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湖西のみち
2015年08月14日(金)
今から30年ほど前に琵琶湖を車で一周したことがあります。旅行雑誌の取材でした。1年間、いろいろな土地へ出かけましたが、琵琶湖の湖西はもっとも印象が深い土地でした。時折、大阪からサンダーバードで金沢へ行く時も湖西を通過するたびになんとも言えない魅力を感じていました。 近江今津の図書館で館長さんとお話をしていたら、司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一回が「湖西のみち」だったという話題が出ました。京都から近江今津まで湖西線を辿るうちに「小野」という駅をみつけました。小野妹子の生地だとのことです。毎週、大阪芸術大学へ通っていますが、大阪芸術大学のある河内の喜志は、聖徳太子廟があり、小野妹子の墓所もあります。琵琶湖から瀬田川、宇治川、淀川、大阪湾へ出て、また大和川をのぼるかもしくは石川をのぼるかして聖徳太子のもとまで行くその道程をちょっと思い浮かべました。それで司馬遼太郎の「街道をゆく」1を読んでみる気になりました。以下は「街道をゆく」1で見つけた一節。
「『朝鮮人なんてばかばかしい』 という、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである」 司馬遼太郎「街道をゆく1 湖西のみち」 1971年 週刊朝日 「健康な制度上の批判勢力と競争勢力を持たない体制のー国であれ、その他の集団であれー独裁者はすべてお伽の王さまなのである」 司馬遼太郎「街道をゆく1 長州路」
この頃、司馬遼太郎はなにかに「怒って」いるようです。それがなにかは書かれていませんが、「怒っている」という表現は「長州路」の文中に出てきます。 ちなみに朝日文庫で43巻ある「週刊朝日」人気連載シリーズの司馬遼太郎「街道をゆく」の第2巻は「韓(から)のくに紀行」。釜山の倭館(江戸時代の日本の出先機関)などを訪ねる。32歳まで産経新聞の記者でした。 亡くなられたのは1996年。1971年に始まった「街道をゆく」は亡くなられた1996年まで25年間続きました。司馬遼太郎さんが亡くなられてもう19年もたったことに驚いています。 「街道をゆく」の第一回「湖西のみち」のあとは「竹内街道」。これは大阪芸術大学のすぐわきを当麻の方向へ行く満です。小野妹子も通ったかもしれません。司馬遼太郎さんの御母堂の御実家が葛城みちにあったそうですから、山の向こうとこちら(大阪がわ)とは言え、大阪芸術大学のある河内ともなにがしかの縁を感じました。
写真は琵琶湖に浮かぶ竹生島。竹生島へ渡る船の窓から撮影しました。
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