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河原荒草
2006年03月16日(木)
伊藤比呂美さんの「河原荒草」は詩の表題がページの右隅に小さく表示されています。うっかりすると表題を見落としてしまいそうです。実際、詩集を読み進めていると、表題をまったく無視してページをめくってしまうことがしばしばあります。きっとそれでいいのでしょう。というのも、この詩集は全体がひとつの長編詩のような雰囲気を持っているからです。
長編詩ではあっても、叙事詩ではなく、叙事詩になるまえのイメージがざわざわと犇いているような詩集です。乗り物に乗って旅をする親子。ある日、旅が急に終わって、父が出現した家の中に落着き悪く過ごす日々。あるいは乗り物に乗って、空港で「悪いパスポート」を持っていたために入国を拒否されて、そのままひからびて行く家族。あるいは河原にはびこる帰化植物。乗り物に乗って世界を旅して定着する植物の死骸。家の中の父の死骸。父の死骸とセックスをする母。いやな匂い。臭いにおい。ひからびてゆく植物。それでも芽を出す植物。そういうイメージが乗り物の「の」あるいは乗ってという言葉の「の」という音などの「の」の音で渦を巻きながら世界に溶け込むようにして、命が再生される確信にいたるまでが歌われています。
エネルギッシュです。河原荒草は私と言いたそうな詩集です。いや、実際「河原になりたい」と言っています。多くの帰化植物をはびこらせる河原になりたいというフレーズが形を変えてくりかえし登場します。すごいいなあ「河原になりたい」なんて。そういう詩集です。 私は伊藤さんの声を直接知っていますから、詩集を読んでいると伊藤さんの抑揚や声のトーンまで聞こえてきます。体から発せたれる時の、喉の感じとか胸の揺れ方まで自分の手で触れているような感じがしてきます。ついでに一緒に昼間の露天風呂に入って笑っていたときのことまで思い出しちゃいます。詩集を読んでそんなことまで思い出せるなんて、とても贅沢で、やっぱり詩人の友だちを持つべきだと思いました。
でもこの詩集を読むとセックスは「生きるための戦いだな」って感じがしてきて、朗読会をやるのが空恐ろしくなってきました。そうでなくとも詩人の迫力には負けちゃうのに……ああ、どうしたらいいんだろう。外はものすごい春の嵐で風が荒れ狂っています。
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