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寄り道中央線 おまけ2
2011年01月16日(日)
大阪から近鉄大阪線で名古屋に出て、中央本線の特急「しなの」で木曽福島まで行った話はツイッターのほうに書いてしまったので、こちらが「おまけ」になります。ツイッターだと簡単に写真が載せられるのですけど、こちらは管理人の豆蔵君の手を煩わせなくちゃならないので。
名古屋から特急「しなの」で、木曽へ入って行くわけですが、中津川の手前あたりから、トンネルへ入ると耳が詰まるような感じがしてきました。ゆっくりと山を登るのです。もうこのあたりは中山道と平行して線路が走っています。家の感じが近鉄の沿線と少し変わりました。どっしりした瓦屋根が減って、軽い感じの屋根の家が目だってきます。それから、玄関が家の正面ではなく、右の端にある家が目立ちます。玄関わきに長い縁側があるのです。東海道だと、大井川を渡った頃に、家の感じが変わったなあと思うのですが、山を登っているせいか、大井川よりも手前で、家の造作が変わったなと列車の窓のそとを見ていました。
本州中央部の山々を日本の屋根と表現することがありますが、中山道というのはまさにその屋根の上を伝って行くような道です。ただ、大きな川の河口付近を渡らなければいけない東海道よりも、中山道のほうが川止めなどが少なく、旅程が読める道だったそうです。京都から江戸へおこし入れした和宮様も、この中山道を通ったそうですし、朝廷から日光の東照宮へのお使いもこの中山道を通ったと聞いていましたが、想像していたよりも、険しい谷あいの道でした。
中津川の次の特急停車駅は「木曽福島」ですが、中津川を出てしばらくすると、川と道路と線路は併走するようになりました。列車の窓の外を眺めながら、なぜか不快な人物や不快な出来事をぼんやりと思い出したのはこのあたりでした。すごく不快というのではなくって、漢文調で「余を不快にせし人物の顔浮かび来る」みたいな思い出し方。身体が感じた気圧の変化が、そんな心持になって現れたのかもしれません。トンネルをくぐるたびに霧が深くなりました。つい、うとうととして、目が覚めたら、窓の外はうっすらと白い雪が積もっていました。寒そうな山の景色です。
木曽発電所を過ぎると、車内放送が入りました。谷底の川の中央に見える「目覚めの床」の説明の放送でした。川の中央に青みがかった白い長方形の石が何本も立ち上がり、石の上には松の木に囲まれたお堂が見えました。そこで竜宮城から帰ってきた浦島太郎が暮らしていたというのが、車内放送の説明でした。丹後とか丹波に浦島伝説があると聞いた記憶はばんやりとあるのですが、どうしてその浦島太郎は木曽の山の中までやってきたのでしょうか? 竜宮城から帰った浦島太郎の道中はいったいどんなものだったのでしょう? そっちのほうが気にかかりました。前方に真っ白に雪を被った高い山が見えました。どうやらそれが木曽の御嶽山のようでした。そういうわけで、日が暮れないうちに木曽福島到着。私の座席のうしろで、ふくよかなお母さんが、お腹の上に、赤いほっぺの赤ちゃんをだっこして幸せそうにすやすやと寝ていました。
東海道で、関東への入り口は箱根の関所ですが、木曽福島の関所は中山道のちょうど中間なのだそうです、もちろん、関所はいまはもうありません。木曽の御嶽山参りをする人は、木曽福島を足場にしているようでした。V字谷の左右の斜面に代官屋敷と旧関所跡があるというのが木曽福島です。宿へついて女中さんと少し話をしてみると、伊勢神宮の建て替えのときには、木材の切り出しのために大勢の人が集まってたいそう賑やかだったということでした。昔は川へ筏を流して材木は運んだと、それが木曽のなかのりさんと、小学生の頃、覚えた歌の意味をようやく「そうか」と悟ったしだい。秀吉が一夜城を作ったというのも、川上から用意した材木を流して、川下で受け取ったのだと言うのですが、どうも秀吉の独創的な考えだというよりも、日常的な材木の輸送に一工夫加えたものだったみたいだなと、そんなことを考えました。秀吉は川上で、材木をすぐに砦が出来るように加工して川に流したのだと言います。「今朝はマイナス17度でした」と女中さんに教えてもらいました。翌日の朝は少し暖かくって、それでもマイナス10度。10時を過ぎる頃でも、日陰の雪はじゃりじゃりと凍っていました。
木曽福島の町があるV字の谷は朝日が当たる斜面は午前中からけっこう暖かなのですが、日の当たらない斜面もおっそろしい寒さでした。同じ町でこうも違うかとびっくりするくらいの違いでした。
では豆蔵君ご苦労様ですが、写真よろしくお願いします。
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