたり、会社に電話をかけたりのてんやわんやがあって、結局、ホテルサイドか小学館サイドか、ミスの原因は判らないのですが、フロアを間違えていたことが判明。あわてて階段を駆け上がると、なぜか、また、デヴィ夫人と遭遇。と言ってもすれ違っただけですけど。

 サガンの到着が遅れたので、まあ、相手様が来ないうちになんとかすべり込むことが出来ました。この時、サガンは初来日で、あとで五木寛之さんとの対談の中でご本人が言ってましたが、超過密スケジュールを組まれていたそうです。だから、お話なんか「もう、うんざり」という顔をしてました。で、聞き手の私のほうはひたすら「隣の女の人は誰なんだ?」という興味と、サガンの首に豆絞りの手ぬぐいが巻かれていたのが気になって仕方がないという状態。自分の緊張をそっちにそらしているということもあったと思います。それから、サガンの肌がめちゃくちゃにくすんでいたこと。艶がないというよりも、粉をふいたような状態。無数の小じわがあり、それを大きな皺が分断してるという感じ。これには写真を撮っていたカメラマンの人が驚いていました。
 
 対談は小学館の週刊誌のためでしたが、あとで新潮社の「波」に7枚(枚数は間違っているかもしれない)ほどのエッセイを書くことになりました。これが、今まででいちばん悪戦苦闘した原稿でした。たった7枚のエッセイで10日間以上も書いては直し書いては直しをしたあげくに「書けない!」と絶叫。当時、住んでいた西荻窪の家の近くの蕎麦屋でざる蕎麦を10枚食べてもまだ書けないし、最悪だったのは眠くすらならないという状態に追い込まれたのでした。
 だって原稿を書こうとすると「あの女の人は誰だったの?」という疑問が頭をもたげてきて、これはあんまり依頼された原稿とは関係がなさそうだから書けないなあと、筆が止まっちゃうのでした。今だったら、うまくこ疑問を原稿の中に取り入れちゃうかもしれませんが、その頃はまだそんな芸当は思いも付かず、次に浮かんでくるのは、カメラマンをも驚かせたサガンの皺、皺、皺。まさか「サガンは皺だらけだった」と書き出すわけにも行かず、また、そうは書きたくもなく、さあ、どうしたらいいんだの10日間でした。

 結局、豆絞りの手ぬぐいをスカーフ代わりに首に巻いていたことは書けそうだと書き始めはしたものの、「豆絞り」と文字にして書いたとたんに、頭の中に「へい! いらっしゃい」となぜかおすし屋さんが浮かんで、そこからどうしても前へ進めないという状態に。ざる蕎麦を10枚食べたのは、この時。ざる蕎麦で邪魔なすし屋を撃退してなんとか原稿を書き上げました。

 サガンの隣にいて青いブラウスの襟を整え、サガンの吸いかけのたばこを吸っていたのはペギー・ロッシュでした。映画を見て30年来の疑問が氷解。サガン役のシルヴィ・テステューもサガンの表情や喋り方の特徴をよく映していましたが、ペギー・ロッシュ役のジャンヌ・バリバールも驚くほどペギー・ロッシュの特徴を出していました。サガンよりも記録の写真や映像は少ないはずだから、これには驚きました。で、そのペギー・ロッシュは誰なのかというと元モデルで、後に「エル」誌の編集長(だから、なんとなく編集者の匂いもしたのねと、映画館の座席で納得)それからスタイリストとなり、サガンとは15年間、同棲していたという人物でした。なるほど。なるほど。で、映画を見ていた気づいたのですが、あの夏のサガンはまだ40代前半の年齢だったわけで、それであの皺では、カメラマン氏も驚くはずです。たくさんの皺に中に、写真でよく見知っているサガンの顔がうずもれているという感じでした。うずもれてはいるけれども、消えちゃっているわけではないの。むしろこんなに皺だらけでもサガンはサガンの顔をしているとそういう顔をしていました。カメラマン氏と「カミュは交通事故で死んじゃったけれども、サガンは助かったんだから」という話をしました。

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